教師の成り手

問題の読み解きに時間が掛かるから、読解力が必要な試験であったと、予備校などが対策に時間が掛かり対応が容易では無いという。我が国の教育現場の思想がすべて表れているなと感じる。他国の論文を拝読し、その内容の劇的な高度化に驚きつつも、新奇な発想で新機軸を学理として導入していく。その挑戦のベースには「読解力」と「発想力」があるのが基本となっている。最も重視したいのは「夢起草力」である。

教員不足が叫ばれて久しい。余りにもブラックであり、子供ならずも親までもが学校に攻めてくる現状において、誰が好んで教師になろうと手を挙げるものか。採点しきれない子供達の提出物を家に持ち帰り、家庭不和を巻き起こし、精神を病み人生を棒に振る職場に誰が手を挙げるか。教育の成果は30年、50年と長期に量らねば可視化されない。それなのに、文科大臣殿は、自分の代の成果とばかりに次から次へと現場無視の政策を打ってくる。余りにも短史眼だ。

短史眼で育った者は、当然の事ながら短史眼になるわけで、経済にしてもものづくりにしても、今、その瞬間に何らかの「見える成果」が与えられないと行動を否定してくる。朝令暮改もここまでいけば立派なものだと思う。マスコミも、先生の質などと単純な事を言ってくれるが、教員免許状は「単位の積分」で獲得できるわけで、そこには適性や素養などという人間力は加味されないのだ。そんな状況から「就職先」として教職が置かれるわけだから、国の存続を可能とする教育の質など、確保されようがあるまい。

新車販売台数が世界三位になりましたよということだって、車の保有そのものに魅力が無くなっただけでは無く、車そのものの有り様に魅力を感じないからということもある。壊れないは当たり前なのに、次々とリコールが沸き起こる高額商品を、Z世代が欲しいと思うはずは無かろう。価値を感じ取りライフワークの一つとして感じ取れるような商材こそ求められる時代。それは工場の中においても同様。リーダーに夢起草力が無く、挑戦する姿勢も無い状況において、そこに人を育てて投入しようと思うはずが無かろう。教育の現場だけに責任を覆いかぶせ自らの悪行に目をつぶる。この国は滅びるねと「三四郎」という作品を通して漱石が語ったが、その通りだ。