出張

今日はお江戸である。こんな日に限ってという路面具合だ。さっさとお出かけである。今日はこんなところで失礼いたします。

移動中の新幹線の中で出張の顛末を述べるとしよう。想定以上に新幹線が遅れて名古屋駅に到着した。悟りを開いて遅刻を覚悟する。車台周りに雪が固着して、それを落とすために10分以上の遅延が更に発生する。モーター駆動用デバイスの進化は新幹線を省エネルギー化したわけだが、その見返りに低温化して雪が走行中に凝結する。自動車においても暖房が大変だという妙な話が出ているが、技術の進化とはそんなトンチンカンなことも呼び込む。今年は更に進化したデバイスが試験段階に入る。雪だるまみたいな新幹線にならないような足回りになるのだろう。

この季節に遠距離を移動するという行為そのものが間違っているのかもしれないが、好んで移動するわけではないので仕方が無い。呼ばれれば移動するしかないが、リニアモーターカーが動き出せば、殆どトンネルで問題なかろう。40分で品川とはとてつもないお話だが、小生が現役時代には動かないだろうから、まぁ、その世代の皆さんは頑張って移動して下さい。羨ましくもあるが、旅の感覚は全くなくなるだろう。ちょっと焼酎を一杯という楽しさは無くなるね。

省庁が東京にあるからみんなが東京に移動する。電子的ネットワークの発展で多少は減少したのだろうけれど、それでも皆が東京を目指す。人と人が出会って何かを成すという行為は無くならないのだろう。人類が今の生態である限り、何かを食べないと生きていけない。その食糧の確保において自給自足だけの社会となれば別だが、それもなかなかにして困難と思う。となると、誰かが生産した食糧を代価を支払って頂くことは継続していくのだろう。見てくれを気にしなければ要は食糧があれば何とかなる。

隣の方はずっとPCを移動中にいじっている。ポメラニアンになって久しく、PCを持ち歩くことが激減した。故障やデータ漏洩の恐怖は耐えられない。紙とペンがあれば永遠に思考し続けられるし、そんなものが無くても頭の中で思考を巡らすのは大好きだ。出張の原因とて、職場をなんとかしなきゃぁという思考が原因だ。何もしないのであれば移動などしなくてよいのだ。その代わり職場が無くなっていく。そんな時代である。そんな時代だから雪だろうがなんだろうが移動し続けなければならない。N700は軽快に進み、更に遅れることは無く小田原を通過した。お仕事が出来そうだ。めでたしめでたしである。

プレート落下により

愛知県に住んでいると草津良いとこって何処だということになる。下呂温泉に急こう配を付けてみれば、まぁ、そんなもんだ。筑波からだとそれ程遠い距離では無かったし、そこを越えれば長野県ということで観光ルートだ。日本海からプレートが沈み込み、そして落ち込みが加速する辺りはマグマフロントで火山列が出来る。震災によって大きくプレートが日本の下に入り込んだろうから、火山活動が活発化しても全くおかしくない。むしろ今までよくぞ沈静状態を保ったものだ。

小学生の頃にウェゲナーが唱えた大陸移動説に深く感動した。高校生の時、地学部を作って廃鉱山や海岸縁の露頭に出掛け大地の活動に胸躍らせたものだ。その中でどうなってんだ?としばらく自分の頭の中で解決できなかったのが、と言うか、文献で明示されていなかったのがプレートの核方向への落ち込み。考えてみれば溶けたプレートの原料が地上付近で冷やされて固まるのだから、核に向かって行けば再び溶けて無くなるのは必然なのだけど、なんかピンとこなかったのですな。頭が固いことです。

そこそこ硬いプレートが加速しながら別のプレートと摩擦しあいながら核に向かって落ち込んでいく。その時、マグマが発生し、密度が下がって浮上して、地上付近に水分が多いところがあればそれを突沸させ水蒸気噴火となる。これが激しくなるとマグマそのものがお出ましになる。破局的噴火などとマスコミは人類を脅かして喜んでいるが、まぁ、そんなに年中発生するものでは無い。奥三河にだって、その痕跡はあるが、今はいたって静かなもんだ。

静かなもんだと言っていて、いきなりのスキー場での噴煙と噴石だ。何しろ人間にとっては大きな地球の中身の、ほんの小さな変動を予知しておくのは無理というものだろう。プレートの動きは観測できるが、それが次の瞬間にどのように急激に変化するかなど知り様がない。知ったとしてそれをそこに居る人間にどのように伝え、そして行動させるのか?大震災の変動の余波は通常100年以上継続するという。まぁ、そうだろう。ああでもないこうでもないと悩み続けるが、宇宙の営みからすれば些細なエゴのぶつけあいだ。苦笑いである。

天変地異?

