浮世の鬼?

とっつきにくそうとか、恐そうとか、緊張感張り詰めた人生とか、様々仰って頂けますが、全部当たっていると言えばそうだし、真逆と言ってもそうだし。まぁ、時に応じた生命活動を行っているってことかな。誰でも自分が一番怖いんだけど、それを外から見ているというか、どんなに逆立ちしても踏ん張っても足元にも及ばない世界を見て体験してきたから、悲しむというか卑下するというかそんな気持ちの無駄さは骨身にしみている。怒っている雰囲気でも、それを演じているだけだから、そんな自分が恐ろしいと感じることは事実だ。

この季節、街路樹が一斉に色づいて、どさっと地面に彩を添える。なんと見事な出来事か。地球との対話で太陽と大地から頂いた栄養を、また、来年に送り届ける。無駄のない活動を人間はアスファルトでそれを阻む。自分に都合が良いから地面を人工的に被覆する。所詮、人間のやることだから表面は波打ち、雨の時には巨大な水溜まりを作り出し、悲惨な靴の中を演出する。同じ演出でもえらい違いだ。ビルを建てれば強風の街を演出し、働けばPM2.5を生み出し、命まで危うくする。人間とはなんと不思議な生命体であろうか。

かと言って、宗教家では決してない。それが証拠に、その昔(今もか?)クリスマス撲滅委員会なるものを立ち上げて、色気のない男子が集まって呑んだくれるという会合を開いていたりして。全国各地に御同輩が存在していることはパソコン通信で知ったのだが、今も昔も色気のない男子(もてないとも言う)は落ち込む先は同じ無色地獄だなぁと苦笑い。命の根源とか宇宙の広がりとか、そんなことには興味はあるんだけど、進化の過程の生命が今を語ってもね、しょうがないからね。

いきなり大勢の方々に鬼だの魔だのと言われたものだから、そんなこたぁないんだよと取り敢えず言い訳してみました。そりゃぁねぇ、年がら年中へらへらぽかぁんとしていたくてもなかなかねぇ、そんなわけにもいかないんですよ。お上から戻ってきたら憂鬱な顔しているときもあるらしいし、決断だってその先、確実に平穏無事ってことは無いからね。人それぞれ千差万別。1万の意見に行くときもあれば、一人の賛成も無い道だって選ばないといけない時もある。踏ん張ってますよそりゃぁ。まぁ、そんなことなので、お気楽にやってきてください。そんな私であります。

小春日和

旧暦10月4日。約、一ヶ月半のずれで、明治政府が閏月の分を払いたくなくて新暦にしたとかしないとか、高校生の時に日本史の授業でかじったが、正確なところは忘れてしまった。宿舎を出る5時半過ぎには既に東の空は黄色く染まり始めているが、見上げれば星空である。快晴の冷え込みは時間と共に軟化して、小春日和になりそうな、そんな朝である。

小春とは季節感あふれる日本らしさであり、こんな文化を大切にしたいものだと常日頃思っている。最近頂くカレンダーの殆どは旧暦との対比が掲載されていない。宿舎には天文カレンダーなるものが掛かっていて、これには月齢や旧暦の暦が掲載されていて、親と対話をしているようで、妙に懐かしい。旧暦がなんだというわけでは無いのだが、太陽暦は暑さ寒さを意識的に感じることがあって小生は好きである。暦が世界で統一されていることには納得するが、地域性を勘案した季節感は大切にされるべきだ。

小生、小学校・中学校は勿論のこと3学期制であったが、高等学校は分けあって2学期制であった。それが大学に入ったら、教育大学故に3学期制となり、就職したら2学期制に戻ってしまった。3学期制は細切れになって授業の進捗など、また、事務仕事などが極めて煩雑だが、学ぶ側に立っていた頃を思い出すと、季節ごとの休みにサイクリングや登山でどっかに行ったとすると、それはそれで季節を感じていた。その頃の写真などを恐る恐る見てみると、それなりに季節感があって楽しい。

一方で既に11月は20日を過ぎ、今年も残すところたったの40日である。つい先日、学長の年頭所感を拝見したと思ったら、いきなりお正月の秒読みだ。早めに大掃除も開始しているし、1月2日の駅伝見ながらの独り呑み会で頂くお酒の選定も始めねばならぬ。ならぬのだが、まだまだ大仕事が沢山残っているし、実は、国の学術審査等は今が正にお正月であって、これからいきなり加速し始める。小春日和は心の中の暖かさであって、身は寒風真っただ中の私であります。

