論文類似性

盗用・剽窃という恐ろしい表現がある。時々、どこぞの大学の先生が、これをやってとんでもないと上げられるあれだ。投稿論文などは、まともな出版社であれば、投稿されたものは自動で評価して、聞いたところでは20%未満だと次のチェックに入っていくそうな。装置の説明とか、その論文に沿った使い方を記すのでオリジナルになりそうなものだが、既に何億本という(大袈裟?)類似装置を使った論文があるわけで、すると、盗用・剽窃をしていなくても、勝手に似てくる。それが盗用・剽窃〇%という形で表現される。

何年前だったかは忘れてしまったが、盗用・剽窃防止というよりも、意識させるということで、特に、博士論文においては、その調査が義務付けられ、そのツール活用に掛かる費用を組織が受け持つ仕組みとなっている。博士論文はどこの大学が受理して、博士の学位を授与したのかが付いて回るから、当然と言えばそうなのだが。近年のAIの進化によって、ツールもどんどんと進化していて、バージョンが上がるごとに、チェックが厳しくなるのは当然なのだが、「従って」とか、そんなもの誰でも使うぞ!という表現を排除してくれるとかという道具も進化している。

古い書物を引用したり、その文章を剽窃しているわけではないのだが、このあたりはこれに似ているよと言われ、まぁ、ここはオリジナルを尊重しようとなると、それが盗用・剽窃〇%の中に入ってくるわけだ。やってみると実に面白くて、これはオリジナルだ、これは、うん、ちょっと先達をリスペクトしようみたいに、1センテンスごと(大袈裟)にチェックしていくと、まぁ、これくらいは納得だなという数値に収まる。トップジャーナルだと10%未満(引用文検討、当たり前表現は除く)が求められると言われる。

まぁ、博士論文をコピペで作り込む方が難しいだろうから、必然、他者出版物類似性は小さくなっていくのでしょうけれど、プログラムなどはキーとなるオリジナルの部分があれば良いと思うのですよ。その人にしか出来ない思考があって、その根拠が示されていれば。実験系の論文でも、世界初のトライで、その思考からチャレンジの仕方、アウトカムズがオリジナルで、それを既存の装置で比較出来れば共通言語でオリジナルを証明しているわけだから、それを評価すれば良いのにとは思う。まぁ、時代の流れなので仕方が無いが、類似性が10%未満と出たから文句を言うまい。

おせち料理考

残すところ20日あまりの今年、まぁ、例によっていろいろあったということだが、まだまだ、残りの二十日間。多忙を極める年末なのはいつもの通り。土日は乾物などを見て回ったわけだが、真夏の暑さにさまざまな影響があったらしいと、JAの方から伺った。例年よりも小ぶりな黒豆とかね。おせち料理を手作りする人が減っているということで、入荷も減らしているとのこと。そりゃぁ、煮豆なんてパックに入って300円未満で買えるしね。高価な豆を入手して、失敗を恐れながら一日仕事で炊いていくなんて、もう、物好きの仕事であろう。

12月の声を聴いたくらいから、数の子をはじめ、どどどっとこぶまき等々、お正月食材っぽいものがマーケットに並びだす。週ごとに増えていくのだが、手作り用の乾物などは確かに減ってきている。昨年は身欠きニシンを探すのにえらく苦労した。もうここで無かったら諦めようとなった時に、最後の人箱を入手出来て事なきを得たが、今年はマーケット探査は諦めてネット販売頼みになってしまった。

こうなってくると、新聞広告で見るような、目出度さなどはどうでもよい重箱を買って済ますのと、違わないのではないかと思ってしまう。色とりどりの広告を拝見し、これのどこが正月なのだろうと、古風な思考の己を呪ったりするわけだが、まぁ、伝統の承継は必要と言うことで頑張るわけだが、次につながるわけでもなく、まぁ、お家最後のお勤めと、老体に鞭うつわけだ。教わったことを教わった通りに進めていくだけなんだけどね。

