文化

自然界及び人間の活動によって起こる自然界の変化について理解し、意思決定するために、科学的知識を使用し、課題を明確にし、証拠に基づく結論を導き出す能力というものが、大学で身に着けていくことなのだと思っている。自然界の現象には、当然のことなのだが人間の哲学的思考、行動も入ってくるわけで、ギリシャの哲人達が残してくれた書物群なども当然、その中に含まれる。O先生が文系・理系などのカテゴライズなどこの世に存在しないのだと仰ったが、その通りである。

男女平等性が世界の118位という立派なご評価を賜った日本であるが、文系だ理系だと、そもそもがきんちょの頃から分類わけしている国家など、国家の体を為していないのは明々白々。絶対値でどんどこ人口が減っていく最中、男女だの文理だの言っている暇がどこにあるのか。都知事選挙は女子同士の鬩ぎ合いで、流石、首都だなと思うわけだ。

老齢大国ではヘルスケア、医療関連人材が大量に必要になるだろう。ロボットがサイドバイサイドに現れるのだろうか?それにしても国産で無さそうなが恐ろしい。ボストンダイナミクス社の人型ロボットの進化に驚かされるわけだが、何故、人型なのだろうかという疑問はあるものの、高齢者のアシストという点においては、人型が正しいのかもしれないと思うようになってきた。災害での孤独死などのお話を聞くと、人型の友達が、例えロボットでも良いのかもしれない。

そんなことを考えるのに、理系も文型もない。人が人を思い、何がどうあるべきかを考え、学理から産業まで、全ての人がプレーヤーになれるのが良い。しかし、文化人類学を学んだことの無い人間に、友達になってもらおうと思わないし、ロボット製造にかかわって欲しいとも思わない。人だからこそ人に寄り添える思考が生まれる。そんな人になるために、学び続けねばならない。それだけのことだ。