思考は続く

不可思議な出来事と言うか出会いと言うか、産学官金連携に関わらせて頂いていると、それは、まぁ、しばしば遭遇する。その多くは誰かさんが「良い人」ということが発端になっていると、身から出た錆的なことなんだけどね。不可思議を通り越して酷い事例においては、どっかのお偉い先生がコンサルティングで起業して「私はあいつを知っている、逢わせてあげよう」みたいなね、そう言っといたからあってやってくれとか意見をくれとかね。それはもう、全部、お断りをしているが、不可思議なレベルは、面白いと苦行の境目にあるから返事が難しい。

不可思議な出会いは自然発生的に生じるわけではなくて、多くの場合、断れないような流れによって生まれて、事前情報が中途半端と言うかほぼ与えられず、先方もなんだか分からないみたいな感じで生まれる。出会いだけではない。出会いには当然のことながら内容があるのだ。この内容に関しても、なんでそうなってしまうのかという、謎が謎を呼ぶような、だからこそ不可思議と言えるのだが、思考しなければならない義務が生まれて、音もなく覆いかぶさってくる暗闇となって襲ってくる。

例によってタイムマシンには乗れないので、やっぱりお断りというわけにもいかず、バリューブリッジを創り始めるわけだ。出来ないと悩むことは大嫌いだ。悩む人も大嫌いだ。小生にやってくる要求なのだから、自分だけがT社から仕事が欲しいというこずるい輩では無い。社会的意義も価値も高い内容なのだから、前向きに思考を進めることに価値があることは言うまでも無い。だから価値から技術を思考して、今、現在、身の回りのツールをどう使い、価値に迫る工夫はどうあるべきかを悩んでみるのだ。

不可思議を不快と思うか愉快と思うか。愉快と思うしかないのだ。そう言い聞かせてはみるものの、新規、いや、新奇なものを発想するのは苦行でしかない。それを自分のことと言い聞かせ、思考を続けることになる。いろんなToDoが襲い掛かってくるわけだが、襲われるきっかけを自ら作っているのだから我儘は言えない。しかし、それはあなた方のお役目でしょと、放棄されたお役目が押し付けられることもあるのだが、それには徹底的にあがなっていく。バトンタッチである。