無茶と無理

何にどのように全身全霊を注ぎ込めるかで一秒の長さが変わるなと、この年齢になってようやくわかってきた。必死になるとか頑張るとか、当たり前なんだけど、どうも自ら努力したと、自らに説得し、そして納得できるのかというのは、内省から湧き出てくるものにマッチしないと、どれだけ時間を掛けても、その意識に到達しないと、今更なのだが得心出来た。理解から納得に至り得心する。そういうことなのだなと、馬鹿々々しいくらいに腑に落ちた。

小生が在する場所は、徳川の時代になって新田開発による納税記録が明確に残っているから、明確に歴史を紐解くことが出来て面白い。三つの池があって、その内の、最も標高が高い位置の池は環状道路の建設によって埋め立てられてしまっているのだが、雨の翌日にその脇を通ると、水が思いっきり染み出てきているので、その名残が明確に分かる。江戸時代の地図にもしっかりと描かれており、明治初期の陸軍測量地図とも合致して「ここは大地震で液状化するのだろうな」と判りやすい。

その新田開発と同時に行われたのが神社の創建で、毎年、初詣でをさせて頂く場所となっている。氏神さんだから、まぁ、最もふさわしかろうということなんだけどね。電子だ原子だなどと普段は騒いでいるくせに、神殿を前にすると手を合わせるのだから人とは面白い。人だったのか?という疑いはこの際置いておくとして、とある年齢を超えた頃から自然と湧き上がってくる気持ちがあるなと感じていた。それが内省から湧き出てきたものということなのだろう。

無茶は良いが無理はいかん。無茶と無理って何と言うか、同じベクトル上にあって、しかし、その絶対値が違っていて、無茶を通り越すと無理がやってくるのかと漠然と思っていた。無茶はその人間の本質であって、他の人間には理解されない領域の出来事で、無理は他の人間に理解されてしまうレベルで自らを暴発させていただけのことと、漸く理解できるようになってきた。無茶を続けていく。これこそが正しい生き方と得心した。ダイヤモンド表面にステップバンチングをCMPで表出させることが出来たのも無茶故だろう。自然は面白い。人も面白い。