暗箱

技術の進歩が加速させるブラックボックス化。ボタン一つで結論が出る。AIの進化は更にそれを進める。スマホなどが今程の低価格を実現しているのは、まさにブラックボックスのおかげである。なんだか全てがゲーム化されている感じがする。予定調和の中で考えたふりをする。ボタンか無いと何もしなくて良いと威張りまくる。魂消る。

産業界でもいよいよもって影響が出てきているようだ。壁前面に広がる電光パネル。その中に何があるのか考えることも無い。それはそうだろう。学生の時代からボタンの中で生きているのだから。判り切った過去を教科書として学び、それを具現化させる装置と呼ばれる魔法の箱と戯れる。与えられる箱から出てきたものを疑いも無く受け入れるが、人から受けたものは信じない。そんな時代は何を産むのだろう。

ボタンの無い時代であれば当たり前の経験が、ボタンによって未知の過去になる。ゲームと言う決定されたストーリーだけに安住の地があると信じ、ひたすらボタンを押し続ける。そしてAIの台頭によって押すボタンすら取り上げられた者たちは、一体、どこに行くのだろう。それが技術の革新ならば人はその世界で何を実行するのか。脳に電極を突っ込まれて、マトリックスの世界になっていくのだろうか。

現実が仮想であるとするならば、血と汗は何に何の価値があるのか。価値の無い努力で切羽詰まる毎日を送ることが与えられた経路ならば、それは悲惨過ぎるのではないか。ブラックボックスが何を生み出していくのか。数ナノメートルの中に記憶がある世界。ブラックボックスだが、停電になった途端に何とかしろと叫ぶ大人たちがTVの向こうに居る。ブラックボックスの世界では無い世に生きた方々が、自らブラックボックスになっている。そんな日本にどんな未来があるのか。恐ろしい事だ。

手観音立像

蓮華王院三十三間堂の通し矢。小生の後輩がアーチェリーなら当たり前の距離なのにと言っていたことが懐かしい。それこそ三十三年前の出来事で、えっらく昔のことなのに今のことの様に思い出す。三十三間堂の仏の世界は恐ろしいほどだ。通し矢の軒先に刺さる江戸後期の矢の凄まじきこと。執念を感じる。 

偶然にNHKで昭和の通し矢を見た。戦後、途絶えていた通し矢に挑む弓道者の物語なのだが、その壮絶なることたるや。武士道はとうに途絶えているが、人間を超えた何かを見た気がした。挑戦とはこれだと。風神、雷神が見守る中、黙々と弓を引く凄さ。人間を はこんな事が出来るのだなと、自分も頑張ろうと震えたことを覚えている。 

その三十三間堂に安置される平清盛寄進の千手観音像が久し振りに勢揃いしているらしい。いつもなんらかの理由で欠員が出ていらっしゃるのだが、この数ヶ月だけはお出ましになっておられる。あの仏の世界こそ、人間の執念と思うのだ。来世にかける想いがおどろおどろしい。

清水寺のご近所と言うわけでは無く、そのために行かないと、何かのついでにということが難しい蓮華王院だが、千体仏の勢ぞろいは出会ってみたい気もする。平安期から立ち続けるからには、なにか訴えるものがあるはずで、その語り掛けに耳を傾けたい気もする。芸術の秋。如何だろうか。

 

国慶節

国慶節で中国は7連休。建国記念日を強引に土日にくっつけたとしても最大3連休にしかならない我が国より遥かに豊かな国家である。何と7億の方々が旅行をされるという。必ずやってくるゴールデンウイークですな。日本ではゴールデンウイークがクローズアップされているが、季節を考えると良い時期のような気もするが、毎年毎年、飛び石だったり分割だったりと、来年の計画を考えようという気にはなれない。豊かな国家には国民を休ませる施策がきちんとあるのだなと、個人任せの休み方改革では、国民はいつも通り仕事をし続ける。

し続けないと終わらないのだ、いや、し続けても終わらないのだ。恐らく、死ぬまでそうなのだろう。国家の借金はいまや企業の箪笥貯金にまで手を付け、後世の方々は産まれる前から骨までしゃぶられる始末。100歳までは最低限休みなく働き、今日現在においては100歳を超えたら漸く旅行でも如何ですかというのが国民が選んだ政権の主張である。民主主義で選択された生き方であるから従うのだが、従っていると労災認定されるから働いた時間は申告してはならないというおふれもある。はてさて生きるのが難しい国家である。

