対面主義を憂う

直接、対面の出会いが無ければ利他の気持ちは生まれないのか?生まれないと仰る方とそうで無い方、当然の事ながら両方の意見が御座いますな。昨日、今日とHホールで開催されているテックビズの強硬開催には魂消たけど、これなどは対面が無ければならないとの考えに立脚している。なんでそうなんだろうと思えば、結局のところ、赤信号、みんなで渡れば怖くない的な、決して自立せず、敵を作らずの挑戦レス社会が長く続いてきたということにあろう。生かさず殺さずの江戸時代からのしきたりがものづくり現場に脈々と受け継がれる。

人口の急激な増加時に、政府系並びに大企業で吸収できなくなった働き手に労働賃金を渡すための受け皿として中小企業と言うカテゴリが生まれたわけだけど、川上・川下なんてカテゴライズもそれなんだよね。一般市民に使って喜んで頂くものを組み立て販売して、利益の最大化を目指す川下企業と、その部品の組み立て請負をする川上群と。川下企業からすれば工場を見て人を見て、出来たものを見て値踏みする、川上群はどうやったらお仕事を頂けるかの忖度・根回しに走る。対面で無ければならない慣習がこんなところにあろう。

ところがだ、世界では既に対面なんかすっ飛ばして、自らの機能を相手に売り込み採用され、スピード感を持って改善提案をし、次の商品に活用して頂く。業界を飛び越えて良品を高値でやりとりしている状況にあるが、この国では未だそれは受け入れられないわけだ。小さい改善が始まった段階である。それでも何も発生しないよりはましかもしれないが、そのスピード感の欠如はどうしてなのだろう。泣いてしゃがんでいれば助成金、補助金が出てくる状況をいつまで続けるのか。

100個分の部品から成る部材を一個にして、間の部品製造企業を一気に無くす。溶接ロボットを千台単位で無くしていく。それを「仕事を失うことはとんでもないことだ!」と考えるか、弊社の素晴らしい商品を適正価格で社会に受け入れて頂き、皆の笑顔を実現する為と考えるか。我が国とそれ以外の国との差がここにある。何故、仕事が無くなると思うかは、何万回も戯言を言ってきたので改めて言う気は無いが、結局、意識改革が出来ない国だという事だ。対面展示会に無限の可能性を抱く不思議さよ。

プレゼン考

某所向けの招待講演をさせて頂いた。招待と言っても当然の事ながらオンラインプレゼンで、某所会員向けという閉ざされた会ながら、オンラインの特性で「適当に情報収集をしよう」というやる気の全く無い参加者も含めてそこそこいらっしゃった。新作シート炸裂の(なんだそりゃ)、気合十分の準備状態とプレゼンは、まぁ、例によって無反応のあきれ顔ばっかりなんだけど、凄まじい集中力放出による心地良い疲れを頂けましたな。自律機能向上のためのプレゼンみたいなものだ。

会員様向けの内容だから、なんだったかは語らないが、MOTゼミから派生させたもので、ゼミ生の伴走のお陰で内容充実。研究発表と異なり、「これが世界初だ!」なんてエビデンスデータが無いので、研究者気分にはなれないのが玉に瑕だが、アウエープレゼンに向けた準備は、自己の機能増強にうってつけではありますな。思考そのものが新しく、ゴール設定からシート構成まで、3カ月も掛かってしまった。いや、掛けてしまった。

ふわふわしているご依頼の中、受けてしまうのがいけないのだけれど、受けてしまったらさぁ大変。日程は決まっているわけだから、逆算していって、この頃にはこのくらいの枠組みができていないと危ないなという勘は働くものの、余りにもふわふわ感満載だったから、気が付いたらメモをしていく程度の積み重ねで、えいやっと過去に作ったシートをパンドラの箱に詰め込み始めたのが大略1カ月前。土日に箱を開いて、あれを捨て、これを捨て、骨格が出来たのが2週間前。そこからストーリーを組みだして、新規シート構築が必要であることに漸く到達したのが10日前。

何のことはない、オンラインプレゼンらしく、万が一のために事務局に送付したシートにプレゼン数分前まで手を入れ続け、冷静スタートをしたものの、例によってプレゼン中に思考力が最大化していくから、想定のストーリーよりも遥かに盛ったお話になる。そうなってくると聴いている側はたまったものではなかろう。呆然と佇む聴衆(画面上だが)を前に、質問できるものならしてみなさい状態。まぁ、こんなもんですよ。学ぼうとされない、意識改革が大嫌いな聴衆は。そんな聴衆には、プレゼンターの機能が高まる場をご覧頂くのが宜しい。一緒になっては駄目だ。そう思う。