東京が大雪だという。大雪と言うなら日本海沿岸地域と比べてからお言いなさいと、20㎝で積雪と大騒ぎするなかれだ。この数年、東京で積雪ネタを聞くことが多いような気がする。小生が学生時代、北関東エリアはしばしば30㎝を超す積雪に見舞われた。自動車は少ないし、鉄道も無いから大雪になるとスキーを履いて学内を滑っているつわものが沢山居た。安アパートのドアが凍り付いて、折角、たどり着いたものの、研究室に引き返したなんてことも思い出の一こまだ。

東京の大雪をしり目に、本来、地形的には日本海の空気が抜けてきて大雪が降るはずの名古屋は、ここ数年というか、十年近くというか、台風にも大雪にも見舞われない。更には地震もちっとも来ない。これだけ天と地に恵まれていると、そのうちに思いっきりしっぺ返しがくるのではと勘繰ってしまう。適度な都合の悪い事というのは、気持ち的には案外必要なのかもしれない。

普通が一番なのは間違いなかろう。平穏無事な時が続くのが最も良い。良い筈なのだが、何かが起こるのではと恐れてしまう。達観しきれていない証拠だが、やはり驚天動地の天変地異にはご遠慮申し上げたいのは本音である。日本は4つのプレートが重なる世界でも稀有な領域に位置するのだがら、それにやってこないでと祈るほうがおかしい。それに備えることこそ日本という島国民族の必然だろう。

御同輩の多くが「昔はもっと寒かった」と言う。確かにそうだったかもしれない。今の気候を単純に温暖化と結び付けるのは愚の骨頂かもしれぬ。しかし、この名古屋エリアの天変地異が過ぎ越していく様は異様に感じる。何も起こらないことは素晴らしい。ちょこっと気になって、県の食糧自給率を調べてみた。なんと、カロリーベースで13%しか無い。人口が多いからということらしいが、安定した農業県と思いきや、全くそんなことは無かったのだ。食べ物が無い。ネジやエンジンでは生きていけない。既に天罰が下っていたかと、天網恢恢疎にして漏らさず、銭ばかり追いかけていると所詮は食えない世の中か。天変地異も逃げていく。そんな名古屋エリアだったのかもと、背筋が寒くなった私であります。

滑りにくい靴

今週は寒気と低気圧で太平洋岸も大荒れらしい。共通テストが一段落で、そろそろ私立大学の入試がスタートする頃だ。受験生は坂道だけではなく、地下鉄の階段など、滑りやすく作られているところでは十分に注意されたい。下手をすると骨折など悲惨な打撃を受ける。スタイルなど後回し、ここは一番、結氷した道路向けの靴などを新調しては如何か。

これが面白くて(何が?)雪道用のスノーブーツって、雪があるから滑らないという靴もあって、結氷路では限りなく滑るものもある。山道具屋も怪しい流行りの店ではそんなものを売っているから気が抜けない。というか、そんな店には行かずに駅前アルプスにでも行っていれば宜しい。以前は栄に一店舗、まともな店があったのだが、山ガールブームが遅すぎたせいか潰れてしまった。困ったものである。

ブリジストンが作った「転ばんしょ」(北海道弁でころばんしょは転ばないの意味だそうな)ソールを採用している靴などは、氷点下で、雪をかぶった寺院などの撮影に行くときはとっても重宝。凍っていないところでは摩耗が早いが、最近、積雪で結氷する都会の道路などではもってこいかも。どんな靴に採用されているかは各自で調べて頂くことにして、こんなものを選んでおくとよい。アシックスもアイスウォークなる品を出していて、こちらも氷のシーズンの山を歩く人たちには評判が良い。

