ものづくりの研究をしていると、偉人達から譲って頂いた、偉大なる自然への畏怖の念という学理を土台に、実験から導いた自分なりの工学を立ち上げ、チューニングに至る工程の繰り返しであることが分かってくる。当たり前と言い切れる方は素晴らしい方だ。とてもそこまで及ばない。やってもやっても目指すところが高くなるばかりである。
少し前に「ほこたて」番組があった。絶対に加工出来ない素材を盾に見立て、全てを貫くドリルを鉾に見立て、それらを開発した企業が挑み合うというものなのだが、宇宙には加工(原子を移動させること)出来ない素材は無いから、盾にしろ鉾にしろ、どちらもすり減って、どっちが先に駄目になるかという競走になる。結局、勝ちも負けも無い競争だ。
教育機関のあり様も、世界の情勢が時間軸に存在しているわけで、それをにらみながら先手を撃っていくわけだ。撃ったら終わりでは無くて、二の矢、三の矢と次々と撃ち続けなければならない。疲れたら時間軸から脱落していく、終わりの無い挑戦を続けないといけない。失敗だ、成功だなんて時代が決めるものであって、組織として最善と「考えた」ことを撃っていく、それしか無いのだ。
山登りと違うのは、頂点が無いことだ。永遠の上り坂だ。諦めたら奈落の底が待っているだけだ。あれが良かった、こうある筈だと、そりゃぁいろいろあるでしょうよ。常に新しくなければならない。しかし、揺るがない学理の上に無ければならない。それを何処に持つか。永遠の課題なのだが、決断せねばならぬ。そんなものだ。