のんべんだらりとしていていはお休みなど決してやってこないので、メリハリを自ら作り出すしかない。遣り甲斐というものを見つけ出すことが出来れば少しは気持ちが前向きになる。陰口ばっかりで不平不満だけの働き方ではストレスリッチで過労死一直線。自分の考え方と違う、昔は良かったなどと時代の変革を無視するのでは、組織としてはご退場願わねばならぬ。これは自らも常に思っていて、猫の目よりも激しく迫りくる親方にかじられぬよう、先へ先へとかじ取りをせねばならぬ。そうなるとやっぱり遣り甲斐というよりも大波を受けるストレスリッチということか。

昨今の初等教育において、自らの意見を明確に出すこと、そしてそれを認め合うことを体得させようとしている。一億同色で育てられた小生達の時代とは随分と進化したものだと感じる。これは他人を押しのけても自らの意見を通そうということではない。それを肌で感じるには塀の中に居るだけでは無理で、自分よりも遥かに思考力豊かな方々と接し、学び続けねばならぬ。やはり休まることは無いのだ。時にはぽかぁんとしたいものだが、台風25号がまた海の向こうからやってきそうだ。自然の猛威と人的猛威。本当に恐ろしいのはどちらだろうかと、結局は猛威よりも早く働けということなのだろうなと苦笑いする私であります。

台風一過の夜

同じ感想を抱いた方がいらっしゃるかもしれないが、NHKの気象ニュースとネットのウェザーニュースとの「極めて大きな」違い。16時くらいのNHKでは名古屋は最大風速7m程度とTVの情報チャンネルでは出していた。一方、ウェザーニュースでは17mくらいと出ていて、21時くらいのリアルな数字は15m程度だ。AIを使わないで気合を入れているNHKということなのだが、どんなに東大教授の理論で突っ走っても、地球環境を経験的計算値で当てはめようというのが神への冒涜と思う。AIを神への冒涜と言うメディアの方が大勢いらっしゃるが、小生は全くそうとは思わない。単に過去の事例が物語ることを伝えてくれているだけだ。

人類が自分の成したことを経験として残し始めて何年が経とうか。もう一方、理論という、人類の己惚れから得られた自然現象の数値化とどっちが正しいと言われると、精々百年未満だが、経験を信じたい。所詮そんなもんだろう。いばりくさって「これは大丈夫」と作った車の車軸は折れ、ブレーキは効かず、飛行機のエンジンは空中分解だ。それが偉い方々と、それを信じた方々のモノづくりの結果でしょ?

ほんの少し前に、某親方日の丸のお若い天狗君が「加工とは高速性だ!」と己惚れた。ほほう、面白い。天下を掌握するべきかの方々の代表が、高速であれば安く、そして人は死んでも良いという。それが日本だ。それを払しょくせねばならぬ。苦労して血を流して、その結果、安くできて、高価に売る連中だけが正しいという日本の在り方。そりゃぁ、過労死もするって。

お恥ずかしい話、小生も三十数年前はそう思っていた。それが当たり前と考えていた。まだまだ工業製品が出来上がるのが当たり前ではなかった時代、多くの方がそうではかなったか?全く恥ずかしい。今は違う。全く違う。一つ一つ、理路整然として完全無欠のモノを丁寧に作り、それを受け入れて頂けるかただけにご提供申し上げる。休みがあって脳も疲れを癒す時代にならねばならぬ。まぁ、多くの日本人は反対するでしょうけれど、どうぞご自由に。台風の最中、そんなことを思った私であります。

旅は永遠に

善光寺平の眺めは清々しく、しかし、草木が茂って三大車窓と呼ばれる景色がなんだか残念なことになっている。これでは電車で旅を楽しもうというご同輩は増えないだろうなぁというのが素直な気持ち。鉄道の旅は何といってもそのお気楽さが良くて、お気楽だからこそ旅だなと感じるのです。特別な料理や温泉、つまらないサービスなどはいらないのです。ほっとする景色、空気があればそれで旅。気持ち的に常に切羽詰まっていて窒息感満載。そんな時の厳しい出張でも、車窓でほっとする瞬間があればこっちのもんだというところですかね。

車窓の景色は重要なのですが、新幹線という極めて一般的な車窓で例えるならば、はやり富士山ということになるでしょう。E席の皆さんはカシャカシャと携帯で写真を撮られる。小生もまぁ、似たような者だったのですが、ある時A席に乗っていてあらまぁという富士山に出会ったのですよ。ご存知の方はなぁんだとなるのでしょうが、これが実に「美」なのですな。基本的にA席に座るのですが、その車窓が楽しみにはなったのですが、最近はただただ寝ている車窓だったりして。

