地球的規模

カリブ海でM7.6の大きな地震が9日に発生していたというニュースを聞いた。カリブ海と言えば6600万年前に恐竜を絶滅させた隕石が落下した地点に近い。何もその隕石が地震を引き起こしたと言いたいわけでは無いが、マントルの対流でプレートが生まれそして沈み込むその活動は46億年に亘って休むことなく続いているのだなと実感するのだ。様々な噴火の現象をTVなどで見ると、地球はどんどん冷えていってあっという間に冷たくなるのではと恐れを抱くのだが、何のことは無い、地震は小生が存在している限りは続くだろうし、地殻が凍り付くようなことははるか先まで無いのだろう。

地球的規模と大袈裟な話だなと感じるかもしれないが、例えばインターネットなど、既に人類は人工物で地球規模の工作物を配置しているし、宇宙空間には気象衛星など地球の変動を宇宙から眺めている。そんな耳や目を持っていても大地の揺れには敵わないということだ。所詮はそんなもんだ。そんなもんなのだから、もっともっと大袈裟なことをしていかないと、過去の偉人達をがっかりさせてしまう。1万年前の縄文の方々が作った黒曜石のナイフの切れ味は、ベテランの寿司職人が砥いだ包丁並に切れる。それを越える刃物がオーダーではあるが販売が始まったのは何と去年の12月だ。1万年遅れの進化である。笑いも出ない。

笑いも出ないようではつまらないので、なにか突拍子もないことに挑戦したいのだが、所詮は人間のやること。種明かしされれば何のことは無い。ただ、その昔よりも進んでいるなと思うのは構造物の堅牢さ。掛けるお金の額にも依存してしまうが、東京湾アクアラインなど、かの地震においても毅然としてそのままの姿を保っているではないか。堅牢なだけではなく、地殻等の情報を徹底的に調査して建設した結果なのだろうが、逆に、人類がいなくなっても当分は壊れそうにないなとも、自然破壊なのではとも、こちらは苦笑いしてしまう。

首相経験者殿が原発完全撤廃を声高に叫んでる。あの構造物も人が居なくなっても永遠に残りそうな代物だ。逆にその程度のものでないと核反応など制御できない。水素原子は陽子と電子のペアだ。その陽子が4個集まって、核分裂して陽子2個と中性子2個になる際に、陽電子とエネルギーを放出してヘリウム原子を作り出すプロセスが太陽活動そのものだ。ごく僅かな質量の減少で爆発的なエネルギーを生む。核分裂と核融合では現象は全く異なるが、そんな研究も地上で行われていることを思うと、突拍子もないことと言ってもやっぱり大したことは無いなと、やっぱり太陽に感謝して笑って過ごそうと呑気に思う私であります。

受験生に思う

十日戎の日である。商売繁盛の恵比寿様(戎様)を祭る日であって、今年も商売繁盛の職場だといいなぁと心の底から願っていたりもする。機構が商売繁盛になっているということはネタが新鮮で買い手が市場にわんさといらっしゃって頂けるということだ。それは実に目出度いではないか。熊手でも入口に飾ろうかとだんだん神頼みに走ったりして。そこはそれ、それをやらないところが大切なところ。神頼みしなくても良いように気合を入れるしかない。

他に何かあるのかなと探してみると1月10日で110番ダイヤルの日らしい。こちらはご厄介になりたくない筆頭ではありますが、昨年の暮れにはえらい騒動があったなぁと、こちらは身を引き締めていくしかない。決して上り調子というわけではないが、じっくり一歩一歩進んでいきたいと思っている。立ち止まっても、下がってもそれは問題無い。結果として一歩前に出ていればそれで良い。その繰り返しを続けていれば、千里の果てについているかもしれない。焦らない。それが大切。

焦りたくなくても締め切りを押し付けてくる人たちは、リマインドと称して「15日が締め切りですよ」と毎日、襲ってくる。何らかの評価事項であれば、日程を最大に使わせて頂いて、より良い判断に努めたいと思っている。それを「さっさとやれ」と言うのであれば、締め切りを前に倒しておけば良いのにと思う。補助金等の書類であれば、ほぼほぼ書き手は上手なわけで、米俵の中の米一粒を狙おうと思ったら、読み手もそれなりの気持ちでないとだまされる。そうであってはならない。

