紅葉

新聞ネタで世相を斬るみたいな出だしで始まった戯言ですが、昨日はつっこみたいけどなんだかやばそうだというニュースが満載。NEDOの助成金詐欺なんてのはドキッとするニュースなんですが、お金が絡むと人間はなんだかどっかおかしくなってしまうのかなぁと、性善説が基本方針の小生としてはどどっと疲労が蓄積されてくる出来事でありました。経営者の立場になると様々出てくるなと、お金にはよりクリーンさを持ちづ付けないとと改めて身を引き締めます。まぁ、やることと言えば、常に透明であるってことだけなんですけどね。

少し前に出ていたニュースというかこうなったら嬉しいなと思ったのが常に毎年10連休がやってくるというニュース。日本に象牙が密輸されるのは政府が象牙製品を国内販売禁止にしていないからで、禁止であれば闇市以外には出回らないわけで、リスクを冒してまで象を殺戮する集団は減るのではなかろうか?同様に(どこが?)休息したくても出来ない役回りってあるわけで、そんな人々にとって「休めとカレンダーが言っている」状態は有難くもある。ただ、10連休くらいで喜ぶ国民って世界から見ると哀れに映るんだろうなと思っているのも事実。休暇をどんどん消費して頂ければと思います。身体を壊してまで働いてはいけません。

ただ、勤務地に出ていく必要が無くなったとしても、昨今の電子メール爆弾は精神破壊にも繋がる恐ろしい仕掛けだと思うのです。内々で速やかに進めるなんてことには必要なツールなのかもしれませんが、それでも電話なら10秒で済みそうな内容を延々と書き連ね、百科事典級の(今では死語か?)添付ファイルまで添えられて押し付けられるのは脅迫以外にはない。講義に出ている間に未読が120とかになっていると無意識に「全て既読」ボタンを押している小生がそこに居る。

世相ネタに振り回されず、季節感などは最も良いネタだと思っている。今朝は日頃曲がらない角を無理やり曲がってみたわけだが、黄色と真紅のコントラストが朝日に映え、なんとも美しいではないか。人の庭木に喜びを頂いて、そのお宅に感謝だなとほっと一息。組織からの期待で疲労感がマヒして、突然、心停止してお亡くなりになる事例が多発しているらしいが、そうならないように、皆さん、積極的にお休みくださいねと、起きて半畳寝て一畳天下取っても二合半だよと、馬車馬の人達に思う私であります。

岡山と広島

岡山と広島に行った。地名にこだわると岡山県と広島県に行ったと認識する。自由に考えることが出来るなら「岡山君」と広島県(広島市でも駅でも良いが)に行ったという選択肢も浮かんでくる。単語の重みを考えてこの文脈はそういうことだろうと判定するのがAIだから、AIは全社の岡山県と広島県に行ったと判定し、返答を返してくる。中学生程度の文章読解力ということなのだそうだが、日本のAIは今のところその程度だそうだ。

一方で考えさせられるのは文章読解力のデータベースを形作るにあたり、中・高校生の文章読解力を調査したそうなのだが、これがAIと同等であって、決して褒められたものでは無いということ。最近、新聞で読んだことだが、自ら考えさせる問いが与えられると脳がパニック状態に陥るらしい。与えられたゲーム、教師が採点しやすいように作られた問題ばかりで過ごしていれば当然の事だろう。目の前の選択肢はどのように分類されるか。それはまさにAIが得意とする分野であり、既に不要な人間として判定される。

いかなる選択肢にも出会わずに死んでいくとしたら、それは幸福と判定されるのかもしれない。自らの納得の範囲で生きていく。ところが人間同士は不安や対立によって成長が促進されるのではと思っている。過度なストレスはよろしくないがそれを恐ろしがっていては、知恵は生まれてこない。ずるがしこさではない、他の同一生命体が笑顔になることを親身に考える知恵。

