お金は何処に行ったの?

自分の国で製造し使われたプラスチックの廃棄物を、他国に処理をしてもらっていたとか、マイクロプラスチックの問題がどうだとか、道徳や倫理の全く無い話が延々と語られる。プラスチックの便利さが人々に目を覆わせてしまうということなのだろうけれども、人類は何処まで愚かなんだろうなと、温暖化どころの騒ぎでは無いなと感じている。

マリアナ海溝の底に住んでいるエビをどうやって採取して調べたのかの方に興味があったりするのだが、消化管内からプラスチック繊維が見つかったのだそうだ。水深千メートルより深い部分に1千万トンを超えるプラスチックのゴミを貯蔵しているそうで、そんな話を聞いてしまうと、魚は食べられないなと思ってしまうのだ。

原発をやめてプラスチックを使わないとなると、開発しなければならない技術が沢山出てくるだろう。世界規模での思考のリノベーションが求められる。きっかけは何であれ、全大学の研究者は知恵を絞るべき問題であるのは間違いなかろう。

ちょっと見渡すと使われていないプラスチック製品がなんと多い事か。そもそもパソコンなどはプラスチックの塊みたいなものだ。便利な道具ではあるが、確実にゴミになる。新規開発という美しい言葉の裏に命を奪うゴミの発生がある。お金と命を天秤に掛けて、お金が重く下がる時代。もう逆転させる時であろう。そう思う。

自動車のご乱心

ここのところというか、しばしば発生する自動車の暴走。これなどは工業製品が人の命を大量に破壊する顕著な例であって、銃の乱射並みの犯罪である。いや、殺傷を目的としていない工業製品なのに、命の輪廻を断ち切る仕業が許される稀有な商品だなと思うのだ。

便利な道具である。いや、道具だから便利なのは当たり前なのだが、その持っているエネルギーの凄まじさが誤って解放された時の悲惨さは表現しきれるものではない。それが当たり前の出来事のように日々報道されるのだ。研究不正などはあの手この手で「取り締まれ!再発防止をせよ!」と釜茹で地獄を大学につきつけるのだが、人の列に自動車を突っ込ませても製造責任は問われない。

運転する人が悪いということになるのだが、自動車そのものが人に危害を加えることが出来る仕掛けの研究に、それこそ国や企業がお金を投じるべきだろう。儲けが2兆円を超えたと威張るの裏側には、尊い命が殺傷されているということがあるのだ。ボルボ社などは年限を確約して進めている。日本では何故出来ないのか、やろうともしないのか。

儲け不正と叫ばれるべきだが、残念ながら我が国は自動車産業だけで成り立っているように思い込んでいる。既にサービス産業の儲けが対投資効果では製造業よりも遥かに大きくなっている。人を殺す工業を産業としてはならない。そこに我が国が世界のリーダーとなる道があるとは思うのだ。

研究不正

研究不正の話題が、一週間、何処からも聞こえてこないなんてことが無い世の中になってしまった。政治の不正などは大きな力と、特に日本人の忘れやすさで消えてしまうが、研究不正はめいっぱい叩かれる。それは正しいと思っている。いや、叩かれなければならないのだ。

不正だそうでないかというところの根幹が倫理と言うことになるわけだ。勘違いは不正ではない。思い込んで思い詰めて、ふっとそれっぽい結果が出てしまうと、焦って「正体」と勘違いすることはある。そこで立ち止まって3回やってみて、同じ結果が出てきたら、それは結果であろう。ただ、今、研究者にはそこまで時間が無い。それがまずい。

社会に研究者にじっくりと研究をさせる余裕が無い。自己評価のための書類と常に格闘し、競争的資金の評価者に怯え、任期と戦い求められる成果をニンジンにして、自ら馬車馬になっていく。

丁寧に準備をし、じっくりと考える。ゲームでは無いのだ。誰かが創った道ではない。自然が長い歴史を掛けて生み出してくれた自然のほんの一端を見せて頂く崇高な活動だ。「だから何?」と社会に言われてもほっとけば良い。それが真実ならそれで良い。それを守るのが大学だし、国家はその精神に対して、札束で頬を叩くことをしてはいかんのだ。

研究の原点

和を以て貴しとなす。国際社会に晒された先祖が、それに処する為に生み出した約束事である。これ程美しい思想は無いだろうなと思うのだ。しかしながら、今、組織というものがお互いを潰し合い、強制された生存競争を走らされているなと感じる。

週の頭から多摩川を超えてお江戸に入ると、その目のギラギラ感と疲弊の色に驚かされる。名古屋駅に戻って降り立つと、衝突しないで歩ける状況に感動する。笑顔に出会い安堵する。これで良いのだと実感する。良い街ですよ、名古屋。