君子危うきに近寄らずというか、行く暇がないというか、そんな状況ではあるが、結氷路は極めて危険である。靴で氷上ホッケーを可能とする靴もあるそうだが、そんなものは一般民間人にはオーバースペック。滑らないのも大切だが、靴の中が濡れて、試験中に足先が痛いなんてのは最悪だ。転びそうになっても普通の長靴を採用されるのが良かろう。やたらと地面が凍り付く筑波に12年住んでいて冬の靴選びはかなり大切だと骨身にしみた。名古屋ではほぼ役に立たない知識だが、東京への出張もあるし、靴のチェックでもしておこうかと思う私であります。

自らを刮目せよ

日本で最初に技術経営に着手されたのは本居宣長さんだろう。宣長さんと言ったって一緒に呑んだことは無いのだが、その博学多識ぶりは菅原道真さんの再来とも言えるのではなかろうか。道真さんは出世欲が強すぎて時代のレールから飛び出してしまったが、宣長さんにいたっては、かっとなって刃傷沙汰に及んだ最初の学者と言って良かろう。なんでも最初は偉い・・・かなぁ?

技術は知財をもって認知され、そして価値を生む。知恵を形にする。それが価値である。価値に対価を払って頂ける世の中は正しいし清々しい。心を盗む泥棒はこれまた清々しいが、知恵を横取りする輩は嫌らしい。新しいふりをして世間を闊歩する輩のいかに多いことか。まぁ、そんな者は気にしないのが寿命を延ばす秘訣だが、そんな連中に限って目立って視界に入ってくるから嫌らしい。

技術がお金を産まない日本において、泥棒一族がはびこって、更に国を疲弊させる。博士課程への進学者の数が年々減少しているのも努力と知恵にお金を払わない日本の体質故だろう。歯の食いしばりと血の滲みに敬意を払わない。そんな国に何時からなったのだろうか。学びの末に妬まれ、育ての親に捨てられた道真さん以前から、ひょっとすると日本人のDNAの中にそんな遺伝子があるとしたら自らを消滅させても余りある。そんな世界はまっぴらごめんだ。

努力。良い響きだ。我を忘れ生きていることにすら執着せず、ただただ純粋に研究に打ち込んで、一年に二、三日も体を横にしない、そんな日々を体と心に刻んできた。評価だけを慮り、自身だけが努力していると己惚れている君よ、刮目せよ。孔雀の羽はいらぬ。血と汗で応えよ。先哲の名が残るのはまさにそれだ。それだけが正しい人の姿だ。だからそれに倣う。真似るべきは偉大なる魂だ。それだけで良い。

蛸壺生活者の未来

プログラミングに初めて触れたのは高校生の時の紙カード時代。キーボード入力なんてなくて、マークシートカードが1行毎に対応して、そこにマークして一つのイベントを創り込む。小生はそこには何の面白みも感じることも無く、結局、大学で研究室に入り、機械をヒューレットパッカード社の謎の機械で制御するようになるまで、真剣に取り組むことは無かった。小さなミスでも命とりで物理現象を再現しようと躍起になった青春時代だ。結局、理想的な再現など、当時の計算機の能力では厳しくて、実験結果優先の、実験屋にとっては明るい時代であった。

スマホが当たり前になって、PCすら持ち歩かなくなった自分の生活スタイルに驚かされる。バーチャル空間で無意識にカード情報などをやり取りして買い物をしている。新幹線のチケットだってネットで予約、タッチで乗車みたいなスタイルになって久しい。儲けるチャンネルはIT産業に集中する。人に最も近いところの産業だからこそ価値を実感できるところにお金が落ちるのだなと、当たり前なんだけど、凄まじい時代だなと感じる。

アントレプレナー教育プログラムを走らせてみると、安全運転すらしない名古屋地域の大学生がわらわらと自主的に集まってくる時代である。就職活動の一助に、起業が選択肢に入ってきている。自分を振り返ると情けない。重箱の隅を楊枝でほじくる研究に没頭し、限られきったコミュニティで安心感に溺れていた。まぁ、その時の蛸壺生活は無駄ではなかったと思っている。そこで得たスキルは、壺の外では得られなかったと思う。

ソフトウエアがハードウエアの極限的深化によって支えられているのは事実だが、計算機科学の進化が材料や素子の深化を呼び込んだのは間違いなかろう。今、半導体デバイス関連産業は史上空前の活況で、これがいつまで続くのやらと恐ろしくもある。このまま電脳空間に安らぎを求めていくのか、それともリアルな人間活動が縄文時代以降、テクノロジーにまみれてきたその便利さを置いておいても人対人の共創に戻ることがあり得るのか。AIって案外、後者じゃないのかなって思ったりもする。折角の人間に生まれてきたのだから、その有難さに感謝して生きていたい。リアルにそう思う。

