20号

起きてみると晴れている。台風は何処に行ったのやらと思うのだが、心配することはない、きちんと今宵にはやってくる。気象変動の極端事例を挙げよと言われれば、誰もが台風と応えるだろう。それ程に当たり前なのだが、これほど、破壊的で驚天動地なイベントは他にはない。地震雷火事親父の親父の部分だが、熊本方面では大嵐をヲヤジと呼ぶ。親父に権威があるわけでは無く、大嵐、即ち台風が恐ろしいということだ。 

台風程恐ろしくなれるわけはなく、ふむふむと分かった顔をしているのだが、台風という空気の渦は、それはそれは恐ろしいと思う。新聞のお天気欄では「台」と書かれるだけなのだが、海水面からエネルギーを取得し、ぼんぼこ強くなっていく。昨日などは19号が送り込んだ熱波で瞳が焼かれる程の感じを受けた。気候変動の凄まじさを体感できた。 

小生的には1980年台、中学生だったと思うのだが、9月にやってきた台風21号がやたらと凄くて、それこそ親父の都合で住んでいた羽田の周辺がどっぷりと水に浸かり、悲惨な思いをした。当時は下水が完備されておらず、まぁ、ねぇ、要するにとんでもない状況になるわけだ。それを思うと、インフラの進化とは凄いものだなと実感する。 

今宵、恐らく台風はやってくるのだろう。愛知県は災害が逃げていく稀有な県であり、三英傑が出るわけだなと感じるところだ。災害は忘れたころにやってくると寺田寅彦先生は仰ったが、まさにそれで、忘れたままなら良いのだが、平坦な地べたが全て雨水に覆われる事態がやってこないとは限らない。南海地震で沈下するかもしれない。今日は天変地異を思いながら過ごすとしよう。暗天を見たら皆、帰らねばならぬ。今日はそんな日だ、

 

 

ラジオ

感傷という単語は知らない。ボヘミアンラプソディーが20世紀、最高の「音楽」と称号を受けて早くも18年だ。楽曲そのものは小生が中学校2年生の時のものだ。芸術以外の表現が無いと感じた。ラジオ短波の100万人の英語で小林克也さんが取り上げていらっしゃったことを覚えている。世界と繋がるラジオ短波、その中で繰り広げられる、なんというか「誰も聞いていないからやりたい放題」みたいな雰囲気が心地良く、毎日毎日、ラジオ短波である。

ラジオと言えば、今もある「ジェットストリーム」だ。「夜のしじまのなんと饒舌なことでしょう」というフレーズを1970年代のラジオ少年に知らないとは言わさない。未だに続く夜のしじまだが、城達也さんのなんとも甘い音楽とも言えるナビゲーションに、心打たれた学生の何と多い事か(勝手な統計です)。飛行機の旅で、雲海の上を白々とした薄い闇を亘りゆく飛行機の窓辺に、そのフレーズを思い出さない野暮は無い。

想い出に浸るわけではない。想い出はごみである。ゴミになるから想い出であり、今そのものこそ、真空に広がる爆発であって、さっきはすべからくごみである。そこまで達観せずとも好いと仰って頂ける方もお出でだが、所詮、小生如きが未来など語れず、世界の土地々々で、受け止めた民族が、宗教に至るまで伝達するのだ。

ラジオは今もある。スマホラジオも良いのだが、やはり、チューニングして会話を探すのが面白い。語る、そしてこちらは想像する。その関係が良いではないか。一つの答えだけではない、無限の可能性がある。チューナーの向こう側。案外リアルな関係と思う。愉快である。

休暇

クイズに正解すると有給休暇が取れると、ジャパンビバレッジのとある部署で上司がメールをばらまいたらしい。誰も正解が出ず、有給休暇は誰も取れなかったという。休暇というのは素晴らしい。ストレスリッチでそれこそ死ぬほどのプレッシャーの毎日だが、それをほんの少し緩和してくれるのが休暇なのだと実感した。小生においてはそれこそ30年で1日の休暇だったか、それでも気分は随分と違う。