週末は共通テストである。共通テストと言えば大雪。名古屋エリアは晴れるらしく、ひたすら寒いことへの対策をしていればなんとかなりそうだ。受験生の方々は最後のひと踏ん張り。これが効くのだと地下鉄でひたすら参考書に目を通す高校生と思しき方々にエールを送るのだが、はっと思う。そうでなければならないと。自分自身、もっと必死にならなければと思う。てんてこ舞っている場合ではない。毎年、この時期にそう思わせて頂いている。こんな若い人たちが気合を入れて入ってきてくれる職場であればこそ、選んで良かったと10年、20年後に感じて欲しいと、今日も気合を入れる私であります。

JABEE

本年は4日からのお勤めで、三が日という宮中で陛下が主宰されるお祭り事の日程に合わせたお休みで、なんとも国民としては有難いことではあったのだが、連休がやってきて、ほんの一息。それが本音である。本音の最中の日曜日にJABEEの分野別委員会があって、出席させて頂いた。東京は人が多く、うんざりである。

技術者教育の質的向上を図る企てだが、本学では土木のグループが唯一、それを保って頂いている。6年一貫など、黒船的に活用してみればとは思うのだが、まぁ、無理だろう。作り込む時に理想化されていないととてもABET準拠のプログラムに深化させられない。今のJABEEのシステムは様々に教員の負荷が下げられて、まぁ、当然だなというところに収まってきている。審査委員の指摘も定量化されてきていて、好感が持てる。

今日においても審査側をお引き受けさせて頂いているのは、我が国の技術者教育の現状に触れることが出来るからだ。跡取りを育てようと推薦はしているものの、その跡取りがなかなかその資格に挑戦しないものだから、ずるずると引きずっている。それはさておき、少し前にエンジニアリングデザイン力を問われたが、それに加えてチームワーク力が加わった。ともに異分野融合を深化させる能力で、その到達水準も要求される。明らかに沈没だなと苦笑いである。

受審校は明らかに減ってきている。もう解ったから良いということなのだろうけれども、教育は継続して深化し続けなければならない。研究さえやっていれば評価されるのだという主張がまかり通るが、質の高い教育があってこその研究だ。未来に評価される研究をしようと思えばそれに取り組める人材育成がペアになる筈だ。恐ろしい波が来るような気がしてならない。本気で地域の未来を築く人材を育成しているのかを自問自答し、取り組んでいかねばと握り拳を作った私であります。

庭園

恵林寺というお寺があって、幼少の頃に「心頭滅却すれば火もまた涼し」の寺として母親から刷り込まれた。夢窓疎石和尚が開山されて、その庭園を拝見したのは中学生の頃。それから寺院の庭園とは素晴らしいものだなと、疎石和尚が手を入れられたと伝わる庭園を見て回っている。全国にあるので、なかなか全てを拝見というところまで至っていない。至っていないことの幸せを感じている。コンプリート出来ないことの満足感。同じ庭園を拝見するたびにその感覚は変わってくる。だから全てを拝見ということにこだわる必要は無い。

満点よりも60点を取り続ける方が偉いものだと思う。実際に相当の努力が無いと60点を取り続けることなどできるはずはない。しかし人は残りの40点も欲しいと思ってしまう。まぁ、完全を目指すことは悪いことではないのだが、完璧を目指すのはそこで終わりと思ってしまうからで、60点を取ったらそれは半分以上を理解したということなのだから、更に次を目指してみては如何か。地球の歴史から見れば点にも満たない人間の寿命である。新しいことだと思っても1万年前の人類が既に思考していたのかもしれない。今だから出来ただけだと思うと、満点などちゃんちゃらおかしい。

満点が明確になっているスポーツは愉快だ。見ていて極めて判り易い。野球のホームランなどはその典型例だ。2本のポールの間にある壁を越えたら必ず点が入る。ゴールが無い世界を走り続けろと言われたらどうだろうか。その昔、宗兄弟はマラソンの練習で220kmを走ったそうだが、一人で箱根駅伝を走破出来る耐力だ。こうなってくると既に哲学の領域とも言えよう。人類を逸脱した哲人と思える。普通の人にはとても到達できない。到達できなくて良いのだ。それが人間というものだ。弱いから頑張れる。

心頭滅却と唱えてみても既に滅却していない。何も考えるなと禅寺では言われるが、考えない考えないと頭の中で反響して、既に考えないことを考えている。禅寺の庭園はそれを作庭された方の心の再現と言われる。生きざまとは心の再現そのものであろう。頑張りすぎず、立ち止まってみる。そんな一日を過ごしても良い。その気になったらまた歩めば良い。そう自らに言い聞かせると、なんだか愉快になる。そんな一日にしてみたいものだ。