40億年遡れば、全ての人類は10μmにも満たないバクテリア程度の炭素の集まりだった人類である。インフルエンザとかなんとか言っても仕方がない。偶然に生まれた自らのコピーを生み出す能力が40億年掛けて変態してきたのが人類だ。中学生程度という言い方も微妙だが、人工知能という、人間の細胞分裂から生まれたものではない機械に劣るとしたら、既に人間は新しい増殖の手法を手に入れたということだろう。便利を人は捨てない。人工知能と呼ばれる機械は加速的に発展する。岡山と広島に行った。岡山君が思考に浮かばないとするならば、それは黄色い信号かもしれないと、哲学せねばと深刻になる私であります。

80億人

イノシシが京都南禅寺あたりで突撃しまくっているらしい。里山に人の暮らしが沿っているということで、決して悪いことではない。人がイノシシが暮らす領域を荒らしているだけで、イノシシにしてみれば、人間という無毛のサルが我々の住処を荒らしたから、奴らの領域に行って食糧を得ようと考えただけだろう。猟友会なる殺戮部隊に銃口を向けられ捕殺されたそうな。

間もなく80億に到達しようという人類は、魚類の中にはそれを越える種があるのかもしれないが、地上においては恐らく5本の指に入るほどの数だろう。とある方に聞いたのだが、人より養鶏として飼われている鶏は、なんとその倍の160億羽以上生息しているらしい。数が減るどころか増え続けているということだから、地球は人間と鶏の星と呼べよう。なんとも奇妙な星である。

恐竜が滅びた理由は様々だが、隕石が落下しなくても失われたと言われ始めている。数億年、進化し続け、その進化のプロセスが極めて鈍化していたらしい。700万年の末の80億人だが、少なくともこの4千年は背の高さとか骨格などは変化していることが判ってはいるものの、脳の体積が劇的に変化したとか身体的な変化は終わっているように思える。すると恐竜と同様の末路をたどるのか?

暗い話はなんぼでもでてくる。一方で、明るい未来のお話は殆ど無い。癒しのためのロボットが都会では必要になるとTVで叫ぶ研究者がいらっしゃったが、そんなものがないと生きていけない種なら無くなったほうがよいのではないか?月が地球に近い。明け方、見事な月を愛でながら、寝転ぶウサギに笑われているような、そんな気分になった私であります。

忘れるべきこと

今宵から寒気が東海方面にも、関ヶ原を通って入ってくるらしい。実際のところ、今朝、駅からの道すがら、顔が痛く感じた。いよいよ本格的な寒さの到来かなと、毎年繰り返されえる地球の営みには頭が下がる。最近、屈強な方が心不全で倒れるということを耳にして、明日は我が身と身構える。身構えても体の中の事はさっぱり分からないから、来る日のために覚悟を決めることくらいしかやり様がない。年齢の積み重ねによる気の持ちようの広さと身体の衰えはバランスしないといけないのだが、どうやら後者ばっかりが進むのである。

新聞によればインフルエンザの流行が始まったらしい。今のところ、職場においてはそのお話は入ってこないが、ひとたび流行となれば一気に職場閉鎖ともなってしまいそうな建屋である。インフルエンザのような人類を倒すためだけに存在するウイルスは、弱みに付け込んで元気百倍、増殖しまくるという破壊力だ。どんなに元気でも抵抗出来ないものは仕方が無いが、体調不良の際には一気にもっていかれる。そうはならないように、少なくとも精神的に追い詰められるような仕事はトップに任せておいて、ほんわかと気持ちに余裕をもって頑張って頂きたい。

地下鉄の車内でもゲホゲホと菌をまき散らし、御同輩の増産を目論むウイルス軍の門下生が多く見受けられた。今朝、あっちでもこっちでもマスクはしていらっしゃるのだが、無意識の殺意にさらされて、一駅手前で降車して、健康の散歩よろしく、街を散策した。冷え込み始めた空気が、まだ薄暗い街を覆い、なかなかに良い風景に出会って、人間万事塞翁が馬と、妙に納得する。歩を速めれば身体は温かくなり、地下鉄の二駅の短いことを実感する。

歩いていると例年の如くの毎日が忘年会状態を呆れかえるのだが、何を忘れるべきかを思い出せない程に多くの出来事に遭遇してきた今年、まだまだ様々起こりそうだ。一つ言えることは、十年一日に重ねてくると、何か形になってくるものだということ。コツコツと続けているとどんなに厳しい寒さとて見事に咲く花がある如く、人は何か事を成す。事が成ったらコツコツとやってきたということだ。自分を褒めることなく、また新しい道に進むのが良い。成ったと思うと油断する。油断は堕落に繋がる。忘れるべきは成したこと。それは人が勝手に評価している。そんなもんだ。