わき道

T字路のわき道にそれてみる。山の中ではあまりやらない行為だが、都会では気になる路地にどんどん進んでみる。緩やかに曲がるその細い路地は、雰囲気よく、これは日常歩いてみたいと思える雰囲気の街並みと空気感を持っていた。早速、明治時代の地図と比較してみると、その時代から存在した、集落同士を繋ぐ道であり、成る程と思った。明治初期の通路は、大略、江戸時代から存在していて、田んぼでは無く、畑の中の道だから、小生にとっては伝説の御器所大根でも作っていたのかもしれない。そんなことを思うと愉快になる。

わき道にそれることを恐れているのでは、これは、常日頃の心構えがなっていないと感じる。常軌を逸脱してこそ人生だと小生は思う。勿論、勢いがあって、今、この道をまっしぐらに進むべき時は、わき道などに気が付かないから、それはそうでなければならない。正に今という時に、わき道などはほったらかして、ずんどこ先へ行くが良い。わき道の探査は遅れてきた者に取っておいてあげて欲しい。

思えばわき道ばっかりの人生であって、紆余曲折が多すぎて、どちらに向いて歩いているのかさっぱり分からない。あれやこれやと考えてもなるようにしかならなかったんだろうなと、あちらの世界が近づいてくるとそう思ったりする。しかし、いんちきは出来なかった不器用さで、救われてきたなとは思う。人が掛けた橋を一番に渡るようなことはしてこなかった。今に見ていろ俺だってなんて格好の良いことは思わない。凄いなぁと思うだけ。自分は他のわき道に入り込んで、迷っている間に何処かに出た。そんな人生だ。

明治24年の測量図に出会ったのは、名古屋に引っ越して間もないころに、名古屋市市政資料館にて行われた、名古屋の古地図展でであった。陸軍が精緻な地図を起こし、それが今も閲覧できるのは素晴らしい。鶴舞地区は古道がかなりその痕跡をたどることが出来て、むしろ、その古道を探して歩く楽しさを与えてくれる。わき道、大いに結構。迷子になったら探して差し上げるので、どんどん、わき道に進んで欲しい。わき道は現実である。そして自らが歩くことでそれが脳裏に刻まれて力になる。そしていつか、道の無いところに気が付いたら進んでいるだろう。これからもそうするつもりだ。

青画面

55歳を越える方ならご存じのPC青画面。Windows3.1の頃、いや、DOSの頃からPCが自主的に「仕事を辞めます」と潔く、それまでのこちらの努力をフイにしてくれる青画面だ。内部メモリの使い方がしょぼいソフトウエアを動かしていたり、なんだかキー入力がある定型的な状態になるとどかんとやってくる。こちらとしては何度も出会ってはいるものの、それがやってくると「今日は仕事辞めた」となって、酒屋さんが元気になる青画面だ。

近年、とんとお見掛けしなかったが、Windows10になって、宿舎でも職場でも出会うようになってしまった。ひょっとするとこの駄文を前にしていらっしゃる奇特な方の中にもWindows10で最近のアップデートで、懐かしの青画面に遭遇した方がいらっしゃるのではないか?ネットでサーチしてみるとWindows10は近年稀に見る不安定なOSであると顰蹙を買っている。う~ん、やっぱりかと思う。

その昔は、OSの進化にハードウエアが着いて行っていないで出てくるのが青画面みたいな言われ方をしていた。近年はハードウエアの進化はとてつもなく、ソフトウエア側に不満が多いのだが、そうこうしていたら青画面だ。メールとプレゼン資料作りが日課になっているのだが、「ごめんなさい、あれやこれや私が悪う御座いますまんねん」みたいに思いつく限りの謝罪をつらつらと頑張っているところで青画面が出てくると、怒る顧客(冗談だからね)の怨念が乗り移ったかの如く「青い」画面がやってくる。

