既に語られなくなったデザイン思考だが、丁度、おもちゃ的な3Dプリンタが安価で購入できるようになったり、レーザーカッターが隣国から数万円で購入できるようになって、プラ板や薄いベニヤ板を、それこそ好きなようにカッティングして組み立てたりね、そんなことが出来るようになって、ドライ&エラーを許しながら商材として完成させていくということが現実に出来る様になったタイミングで出てきた単語故に、取り敢えずやってみようという思考をデザイン思考と勘違いされたところに悲劇があったのか、それに踊った教員を含む社会が喜劇だったのか。
デザインって、ビジョンの基にミッションを定め、それを実現するシナリオを思考し、そのミッション達成に含まれる構造とその流れを設計するプロセスだったんだけどね。当然のことながら、ミッションを達成させるための、個別の要素の構造化ということも含まれる。まぁ、大型の科研費の申請の構造みたいなものなんだけど、なんだか知らないけど、ユニバーサルデザインとかね、その手の単語がごちゃまんと降り注いできて、ディシプリンがどうのこうのとか、どのような思考を成す事かと、きっちり腑に落としてくれる説明をしてくれた人は日本人にはいなかった。
結局のところ、それを語り出した者の著作を拝読して「成程ね」となったわけだが、横文字にすれば新しいと勘違いして喜んでしまう国民性はどうかと思う。先人がやってきたことを学問っぽく構造化して、フローチャートみたいに並べてみて、ほら、新しいでしょなんて言われると、とっても弱い国民性故に、あぁ、なんだか尊いものに出逢ったぞみたいになっちゃうわけだ。
大切なのはデザイン思考のマネージャーが、しっかりと思考から生まれたシナリオを理解して、それを実行して、想定した価値を実現することなんだけど、その能力を養うというのがこれまた大変である。マイクロ組織の壁は厚く、そして高く、既得権益に少しでも抵触しようものなら大反撃をくらって、理想論など消し飛ばされる。プログラムマネージメントの最大のリスクが、既得権益のヒエラルキーの破壊困難さにある以上、組織改革なんて成し得ないだろうなと、まぁ、苦笑いの毎日である。デザイン思考が出来たとしても、その思考の生産物に到達することは無いのでしょうね。特に組織改革においては。