師走

師走である。額面上の師走であって、近年、立ち止まった記憶が無いので年中師走の勢いだ。働き方改革だなんだと世間は騒ぐが、ドミノ倒しよりも激しい勢いで仕事が増えるというのも、ある意味、毎日が働き方改革と言っても過言では無かろう。それでもまぁ、師走がやってきた。

暦の上のお話で、1日24時間と決まっているのだから、誰にも止めようがない時の流であるから、ほっといても師走は来る。尤も、時間をほっとかないなんて芸当は出来ないのだから、何があっても師走という境界はやってくる。先人の多くが仰っているが、年齢を重ねるごとに師走が早くやってくる。早くやってくるというくらいだから、何処かにリセット点があるはずで、それは恐らく正月だ。師走が来たら正月が来る。終わる月よりも来る月でそわそわするのも師走の定めだろう。なんだか邪険にされている月名である。

師走に何か思い出があるかと言えば、存外、何も無い。師走だからこんなに大変なんてことはなく、年がら年中苦行三昧だから、大仰に師走であるなんて始まったが、特に何もないのである。何もないからこそ戯言であって、これがだいご味というものだろう。それでも無理に思い出して、何か思い出すことがあるかと言われれば、博士課程の学生の頃にしんどいながらも頑張ったなぁくらいかな?小生の人生などそんなものである。

北海道では最高気温が氷点下と言っているが、なんだか名古屋地方はそれ程の冷え込みも無く、流石に仕事も食糧も自給自足できる稀有なエリアと感じ入る。そりゃぁ三英傑もでるわいなと、恵まれた土地柄である。穏やかな正月を迎えられると良いなと、既に師走は終わった気分でいるのだが、これから5月末までの継続師走状態を想うと正月くらいあってくれないとやってらんねぇやと、べらんめい口調にもなってくる。そんな師走の初日である。

場を感じること

物理学で重要な概念に「場」がある。人類が常に平等に感じている場として重力場がある。その場においた質量mに作用する重力Fをmで割った値に等しい能力を有するところと定義される。要は何があろうがなかろうが存在する物理量である。同様に電子などの電荷に作用する力が働くならば、そこには電場が存在するという。電子顕微鏡というと面倒だが、ちょっと前まで存在していたブラウン管は、後ろ側から電子を電場で加速などして画像を表示していた。

土俵というものも場であろう。神様の前で日本一の力比べをする。負ければ命を失う。そんな場に立つ頂点の方であれば、一般民間人には及ばない品格が求められて然るべきだ。例え何があっても越えてはいけない一線を越えると、ごめんなさいでは済まなくなる。そんな場に立とうと思うこと自体が偉大だと思う。思うが、越えてはいけない一線を越えたのだから、その場から降りねばならぬ。その存在が無くなっても場は残る。いや、残して頂きたい。日本にとって土俵とは品格とは何かを国民に示してくれる場だからだ。

物理の世界ばっかりで恐縮ではあるのだが、電場のことを電界と呼ぶ人もいる。場も界も別の場所とは何かが違うのだと定義づける領域なんだけど、物理屋は電場で電気屋は電界と習わしになっている気がする。どっちも英語だとfieldなんだけど。土俵が相撲界のfieldなら政界ってどうなんでしょうね。その国の代表であるのだから国会なんてちっぽけなものではなくて、やはり日本全土、いや、今の時代、地球とその周辺くらいのものだと思う。政界は相当の横暴をやってのけても辞めたりしないから、国民が発する力が弱いのか、政界の人々の質量が巨大なのかどっちかだろう。

教育界などと呼ばれる世界もある。モンスターペアレントに蹂躙され、けっちょんけちょんの世界だが、社会を支える重要な役割を担う場であるはずだ。人として仁義礼智信の全てを格調高く身に付けた方がその場を形作る教壇と呼ばれるところに立つわけだが、小生などはまるでその資格が無い。無いと解っているので少なくとも修行に臨む心構えは持とうと思っている。その場を感じられなくなったら引退しなければならない。社会の出来事を見ていてそう感じる。

