遥かなるテレワーク

上司の呼びかけに直ちに応じないと恐ろしい結果になると、テレワークが全く進んでいない組織がある。ここに日本の圧倒的弱みがある。変わらないのだ。変えられないのだ。頭の中身がずっと同じ。ものづくりの現場においては、遥か前からロボットが入ってきている。技術の進化に伴って、ロボットが人の仕事を取って代わるが、その都度、人でなければならないお仕事が見出されてきた。正常進化だが、事務作業のみの現場に限ってテレワークが進まない。理解できない。

月間378時間の超過勤務を実現しようとすると、8時間労働以外に、1日16時間の超過勤務を月当たり23日はやらないといけない。体調不良でトップクラスが換わっていく。それを知ってしまうと、自分はちっとも仕事をしていないなと、恥ずかしくなる。小生とて平均すれば2時間以上は眠らせて頂けている。幸せな環境ではないか!もっと頑張れという事か。

セキュリティの観点からにっちもさっちもとは言われるが、それに関しては確かにいたちごっこで、セキュリティが厚くなれば、それを薄くする技術が生まれ、それに対抗して・・ということが繰り返されているのは事実である。だからと言って、テレワークは認められないというのは異なる次元だ。テレワークになったお陰で移動時間が削減出来、それは即ち出張費削減でコストカットだ。今、対面会議を要求する場合は、移動時間に掛かる無駄な人件費も支払って頂きたい。動かざること山の如しだ。

テレワークが基本だろう。コロナ禍から身を護るだけのものではない。24時間戦うのを悪いとは言わない。生まれてきた理由を最大限に社会に発信する。それは何処かに縛られて成し遂げられるものではない。規則は所詮、先人が作ったものだ。そんなものが進化する時代を制限しているわけで、変更されるべきである。リーダーが思い切れるか。それに尽きる。

憂いは何処に?

ものづくりに限らず、「理科」というカテゴリに興味を持って頂くにはどのような仕掛けがあるだろうか。小生的には生まれる前のおふくろ殿のお腹の中において、胎教して頂くのが一番かなと思うのだが、他人が関与できる代物でもない。しかし早ければ早い程良い。三つ子の魂百までである。

次のタイミングは小学生にお姉さん、お兄さんがいる幼稚園児ではなかろうか。お姉さん、お兄さんが虫好きだとか、働く自動車が好きだとかなんでも良いから「ゲーム以外」に何か熱中しているものがあるパターン。真似っこしてみたら親が褒めてくれたみたいが良質体験になりはしないか?

となってくると、工科系大学の入学案内なんて、予備校のお仕事では無くて、もっともっと上流の部分で成さねばならない。本気でそう思ってはいるものの、小学生は忙しい。教諭殿はもっと忙しい。そんな人達に鶴舞大学となんかやりませんかと真っ向勝負してもなかなか受け入れられない。そもそも受け入れられちゃったら誰が何をするのか?

とは言うものの、我が国の将来を想い、国を憂う立場とすると、何とかせにゃとなるわけだ。イエスマンだけを送り込んでくれみたいな企業はほっぽらかして、しっかりと国を共に憂い未来を共創して頂く熱いお企業様とともに、幼児・児童教育にお熱を入れてみたい。このゆびとまれである。

季節だけは春

綺麗事は通用しない、いや、させてはいけない。直感を信じないとずるずると不幸な民を増やしてしまう。政治とはそういうものだ。学びは大きい。何時までも学ぶことがあるのは幸せなのかどうかは解らないが、引き出しが増えたのは事実である。平均気温は上がってきた気がするが、気持ち的にはなかなかね。

いかんせん、普段から運動不足だ。週末にまとめて運動などと思っても、なかなかうまい具合にはいかない。いかないが、無理やり歩き回る。日曜日は風が強く、マラソン選手も厳しい状況にあったろう。それでも自己ベスト並の記録を叩き出す。アスリートの精神力の凄さである。見習いたいものだ。

東京都心では既に桜が開花したらしい。21日には緊急事態宣言が解除されるそうで、東京の人達が再び日本全土に散らばっていくのですな。オリンピックを開催する前提で、逆算するとぎりぎりのところなのだろう。世界では感染者が激減したなどという報道は入っていない。むしろ報道が無くなってきているのが恐ろしい。そこまで情報統制をするのか、この国は?