以前は青画面が出てくるとマザーボードとHDD、CPUをバージョンアップして気分一新、お正月気分で仕事を再開したものだ。近年はほぼほぼノートPCでの作業になってしまっているのでいきなり買い替えというわけにはいかない。いかなくなるとおっかなびっくり、消えるかもしない恐怖と戦いながらの作業になる。バックアップモードで作業しているのだが、当然のことながら応答が鈍くなって思考が断絶する。口述筆記で記事を書かせて頂いたことがあるのだが、その安心感は絶大であった。結局のところ、AIだなんだ言っても信頼という点においては「本当に信頼できる者同士」を越える関係性は無いのではと、妙に安心している週末の私であります。

寒気

朝、突然の寒さである。昨日までは寒いと言えば寒いが、朝、さみぃなぁと感じたのはこの季節で初めてのような気がする。天気予報では12月中旬並の寒気が入り込んだということで、体感はあながち間違ってはいなかったなと、間隔ボケにはなっていないなと、ちょこっと安心である。しかし、急激な冷え込みは体力を奪うので、皆さま、御自愛くださいね。

1ヶ月程早くなったシベリア寒気の南下だが、これは正に温暖化の賜物で、いよいよ地球のバッファが尽きたなと感じる。海水が炭酸ガスを吸収し、海の底まで行き渡るまで数百年単位と言われる。ワットの蒸気機関以来、人類は機械の力を大地から燃料という形で頂き、炭酸ガスの形で返却してきた。受け取る側はせっせと海や大気にため込んできたが、いよいよ限界ということだろう。台風を発生させる海流が南に下ったなぁと思った途端の寒気の南下である。

そもそもシベリア寒気は北極寒気に押し出されて南下するわけだが、北極圏の寒気団は北極の広い範囲の分厚い氷が前提で渦を巻く。上空の強烈な寒気が降りても、氷がそれを温める能力が小さいし、加えて地球の自転の影響で渦を巻き、その渦が寒気を閉じ込めてくれていた。寒気を貯金していてくれていたのだが、その力が弱まって、寒気が極地から中途半端に噴き出してきて、シベリア寒気を日本に押しやってくる。早い寒気の南下は極地の暖化だし、寒気の貯金が早く無くなるから桜の開花も早くなる。

何かが変わるということは、何かのトリガが働いたということだ。言ってみれば、「おやっ」っという目立った兆候が無い真っ暗な世界であれば、そこには滅亡は無い。しかし、何かを変化させていかないと、先に変化したものに飲み込まれ滅亡がある。人も家も暗いうちは滅亡は無い。しかし、情報化で地上の隅々まで明るくなった今、暗いうちは良かったなと懐かしみ隠れる我が家は無い。今日も一歩出てみる。そんな気持ちになる今朝の寒さである。

果報者とは

都知事が国政とフタマタは無理だろうと思ってはいたが、まぁ、その通りになった。兼任など出来る気ままな稼業であるはずは無くどちらも専念したってえらいこっちゃろうに、気の向くままに国政を揺るがした結果の放り投げ。担ぎ出されたのかもしれないが、事の大切さを意識せずに行動するとこうなってしまうという悪しき見本だ。自らに照らして、心を引き締めねばと感じた次第。

身を引き締めないとどうなっちゃうかという見本がもう一つ新聞にあって、なんと横綱がビール瓶で人の頭を殴打したそうな。された側が生きていること自体が脅威ではあるが、人類が上り詰める最強の地位の猛者が、何があったかは知らないがビール瓶で頭を殴っちゃだめだろう。スマホをいじっていたことにイラっときたと新聞では読み取れたが、そんなことでイラついていたら、今の大学で講義は出来ない。いずれにせよ、トップの地位にある人の行為では無いなと、両名共に情けない。

話は飛ぶようだが、研究テーマを考えるとき、何故、人類は拡散したのかという命題からスタートすると、どこぞでしゃべったので、聞いた方はご存じだろうが、700万年の拡散で、人が誰かと出会うということは間違いなく奇跡なのだと思う。80億人がそれぞれ何らかの役割を持って生まれてきて、異なる役割の人同士が出会って語り合い事を成しあって世の中がある。自分が関われる範囲は相当に狭いが、確実にそこには何らかの影響を与えあう。

その役割が政治家であったり横綱であったりするわけだろうが、それぞれの役割の品格を失う行動は慎まねばならぬ。無茶な内は良いが、無理をすると、時には後戻りできない状態に陥る。無茶な内に指摘をしてくださる方が傍に居てくれる人は幸せだ。その果報をしっかりと心に刻み毎日を過ごせば、きっと何か笑顔がやってくるに違いない。そう信じて今日も一日過ごしてみようと思う私であります。

フェイクニュース?

