言いたいときに想うこと

沈黙は金、雄弁は銀。しょっちゅう聞く。成程と思うことに、重要な会議であるはずなのだが、そんな会議こそ主催者が徹底的に考え抜いて議題提案をしてくるわけだから、じっと「何が言いたいのか」と「アウトカムズは何か」だけを聞きぬこうとすると「あぁ、そうだよな」と納得できることが多い。勿論「絶対に納得できない」という時は発言するべきだが、じっくりと待っていると、自己顕示欲に溢れた方々の発言が続いて愉快である。会議とは面白い。

こんな筈はないという原点は自らの価値観であるはずだが、その価値観を20年以上昔の老人に「こうなんだよ!」と言い捨てられたどうだろう。こんな組織から逃げるべきだと思うはずだ。当然である。もしも「もうすこし我慢すれば自分の時代がやってくる」と思ったらそれは大いなる勘違いだ。今、納得できない組織が、その内に納得できる組織になるはずがないだろう。間違ってはいけないのは、自らの価値観こそ宇宙の中心だと思うことだ。独りしかいない自分が、中心であるはずはない。

であるならば、どのように自らの歩む道を決めるのか。毎朝、何処に向かって一歩を踏み出すのか。社会を見る必要は無い。それは正に「流された時流」という流れがあり、その中に乗れば、異なる波が並行して走っている、そんな乱暴な社会と共に歩むことになるからだ。アウトカムズが無い、適当な社会に添い遂げて、どんな価値があるというのか。自らの命を大切に扱ってはどうか?

自分の主張にあわないから絶対に反対と叫ぶ者は多い。それは正しいかもしれない。しかし、それが自らの組織の10年後をイメージできず、今のわがままだけであったらどうであろう。自らの好みで、こうやりたいと思った方向性が、圧倒的な過去であったらどうであろう。これをやりたいはまだ良い。これは腹が立つと思った時、これは社会の思考かと、一瞬でも良いから立ち止まってみると良い。自分の価値観が正しいこともあるが、そうでなかったらどうする。100年後にやってくるかもしれないが、それは我慢したらどうか。政治とはそんなもんだ。何もしないことも正しい政治である。何かやっちゃうんだけどね。雄弁は銀。銀ならましか?そう思う。