その時の為に

とても寒い土日が過ぎて、昨日の朝も寒かったが、寒気が入ってこなければ、そこそこ過ごせる日中となる。冬来たならば春遠からじは昔ながらのお話だ。街中の梅の花は咲き始め、まぁ、今週の木曜日あたりに再び寒気が入ってくるとの事だが、それもいずれ収まって、桜の頃がやってくるのだろう。と、暢気に構えてばかりはいられず、あれやこれやとコロナ禍明けの新しいお仕事のご相談がやってくる。そんなに上手いお話などは無いのだが、挑戦し続けることは良い事だ。その挑戦を支えることが大学として、仕組みを持っているかを問われることは間違いない。

あんまり細かい事を言い出すと、えらいこっちゃになるので戯言もろくに吐き出せないが、例えばAI活用という点において、社会的には人の代替を十分に果たして頂けるところまで進化しているわけで、AI文科大臣みたいなのがあって、各大学の強み分析から「おまえのとこはこんなところに注力しろ」みたいなことになるのは、そう遠い未来では無いような気がする。それに歯向かうには余程の覚悟がいるのだろうなと、勝手気ままに反対するわけにはいかなかろうと思ったりもする。

新材料創成やプロセスの最適化など、AIはかなりの力を発揮していて、創薬分野のみならず、高強度合金製造などにおいても当たり前の如くになっている。従来は基礎データを人間が作っていたわけだが、それすらAIが自ら学習して自らパラメータに代入する数値を作り始めている現状を見ると、今まで何をやってきたのやらと思ってしまう。しかし、この「思ってしまう」という感覚は極めて大切なのでは無いかと思うのだ。実際にやってきた人間と、AIが思考して与えたものを単に受け取る人間とでは、生きる力、問題を乗り越える力が違うと考える。

AIが考え、自動機械がモノを作っていく。工場のレイアウトも全てAI任せで簡単なことこの上ない。そうなってくるとだ、どんな学びが必要かと言うと、結局のところ、太陽の下、芝生の上でゴロゴロしながら自らの存在理由を問い続ける哲学的思考力の向上ということに行きつくのでは無いか?今はまだそこまで到達していないのだが、いずれそんな時がやってくるのだろう。さっさとそうなって欲しいと思ったり、はるか彼方だと思ったり。いずれやってくるその日の為に、やはり学びを続けよう。そう思う。

肥料は何処から?

SDGsとかサーキュラーエコノミーとか、カーボンニュートラルとか、経済発展とこれらを両立させなさいみたいな空気感が漂っている。そもそも論、地球という星が保持し続けることが出来る生命の体積って決まっていると思うのですよ。経済活動は食糧生産に必要な領域も含めて、その隙間を無機質で埋めて、それでサステナブルでいろという。肉食を止めて植物性のものだけを食べろという論文も出てくる。そうしたい人はやって頂戴。精神的サステナブルではない。

地球温暖化が本当かどうかという議論が為され続けているわけだが、産業革命以降、人為的CO2放出量が増えたのは事実であろう。化石燃料を使うなという事なのだが、石油由来のプラスチックや、石炭燃焼を今の所、必要とする製鉄なども止めろという事なんでしょうね。発電ばっかりが注目されて、太陽電池を作るための素材の発掘などに莫大なエネルギーを投入して、それは環境に優しいのだと、電池を作ったりね。リチウムを含む鉱石を採掘して、精製して、環境に良いと言われるものを、それが削減するCO2よりも大きな地球温暖化効果を出しながら作ることがSDGsか?

そもそも論なんだけど、人はそれなりのエネルギーを摂取しないと活動を停止するわけで、科学的技術 GDPは上がり続けるけれど、人口が減り続けるとかね。それってサステナブルか?例えば我が国の食糧自給率なんだけど、過去にも何度も語ってきたのだが、肥料という点においてちょっと見落としていたことがある。日本の食糧生産向けの肥料って、ほぼ100%が輸入なんですよ。今、コロナ禍などによって輸入可能な絶対量が減っていて、農産物生産量は勿論のこと、食品が有する栄養価も落ちてくる。特に太陽の正しい光エネルギーを使わない人工栽培では顕著だ。