明るい時刻に読みたい本を読み続ける、この暢気さである。この暢気な状態こそ休んでいるという証であろう。体を動かさないという点においては、デスクワーク主体の人間であれば、まぁ、そんなもんだ。無理に日常を変化させる必要はない。職場での追及が無いということが休暇であることを実感できる。働き方改革なんてことを政府は叫ぶが、30年で1日しか休暇を取れない、そんな人達がこの国にはあふれていると思う。

年に標準で20日間の休暇が与えられる。20日もあるのかと思ったりしてきたが、1日の休暇を頂いてみると、20日くらいは欲しいなと、実はそう思ったのである。しかも、連続してどかぁんと仕事から遠ざかって、読書や山歩きなどに浸ってみたいとそう考えた。何かのために休むのではなく、休むために休む。これは実に本質的である。土日なく物書きなどしていると、これは人間として間違っているのではと感じた次第だ。

とは言うものの、たまたま会議などが入っておらず、お盆のロックアウトに連続できたから休暇を取れたのだが、一般的平日にそれは確実に無理だろう。来年のお盆までお預けである。それでもなんでも、休暇という響きは宜しい。なんだか、最大のご褒美に感じる。倒れる前に休暇だろう。そんな気がする。

電脳寿命

残った人生を考えてみると、そろそろ「もうこれは生きている間は用無しだろう」というものが身の回りに散見される。必要な物品までもストイックなまでに捨てまくるのは断捨離というカテゴリなのだろうが、そこまで人生を達観出来ていないので、断捨離などはしない。ただ、無限の速度で増え続ける物品を捨てる・捨てないというふるいにかけて手元に残すと決めたところで「何処に?」という場所の問題が付きまとう。この場所との戦いは切実だ。

基本的にその時に何かの仕事を突破するために揃えてきた物品であるわけだが、社会の進化と共に「それでは対抗できない」、「対抗出来ても時間というコストが掛かり過ぎる」という事態に陥った時に、進化した物品を導入してそれを突破してきたわけだ。そうではない、例えば調理器具などは学生時代に購入したビタクラフト鍋などは代打の登場は恐らく小生が生きている間にはあり得なくて、何かを買い足すことがあったとしても一線から退くことはあり得ない。不要となることは無い。

特にエレクトロニクスの進化は劇的であって、都度都度捨てては来ているのだが、本体は捨てたはずなのに電源が残っているとか、既に何に使ったか忘れてしまったケーブルとかアダプタとか、そんなものはえいやっと消えて頂く。代役が生まれたら消えていく、正に破壊的イノベーションによって現役を退いたものを二度と使うことは無い。想い出はいつかゴミになる。ゴミはゴミの行き場に収まるのが良い。

何かの夏のイベントの度にもらってしまう団扇とかね。やたらと数がある。これなどは特に捨てるという事は無く、BBQの時にジャンじゃか使ってボロボロになったら、そのまま火葬というのが良かろう。ゴミ箱に放り込む類のものはまだ良いのだが、本とかレコードとかは、これはまぁ、そうはいかないのだ。その中でも順序を立ててご退場をお願いしてみたりはするのだが、退場速度よりも入場速度が桁違いに大きく、はてさて、どうしましょうという感じで、地味に毎日1個は何かを捨てようと日々苦慮している私であります。

勘・コツの未来

そこに何かがあると言うわけではないか、そこに行かないと無い事は沢山ある様な気がする。それをその時に見たと言う、その事実こそ貴重な体験となるのだろう。経験と勘だけで行なっているものが、実は極めて定量的な行為であって、日本の産業の方向が見えてきているなと感じる。 

難しい話では全く無くて、様々な分野で行なっている勘コツ的な仕事は、これから加速的になくなるだろう。ビッグデータの時代においては当然だろう。かく言う自分の様なお仕事も、近い将来、消えてなくなるのかもしれない。 

哲学者ばかりが闊歩する時代になるのかもしれない。それはそれで面白いのかも知れないが、人類は急速に減って行くのかも知れない。人の為に人がいる事の価値を高める社会になるのだろうか?戦争優先の政治には辟易だ。 