イラン・イラク国境で大きな地震が発生し、多くの犠牲者が出た。ご冥福をお祈りいたします。地球の運動は極めて活発で、アフリカ大陸は裂けながら北へと進んでいる現実が、このような地震によって、やはりそうだったかと冷めない地球に感謝の気持ちもある。その上で生かして頂いている以上、恩恵と驚異の両方を受けねばならない。地震や台風の時に強く感じる。

ちょこっと前にネットで話題になっていたことに褐色矮星二ビルという、なんだか最初はデマニュースかと面白半分で読んでいた。面白半分でも見入ってしまうのは、宇宙には謎が多すぎて、ひょっとするとそんなこともあるのかもしれないと勘繰る部分も多いからだ。全ての排除は無知の入り口だからだ。で、どうも、NASAの発表によるとそんなものが存在して、そんなものが太陽系に接近して、11月20日以降に地球に接近するということらしい。

地球に激突するということは無いそうだが、かなり大きな彗星らしく、重力効果は当然のこと発生する。太陽フレアがちょこっとくしゃみをしただけで、送電線が誘電発火するくらいだから、それよりもはるかに大きな重力場が現れたら、潮位が変化するだろうし、そうなると軸ずれで大陸変動も加速される可能性もあろう。イラン・イラク国境付近での大きな地震は、アフリカ大陸の北上という止まらない地球変動の結果だろうが、何かの外力で加速されてもおかしくは無い。

いずれにせよ、宇宙で起こることは人類ではどうしようもないので、それを悩んでも全くもって意味はない。意味はないが、宇宙のイベントの何と規模の大きいことか。木星の13倍もの大きさの彗星があって、それがつい最近検知されたということも驚きだ。フェイクニュースの様にも思える。なんだか信じられないようなことが重なっているニュースだが、何が起こるか分からない宇宙の中で我々は生きている。いつ、天変地異起ころうとも笑って受け入れられるよう、瞬間瞬間を猛烈に強烈に生き抜くことが大切だ。そう思う。

KIWI

小学生になる頃に、父親の靴を母親が磨いているのを見て、見よう見まねで始めたのがきっかけで、趣味に近いくらいに靴磨きという行為が好きである。好きというか苦にならないというか、まぁ、その程度ではあるが、普段の靴から山靴まで、靴クリームを使うのが好きなのかもしれない。

かれこれ50年近く前に、キウイというブランドのクリームを父親が使っていた。これを使えるようになったら一人前みたいな事を言われたのを妙にはっきり覚えている。大学生になって、革靴を購入し、キウイの靴クリームとブラシを購入し、なんだか急に大人になったような気になったのも、不思議と覚えている。靴クリームには、クリームとポリッシュの2種類があって、順番を間違えるとよろしくない。

よろしくないというか、靴屋のおやじ殿に言われたことを忠実に守っているだけで、順番を違えたことが無いので、どうなるのかは知らないが、革に油分をしっとりと与えて、足に痛くない状況を作り出すのがクリームで、雨などをはじき返すのがポリッシュである。山靴は基本はクリームだけで、使った後、しっかりと乾かしたのちにぐいぐいとクリームを限りなく薄く塗り込んでおくと、次の山行きが楽しくなる。

分けあって東京に出掛け、日曜の行事の如く靴の手入れをした。ベースのクリームに含まれる水分が飛んだあと、柔らかい毛のブラシで磨き、その後にポリッシュを掛け、また、水分を飛ばした後に再びブラシで磨く。ビロードの布地で仕上げたこともあったが、これは布目が移ることがどうも気に入らなくて、今ではブラシのみで仕上げられるようになった。米国では誰でも靴磨きから商売を始められる空気感がある。人々の足元を見て、格好を見て、いつかこんな紳士になろうと思って頑張る世界。靴を磨いているとそんな気持ちになる。頑張ろうって。そんな習慣を教えてくれた両親に感謝している私であります。