3月も真ん中まで来た。多くの花々が心地よさそうに咲き始めた。うぐいすもやってきて、低い木々で涼やかに鳴く様は心に安らぎを与えてくれる。そのくらいは得ても良いだろう。今週もまた厳しい日程だ。気合を入れ直さねば。

平城京にて

ボストンダイナミクスと言えば四足歩行ロボットと誰もが思い出すだろう・・と、そんなレベルだと思うのですよ。日本で何故あれが生み出されなかったのかという残念がることはほったらかして、直接見たわけではないのですが、平城京跡地で公園の維持管理に関するデータ集めにそれを使っているとのこと。樹木を弱らせるキノコが生えていないかというニッチな情報を集めているらしい。

AIとロボットの正しい使い方だなと思うのです。自分で歩いて自分で判断。その画像をサーバーに送ってくる。サーバー側でも画像解析で公園がどのような状況にあるのか判定し、次の作業に移る。そのキノコをその場で処理してくれるというのが理想なのでしょうけれど、先ずは捜し歩くという、骨の折れるお仕事をメカトロニクスに頼るのは正しい。

今は閉じた平城京という、まぁ、パブリックスペースというか自動車なんかは走っていないというか、そんな場所での実験なのだけれど、漸く日本もこのような機器の活用をするようになったのだなと、一体、何年遅れた国なのだと寒い気持であったが、公園をロボットが歩くだけで戯言のニュースになるようでは困ったものだ。別に戯言はニュースでは無いが、ちょこっと面白なと感じた次第。

街中で空き巣発見とかね、いろんなところで活躍して頂きたいですよ。監視カメラだってどんどこ増えれば良いと思っている。エレクトロニクスに頼るところは頼っていく。それで良いでは無いか。それで残ったお仕事が、本当に人間がやるべきことだということでしょう。そう思う。

幸福のシェア

きつくて嫌なご意見を頂ける関係こそ信頼なのだと感じている。事実そうだ。忖度政治はその真逆であるわけだが、目に見えないけれど存在するであろう精神的レベルの信頼感こそ持ちたいものだ。ぶつぶつ交換の時代では個対個の信頼であったわけで、信頼は極めて狭い範囲で成り立っている。それぞれが所属している領域はいがみ合っていても、個の信頼で何かを成す。集団の知恵が得られない、そんなピンポイントな信頼だ。

「心の豊かさ」なんて大袈裟なことを語ってしまうわけだが、ローカルな信頼で何処までそれが得られるのか?「豊かさ」のKPIを考えると、個の所有では無く他との共有というところに行きつくのだと思っている。共に素晴らしいと思いあえる関係こそ、豊かさの定義であろう。とすると、「心の豊かさ」の共有の末には、きっと幸福というものがあるのだろう。

個人のステータスを価値だと信じ込んでいらっしゃる方は極めて多いのだが、そんなもので空腹は満たされない。信頼し合える環境にあってこそだし、それは貨幣ではなく連鎖というものであろう。空間的にも時間的にも広がりを有する信頼関係こそ価値であって、貨幣に換えられるものではない。貨幣経済に縛られている方々には想像できないであろう。

綺麗ごとばかりではない。挫折は必須の体験項目だ。それが無い方々とお付き合いは出来るものでは無い。ステークホルダの言うことを聴けなどとストレスを与えられるが、挫折レスの民をステークホルダ認定することは出来ない。お互いの幸せを分かち合える、そんな組織づくりこそリーダーの務めであろう。各々のスキルは何か?それも私物化しない。そんな社会になったら良いな、そう思っている。