急に明け方、涼しくなった。異常な暑さが続いたからそう感じるのかも知れないが、とても有り難い。たった1日ではあったが、初めて取った休暇中にあっても面倒なメールが飛んでくる。多くを無視させて頂いた。悪しからず。

 

最終日

35度程度の気温では暑いと言えない状況において、これまた炎天下にて活動している。恐ろしいことに、だらだら汗が流れるわけでは無く、一気に乾燥していく。間違いなく喉が渇き汗が滲むが、だらだらとはしない。これが熱中症の恐怖なのだろう。だらだらしていれば水でも飲むかということになろうが、そうはならないところに恐ろしさがあると感じた。

かなり体が慣れてきて、600球を超える打撃を行い、都度都度コーチングを行う。軸を作って回転するだけなのだが、力が入ったり、迷ったりで、想定の距離が出なかったりする。すると焦ってさらに力が入り迷宮に入る。その時、原点を持っているプレーヤーのみが我に返ることができる。結局、戻るところは「我」にありだ。

ドライバーと呼ばれる物干しざおの親戚を10秒に一回振り回して、10回連続で振ってみて欲しい(降らなくても良いですよ)。それだけでもえらいこっちゃである。人間はなんでこんな愚かなことをするのかと、苦笑いである。

いよいよ学生君達のデビュー戦である。キャディーとして付き添うが、今年はなかなかしんどそうだが、地道に前に進んでいけば、いつかはゴールがやってくる。極意は無い。無いのだが、アドレスしていざクラブを振り上げようとしたら、一度、笑顔になると良い。肩の力が抜けてクラブを振り抜ける。力まず振り抜く。これが極意と言えば極意のような気がする。はてさてどうなることやら。若者を鼓舞するのみである。

力む

日差しの強さは容赦なく、体力を奪っていくが、そこは忍耐で持ちこたえるというか、負けてはいけない。ひたすら振って、久しぶりの500超えである。この歳で良くやるよというところだ。やればできる。さぼってはいられない。

体幹がぶれないことが重要だ。特に力むことなく、自然に回れば良い。それだけなのだが、気合が入ると、ついつい力が入る。するとあらぬ方向に飛んでいく。これがいけないのです。いかなる時でも、力みはいけないのです。しかし人は何故か力むのです。止せばいいのにね。

止まっているボールなのだから、冷静にひっぱたけば良いだけなんだけど、それが何故か、妙なところに当たる。力まなければ普通の結果がでるのだが、人間に特有の欲というものがそれを邪魔する。力みってなんだろうか。

個人競技だから力む相手は自分しかいない。それは間違いない。自分が納得するしか無いことはとっくの昔から分かっている。分かっているが、1mでもあっちに飛んで行けという図々しさだ。今日も図々しくいきたい。馬鹿丸出し。それだけである。

年中行事

刈谷方面は突然の豪雨で、灼熱予定の環境が、あにはからんや「それほどでもない」という具合のスタートでありました。打ち出される打球が見えなくなるほどの幕雨に囲まれ、トタン屋根が激しく叫ぶなかで、淡々と打ち出すさまはややシュールでもある。それでも物干し竿を振り回していると汗が滴り落ちる。脱水症状を呈する前に小まめの給水。一日目は被害者ゼロの状況でありましたな。

こちらは仕事というか講義で活動しているわけだが、一般ピープルが平日同時刻に玉打ちをしている様を見ると、やっぱり日本は平和というか、こんな人生を送ることができる方々が我が国にもいらっしゃるのだなと、違う人種の存在を目の当たりにして、なんとなくため息が出る。

昨今のVR青少年ばかりではなく、リアルに体を積極的に動かす若者を目の当たりにすると、これはこれで大変に嬉しい事。遅刻をしてきて黙って体育座りの軍団に交じっていく様は、これまた昨今の人類だなと感じるのだ。これはもう怒る気にもなれない。どんな教育を受けて育ってきたのだと情けなくなってくる。