無事これ名馬

将来予測で明確なのは人口構成だけだ。2025年には40歳から60歳までのいわば働き盛りが最大のボリュームゾーンになって、一瞬、明るい時代か?なんて勘違いしてしまう。その力量を受け継ぐ20歳から40歳までは半分を超えるくらい。20歳以下になると(これは想像も入るが)確実に半分以下だ。50歳台にピークがあるのだが、恐ろしいことに77歳にもピークがある。そのピークは20歳から40歳までのボリュームよりも多いのだ。地域包括ケアしかビジネスが無いような日本ではいかん。しかし、この人口分布は確実にやってくる。

2020年には東京オリンピックがあり、震災復興のための仕事も多々あろう。また、バブル期の建造物の老朽化で盛んな土建業ではあるが、一段落となるかもしれない。そうなってくると、お金の還流が滞り始めるかもしれない。現在、20歳前後の若者諸君とお付き合いをさせて頂いているわけだが、彼らは明らかにど真ん中ゾーンのメンバーだ。上に2つある巨大な人口ボリュームを支えて、且つ、自分達よりも遥かに少ない後輩を育成していかねばならぬ。1人で3~4人を育てていかないといけない。これはえらいことだ。小学校の先生なんてどうなってしまうのだろう。教育は国家百年の計と言われるが、成り立たないのではないか?

一方で、人口が減るんだったら、巨大な人口構造を前提にしてきた日本の住居体系をがらっと見直して、1000年住宅に切り替えていって、1000年先の日本なんてビジョンを描いたって良い。いや、むしろ、そのチャンスだ。世襲馬鹿の日本を根底から見直すチャンスだ。皆で頑張って平和な国家を築いた縄文の御代を未来風に復興すれば良い。明確な上下関係を築いて、血が流れないと下克上が成されない日本という風習そのものをひっくり返す機会到来。

ただ、優しい国民であって欲しい。強行突破で上意下達を何故しないと小生に突っ込まれる方もいらっしゃるが、それは忍者部隊月光のピストルみたいなもので、どうしようもないと選択肢が無くなった時の行動であって、そうなっていないのであればそうはしない。基本は人が人を支えることだ。一昨年、去年と種を蒔いた。そろそろ芽が出る気がしないでもない。教育は焦らない。自分自身ものんびり屋だ。今年ものんびり、じっくりじわじわ、呑気に歩んでいくだろうと思っている私であります。

納会日

昨日は突如吹雪いたり霙だったり、夕方には赤い空だったりと、それでも夕暮れ時は冷たい空気感。まぁ、冬なんだから、年の瀬なんだからと言えばそれっきり。一言でいえば寒い昨日でしたが、今日はそのおこぼれくらいの寒さで、年末まで一段落らしい。31日は雨が降るかもしれないという、年末年始が妙な天気になるのはあんまり記憶にない名古屋市ではありますが、今年はちょっぴりお湿りがあるかな。インフルエンザ予防には良いかも。

日めくりカレンダーは使っていない。使っていた時もあった。あれは毎日めくらないといけないので、そのしなければならない感が嫌で、近年は使っていない。毎日、毎週何かをしなければというのが嫌だ。ましてや、毎週何時にテレビの前に集合みたいな、大河ドラマなど大嫌い。そもそも脚色がひどすぎて、謎の美化には吐き気がする。西郷なんてもんは天皇を騙って天下を盗んだ大罪人だが、それがNHKという国民から銭を集めて運営される主役になるというのだからあきれ返る。もっとも、今年は男子だったもんが女子と騙られたのだからそれよりはましか。

日めくりカレンダーではなくても、赤い31日の文字に向かって突き進んでいるのは間違いない。年々、1年間の長さが短くなってきているが、来年はどうだろうか。来年を語ると鬼が笑うらしいが、その鬼もなんだか年々優しくなるようで、笑ってもくれない。浮世の鬼がドミノ倒しで迫ってくる毎時毎秒だが、笑ってる鬼には出会えない。みんな真剣に襲ってくるから質が悪い。退治するより逃げる方が楽なのだが、逃げ道なく追い詰められるから仕方が無く退治する。これがまた、面倒だ。

地球と太陽の関係だから、朝が来れば夜が来る。永遠に暗いのかと思ったら、白々しく夜が明ける。明るい道は良い。しかし明るければ必ず暗くなるのが世の習い。であるならば、暗くてもそれで良い。人も家も暗いうちは滅亡はしないと右大臣実朝は語ったが、暗いうちに暗殺されたのだから世話は無い。来年も同じことを語るのだろう。一歩一歩である。それだけだ。

遺跡?