AI屋さんとの一夜

知に働けば角が立つ,情に棹させば流される。理知的でいようとすると人間関係に角が立って生活が穏やかでなくなり、情を重んじれば、どこまでも感情にひきずられてしまうことだが、結局のところとかく人の世は住みにくい。漱石先生の草枕の冒頭であるが、見事な表現である。漱石文学に憑りつかれてかれこれ40年。未だに継続している。そんなものに出会えたことは幸せである。熱中、没頭できるものに出会えるか出会えないか。人生、随分と違ってくる。

研究テーマはもちろんその一つなのだが、真っ新なキャンバスに絵具を置く作業はこれはこれで神経が磨り減る。一つの形まで到達するとほっと出来るが、多くは何も得られず終了を迎える。ゲームと違って与えられるものではないし、リセットも効かない。それが近世人類と小生の大きな違いである。やってみよと言ったとて決してそこに踏み込まない。だったら大学になど来るなと言いたいが、実は小生側が少数派だから仕方が無い。

恐らく10年もたたずに、世界中の大学というところは目指すところがまるで違ってくるだろう。理事会にAI太郎が鎮座してこっちへ向かえと指示をする。世界情勢がこっちに向かうからと人間では処理不可能な量のデータをばらばらと浴びせられたら、それを跳ね返すのは骨が折れる。折れるのならば受け入れようと、その時の為政者が感じたら、もうそのままだ。

AIは限りなく進化する。人間の脳みそ以上に進化する。いや、深化するという文字をあてた方が良いかもしれぬ。事務処理の効率化等、既に多く取り入れらているが、その程度はむしろ歓迎だ。ただ、自分の歩いていく方向まで決められるのは御免こうむる。昨夜、そんな人達とお付き合いして、大学の床で朝を迎えた私であります。

ソーシャルデジタルアシスタント

HP100LX(その前に95があったが、それは置いておく)に始まった電脳パンツ。何時でも何処でもパソコン通信を通じて世界の仲間と話が出来る、そんな時代は20年も前からあった。iPhoneの進化で電脳と呼ぶよりは、そっちが本当の脳みそで、人間側がタンパク質脳位の地位に落ちているのではと感じる。ムーミンは何処の帰属かと問えば、学者が真面目に原作にはムーミン谷の位置は特定されないという見解を示す。マスコミも面白がってフィンランド大使にまで聞きに行く。人間の脳みそは何処に行ってしまったのか?

工学が様々に人の労働に掛かる労力を削減してくれたのは間違いないだろう。ここで言いたいのは巨石を動かすとか、力学的な作用だ。何処を支点にすれば効率よく石を動かせるかなどの状態において、人は自らの脳みそを働かせ、てこという明確な原理を伴った工学で作業する。ところが関数関係が無限になってくるとこれはかなりお手上げで計算機の力を借りる。借りている間は電脳と呼んで良かったのではないか。電脳が勝手に思考を始めるとこれは電脳とは簡単に呼べまい。

自己思考若しくは判断する電脳を何と呼ぶのかはほったらかして、それを中核にする自動運転技術が海外では明日にでも実用化・販売される段階に入った。いつの間にか日本を除く国々では街そのものがAIへの情報提供とAIでの制御を受けた人間活動を無意識に強要される体制が整っている。大袈裟に言ったが、渋滞緩和だとか、歩行者の流れをスムーズにするとか、水分補給で熱射病対策をさせるとかだ。軍事的にはもっと激しく進化しているんですが、それはここでは語らず。

こうなってくるとパーソナルデジタルアシスタントと言うよりもソーシャルデジタルアシスタントのレベルだ。PDAに対してSDAとでも言うのだろうか。街の各所をユニバーサルデザインに変えたとて何にもならず、それらが強調して工学を受け止める心の優しさに溢れた人間活動の場にならねばならず、そこにはAIという全体情報の最適化とカオスの導入が必要となろう。それを想起したソーシャルデザインを目指すのが人間の面白みではなかろうか。間もなく販売の第4世代電気自動運転自動車のニュースを見て、いよいよもって面白い世の中になりそうだなと興味津々な私であります。