今日は灼熱となることが予報されている名古屋地方。東北に突き進む台風のおかげで、北からフェーン現象後の空気が名古屋を取り巻くのだそうで、台風が起源ということで、極めてリッチなフェーン現象なのだそうだ。遮るものの何もないところで、物干しざおを振り回す活動は、外出を控えろというTVアナウンスとは真逆の行動ですな。なんとか生きて帰ってきたいものだと、気合で乗り切るしかない真夏の私であります。

新しい事

例えて言うならばという切り口こそエンジニアリングの神髄であろう。今、そこに無いから例えるしか無いのである。定量的な説明で価値を語っているのであれば、それは過去の出来事の思い出であって、我が国には、まぁ、少数民族としては必要かもしれないが、エンジニア全員がそんな調子では困る。まぁ、例えて言うという比喩力を持った人も大いに減っていると感じてはいるが。

某予備校のインタビューを受けたが、見下す目線は実に厭らしい。自分達こそ正義であるという姿勢は、どんなに顔の筋肉を動かしても、その目線で明らかだ。そりゃぁ、皆さんが鍛えた人が入ってくるのでしょうけれど、送り込んでやったぞという姿勢はどうだろうか。それを有難がる大学側の仕組みがいかん。基礎をばっちり体に刷り込んで、自在にそれを取り出す力こそ必要だ。それがエンジニアリングの基本だ。

基礎をどこに向けて爆発させるかが重要で、それは過去の延長ではなく、あなたの未来にである。全く予測の付かない2,3年後であるが、生きている限り確実にそれはやってくるのだ。ひたひたと確実に、一歩一歩未来はやってくる。そして過去になる。それが繰り返されるのだ。誰にも容赦はしない。

年齢を重ねるに連れてときめきを失うから、毎日が早く過ぎるようになると哲学者は言うが、そんなものだろうか?常に全力で時間は過ぎ去っていく。遠慮はしてくれない。時間に遠慮をしてくれとは言わない。言わないが、遠慮が出来る誰かを隣に置いておいて欲しい。それがときめきというならそうかもしれない。そんな時があっても良いのかもしれない。未体験ゾーンだが見てみたい。

Nikon

フィルムカメラの時代から、ずっとカメラ小僧であったのは間違いない。小学校6年生で写真部なる活動に触れ、学内を撮影し、現像し焼き付けし、その反応が面白くて、シャッターを切る楽しさに浸っていった気がします。当時は全てが機械式で、フィルムも現像も極めて高価だったから、そう簡単にはシャッターを切れない。だから空っぽのカメラの状態で、手振れをしないようにトレーニングしましたな。フィルム感度は低いし、どうしてもロングシャッターになり気味。シャッター上で指をどう動かしたら手振れが起こらないか。練習しましたよ。

QV10をカシオが提案してきたとき、これは喜んで飛びつきましたね。今思えば笑ってしまう解像度で、どんなに画素が荒いフィルムでもここまで酷くは無いという状況でしたが、それはそれで良かったのです。所詮、そんなもんだよなと納得すればよく、デジタルカメラとは画質うんぬんよりも構図がそれっぽければ良いと、フィルムカメラとは違ってじゃんじゃかシャッターを切れる喜びに感激しました。

様々なデジタルカメラが登場し、劇的な進化を遂げたわけですが、革新的だったのは、誰が何を言おうが写メールシステムの登場でしょうね。自己満足カメラマンを除く全ての方が、誰かに想いを共有したいという願いを叶えた仕掛け。これによってカメラの在り方が劇的に変化した。エレクトロニクスそのものを進化させ、スマホが唯一のデジタルカメラという人であふれかえり、Nikonなどはミラーレスカメラの市場から消えてしまったくらい。

そのNikonが一眼レフデジカメの市場削減に伴って、再びミラーレス市場に参入するとのこと。Nikon派ということでも無いけれど、硝材からレンズを作る日本で唯一の企業こそ、光を操ることが出来るのだろうと、勝手に信じているところがありますな。勿論、それが本当に世界で最高のレンズかどうかなどとは言いませんが、その魂は素晴らしい。随分と高価な機械になるようなので、手元に来ることはないでしょうが、応援していこうと思っております。何がどう変わったのか、その主張を楽しみにしています。