共鳴力

宿舎の周りの草刈りをした。単に機械をぐるぐると回して、地上部を刈り取ったというだけのお話だ。米国と違って、くさぼうぼうにしていたからといって罰金を取られることは無いのだが、梅雨前に刈り取っておかないと凄まじいことになるので、今の内にやってしまうのが良いのだ。超硬ビットを活着させた円盤はものの見事に見た目を綺麗サッパリにしてくれて、刃物の価値を感じることが出来た。道具は有り難いと思うのだ。

プレゼンテーションで「腹が減るからマンモスと戦う、素手で戦うと怪我をするから道具を作った」と石器創造に関して、それこそいい加減な想像で語ったわけだが、今でも黒曜石を割った稜を用いれば、木材や肉類は容易に切断できることを、博物館での実験で体験させて頂いている。石器は十分な能力があるわけだが、それを人類は捨てているわけだ。石が無くなったから石器が無くなったわけではないということを言いたいだけだ。

石油はどうだろうか?大雨が降ると直ちに温暖化の話が出てくる昨今だが、石油や天然ガスを使わないというタイミングは、現世人類に創り出せるのだろうか?石器が金属器になり、その次がプラスチックと呼ばれる樹脂製品になってきて、その次はということにもなるのかもしれない。石油は余りにも便利であり、燃焼以外にも数え切れないであろう数の便利用品の源になっている。情報の時代とは言うが、情報では腹は満たない。これが道具の本質なのだと思う。VRではお腹は膨らまないのだ。

動植物の成れの果てが石油ということならば、刈り取った草を何万年も待つこと無くそれを活用できれば良いのだが、今の技術では相当のエネルギーを必要としてしまい、直ぐに代替というわけにはいかない。人口三千万の江戸時代、良いものを大切に使い合い生活をしていた。道具のシェアよりも、恐らく、心のシェアをしていたということだろう。結局は人との共鳴力に勝るものは無いということだろうが、貧富という概念を乗り越えないと、ネクストコロナ時代なんてものはやってこないのだろうなと、しみじみ思った週末でありました。