情緒から

デザイン思考とかね、なんか横文字を使うと本が売れるとかね、新しいビジネススタイルという事なのかもしれないけれど、誰かにとっておめでたい結末から物語を語れるかということに尽きる。バラが咲いていたからそれを彼女にプレゼンとなんていう思考では永遠にハッピーエンドは来ないわけだが、要は素晴らしく生きるということをしっかりと認知するところから始めようということだ。

それについては磨かないといけないのが感性ということであって、これがなかなか鋭いなとい方にお目に掛かれない。自意識過剰の方は大漁旗を上げている漁船殿の船倉のお魚よりも大量にいらっしゃるわけで、そんな方のお話は、スタート地点で辟易する。情緒ということなのだと感じている。風の声を聴くことが出来るかというところだ。

まぁ、何よりも行動という方もいらっしゃるが、それは正しいのだと思っている。動かないで悩むふりをしている方よりもずっと良い。認知力があって情緒をもってそれを理解し、行動に移せることが重要だ。闇雲に突っ走られても迷惑なだけだ。何処かと衝突して収拾が付かなくなってから、誤るタイプはこれなのだが、情緒・認知・行動の三拍子を揃えることが必要だ。

必要なのだが、これをどうやって意識的に育てるか?大学生になってからでは当然のことながら遅すぎる。生まれる前からというのが最近思っているところだ。そんなことを言ってしまうと身も蓋も無いではないかと思われるが、そうだと思う。ただ、意識することは出来る。無意識から意識へ自らを変えていく。少しずつでもお願いしたい。

「おせて頂く」心の持ち様

研究者ってある種の「芸人」でありまして、他の人が持っていない芸を社会に示していく人達ですな。しかも、商売人とは違って、自らの特技において、相手を説得して買って頂くことは無く、刺激を受けた人が感動して受け取って頂くことが一つのゴール。聞き手の潜在的欲求を満たすという点において、正に芸人である。

芸を身に着ける上で、師匠の存在は極めて大きい。何も、手取り足取りが必要なわけでは無く、芸風というか、個性の塊みたいな師匠を持つことが出来ると、もうそれは生涯の財産ですな。その師匠との関係性においても、ぴたっとマッチングすることが大切で、師匠に使って頂く事が、そのまま芸の指導になるわけですよ。押しつけでは無く自然体。

「おせて頂く」というその気持ちを持つことが必須なんですけれど、これが最近、お目に掛かれない。今までお世話になりました、はい、さようならというのが昨今のトレンドらしいですな。まぁ、気にしないけど、嫌にはなりますな。あぁ、そうなんですねって。「そら、結構なことで」とお見送りすることにはなりますけどね。二度とお会いしない、そんな気になりますな。

「おせて頂く」ことは真理までであって、その上に自らの哲学を乗せて、そこから社会共通の新しい科学を生み出す。それを人々に笑顔になって頂く工学に転換していく。しかし商品となるのは遥か彼方である。「おせて頂く」ことから「つこて頂く」までどれだけの道のりがあるか。毎日、見えない笑顔に向かって、社会から「おせて」頂きながら「つこて」頂く日を夢見るのが良い。夢は遥かにあって掴むものではない。そう思う。

遥かなるニューノーマル

出掛けても、その辺りまでの散歩程度だ。遠出して観光地へなどと思いもよらない。というか、ここまで怠惰に成るものかなと言うくらい出掛けなくなった。10km程度の散歩はするが、その程度でおしまいだ。奥三河の低山散歩など思いもよらない。人の思考は変われば変わるものだ。結局のところやれば出来るということなのだろう。TVを見れば多くの人で観光地が賑わっているように見えるが、それは番組の作り込みということなのだろう。観光地が潤い始めたなどのニュースは聞こえてこない。

ニューノーマルとか何とか言っていたが、この慣習はこんな風に換えると良いというモデルも誰も考えては居ないらしい。提案しても「それは無理」と言われるだけで変わる気配は無い。とてもではないが、独自の思考などで運営など出来やしない。まぁ、そんなものなんでしょう。こんな時、ミクロな現象論を追いかけてきた地味な研究スタイルが役に立つ。無限小に変化させながら状態を変えていく、あれだ。