大学は企業に技術を貢いで日本の産業を支えろと言う。世界に買っていただける最終製品を作り出し続けるには、極めて大きな投資が必要だが、それは汗でなんとかしろと言う。腹が減っては戦ができぬとは古来、言われてきているわけだが、腹を満たす食糧すら無くなったらどうするかという議論を聞いた事がない。農水省は肥料の国内生産が極めて微量であることはレポートしているが、危機的状況であることは報道はされない。この国、どこに向かうのか。お金にならなくてもやらねばならない研究は沢山ある。大学の使命はそちら側にも大きく広がるはずだ。それが知恵だ。それを捨てたくない。そう思う。

失敗の奨め

コロナ禍での入試なんだけど、それは何処で感染したか解らないような状況下だし、誰もが感染する状況にあるのは間違い無いし、他者に感染させる状況の受験者が、同じ受験会場で受験する状況は、周囲への配慮という点では避けなければならないとかね。対策を厳重にしていっても、無症状者が多い状況では感染を防ぎようがない。そいう言う意味では、風邪より質が悪い。ただ、少々の風邪なら受験に来ても、咳き込んだりしていなければ、過去の経験からすると周囲もそれ程気にしない。本人がそこまで頑張って来たんだからということを優先しますな。

ところが今回のコロナ禍での入試に関しては、親方の方からのプッシュが強烈で、まるで「関係していたら辞めます」発現的に突然話が湧いてくるもんだから、もうこれは大変。少なくとも何らかの筆記試験なりを課せれば良いのですが、コロナ禍でチャンスを失わせることの無いようにという一言が、恐ろしい圧力になって組織に負荷を掛けている。データが無いのに論文を受理しろみたいなもんだわな。必死に健康を維持して頑張っている諸君に冷や水を掛けるような気になっている。

そりゃぁ、感染症になったら自宅待機は当然だし、隔離対策も絶対に守るべき。その期間に受験日が当たっていたらそれは悲劇に違いない。しかし、対策を取って、罹患しないようにして、当日を迎えることが可能になっている者も大勢いらっしゃるのだ。その人達の努力を足蹴にしていないか。努力が報われなくて良い筈がない。そう考えるのだ。散々、砂を嚙んで生きてきたからね。

どうしてこうなっちゃうのかなと思うと、失敗できない日本のいやらしい文化が根底にあるかなと思う。常に他人と比較されて生かされて、ちょっと違う考えをするだけで叩かれる。ミスをすれば未来が消える。人間がやることでしょ?失敗するさ。失敗を許す気風の無さが、挑戦を支援しない風土になり、結局、いろんな過剰とも思える反応になる。この国の住みにくさの根底にそんなものがあるのかなと思う次第だ。

脳内革命を

ちょっと前にも書いたのだけれど、日本企業の皆さんが博士取得者を毛嫌いするってお話。海外では当たり前だし、博士課程に行っちゃった人たちって、ある意味、学び癖が付いていて、現実を変えたくてしょうがない症候群だから、企業からすると言う事聞かない変な奴という事になるのでしょうね。それよりも何かのスキルを持っていて、即戦力になって欲しいとかね。即戦力って過去の延長に進んでいく人達のことでしょ。そんな人達集めても過去の延長まっしぐらで、結局、今の日本を形作っているって、そんなリーダーの産物でしょ。

そんな状況の我が国にあっても、心あるお企業様からは共同研究と共に、若手社員の方に博士を取得させたいというお声を頂けます。まだまだ少数ですけどね。新しい事を自ら考える癖を持っている人種を置いておくのは、新規事業を生み出せない我が国の再生に、一番手っ取り早いと思うんだけど。大学生も、修士課程までは行くんだけど、就職先が沢山あるもんだから、それ以上研究しなくても良いやってなるし、企業殿が「博士を使いこなせない」というやる気の無さを前面に押し出していることも、日本の研究力を低下させる大きな要因であるのは間違いない。

学生諸君にも強く言いたいのだが、そんなに急いで先の無い企業に入ってどうするのだ?一生涯を掛けて学び続けている世界の企業のライバルとどうやって戦うのだ?「どうせ博士号を取得しても、お前みたいな戯言しか書けない奴に成り下がりたくない」は正しいとは思うが、世界初という体験は実に愉快であるから、目の前の行き止まりを破壊する力になること請け合いなのだ。企業自らが社員の価値を高め、国債頼みの日本経済を払しょくするには、社員の学び直しも重要だが、常に学び続ける見本を社内に置いておくことが手っ取り早い。

未だに年功序列なんて言っている企業は無くなったはずなのだが、だとすれば博士号取得者が国内企業にごろごろ居てもおかしくない。他の企業の機能を読み取り、そのレベル感で共創関係に入り、新規事業を立ち上げていく原動力は「人の知恵」しか無いのだ。無ければ買えば良いなんてばかり言っているが、買う原資は人であることに気が付くべきだ。社内で育てる?金を払って大学で若い時の勢いで研究に没頭した者と、金と引き換えに学ぶ者と一緒にしてもらっては困る。それでも人財の価値を高める手段として社員に博士取得体験をさせようとなったら、どうぞ鶴舞へお越しください!

