終りが始まり

普通に切削で、2ナノメートルの切削痕しか残しませんと言われると、何言ってんだ?となってしまうのだが、海外ではそれが当たり前になってきていて、そんなものが我々が無意識に活用しているスマホなどに活用されている。逸品ものでは無くて、ボリュームプロダクトにその精度が投入されていることに驚かされる。我が国がそこに到達するのは一体、何時になるのだろうかと残念に思ったりする。上には上が居る。当たり前なのだが、薄利多売にのみ価値を置く日本には行きつけない世界なのかもしれない。

ベンチャーなどは高利少売になるのだが、その国では高利多売らしい。これでは国力の差はどんどんと開くばかり。昨日、とある方と親密な時間を頂戴したのだが、「その昔は違ったよね!」ということで熱くなった。若者はもっと歯を食いしばったぞということ。これを言い出すとアカハラ一直線なのだが、多くの方から同じ声を聞くということは、やっぱりそうなのではないかなと思う限りだ。気が付いたら夜が明けていたなんて当たり前だったけどね。

「二番手ではいけないのですか?」とその昔、政治家殿が仰いましたけど、「はい、ダメです」とTV画面に向かって怒鳴ったもんだ。一番だから良いのだ。誰も見たことが無いから良いのだ。それでは一番になるにはと言えば、努力するしか無いのですよ。何人よりも努力するから一番になるのであって、二番で良いと思う人は、その程度の努力しかしなかった人なのでしょう。それはとても寂しい事だ。

いよいよ居室の御片付けが本格ムードに入って来た。棚から出てくる若者の血と汗と涙の結晶に胸が熱くなる。いや、過去形では無い。自らももっともっとと、自らを焚きつけねばならぬ。始まりが終りで、終りが始まりである。良く終わらねばならぬ。厭らしく引っ張ってはならぬ。スパッと過去を切り、そして明日を始めるのだ。その為に、先ずは丁寧に一つ一つ、未来から今を見て、捨てるものは捨てていく。先ずは高利少売を目指して頭の中を切り替える。暫く続く。

受験考

入試に拘るわけではないのだが、共通テストの後には志望校における本試験を受験することになる。広い思考能力というか、思考のダイバーシティというか、その様子を調査させて頂くのが共通テストとするならば、本試験はその大学において講義についていけるかどうかを自ら納得して欲しいというレベル感である。志望校を通じてどのような機能を身に着け、その機能によってどんな社会貢献をしているかをイメージで来ていれば、自ずと準備は出来ているだろう。それが前提である。

マスコミの言い様を拝見すると、来年から共通テストの在り様が大きく変化するから、浪人生活を避けたい者は、志望校をワンランク下げてトライするだろうということ。こんな話を見るにつけ、自らの社会で活躍している姿をイメージして、そこからバックキャスティングでどんな能力を身に着ける必要があるか、それを実現可能な大学は何処かが決定要因であるはずが、予備校での模擬試験の結果を判定基準に自らを図ってしまう。

大学受験の際になって、偏差値という受験産業の価格設定に振り回される。遅いのである。少なくとも小学生時代に自らの夢を描き、中学生時代において、その夢を高め、その実現の為に何を身に着けるべきかを思考し、それを実現するために高校を選択し、自らを研ぎ澄まし、無駄をそぎ落とし未来に獲得するべき機能を選択し、その獲得に向けて大学を選ぶ。その選択が成っているのであれば、全受験生に同様の条件であるのに、ワンランク下げるという、自らの夢を捨てる行為を選択する理由はさっぱり分からない。

世界の在り様の急激な変化を考えれば、身に着けるべき機能が得られない大学を選択することにどんな意味があるのか。先日、隣国の入試の状況をTVで拝見した。がむしゃらに学び続け、その結果が人生を決定するという。それも大いに愚かなシステムだが、それでも未来に夢を見られない仕組みの中で大学受験を迎えるよりはましであろう。他の者よりも努力したのだという納得は得られるだろう。しかし、大切なのは命と引き換えにどんな夢を見、そしてそれに挑んだかである。諦めは悪い方が良い。挑戦して欲しい。

共通テストに思う

その呼び名は何度も変わってきましたが、共通テストが終了いたしましたな。問題を拝見すると、随分と毛色が変わってきたなと感じたりするわけだが、今年、大学に入学してくる方々は、このような問いかけに答えることが出来る人達なのだなと、問題文が気になったりする。丁寧な問いかけ文を拝見していると、このような講義を受けて高校生時代を過ごして来た方々なのだなと、様々に捉えることが出来る問いかけには答えてくれそうにない。言葉の定義をしっかりしないとと思ったりするわけだ。

日本の企業は何時まで4月一斉入社を貫くのか分からないのだが、必要な能力をきっちりと定義づけして頂いて、能力入社であって、どんな機能を獲得しているか、その瞬は5年間ですよみたいな入社試験をやって頂けると、社会に求められる機能を獲得できる大学を選んでいくのだろうし、それ以上の講義を展開していかない大学が淘汰されていくということになろう。大学は企業予備校では無いから、機能を提供するのではなく、機能を解釈し、今、求められる機能が将来どんな社会を創造することに役立つのかを考慮して、カリキュラムを動的に組んでいくことになる。