月が笑う

天頂に三日月が笑う。そんな薄ら寒い朝の季節。地球が誕生しつつある時に地軸を安定させるためとしか言いようのないイベントによって月が出来た。すぐそこにあるようだが、1.3秒前の状態だ。太陽に至っては8分前の状態で、正にタイムマシンがそこにある。宇宙だって128億年前の光が観測されるから、128億歳だと学者の方々が仰っているだけで、その向こうに何があるって仮説だらけだ。

宇宙を想うと仮説だらけで、好き勝手にイメージを膨らませることが出来て愉快なのだが、我らが地球上で起こっていることはほぼほぼ同時に眺めることが出来、逃避するわけにはいかない。某原発会社を買ってから急転直下したお企業があるが、子供の頃から当たり前にあった大企業が、かくも簡単に転落・沈没するものかと改めて驚かされる。驚くというか、う~むとうなる。当然のことながら、大学とて同様であって、前向きの展開に恐怖し、怖気づいたら同じ運命をたどる。それが自然の摂理であろう。

おにゅうなことを起こすと、今までとの不整合が必ず生じる。不整合が無いように気を遣うことは勿論なのだが、なんせおにゅうだから、本部殿はてんてこ舞い。まぁ、小生的には本部なるところはてんてこ舞うのが商売のはずだから、てんてこ舞わせて頂いて感謝しますくらいのことを余裕で言って欲しい。やんちゃなおたくが世界を変えるのはエントロピーの増大を考えれば当たり前のことで、てんてこ舞いスイッチが入るたびに大騒ぎするなと、ぺしっとやってやりたくなる。

まだまだというか、なぁんにも変わっていないと感じている。まぁ、例によって一歩一歩である。月の満ち欠けを想えば、変わったなと思っても、本体は何にも変わっていない。太陽と地球との関係で「そう見える」だけであって、本質は変わらない。それでは改革ではないのだ。変化は不可逆の覚悟を持って起こさねばならぬ。だからこそ慎重に活動せねばならぬ。過去を宇宙に見ることが出来ても過去に戻ることは出来ない。それが宇宙の摂理であるならば、過去を懐かしむことなく夢を託せる未来に挑もうではないか。そう思う。

図抜けること

様々に入り混じった状態を、カテゴライズしてくプロセスを分級と呼ぶ。粉体に関わるお仕事をしていらっしゃる方ならお馴染みの単語だが、そうでないの、なんじゃいなとなろう。身の回りで言えば、製粉された小麦粉を購入して、異様に大きな粒が混じっていたという経験は無いはずだ。それは小麦粉が分級されているからだ。

分「級」というと、なんだか差別用語みたいだが、松竹梅を分けるのではなく、大きさ、質量を分ける行為と思って頂きたい。勿論、世の中にはきな臭い分級もあるが、大小くらいに思って頂きたい。世の中には凄いお企業がいらっしゃって、ありとあらゆる「粉」の大きさをふるい分け、メモリやCPUを形成する単結晶半導体の表面を無歪に、電子から見て平坦な面を作り出せるものづくりをしていらっしゃる。比類なき分級技術だが、そんな「比類なき」というレベル感が素晴らしい。

比類なき世界は、正に破壊的イノベーションの世界であり、その用途は無限に広がる。突き抜けた技術は何かのために突き抜けたわけだが、突き抜けたものは、突き抜けていない世界においても新規参入案件が生まれてくる。なんらかの研究成果を求めて研究者は道に踏み入っていくのだが、それは先入観で作り上げた道であって、実はそのすぐ隣に新しい世界が広がっているものだ。それを見出すのがコーディネータの役割であり、広く深い見識が必要だ。何かが出来ると思っていると、実は何も出来ないものだ。何も出来ないとあがいている瞬間こそ、新しい気付きに向かっていると安心すると良い。

圧倒的に素晴らしいのに、世の中に出ていかないのは何か理由がある。世の中が追い付いてきていないのは最も幸せだ。適応しなければならない世界が現れた瞬間に、凄まじい縛りが現れる。コストという単語がその一つだが、コストコストと叫び続けた結果が今の日本だ。技術の価値化をエンジニアが行えない。そんなものづくりの世界は、世界の潮流からとっくにおいてきぼりだ。図抜けたものづくりをなさっていらっしゃる方々との交流だからこそそれが見えてくる。新たな図抜けを求める世界はすぐそこにきている。一歩一歩でも千里の果てを見てみたい。図抜けた技術はそんな気持ちにさせてくれる。有難いことだ。