ローテク考

金属材料の焼き入れ作業を35年ぶりに行った。真っ赤なピースを炉から取り出し、適温・適量の水に落とし込むクエンチング作業。日本刀を作るわけでは無いので作業は荒っぽいが、それらしく出来るから面白い。匠の方々はその色だけで判断できるのだが、小生は「滅多にやらない」エンジニアだから、機械に頼って定量的処理となる。金属という素材は、柔らかくも硬くもなり、その原子配列と社会にもたらされる価値が見事にマッチしている。

技術はどうでも良いのですが、何を申し上げたいかと言えば「ローテクのハイテクは大切だぞ」ということです。ハイテクもままならないのにローテクを捨てていく日本。言い過ぎかもしれないけれど、承継されないけれど重要な技術は沢山ある。伊勢神宮の遷宮なんて、技術承継を目的としたものだし、日光東照宮の保守が、どれだけ日本の文化承継に繋がって来たか。お金ではなんともならないものがある。それが人が生み出した手仕事である。

そんなもん、AIと自動機械がなんとかするだろうと、いや、確かに思うところはあるし、そっちの方が繰り返し精度が良いのは間違いなかろう。プロセスもインフォマティクス化してくのは正しい方向だと思っている。ただ、見本となる技術があるのなら、そこから獲得すれば良いし、伝承するべきは技術そのものでは無くて、技術が生み出す価値であって、その価値の承継は人の知恵そのものであって、それを受け継いでいくのが良かろう。

小生は酸化物超伝導体に酸素原子がどのくらいの速度で拡散していくかという研究の時に、焼き入れ手法を身に着けたので、原子の目線でモノづくりをしていることになる。何を大袈裟と言うかもしれないが、大袈裟で無ければ承継する価値など無いのだ。新しく生まれる技術も既にある技術も、人に笑顔になって頂く価値と共に考えるべきであって、それらがあるから技術となるのだ。技術は人の為にある。ローテクの実践はそれを思い出させてくれる。

こつこつと積み重ねていくと、凄いものが出来るものだなと、手前味噌なんだけどそう思う。要は「こんなものが出来たら素晴らしい!」としっかりと描けるか、本当にそれが継続して挑み続けるにふさわしいビジョンを叶えるツールなのかということに尽きる。このビジョンメークこそがDXの本質で、それ無くして、やれ「仮想空間に移住」だの、「情報系を学んだ学生さえ獲得できればなんとなかる」だの、バカも休み休み言って欲しい。

その対極を行っていらっしゃるお会社のちゃんちゃなトップのニュースを拝見するに、ものづくりのリアル世界で戦っている数少ないリーダーだなと感じますな。関係する日本のものづくり力を集約して、営業力も強化していく。これは凄いなと感じるところは経営力を最小化しているところ。ミニマムな経営思想だが、明確なビジョンを核に展開するから、軸足がしっかりしていて戦術のベクトルがぶれない。拝見していて気持ちが良い。

挑戦しようよって言ったのだけど、これは大袈裟な事では無い。人事面談なんかやってみると「これが気に入らない!」「組織内の壁が立ちはだかってどうにもならない!」って不平不満が出てきます。まぁ、事実なんだけど、その壁ってどんだけ厚くて高いの?壁があるから外乱も少ないと言えないか?壁を壊してくれ上長に頼むのは良いが、壁の中で出来ることを最大限にやってますか?今、自分が出来ることを見つけ切って、その上で万歳していますか?

仮想空間で土地の売買からモノづくりまでやって、現実空間で現金を獲得できている。そんな世界が既に世界で動きまくっている最中に組織の壁だの命令系統だの、旧態依然の意識の方には、現実社会においても居場所はどんどん狭くなる。壁は自分で作っているだけで、壊れやすいか難いかは別として、人の意識にしか無いものだ。万里の長城だって結局は役に立たなくなったわけで、壁がそこにあるって自分の意識に刻み込むのでは無くて、壁がある内に体力付けようくらいに思っていないと、壁が無くなった途端に路頭に迷うよ。そう思う。