年中行事で済ませられるものは努力すれば良い。しかし、変わりゆく世界の中で、どのように組織を運営していくのかなどは生き物だから昨年の踏襲と言うわけにはいかない。強欲の塊に攻め滅ぼされるなんてことも考えに入れておかないと、完全に足元をすくわれるわけだ。小生などは性善説人間だから、あっという間に足元をすくわれて、はい、さようならなんだけど、やれと言われることがある限りはやってみるけどね。おせち料理に専念する。そんな時が幸せなのかもしれない。自分の為に時間を使う。最大の贅沢である。

琵琶湖の乾燥

最近、全く乗っていない京都-名古屋間の新幹線である。冬場は関ケ原エリアの雪によって減速するエリアとして悪名高い。要するに、福井から入った日本海の湿った空気が、琵琶湖の北岸を通り伊吹山に衝突して雪を降らすわけだ。そこで雪が落ち切らないと名古屋まで吹き込んでくる。冬の名物であるが、今年は雨すら降っていない。そのせいで琵琶湖の水位が定常状態よりも70cmも低くなってしまった。あの水甕は時々渇水になるのだが、1994年に1m23cm下がったということで見に行ったのだが、浮御堂を支える足が完全に地上に出ていた姿を覚えている。

今のところそこまでには至っていないのだが、大阪に流れていく瀬田川の川の起点辺りにゲージがあって、そこに0と打ってしまったものだから、それが基準となってしまっている。近江八幡の水郷巡りは、琵琶湖に対してゲートを持っているものだから、それを琵琶湖の水面よりも高く維持して、遊覧を可能にしている。それとて、いつまでもつやらである。あの馬鹿馬鹿しい面積が70cm下がったということは、どれだけの水の体積が失われたということか。

自然現象だからどうしようもないのだが、天気予報でついつい、滋賀のあたりが気になってしまう。どんどんと水位が下がってしまうと、漁船が出せなくなって、名物の鮒寿司も佃煮も食べられなくなってしまう。それはとっても困る。琵琶湖の経済圏がおかしくなってしまう。佃煮製造所で拝見した、水揚げ直後のおさかなさん達に出逢えなくなってしまうのはとても寂しい。滋賀県民の健康を支えるカルシウム源が途絶えてしまう。

名古屋においても、あんまり雨が降らないなとは感じているわけですが、あの盆地の水たまりが干上がってくるとは恐ろしい。水位低下速度を落とすには、例の「水止めたろか」をやるしか無いわけで、それはまぁ、有り得ないでしょうし、京都への通水も止めるわけにはいかないでしょう。増水の水害も嫌だが、渇水も困る。何処まで下がり続けるのか。天のみぞ知るということなのだけれど、天然資源が心配だ。

環境収容力

新聞を拝見していて「ほぅ」と思う事がしばしばある。新しい知見を公的機関が正式発表したものが記事になった場合だ。政治家諸氏のルールの見直しなどは、そうだろうなと思って終わりであるのだが、新しい知見はとても刺激的である。『放流しても魚は増えず』という中部経済新聞の記事である。人工ふ化の稚魚を河川放流したとしても、長期的に見ると生態系に悪影響を与えるのみならず、数を増やしても、親魚になって食糧になっていく数は増えないという。「ほぅ、それはそうかもしれない」と感じた次第。

野生生物は生態系のバランスの中に成り立っていて、それを壊すのは人間である。大陸移動によって強者が弱者を滅ぼしたということはあるが、それは自然の摂理でなんともならない。サケの養殖が、現場で拝見したりTVのニュースで大量の遡上を見たりと、当たり前のように見ていたので、特に川魚は養殖と放流が漁業に携わる人たちにとっては必要な行為なのだなと思っていたし、自分達の口に入ることが可能なのも養殖のお陰だと思っていた。

でも、何か嘘があるなと思ったのは、余市のニシン御殿を拝見した時。その場に残る唯一と言っても良いその遺構には「ニシンが浜に打ち上げられて、それを処理するためのニシン御殿であった。いつの間にか来なくなった」(超意訳)と拝見した時からだ。乱獲によって激減したと聴いていたことが嘘であったという事だ。一つの種が増えすぎると絶滅に向かうというのは恐竜の時代から繰り返されていることで、それを顧みず、放流量を増やしては、環境収容力の閾値を超えてしまっていて、淘汰を促進していたという事だ。