騙すより騙されてしまえという、なんか、独特の空気感を感じるのだ。食糧で仕事が出来、工業で自治が出来る。大きな河川が山からの栄養を大地に蓄え、肥沃な土壌の恵みを工業にまで活かしている。こんな土地はそうそう無い。長良川河口堰などのエゴの産物などで大地を汚す愚をやらかしたりもするが、命を繋いで行ける土壌であることは間違いなかろう。

今も、街角にお社を祀り、頭を下げる。小生とて同様である。そこに先祖の活動があり、共同体の中心を大切にする心がある。競争とは無縁の象徴である。その象徴を心に抱いて自分で考えて活動する。研究の原点もそこにあると思っている。だからこそ道徳や倫理というルールを守るべきである。しかし命のバトンと共にそれらを伝えていない世の中だと感じる。まずい気がする。

命のバトンを受け渡す土台

その場で懸命に過ごす。道徳とか倫理とか、それは実は当たり前のものであって、自然と受け継いできている事実であると思っている。空気のようなものであって、人の経験を尊重し自らの活動も信じ、そこから議論が生まれる。その土台と言うか空間と言うか、その場にあるものこそ道徳や倫理と言うことであろう。

人として如何にあるべきかということだ。地球の上にあってそれを思い、そして実行しなければならない難しい時代である。しかしながら親が居て、その前にもそれぞれの親があり、命のリレーが行われてきて、たまたま、バトンが今、自分にあるだけだ。それを次世代に繋いでいくものだ。AIのシンギュラリティなどは関係のないことだ。

突然、湧いて出てきたわけではない。先祖がどんな期待を込めてくれているのか定かでは無いが、一つの命を大切にしないといけないのだ。数十億年の繋がりである。やはりそこには道徳や倫理があるのだと思っている。この10年で自動車による物理的移動速度がどれだけ速くなったか?なっていない現状であるのに、その産業こそが絶対だと信じ込むことは道徳とか倫理などに、運命共同体としての生命から見たら反すると思う。

自分の活動だけが正しいと、我儘を貫く方がいらっしゃる一方で、人が居て自分が居る、同じ命を共有していると自然に対する畏怖の念を持つ方もいらっしゃる。先の大戦で伝統的思考が抹殺されてはいるが、今一度、この島国を見つめ直して、背伸びをせずに日本の伝統ってなんだろうかと考えながら今日を生きては如何だろう。そんな毎日を過ごしたい。

見えるものに向き合う人

縄文の遺跡においても環濠があり、侵略に備えていたことが伺われる。住むという場所は生きる拠り所であり、身を守ってくれる唯一の城という事になる。人間は協力して外敵に向き合っている時以外は隣人と仲良くなっていないということなのだろうか。寂しい限りである。目に見える同一種族を敵と認知して殺傷していく。何と恐ろしい本性であることか。

300年間続いた江戸時代の終焉だって、無血開城の後に、やっぱり流血が無いと気が収まらないという薩長同盟の方々が、白旗を上げる人達を攻め滅ぼし、国から智慧を消し去っていった。それが日本の国の在り方だったのではと、国を巡って実感する。見えない心の内を、エゴという形で見える化して、それに反旗を上げる人達を見えなくするという行為をするということが人間の本性だとすると、人間を辞めたくなる。

一方で、人が生み出す見事なまでの芸術や、丁寧に作られた家具や器など、身の回りのものを丁寧に作り込む所作に出会うと、人間であって良かったとも実感するのだ。これなどは見えるものを心という見えないものに見せる形にしているのだろうと、人の力の凄さを体感するのだ。

見えなくてもある、あるけれども見えない、見えるものを見えるようにする。これこそ人の思考の有り様なのではと思う。見えるものをしらんぷりするとか、見えないふりをするとか、そんなずるさではなく、智慧を深める個人主義こそ、コンパクトではあるが経済的に自立していく日本の在り方ではないか。新しい、本当に素晴らしい智慧にきちんとした対価が与えられる。そんな社会に向けて動き出さねば消えていくのだろうなと、やはり丁寧にこつこつしかないなと納得している私であります。

見えるものを正しく見る

見えないものの代表格となると心の有り様ということになろうか。自分自身ですら見えないのだから、他人事となったら、これはもうどうしようもない。手の出しようもない世界であり、それを見える化させようというのはかなり厳しい。宇治平等院などに出掛けてみると、見えない極楽を如何に具現化して見える化してきたか、そのお金の掛け方に恐れ入るばかりである。