駄目なものは駄目

共通テストの監督業務で最も厳しいのは全国共通・統一で実施するということだ。槍が降ろうが(降らないけど)大雪だろうが、なんだろうが同時進行だ。そして解答止めの号令で一斉に終了だ。試験開始前には試験監督に従うことと指示を出す。それでも止めずに行動する。それがニュースに出ていた無効裁定だ。当人も親も真っ青なのだろうが、それがルールだ。ルールは守らなければならない。努力した人が泣きを見るようなことがあってはならない。それが重要だ。

共通テストだけではない。大学の定期テストなどでも「筆記用具をしまいなさい。これから解説です。筆記用具を持っていた場合にはカンニングとみなして零点です」と宣言して解説しているにも関わらず、「赤ペンで自分の答案を採点してしまいました、どうしましょう」と頓珍漢な無法者が現れる。複数名現れる。それはカンニング行為ですねと宣言すると途端に騒ぐわめく押しかけてくる。一体、どんな育ち方をしているのかと、当人がかわいそうになる。

駄目は駄目なのだ。このフレーズを戯言で過去20年以上にわたって何度言ったか忘れたが(覚えるつもりはさらさら無い)、駄目は駄目と至極当然の会話が成立しないような世の中にいつからなった。なったことは無いのかもしれない。戦争になれば人殺しだって可になってしまうのだから、駄目は駄目という基準は神様にしか無いのかもしれない。モーセの十戒がここに現れるのだろう。唯一神が駄目といったから駄目。クリアである。

誰かが決めたから駄目、慣例だから駄目、気に入らないから駄目という駄々っ子製造装置みたいな大人も居る。そんな人が存在すると言われたらそうだねと言わざるを得ない。しかし、やっぱり駄目なものは駄目。全国統一の名の下に指示される行動に対して、それに反する活動を行ったらそれは受け入れられない。社会とはそういうものだ。それが実施されている内はまだましかもしれない。その内にそれも無くなるのかもしれない。そうなったらとっととこの星を去るとしよう。そんなところだ。

明日はセンター試験

6時25分。御器所駅を北に降りて阿由知通りから東の空を見ると、漸く朱くそして白やんでくる。月と金星とは5時に仰ぎ見た時よりは離れていて、地球より内側を突っ走る星だけのことはあるなと、太陽の引力に感心したりする。宿舎の近くでは明け方氷点下2度であって、久しぶりに氷というものを見た。東北地方など、大変な寒気に見舞われて大変な状況ではありますが、地球の上で生かして頂いている以上、全てを恵みと捉えて覚悟を決めるしかない。

明日よりセンター入試で、毎年この時期に大雪だったり大寒波だったりがやってくる日本列島。4月に入学という状況を考えると、まぁ、この時期なのだろうなと思うけれど、全国一斉の条件で実施するには厳しい季節であることは間違いなかろう。約40年前を思い出して、共通一次試験と呼ばれていた時ではあるが、その頃も雪で開始が遅れたとかなんだとか、ずっと繰り返されている。40年も顧みないのだから、試験を実施する側の都合一辺倒だなと、飛鳥時代から変わらぬ日本の体制とため息が出る。

入試本番と言う訳だが、それに呼応したわけでは無かろうが、鳥インフルエンザの陽性反応である。何処からやってきて甚大な殺戮を生むのだろうか、根源が分からないところが恐ろしい。元から絶つということが出来ない不可思議な病魔で、毎年、心が痛む。人間よりも多い単一生命体の人工繁殖鶏であるが、それ故にか殺戮数が数万に及んでしまい、人間の罪の深さに恐れおののく。自らの命を精一杯燃やし尽くさねば罰が当たると、既に当たっていることに気が付いていないだけなのかもしれないが、命の尊さも強烈に伝わってくる。

そうかどうかは分からないが(まぁ、分かることのほうが世の中少ないが)ロボット犬が再び登場である。現代技術を相当に取り込んでいてもはやPDAと言って良いのではないか。パーソナルデジタルアシスタント。その昔は携帯電脳をそう呼んだし、iPhoneなどはその代表格だが、歩いてきて画像認識して音声判断までして行動に換えるその姿は、人間同士の会話を否定されそうな勢いで、デジタルの冷ややかな笑いに背筋が凍る。命は暖かくなければならないと思っていたが、それはCPUの熱でも良いのか?明日の入試、受験生諸氏に天候が微笑んでくれることを祈るしかない私であります。