自然との共生という点において、先祖である縄文時代の方々に学ぶところは多い。共同で生活をし続け、地域間の交流・交易もある。独自の文化を創り上げ、三内丸山などは千年以上の固定集落を営んでいる。同一のDNAを持つインカの方々もその時代、1000年を超える戦の無い時代を築いていた。ノアの箱舟伝説を生んだ最後の大氷河期が終わった後の、海面上昇が終わった気候温暖の頃ということもあろうが、人間、やれば出来るじゃないかとそう思わせてくれる。

遺跡ファンというものではない。どのように共同生活を営んでいたのか、そのキーとなるものは何かを考える対象としているだけだ。三内丸山は今から5千5百年前から4千年前までの遺跡であり、その後、集落が打ち捨てられたことが判っている。三内丸山は国の特別史跡(言ってみれば国宝だね)になっていて、縄文時代と言えば三内丸山遺跡と言わる程だが、縄文時代から平安時代まで連続して栄えた場所だってある。今年の私的な学びの旅で出かけたが、キーは滾々と湧き続ける「水」ではなかろうかと感じさせて頂いた。勿論、土地の肥沃さは重要だが、水が無ければ農耕は不可能だ。縄文の後にも栄え続けたのは、西暦元年頃の出雲王朝との関係もあったからかもしれないが、王族も住み着くくらい、環境が良かったということでもあろう。

登呂遺跡は弥生の遺構として有名だが、集落の復元状況を見れば、今よりはるかにおおっぴろげで、プライバシーなどどこ吹く風だ。隣の悪行は直ちに知れ渡る。それを突破すると悪行をするより善行こそお互いの幸せのキーであるところに行きつくだろう。声高に叫ばれる助け合いということなんだろうけど、そんなことを叫ばないといけないような世の中にしたのが現代人種だ。我儘では無いお互いの善行。自分さえ伸びれば良いという勝手な考えではなく、普通が明日もやってくるという緩やかな進歩。間違ってはいけない。エントロピーは自然に増大するのだ。環境は常に悪化するのだ。同じ明日を得るためには、それなりの思考と行動が必要なのだ。

丁寧にものづくりを続ける。その丁寧の根幹は素材をきっちりと創り込むこととその特徴を最大限表出化させる加工こそがキーだ。縄文時代に既にヒスイを磨き、穿孔し、ネックレスを作り贈り物にする文化と技術があった。より人のためと心を尽くす文化を支えるのが技術の進歩だ。核ミサイルで自衛しあう国同士の集合体の地球に何故なったのか?これも研究テーマではあろうが、それは他人にお任せだ。身近なところから結束と平穏。難しいが、そのうち、成果がでよう。呑気だがそんなもんだ。

今年の流行りについていっていない

ビットコインもスマートスピーカーも未だに導入していない。ビットコインはともかくも、スマートスピーカーは自分の生活を快適にしてくれるかどうか直感できないからだ。クリスマスネット商戦でやたらとコマーシャルがやってきたが、自分の生活を安直に快適にしてくれる雰囲気が全く無い。真っ暗な時刻に起きて、気が付けばやっぱり起きる時刻なんて生活に便利さは関係ない。シャレでOK Googleなんてやってはみるが何がOKなもんか。

それは老人の戯言で、恐らく、今の小学校に通う前のお子様達には当たり前の光景なのだろう。いや、そうでなければ困る。世界の当たり前に触れ続けて頂かないと我が国は没落の一途をたどるのみだ。働き方改革なんぞAIに任せればよろしい。自分の仕事が無くなることを恐れる人の記事でネットは溢れるが、機械的に時間だけを要求される仕事なんて無くなったほうが良いに決まっている。AIがやってくれるならさっさとやって欲しいぞ。そんな来年になって欲しいと本気で願う。

人の好奇心こそ千差万別、80億通りあると思っている。だったらその80億通りの面白いとか、気ままに頑張れるとか、そんな分野に各個が就いてくれていればそんなに素敵な世の中はあるまいて。ネチネチ表面の凹凸を取り除く奴とかね。アウトプットが物凄く軽く得られて、他の人から見ればすさまじく厚い。そんな人の世にならないものか。

関数とは何かが変わればその変化に応じて変わる関係を表現しているわけだが、関数関係に無いものの生み出し方をしてみたいものだ。何かをやれば誰かが呼応する。それが無い状況で事を成し続ければ、誰も居ない砂漠を一人で歩いている、そんな気持ちになれるのかもしれない。いや、それとて数分は残る足跡を意識せねばならぬ。ネットの向こうに居るその人の顔は全く見えない。見えないがそこにある。OK Googleと語り掛けない自分は、まだまだ人依存性があるのだろう。そうでなければ戯言など語らない。AIスピーカーは何を生み出すのか?来年あたりそれが見えてくるのかもしれない。日本においてもそんな生活をしている人を見てみたいものだ。そう思う。