知の深化

気が付けば街路は黄色く染まり、見上げれば春を待つ新芽の時期になっていますね。寒かったり暑かったりで間もなく12月を迎える今日、皆さま、いかがお過ごしでしょうか。別に誰に話しかけているわけではないのだが、いかがお過ごしと言われても自分なりに過ごしていますとしか、小生自身も言えません。この、自分にしかできないということを思いっきり深化させるべきではないかというお話。

知の深化と探索。両方が必要で、社会に笑顔をと言ったって、自分自身で手も足も出ない領域で頑張ろうというのはほぼ不能だろう。中にはウルトラ器用な方がいらっしゃって、自分のメジャー以外でも片っ端からベテラン並みかそれ以上にこなしちゃう姿をお見掛けすることはありますが、まぁ、一般的にはそれは不可。だからこそ、まず、自らは何者かという深化が必要。

深化と言えば研究者の得意技と思われますが、大学というところは研究だけをすることを求められているわけでは無いので、自らのアイデアの深化という点において、雑音が極めて多い厳しい環境と感じます。バブルの前に知の探索との分業を企業と完全に成していた時代においては象牙の塔に籠ることができた時代。知の深化にはもってこいの環境であったことでしょう。「雪が降っているから、こんな寒い日には講義なんかやってられるか!」と教授が教室から出てっちゃったなんてことが普通にあった。

外界から遮断して知を深化させる時間のなんと短いことかと嘆くよりも、そうであればそれはひとまず置いておいて、探索に広げてみよう。これを可視化するツールがバリューブリッジであって、名工大はそれを生み出した環境という点においては、深化も探索も可能な環境なのかもしれない。これからの10年、20年、ミサイルが普通に飛んでくる時代であるから、何が起こるか分からないが、きっと人は知を深化させるために生命として存在しているのではと思う。その人達のお手伝いをさせて頂ければと、心底思う落ち葉の季節であります。

和を以て

子曰く君子は和して同ぜず小人は同じて和せず。和とは同じ方向を向く事では無い。協力し合って一つの方向に進むことである。その時、自らの力を自らなりに発揮していることが組織として最も重要なことである。和を以て貴しとなすと聖人は申されたが、単に仲良くなれと仰られたわけでは無い。皆で同じことを考えよう、実行しようなどと伝えている者がテレビの向こうにいらっしゃって驚いた。

聖人と言えば聖徳太子だが、教科書から消されるという。小生くらいの年齢であれば、一万円札と言えば聖徳太子であって、聖徳太子は居なかったといわれると、厩戸皇子まで架空の人物みたいになってしまっていて、週刊誌などでは、作られたイメージなどと書かれているから、日本人のいい加減さには呆れかえる。まぁ、皇族の家系図ほどいい加減なものは無いと言えばそうだが、武士よりはましだ。記録がある以上、いらっしゃったことで良いではないか。

法隆寺は言わずと知れた世界最古の木造建造物だが、釈迦三尊像など、劫火から免れ、厩戸皇子死後直ぐに創られた像が現世に繋がっていることは奇跡であって幸いなことである。光背に刻まれた碑文ですら、学者が偽物と面白がって叫ぶが、鋳造当時のものと現代科学的に解き明かしたとしてもそれを認めず偽物と叫ぶ姿こそ、偽者であろう。

大声に従うことを否とは言わない。しかし、自らの判断基準無く付き従うことは辞めたら如何か。和を以て貴しとなすを間違って捉える風潮は、AIの登場で益々恐ろしい方向に進んでいくのではと、今一度、温故知新。自らの文化を読み返し、真正日本人として歩んでみたい。昨日、勤続20周年式典に参加させて頂き、しみじみ感じた私であります。

続大掃除

宿舎の大掃除を展開している。年末一気には厳しいので、じわりじわり、進行している。掃除用ケミカルの進展目覚ましく、これは無理だろうなという人造大理石の油汚れまできれいさっぱり。手作りパスタも美味しくなりそうな、そんな気分にさせてくれる。まだまだ気になる箇所が多々あるが、スチーム洗浄機と併用して、かなりの部分が綺麗さっぱり。聖人にはなれないから心の中まですっきりとはいかないが、表から見えるところはなんとかしてみたいものだと、この年齢になって漸く思うようになってきた。