熱力学で言うところの境界面における温度差をゼロにしながら、エネルギーを移動させるというあれだ。現象論的には、電子の状態を変えずに価電子のエネルギーを変えるみたいなもんだな。積分・微分が出来る状態と言えばわかりやすいか?まぁ、そんなところであって、見かけ上、何も変わらないんだけど、変わったことにも気が付かないけれど、機能が変わっているみたいな、そんな変身法が良いのであろう。

昔話にもなっている。歩みは遅くとも堅実に進むと良いということが。ただ、悠長に構えていて良いのか?ゆでガエルにならないのか?ニューノーマルって一体どんな状態の事を指すのでしょう。変わらないのは学問を積み重ねることが必要だという考え方なのだと思う。グーグル先生は答えのあるものしか教えないが、それで満足する教育しか成されていないのでは無いか。一体なんだかわからないから、そこに向かわないといけないと考えるか、他者がやったら真似をすれば良いと思うか。「そこ」って何処だ?考えてはいるが語る必要はあるまい。そんなところだ。

美しい工学

美しい工学を考えてみたい。ひょんなことから大昔(4,5年前かな?)に作った申請書を身内で共有する機会があって、読み返してみた。今ならCO2レス発電方式ということで、若い?頭でこんなにおニューな提案が出来たのだなぁと、我ながら呆れかえる。発想は若ければ若い程独創性が高く、年を重ねれば洗練はされるかもしれないがびっくり仰天は無くなってくる。

びっくり仰天は美しい。宇宙規模ならなお面白い。確かに地上での提案であったのだが、今の時代であるならば、月や火星で活用できたに違いない。むしろ、地球外で活用するのが良かったと思った。早すぎて「あほか」とけなされたが、他国で類似の挑戦が始まったところを見ると、あながち、筋違いでは無かったはずだ。

恥ずかしいので内容をお話することはしないわけだが、今の時代なら実現できるのではないかなと思う程に、テクノロジーはゆっくりではあるが進んでいると考える。ただ、我が国においては無理な状況であるのは悲しい限りだ。資源は無いは、人が人を育てないわで、一体、この国、何処に向かうんでしょうね。

論文不正などが止まない状況であるわけだが、まるっきり新しいアイデアで挑戦していく過程において、勘違いはあっても不正は無かろう。そんなものあっても論文にはなり得ない。神が創りたもうた自然の素晴らしさに感動し、そして感謝し、先人を尊敬する。その中から技術が生まれ出る。だから美しいのだ。純粋に宇宙の笑顔を想って挑戦する。工学が美しくある。なんと素晴らしい事か。

リモート会議の暴力

自分の中のリソースは極めて限られているわけで、何でもかんでも出来るわけでは無いし、それは当然のこと。ただ、難しいお仕事が降ってきても他に回すことは出来ないから、何とかやりくりをしていくわけですな。可能な範囲で相談をしてじわじわと進んでいく。

その中で感じていることが、Web会議を主催する側の準備力。突然、リモート会議の詳細が前日に来て、そこに突然「あんたが挨拶をするのだ」とか、「会議の取り纏めの発言をしろ」とか言ってくる。内容の事前説明なんかない、勿論、資料が解りやすければそれを見てやるのだろうけれど、そんな気にもなれないビジーな資料が添付されてくる。

この辺りに日本のIoT活用力の無さが露呈されるのだ。多く、若い皆様が加わって頂けている会議においては、プレゼン資料は対面よりも分かりやすく、そして1シートに1主張という当たり前の作り込みになってきていて、リモート会議にしっかりと適応できていると感心する。リモート前よりもずっと伝達力が向上している。

威張って怒鳴って居丈高なのは靴を減らすことが美学だった時代の方々。小生もそっちの組であるのは間違いないのだが、意識は常に変えている。リモート会議の暴力に辟易している。大人の人達、少しは進化したら良かろう。そうでなければ退場すれば良い。それだけのことだ。