小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ・・小学校5年生で暗証した島崎藤村の詩なのだが、今でも思い出すのだから凄まじい。若い頃の記憶とはそれ程に強く、そして純粋である。暗記するほどに繰り返し読み、その言葉の意味を想う。想うのだが所詮は小学生、濁り酒を飲めるわけでもなく、あぁ、そうなのだなと思うのみだ。
小諸城址の懐古園を初めて訪れたのは大学生になってからだ。そこに到着する前から頭の中で「小諸なる・・」が延々と繰り返され、どのような世界なのだろうかと極限の美化。園を巡って、成る程、こういうことかと小学生の理解は正しかったと。
逆の言い方をすれば、大学生になっても小学生の想いを越えなかったということだ。理屈はある。勿論、それはそうだ。しかし、感動は小学生で良いのだ。エゴに固まった大人の脳みそは不要である。純粋な憧れで良いのだ。
暮れゆけば浅間も見えずとあるのだが、浅間も大学生になって初めて見た。亡き母が、五十鈴川の流れを見て、小学生の頃に教科書で読んだ流れの姿、そのままだと語っていたことを忘れない。純粋力。今こそ、純粋力の時代であろう。そう思う。