人間社会もそうなのだろうなと思っている。特に、大戦によって激減した時から爆発的に増加して、2035年くらいから、急激に18歳人口が減っていく日本。全く類似しているではないか。自然界と違うのは、人の寿命は長いという事だ。若年層が欠損したら、高齢者だけが残っていくのは当然の摂理である。労働人口が減っていくのだから海外から食料もエネルギーも入ってこなくなるのは自明の理である。徹底的にその方面に税金を投入していくべきだ。その為の要素研究、そして開発に挑むべきである。挑まなければ淘汰される。それだけのことだろう。

オタク

何十年も掛かって開発を続けて、今こそというところで他社に出し抜かれてしまう。勢いだったり、人材だったりということなのでしょうけれど、目の前に形になっているのに、それが世に出ていかないという商材候補って数限りなくあるのでしょうね。とある先輩が10年掛かってやっとこさ物になったと仰ったことを思い出す。とことん、追い詰めていかないと世の中には出ていかないよと、ぼそっと仰ったのを思い出す。神戸震災の直後だったから、もう相当に古いお話だ。

応援していたプロジェクトが立ち消えましたとなると、それはやはり寂しいものだ。自分が直接タッチしていなかったとしても。そして事業の難しさを実感する。繰り返し試験を行い、乗り越えられない壁を見た時の辛さ。研究だと自分の仮説が間違っていたということになるのだけれど、何億もの資金を投入して、それがものにならないとなると、やはり厳しい。体力のある企業様で無いと、なかなか挑戦は出来ない。

回収の見込みのない補助金とかね、ばらまいておしまいなんだけど、税金であることを政治家諸氏が忘れてしまっているのがいかん。挑戦を後押しして、世界と闘おうとする企業殿の開発に、選択と集中でどかっと挑戦資金を提供する方向に変わらないものか。なんか、成功が約束されているものにしかお金を投入しない風潮になっていて、これでは我が国のものづくりが縮退する方向にしか行かない。単なる失敗の為の失敗では無く、それが出来たら凄そうだなというものにはそれなりの資金を税金から出してもよかろう。

ゼロベース思考は大変だし、それで思いついたものがビジネスと呼べるものになるのか分からない。しかし、一人が欲しいと思いついたものは、世界を見渡せば私も欲しいと思う人は必ず居るものだ。オタク産業になってしまうのだが、オタクこそ社会の変革者であり、高価であってもその価値を見抜ける人種である。平均点人間よりもオタク。オタクが世界を救う。オタクを見出したい。

オワコン

買い手の給料が上がらないのだから、商材も値上げしてはならないという暗黙のルール。特に、当該地域においてはカイゼン・カンバンが正しいのであって、それ以外の攻め口を持ち合わせていない。だから、新奇(新規にあらず)事業創造なんて遥か彼方どころか、関係ない世界となるわけだ。工場の空きスペースで何かをしようとすると、川下企業殿から「何やってんだ」とお叱りを受ける。これでは挑戦など出来ようはずもない。

いや、出来るのだ。だって、あなた、社長さんでしょ?あなたがそんな気持ちで、社員さん達が何時までも付いてくると思っていたら大間違い。どんな組織もいっしょなんですけどね。一つ言えそうなことは、ゴールをしっかり示して上げる事では無いかな?もう廃業というのであれば、それは何月頃とかね。出来るだけ早急に情報共有をさせて頂くのが宜しい。それが出来ないと、皆、路頭に迷ってしまうわけだ。でも、何百人単位で辞めて行きましたと言うお話は聴くのだが、何人を新規雇用したというお話はトンと聞かない。

業界のルールなのだろうか?狭い世界だと、あの人があっちに行ったとか直ぐに伝わってくるのですけれど、工場を閉鎖して、その人達が次の職を得たというお話はなかなか聴かせて頂けない。ロボットに代替出来るお仕事だったという事なのだろうか?必要とされるスキルを身に着けていなかったという事なのだろうか。明日は我が身なのだが、この時代、昨日と同じ機能しかない人の行き先は無いと思った方が宜しい。しがみ付くのではなく、新奇な知識を身に着ける事に挑戦することだ。

新しく儲かる商売なんて誰も知らないし、ひょっとするとそんなものは無いのかもしれない。新聞によれば、海外富裕層向けのホテルが乱立しそうということだが、もう、国内の民は旅行すらままならないということか。そんなにまでして、商品を安くして、従業員を干上がらせることが大切な事か?お客さんに安く良いものを。それは間違ってはいないだろうが、系列企業を赤字にしてまでやることか?オワコン日本。何処に行くのか。