久し振りの駅に着くと「変わってないな」か「びっくり!」のどちらかになりますな。長野は前者でありまして、オリンピックの後に路面電車の地下化の後は、ほぼほぼ安定状態。と、思っていたら、馴染みのお店がたたまれていたりして、仕方がないので新しいお店を見つけたりもした。この辺りはいずこも同じ、秋の夕暮れではないけれど、お客さんが来ないのでしょうね。観光立国など遥か彼方のことでありましょう。

旅は道連れ世は情けという通り、道ずれがあるとこれは面白い。生き方の違いがまたよろしい。世代を超えると更によろしい。リニアが普通になる時代がくるんでしょうけれど、サイクリング野郎の小生とすれば、そのくらいのスピードが良いのですよ。ちょっとした景色に感動する心があればこその旅。そんな旅を求めつつ、今日も移動の私であります。

しなの

名古屋で中央線といえば「しなの」ですが関東では「あずさ」ですな。新幹線よりも先に振り子を取り入れて、多くの観光客の嘔吐を誘う仕掛けが面白く、旅情を感じますな。「しなの」号は千種にも停車してくれて、名古屋市民に優しい特急であります。新幹線とは違って、旅感覚満載です。特にカーブと登りの連続は、目の前の紙コップのお酒がこぼれないかとハラハラドキドキ!旅ですな! 

指定券を取るという、新幹線のようなネット販売では無いところからして旅なのですよ。その昔、ブルトレで旅をする時、並んで駅員さんと話をしながら寝台がどうだとか言いながら指定を取ったことを思い出しますな。なんとも穏やかで幸せな日々でしたよ。スピード感がまるで違う。今なら夜行高速バスなのかもしれないけど、身体を水平に出来るあの世界は格別でした。 

今ではやたらと高級な寝台特急ですが、その当時は当たり前感覚満載で、ある意味安かったかも。宿泊付き旅でしたからね。朝風呂も駅にあったりして、良い時代でしたよ。その良い時代を名古屋から長野に向かう「しなの」には感じるのですよ。逆向きはなんだか落ちてくるみたいな勢いで旅感覚はゼロですね。これはつまらない。 

晴れていればアルプスの山並みが美しく、寝覚めの床も楽しく愉快。善光寺平を望む日本三大車窓からの雄大さたるや、自動車では味わえない、流れるこ景色の面白さ。なのですが、今日はどうやら雨らしく、せっかくの車窓も眠りを誘うのみかもしれない。まぁ、雨には雨の楽しさもあり、「しなの」の旅の今日なのであります。

 

帰路

巨大な荷物を引っ張りまわし、お仕事人の行く手を遮る方々、特に新幹線でB C席で出逢おうものならもう地獄。旅もへったくれもありませんな。ただただおとなしく、同じ駅で下車を祈るばかり。そんな時に限って、あちらの方々は降りないのですな。「ごめんなさいよ」となるわけですが、その昔は手荷物料金があって、巨大荷物の持ち込みはルール違反だったのに、その時代が懐かしいですよ。 

なんで隅っこに座るかと言えば、帰路で「いっぱい」やるからに決まっているわけで、品川駅からスタート出来るからということになりますな。最近は夕方の新幹線の満員ぶりには辟易します。予約の前倒しが出来ない程の混雑ぶり。疲れ切ったご同輩がぐたぁっとなっているお姿を拝見すると、頑張れとエールを送ってしまいます。まぁ、聞く耳を持ってはいなさそうなので、そっとしておきますが。 

夕暮れの新幹線にも楽しみが無いわけではなくで、例えば闇に浮かぶ小田原城などはステキなスポットだと思うのですよ。まさに見慣れた光景なのですが、ほっとする場面もちらほら。通るたびごとに出来ていく道路とかね。これなどはなんだか歴史に参加しているみたいで楽しいですな。他にもいろいろとありますが、御同輩の皆様は各自で特別な景色をお持ちでしょう。それも立派な肴になります。 

ビジネス特急で粋もなにも無いのですが、今日も頑張ったなぁと思う時、その猛烈なスピードには感動しますよ。2時間かからずに名古屋まで行ってしまう。脅威ですよね。残念ながら現役世代ではリニアには乗れないけど、その世代の人達には、鈍行に思えちゃうんでしょうね。時代は凄まじい。そんな思いがする闇夜の新幹線ですな。

 

旅について

月日は百代の過客にしてと、旅の先哲は残されたが、小生的には基本は新幹線、遠方は航空機利用と、月日を掛けずにどうやって距離を稼ぐかにご執心である。秋田 などは二度ほど鉄路を利用したが、それだけで嫌いになりそうな、恐ろしい距離である。移動空間を楽しめなくなって久しい。 