過去の幻想なのだが、主要先進国という単語がありましたな。これも作ったものが売れて、貿易黒字になってお金がじゃぶじゃぶある国がその仲間内という感じだったのだが、今の我が国はそこからは完全に外れている気がするのです。いや、むしろ、主要先進国と威張らなくても良い時代になっているのだと実感するべきなのでしょうね。

シェアリングエコノミーが当たり前になり、大量に作って廃棄するという大量生産型社会は昔のものになっているにも関わらず、自動機械でじゃんじゃか作りまくろうという考え方から脱出できない世界でありますな。マサイ族の皆様、一人一人に携帯端末がいきわたり、太陽電池の独立電源で生計が成り立っている社会があるなかで、ある程度の消費が持続的に成されれば経済は回るであろう。何を消費するのかが問題ではある。

やはり大きなお金が動かないと、経済というものは窒息し死に至るのは間違いない。小生などは増える書籍はほったらかしておいたとしても、身の回りのどうでも良いものは消し去り続けている。手の届く距離にある文化は個人主義で満ち溢れている。誰かが持っているからだの、流行っているだのなどとは縁遠い世界に生き始めている。100億通りにカスタマイズされた世界経済、まだ見えないが、それに向かっていくのが工学というものではないか?

見えるものに対してどう実践するか

見えるから気になるのではあるが、見えなくてもそこにはあるということを、ちょっと前に「昼間の星空」の例えで言った。宗教の基本はそのあたりにあるのだろうが、このネタはおっかないので、これ以上はつっこまない。あんまり明確には見えないけれど、研究論文の世界的位置づけが下がっている日本というのが気になるところだ。

評価指標はいくつかあるわけだが、世界的に重要なというか、引用がじゃんじゃか増えている分野での論文がどれだけあるかという見える指標になっているところがポイントで、見えないつもりになっていても見えているという事例であろう。目を塞いで見えませんと言っても通じないという事だ。

その昔、それこそその昔だが、米国から持って帰ってきた半導体デバイス開発関連技術を、根性で磨き上げて、加えて、企業群が凄まじい額の投資をして、世界をけん引していたというのはまやかしではない。実際にその瞬間は間違いなくあった。工科系の指標はGDPにおける論文の関わりということで研究者は評価されるとすると、挑戦することを完璧に止めてしまった日本の企業からの投資は見込めないとなると、はてさて、どうしたものだろうか。

ノウハウにしても知財にしても、小銭すら大学に出さない我が国産業界と組めと仰っても、それこそ見えないものに投資はしませんよと言われておしまいというところか。努力という目に見えないけれど、ひょっとすると価値に繋がるかもしれないところにベンチャーの起業などがあるわけで、成功したら買い叩いてやるというこの国のあり様では未来は無いわなぁ。見える身の丈を大切に進むだけである。

目に見えないけれど

インドからバングラデシュにかけて中心気圧942hPaのサイクロンが猛威を振るった。尊い命を連れ去っていく自然の猛威にひれ伏すしかないのだが、それでも現地対応は素晴らしかったと、国連は現地対応を称賛している。猛烈な台風が昨年、我が国を襲撃し、各地で甚大な被害をもたらしたことは記憶に当たららしい。TV映像でサイクロンの有様を見たが、最大風速55mって計測間違いなのではと思う程の猛威であった。我が国に来ていたらと思うと、ただただ、恐怖である。

天災は忘れたころにやってくるとは寺田寅彦先生のお言葉とされているが、具体的に残された文章の中からは見出されていない。過去には天災と呼べる大規模な地震・雷・火事・台風(おやじ)は、それこそ「前回はいつだったっけ?」というくらいのタイミングでしかやってこなかったという事なのだろうが、近年は年がら年中やってきている気がする。

気象庁によれば海洋監視海域の水温は、エルニーニョ現象が続いているとしており、日本においては暖冬・冷夏の指針となっている。エルニーニョだけを見ていると、暖冬だったのだろうなと感じるし、そうなると今年の夏は昨年ほどには酷暑にならないのかなと期待してしまう。目に見えるものに引っ張られるという、人間の浅ましさに苦笑いである。

目に見えると、まだやってきてもいない未来においても、自分が安楽の方向のきっかけとして採用してしまう。見えなければ不安に思って過剰防衛に走ってしまう。10連休が終わったばかりであるが、お盆のお休みもカレンダー上では見えているわけで、そこで何をしようかなとたくらんでしまう。常日頃こそ新規事象を生み出さねばならぬのに、見えるものを原因にして行動しない自分が見える。何とかせねば。