残り一週間

クリスマスである。妙に生暖かく、そして大風でホワイトクリスマスなどどこへやらである。フィリピンでは台風で大勢の方が無くなるなど、地球規模の気候変動が目に見えてきていると感じる。北海道沖合では2050年までに巨大地震がやってくるという。地球で命を頂いている身としては、ほんの小さな事であっても何か貢献しなければと思うのだが、さりとて何をしたものやら。自転車に乗ったり地下鉄に乗ったり。内燃機関に頼らない生活をするくらいのものだが、これで良いのかもしれない。

今朝のNHKでドイツのなまはげを見た。あれは怖い。大人でも相当に怖い。西洋人と東洋人の恐怖の対象の違いなのだが、あれはグロテスクだ。日本人が慣れている?鬼の形相とはえらい違いだ。小生的には西洋における悪魔のイメージで、あんなもんが「悪い子はいねぇがぁ」ってきたら卒倒するぞ。しかし、子供たちが宿題を隠したことを反省するなど、それはそれで良い。秋田では幼児虐待という馬鹿を言う連中に、伝統のなまはげが撃退されるなど、頓珍漢がまかり通る。日本が滅びるわけだ。

クリスマスなど関係なく、粛々と年始の準備に取り掛かる。年賀状などはまだ書かない。優先順位は小生にとっては極めて低い。おせち料理に取り掛かるのがこの時期だ。試運転的に少ない品目を作ってみたが、上々の滑り出しと言えよう。材料も揃いつつある。29日には一気に取り掛かる。そんな状況である。松飾も早々に設置できた。後は全てを待つばかりである。

今年、結局、出来なかったこと、おおこけにこけたこと、様々であったが、いよいよ後7日しかない。昨日、正月を迎えたような気がしたが、余りにも激動の年過ぎて、気が付いたらこんな状況である。残り、一週間をどう過ごそうかと全く意識せず、会議と来客に埋もれて過ごすだけである。日常など変わりようがない。自ら何とか出来る立場ではない。きっと来年もそうだろう。体調を崩さず、今年を終えたい私であります。

借金大国

社会保障費用で33兆円程度の国。税収がいつの間にか58兆円と報告されているが、本当か?と疑いたくなる。58兆円入ってくるだろうから、大略98兆円使っちゃうぜという予算編成だ。1万円貸してくれよ、絶対に返せないけどさと言われて金を貸す奴があろうか。そもそも困っている奴に貸した金は返ってこない。遊びに行くから貸してくれと言っている奴に貸す金は、どうせ返ってこないと割り切れるから質が良い。返すと言っている奴に貸すのは愚か者だ。絶対に返ってこない。

ふるさと創生1億円などと、バブルの金をばら撒いて国力を低下させるのも、政治家の責任では無くて、それを選んだ民の責任だ。民主主義だから、私はあの人に投票なんかしていないという逃げは通じない。だから憂うのである。米国の様にベンチャー企業を雨後の筍の如くに建てる教育をしろとそこらじゅうで叫んでいるが、ベンチャー企業が50億円稼いだ!と週刊誌の見出しで踊るが、1000兆円を超える借金を50億円でどうやって埋めるんだ?

この予算編成が済むとどどどっと社会が動き出して、その金を分捕りたい方々が群れて、あっという間にその金が霧散する。ついこの間綺麗になった道路に切れ込みが入り、ひっくり返して埋め戻すところに使われている以外に金の動きをダイナミックに感じることは無い。新幹線の台車が割れる時代であり、教育をしっかりと言いながら、少人数教育になれば廃校にし、教職員は削減の一途。そりゃぁ、必要なければ不要なのは間違いないが、土日夜無く活動を続ける小中学校の教員などを減らしてどうすんだ。シロートを入れることが相応しいなどと詭弁もいいところだ。そのような専門人財を教育学部等で育てることこそ、100年の計のスタートであるべきだ。

国家がそこに税金を払う人間を守ってくれるなら、それが国家だ。租庸調の時代からその体制は変わっていないはずなのだが、日本人であるという文化的素養を高める教育を疎かにして、守銭奴教育に入れ込み始めていると感じる。高い文化を心根に持ち、その人達が描く将来に向かって地道に国家を創り上げる。その起点を作らずに、似たような政策を別の省庁がうっていく。これではいくら貯金があっても足りない。むしろ借金しかないのだ。人は石垣人は城。その一点突破を骨格に進んでいこうと考える私であります。