新幹線などは一時は仕事空間として活躍していたのだが、なんだか時の奴隷感覚に襲われて、仕事なんかするものかと思ってはいるのだが、バッグに書類が入っているものだから、無意識に引っ張り出している自分がいる。まぁ、病気の領域ですな。 

その点、国内の移動において航空機は、荷だなからバッグを下ろすのも面倒だし、気圧が低くて酸欠で頭は停止するから仕事などはしない。到着地が吹雪などと脅かされると、これは穏やかではない。突撃宜しく、車体を横揺れさせながらの着陸は肝を冷やす。何度体験しても慣れることはない。 

しかし、旅は良い。日帰りだろうが委員会のお仕事だろうが、平常とは異なる状況になるのは良い。肉体も精神もボロボロになって草臥れるが、それでも優れた方々との出逢いは素晴らしい。自分の価値観を押し付けることの無い、裏で悪口を言うこともない人達との出逢いは爽快である。今日もお江戸である。日常になりつつあるが、気を引き締めてお出掛けである。それも旅だ。

 

今週は温泉

それこそ「戯言」門出の時からやってみたかった週間ネタ。今週は誰も感じていないかもしれないが温泉を語ってみた。温泉を本気で語ったらそれこそ永遠に終わらなくなってしまうので、まぁ、週間ネタとしては閉じたいと思う。思うのだが温泉は何しろよろしい。ぷわぁっと言わない人は居ない。温泉とは地球の鼓動だし、幸せの根源であることは言うまでもない。

折角、週刊ネタみたいに温泉を語ったのだから、やっぱりざっくばらんに語るべきだ。最近のお気に入りは・・やはりやめておこう。面倒な方々からお話が飛んできて困ったことになってしまう。「たわごと」であるからには議論を吹っかけてくることはあってはならぬ。それでも毎日、数十、数百の方々から投げつけられるのだが、まぁ、知ったこっちゃない。「たわごと」なのだから。

何はともあれ温泉は良い。ある宿など、毎晩、ホテルに戻ると大ジョッキ券なるものを頂き、大浴場に行くとなんと大ジョッキが漏れなく付いてくるという奇跡の温泉がある。しかもかけ流しの沸かし無しという、なんでお客様が来ないかと言えば、駅から死ぬほど遠い。都合よく温泉は湧き出ないのだなと、残念ではあるのだが、30分、早起きをすればお仕事に間に合う。

青森には最近はなかなかお仕事が無い。新幹線が開通してから行ったことが無い。こんなことを言ってしまうと間違いなく怒られるのだが、何しろ本当にお仕事が無いのだ。秋田にはごちゃまんとお仕事はあるのだが、これはこれで素敵な温泉がある。冬に連れ込まれると10mの氷柱の檻が逃がしてくれない。それもまた一興。温泉は良い。本当に良い。そう思う。

温泉

浅虫温泉に出掛けたのは、それこそ25年程度の昔だ。こう書いてみて驚いたのだが、要するに四半世紀前だ。四半世紀も前の事だと驚きながら、その時既に四半世紀生きていたと思うので、成る程、歳月は厳しいなと思うわけですよ。温泉に出掛けたわけでは無くて、仕事があって、ついでに寄ったというだけなんですけどね。

このついでに寄るというのが大切で、今となっては全く持って不可能な時間なんですが、まぁ、若い頃にはそんな時間も落ちていたりするわけですな。真冬の青森は上空からしか見たことは無いですが、紅葉美しく、やはり冬が早く訪れるのだなと、納得していた記憶があります。逆に、1月初旬なのに梅が咲く熱海とかね。日本は細長いのだなと実感するのです。

温泉の話ついでに言うと、我が国は流石にプレート接合点だけあって、温泉と言う天然資源がわんさか。断層が走りマントルが沈降する辺りには特にリッチで、川浦温泉などはその典型例だろう。断崖を降りていくと、河原に吹き出る温泉のこれが凄まじい事。

狭い空を眺めながらのほほんとするのが良い。何も夕日や朝日を見て感動する必要は無い。谷底だってそれはそれで良いのだ。一体、どれくらいの昔から現状が形作られ、そして何千、何万の人々、動物達が「ふぅ」と言ったのか。そんなことを思うだけで、まぁ、温泉と言うものは有難いわけですよ。久し振りにどっかの温泉にでも出かけようかと、無理だなと苦笑いの私であります。