10年間、講義ノートを換えずに番所だけするとかね、そんな方々にはご退場と言うことになるのだろう。勿論、事務方も同様で、社会のニーズを先取りしていかないと、迷惑な連中と言うレッテルを貼られるだろう。電子マネーが使えないとか、紙とハンコが全てですなどと言う状況では「契約できません」と言われて、あっという間にオープンイノベーションのパートナー認定が落とされるだろう。自ら変わっていかねばならない。単に、どっかの大学に吸収されれば「変わったよ」と、学問の府は思うかもしれないが、社会はそうは捉えない。

東日本大災害の時、地球が活性な時期に入ったと、あの時、大学改革の草稿を書いていたわけだが、それがさらにエスカレートしてきていると感じる。世界中での火山の噴火が顕在化してきた事、太陽フレア活動もピーク期に入ってくることから、様々な自然の猛威に晒されていくことだろう。対処療法ではなく、しっかりと思考できる機能を若者に身に着けて頂くこと。日々の切磋琢磨を自らに課すことこそ、教壇の上に立つ者の姿であろう。そう感じている。

脱ムラ社会へ

ムラ社会慣れを見せつけられると気持ちが萎える。決まっているから出来ませんという、数万年前に出来上がったルールで自らを縛って、どうやったら出来るのかを考えなくなる。点数獲得に躍起になって、自由な発想が出来なくなる。解釈だけの問題なのだが、これはこの方向性で解釈することが正しいの一点張りで、他人の意見など聞きやしない。島国日本のムラ思考ということなのかもしれないけれど、出る杭に成ろうともせず、それに挑戦する者の足を引っ張る事には熱心である。

以前居た組織ではこうだったなどと、会議の場で持ち出されると辟易する。それがリーダーだったりするとたちが悪い。ここは飛び地では無いのだから、妙なルールを持ち込まれても困る。時代の変化にも場の変化にも対応しない。まぁ、ドメスティックな組織の中のお話だから一般論では無いけどね。でも、なんか、企業の方々の頭の中も相当に硬いのではと感じることが山ほどある。掴んだ仕事は私物化出来るみたいなね。世代交代を許さないみたいな。

日本に夢を持てるかという問い掛けに、高校生までの26%が「持てる」と言ってくれたというアンケートに「そんなに沢山いらっしゃるのか!」と感激した。しかし74%は「持てない」と感じているわけで、これは決して少なくないだろう。世界に打って出ようとしていかなと、世界から見えない国になっていくわけだ。どの国でも作ることが出来る商材を、薄利多売している状態では、見えない国を加速させるばかりである。

リスキリングと政府は叫ぶが、薄利多売路線以外のビジネスモデルを描けず、労働当たりの賃金も低いままだ。鶏と卵のお話になってしまうが、よりよいものが相応の価格で取引されるためには賃金も上がらねばならず、どこかでどっちかが図抜けないと、国の有り様は変わらない。インフラ的なツールは薄利多売が良かろうが、図抜けたい人達には厚利少売で良いのだ。ベンチャーなどはそちらを目指すべきなのだが、図抜けることが苦手なムラ人種には難しい。オンリーワンでナンバーワン。それ以外は無意味だ。

反発しても良いかも

20歳人口が半減しても、大学の定員が変わらないのであれば、そこに集う人的な何かの分布は変化すると考えるのが普通である。人口だけではなくて、その時のテクノロジーによって育った者が親になり、その親が子を育てるわけで、親が小学校を卒業するまでに影響を受けたテクノロジーが、その後の深層心理に働きかけていくとすると、目の前の学生諸君の有り様は、今から30年程度前のテクノロジーの影響を受けていると考えて良いのかもしれない。

その影響の受け方だが、デジタルネイティブだから、デジタルを完全に受け入れて、その申し子になっているだろうという考え方と、がきんちょは「親に反発する生命体」だから、その有り様に真っ向から反対して、ウルトラアナログ人間になっているかもしれない。ビジネス的にAIを使いこなす数理モデルに長けた学生を育てる学科・学部の創設を、親方は推奨するわけだが、AIの進化でその人達の職が無くなるようなレミング現象を発生させることに躍起になって良いのか?

ギフテッドをもてはやし、その才能に関係することだけを好みに応じて推奨して学ばせても、結局は苦行に耐える力は身に着かず、そして異分野の広い知識も身に着かないから、天才は育たないという記事を読ませて頂いて、なる程と思った次第。抑圧への反発は極めて自然な流れであって、それも認められるべきであろうと感じるわけだ。ちなみに今から30年前の重大ニュースなるものを調べてみると、円高で一ドル100円を突破したというニュースが目に入った。海外旅行などに行きやすくなった時代である。