地球規模のお話

夏が続いていきなり冬が来た今年である。12月になると、なんだかんだ言っていても冬は来るのだなと実感できる。地球の環境を決定しているのは、未だ、予測の範囲を超えない地球の内部の熱エネルギー状態と、太陽である。人類の経済活動が8ギガトンのCO2を排出していると言っても、植物が光合成をしない間に排出する60ギガトンには遠く及ばない。陸上生物全体が排出するCO2量も60ギガトンと見積もられていて、植物の炭素固定が120ギガトンでそれらを帳消しにしてくれているということが前提で、CO2排出量云々と言われているわけだ。

気圏における地球温暖化要因は、CO2なんかよりも炭化水素の方が圧倒的に強いんだけど、自動車のEV化によって経済活動をしたい人達の策略に乗っけられて、化石燃料を活用する活動をやめる方向に進んでいる。まぁ、ロスが多いよりは少ない方が良いに決まっていて、従来、ほったらかしにされていたものが再認識されてきたことはとっても良い。しかも計算機の進化で、理論的解釈を可視化出来るようになって、効果推定の確度が格段に上がってきたことも追い風だ。

今こそ、国家的な計算機やシミュレーションに携わる人財の強化と思うのだけど、我が国は政治の方向が再選にしか向かないものだから、CO2対策同様に、薄く効果のない方向にばらまかれていく。強い経済とか言うんだったっら、他国に売れる仕組みを作らないといけないわけで、国債印刷して中央銀行に買い取らせて、その分の現金をばらまくというやり方はもうやめて欲しいのだが、バブルの幻影を追い求めるリーダーが居る限り、変わらないのだろう。

効率よくエネルギーを取り出せるローターリー機構とかね、もっともっと活躍の場があるものを、どんどんと使うのがよろしい。無駄な排熱は空気を効率よく圧縮する手法によって回収して、その程度の熱が活きる場と組み合わせるのがよろしい。新しいことをするために更に大きなエネルギーを活用する陳腐な思考は止めねばならぬ。そしてコンパクトな経済活動にシフトしていく思考を身に着けねばならぬ。コンパクトで大きな幸せを獲得できる経済活動。目指すべきである。

スキリング

リスキリングよりスキリングである。「リ」が着くと「何かのスキルがあって、別のスキルを身に着ける」ということなんだけど、スキリングにしてしまって、その時代に合った機能を身に着けていくという事にすれば良い。その機能が資格として認定されればなお良い。それが給与に反映されるのが良い。スキルがあるからお仕事を獲得出来て、自らを高めていく仕組みが、そろそろ日本にも根付いたらよろしかろう。

大学もスキリングの為に入学するはずで、まぁ、友人作りという面もあるのだけれど、それも切磋琢磨で、仲良くなりながらスキルも磨いていくという姿が宜しい。卒業後、再度学ぶのはまっぴらごめんという風潮が我が国にはあるわけれども、それは最初のスキリングが面白く無かったからではなかろうか?

ただ、学びは真剣に、そして必死に取り組まなければ面白くも愉しくも無い。そうせずに、大学とは退屈なものだとか、再度、大学を学びの場とすることなどまっぴらだという認識は大間違いである。純粋に学びたければ大学が良い。どこぞのコンサルでは駄目である。大学でなければならない。そして、それなりの対価を支払わなければならない。何故ならば、スキリングした内容によって、企業は社会に新たな価値を提供出来、そして収益を上げるからだ。価値に応じた対価を支払わなければならぬ。

リカレントにおいても同様であって、恐らく、リカレントであれば、過去との微分値を手に入れて、企業から社会への価値を提供して対価を得るわけだから、その微分値に応じた対価が大学に支払われるべきである。ところが大学での学びが、特に今の企業のトップの方々が、大学は遊ぶところ的な体験をしてきたものだから、大学の学びに銭は投じないぞという確固とした信念をお持ちになっている。大学はゼロ円だと。とんでもない。未だに、習字のお稽古塾並みの申出をされる。とんでもないことだ。