言葉の責任は何処に?

目を閉じて、言葉が想起する「絵」を、まぶたの奥に描いて下さい。「コロナの後」というのが現在、私達に求められている世界観の具現化である。うぅぅんと、あれやこれや適当に、それこそいい加減に「こんなところでは無いかしら?」とイメージするのはたやすいが、それを約束しろと言われたら、どうしますか?言いたいことは、そりゃ、無理だがやということ。与党も野党も何も言えない、そりゃぁそうでしょう。貴方の頭の中を政治家に責任を取れというのは、要するに無責任だな。

毎日毎日、新しい、定量的な政府が市場に出す金額が明らかになり、それが、どんな理屈で何処に行くのかは、野党が何を言っても与党は言わない、言わなくても圧倒的多数の与党だから正しいという認識なんでしょう。それは確かに国民の圧倒的多数が認めた政権だから、それに文句を言ってはいけない。と、思っている方々がリーダーになると、今のようになるのだ。なるんだけど、それで正しくないと言うことは出来ない。民主主義だから。

これは散々、言ってきたけど、新しい民主主義が産まれてきても良いのではとは思うのだ。なんだか変だぞと思った議員は、その理屈を勇気を持って社会に明らかにして、別に、党を離脱しなくて良いから、正しいと思ったことを、揚げ足を取られること無しに、社会に堂々と訴えることが出来る、そんな状況を許す国民であると認識されるような、そんな民度になりませんか、そうなると、確かに、民度は高いとなるんでしょうよ。

首相の支持率が40%を超えている。40%とは凄い数字で、単なる批判表を取り除けば、国民の半数、民主主義的に、正しいと推している方々が民意として存在していらっしゃる。だから現状こそ、国民が望んだ姿なのだと納得するのだ。納得していないという人は、民主主義を理解しない人なのだ。国家とはそんなものだ。人の話を聞いて反映しますよということでは何も決められないと知ったような話が聞こえてくるが、それは全く違う。反映できるから、意欲を持って前に進めるのだ。どうなってんですかね?ということを、梅雨の間に、考えますか?