今の学生君達が、金銭的には豪遊は出来なくとも、隣国に焼き肉を食べに行くなどと聴くわけだが、なる程と思ったりする。親が海外旅行をしていれば、海外旅行のハードルは下がるだろう。留学にチャレンジする学生も増えてくるわけだと納得する。海外旅行などは無理して毛嫌いする必要は無いから、親の時代の影響を受けるものだろう。米国ではAIに対する反発が出始めているとも聞く。これなどはスマホばっかり見ている親への反発なのかもしれない。反発が活字に没頭するような方向に向かってくれたら嬉しいのだが。居室の本を運び出そうと思うのだが、はてさて、貧居が崩壊しないかと恐れるばかりである。

震災考

東北震災の時もそうだったのだが、マスコミの熱しやすく冷めやすい報道に辟易する。どのチャンネルを拝見しても同じ悲劇が繰り返し映し出され、国難にどのように協力することが出来るのか等は、キー局を通じて寄付をしろという一点張り。特にお正月の災害においては、道路や電気・ガス・水道の寸断という、税金をかなりの額を投入しているものが木っ端みじんになったわけで、これで東北震災の時の様に増税しないとか、公務員の給料から天引きするとか、選挙対策なのだろうが、そんな話が出てこないことに違和感を覚える。

巨大地震にどのように備えるのかという、地球の怒りに人間ごときが贖える筈は無いのだが、道路わきの山の斜面が崩落し、隧道の上に巨石が落ちてそれを貫く。どのように改修していくのか定かでは無いが、東北、熊本の災害で、無人重機による災害復興技術が相当に進んだと思うのだが、それらが投入されている気配はなく、極めて旧式のホバークラフトを延命させながら自衛隊が活用して、重機を海路で運んだというニュースは拝見したが、それまでである。

マスコミも含めた有象無象の輩が道路の渋滞を加速させ、本来、長特急で現場に届いて欲しい物資などが全く届かない現状を引き起こしている。これも毎度の事で呆れかえる。能登半島は2度ほどぐるっと一周させて頂いているのだが、珠洲の先端あたりは道も少なく、切通しのうようなところばかりで、陸路で向かうのは不可能であろう。また、断崖絶壁が続くエリアだけに、海路での接近もままならないであろう。しかし、そのような場所は日本中、いたるところにある。人が居住するエリアを自由に定められる現状においてはなんともし難いところか。

政治家諸氏はパーティーでの金集めに必死である。当選の為に金、再選の為に金。それに群がる支援者もどきも悪質である。日本列島改造論をぶち上げて、今の日本の土台を作った角栄氏の旧居が焼けてしまった。人が平穏に暮らせる国家改造にこそ集中して税金を投入してはどうか。勿論、それを成し遂げる学術・技術にも投資して頂かねばならない。単に、大学はくっついて数を減らせと言うことではなく、強みを活かし伸ばす。その方向にいつになったら税金が投入されるのだろう。今も未来も共に大切である。

やっぱり人

政治が時代を変えるというか、結局は人が政治を行うわけだから、人が時代と言うか、文化の在り様を変えるわけだ。一方で、歴史の厚みというか、集団の意志というか、その強さも感じる場もある。先日、鶴舞大学の同窓会に参加をさせて頂いたのだが、同窓の力と言うか、歴史と言うか、その熱を直に感じる機会を頂けた。歴史上の人物と言っては失礼に当たるが、ずっとずっとその昔からご尊顔を拝してきた方々が密度高くその場にいらっしゃる光景は、三十三間堂の仏の列を拝するようであった。

文化の在り様云々を語ったのは、同窓会のお話をしたかったわけでは無くて、がきんちょの頃にテレビで拝見した即身仏をリアルに拝して、その歴史を紐解かせて頂いたら、人の愚かさと言うか、命を粗末にするのはやはり人なのだなと実感したから。神・仏が絡んでくると、まぁ、信仰とお布施のお話が出てきて、そこに政治のお話も絡んでくるともう大変。天皇の神格化の為というか、幕藩体制崩壊の為というか、廃仏毀釈だったり、いわゆる講の廃止だったりと、明治の一桁年代ではいろんなことがこの国に起こったわけだ。

それまでの信仰を否定するだけではなく、生きたまま仏になられた方を侮辱したり見世物にしたり。新聞記事にまでして愚か者呼ばわりしたりと、まぁ、歴史を紐解くと情けないお話がごろごろと出てくる。まるでどっかの学長選のようなだと苦笑いである。愚者はどこまでも愚者であり、愚かな歴史は繰り返されるのだなと呆れたところで、文化の在り様云々を語ろうと思った次第である。まぁ、明治の時代だけではなく、信長さんもいろんな寺院を焼き払ったり崩壊させたりとしたわけだが、明治維新とは方向性が違うので、それは語らない。

歳を重ねたから感じるものがあるわけだが、同窓会という集団の力、そして方向性はこれからどうなっていくのだろうとも思った。若者が殆ど出席していない状況で、それは同窓会の意味を成しているのか?先輩後輩が繋がってこその同窓会と思うのだが、会場の雰囲気をネット配信しているわけでもなく、同窓会費を支払ったものの、それは何処にどのように使われていくのか、自分達が同窓であるという意味はどこにあるのか?人の想いの強さが同窓であることの意味であろうと、いろいろ考える松の内であった。