一般民間人はほぼ手を付けなかったり、あるいは一括したシステムなので手を付けられなかったりだが、その昔はPCは、定期的にFDISKでハードディスクを真っ新にして、システムインストールからやり直し、無駄なファイルを極限まで削って掃除していたものだ。何時の頃からか、CPUが大馬力になり、HDD容量も爆発的に増え、クラウドストレージなんかも出てきたし、そもそも、オープンファイルは保存という概念が無いから、PCの大掃除をしなくなっている。これは如何なものか?

出来るだけPCは持ち歩かないようにしている。万が一、そこに存在しているファイルを紛失したらどうしようかと不安になるからだ。国のお役所はかなり前から紙かクラウドなので、PCに入れようにも入れられない状況にあるが、それでも気が付くと、公の場で話をさせて頂いたファイルだけではなく、秘匿性のあるファイルがあったりして冷や汗をかく。このような状況を脱却するためには、やはり初期状態に戻すのが宜しい。宜しいのだが、近年では月齢パッチが多くあり、それを思うとよしておこうかなと逃げてしまう。これはいけない。

それこそ戯言の下書きファイルなどは綺麗さっぱり消えてくれた方が良いのだが、これはこれで何万行にもなるファイルとなってくると、消してしまうのが惜しくなる。こんな人間は消して断捨離が出来ない。実際のところ、なんとか頑張るのだが、本やレコードになるとパタッと手が止まる。死ぬまで掛かっても全部を聞くことは無いほどのレコードや読み切れない本に囲まれて馬鹿面をしているのが現状だ。大掃除は見えるところの水回り位が宜しい。後は気が向いた時に実行する。こう思っていると案外やるものだ。断捨離もじわじわやると頑張れるのかもしれない。まずは心の整理からだなと、年度末が迫ると思う私であります。

一杯の珈琲は?

一杯の珈琲から恋の花咲くこともあるとは随分と過ぎ去った日の唄だし、そもそもフルコーラスで聴いた記憶が無い。そもそも聴いたからと言って、恋の花咲く確率なんぞゼロに近かろう。とは言うものの、一杯の珈琲は心の時間をゆっくりにする働きはきっとあるのだと信じている。切羽詰まりまくった状態ではろくなことはない。やることなすことことごとく意に反し、その輪廻から抜け出せなくなる。抜け出したかったら珈琲をお飲みなさい。恋程甘くは無いけれど、不安の気持ちは少しは薄らぐこと間違いない。

温暖化による珈琲林の枯死などが昨年から多く報じられ、輸入生豆の価格が右肩上がりで上昇を続ける今、一杯の珈琲の有難味がとても大きく感じられる。旨味を超える有難味と、勝手に思っているのだが、マーケットに行くと、恐らく売れずに廃棄されてしまうのではなかろうかと危惧してしまうほどに、埃をかぶったインスタント珈琲やレギュラー珈琲が並ぶ。罰当たりな光景であり気分が悪くなる。捨てられる為に生まれてきたわけでは無かろうにと、同様に棚を埋め尽くす食品群に嫌気がさす。

喫茶店においても「何これ?」という謎の飲料に珈琲と勝手に名付け、暴利をむさぼる輩のなんと多い事か。加えて、珈琲を飲みに行った先でピーナツなどが出てくる状況は如何なものか。これはこれで良いのかもしれないが、釈然としない。長いお祈りの最中に眠気を飛ばすために、豆をかじったところからスタートした珈琲だが、眠気を飛ばすだけではなく、心地良さも獲得したいと思ったのは、自分自身、何故なのか判らない。判らないが、まぁ、そんなことが喫茶店のマスターになろうと思ったきっかけだ。

勝手に貯蓄される憂鬱という貯金を清算するには、一日、ぽかぁんと過ごすのが良い。山に逃げられないのであれば都会のジャングルでぽかぁんを作らないといけない。何も特別なことなどいらない。そこで珈琲を楽しむだけで良い。そんな一日を皆様に持って頂きたいと願う私であります。