食糧を考える

江戸時代まで遡れば、輸入という観点で言えば、何しろ鎖国してましたからね。食料に関してはほぼ自給できていたということと考えて良いのだろうなとは思うのですが、厳密に言ってしまうと違うと、学者の方々からお叱りを受けそうなので、この程度にしておく。水飢饉になって亡くなる方も多かった日本であるわけで、如何に、自給自足の国家を築くことが難しいかということであろう。

食料自給率を上げていけば、当然のことながらそれに掛かる真水の使用料は増えていく。河川から真水を獲得すれば良いという簡単なお話ではない。既に我が国は人間の都合で護岸を固め、山のミネラルが河川を通じて海に届けられる量は減り続けている。山の環境は、林業放棄によってとっくの昔に荒れ果てているわけで、山津波などの要因になっているわけだ。その他、様々な要因で、そう簡単には我が国の食料自給率を上げるということが魔法に思えてくる。

若者が食料生産企業を立ち上げ、休耕地を生産地に換えていくことに挑戦している。応援していきたいわけだが、それにはAIなどの現代の知恵をどんどん投入する必要があろう。ウルトラ高齢化社会であるわけで、更に、少人数世帯化し続けている我が国において、各戸にどのように食料を届け続けるのかが、工学者にも意識として求められるべきだと考えるわけだが、その関係性から新規研究テーマを創造することがなかなかもって難しいわけだ。

統計局の様々な数値を眺めていても、その関係性を人間が弾き出すことは最早無理であろう。だからこそAIの関与を求めたいのだ。しかし、AIの関与にせよ、関係性をAIから与えられても、それを社会生活にどうやって反映させるのか、そこには人間の解釈力が求められる。それを要らないと言ってしまうと、最早人間は要らないということになってしまう。そうならぬよう、生命を形作る水の高効率活用をどうしていくのか。遺伝子操作などすることなく、健康的な食料(食糧)をどう世界に展開していくのか。問題が大き過ぎるというところですな。

水について

世帯数が2人に一戸という割合にどんどん迫っているのには驚いた。昨日からの「ちょっと調べてみようかな」と思ったきっかけは、世界の農家数が、世界総世帯数の1%程度になっているという記事をネットニュースで読んだところからだ。我が国はどうなっているのだろうかと気になって、調べてみたらご多分に漏れず2%台だったということだ。

以前からの懸念事項に、我が国の水輸入量の果てしない増加というものがある。それとは逆に、我が国の土壌的優位性というものもある。同時に議論するべきなのだけれど、水輸入のほうから。大略、人口が減って、且つ、自給率が減っているわけだから、食料生産に掛かる水の量は当然減っている。570億トンということだ。ぴんと来ないが、かなりの量であろう。

一方で、海外からの食料輸入による水の輸入量は640億トン程度とのことである。ことであるというあっさりとした表現で済まされるものでは無かろう。国民一人当たり利用できる水の66%が食料生産に掛かる量であって、海外からの食料輸入分も加えると軽く100%を超えるのだ。即ち、食料だけでも日本人は水赤字なのだ。蛇口をひねれば無限に与えられると勘違いする水資源である。ましてやマイクロプラスチックで水資源を積極破壊する姿勢は愚劣極まりない。

限りなく小分けされた販売形態にいつの間にか慣れてしまった。小生もそうである。人の事など言ってはいられないのだが、それは戯言だから気にしなくて、兎に角、とんでもなく水不足なのだ。ちなみに国内だけの工業用水の割合はどうなのだろうと見てみると、世界平均が20%であるのに対し、国内だけを見ると15%であり、企業の努力を感じる数値になっている。これとて、海外からの機械部品、素材の輸入が多いわけだから、日本には真水が無いと認識するべきだ。そんな平成の世である。

統計から

年中そんなことを考えているのかと聞かれてしまうかもしれないが、そうだと答えるしかない。一方で、間違いなく時は過ぎていくから、研究人生などとっくに終わっているのかもしれないが、まぁ、大学人である以上、社会に還元させて頂く可能性のある、新しい研究テーマを考え続けることが生命活動となっているから仕方がない。呼吸をするかの如くに思考が止まらないのだから、まぁ、放っておいて頂戴。

で、陛下が御譲位されるということで、平成最後の何とかということが社会的な言葉に日本ではなっているので、それに乗っかって、今週は平成をちょこっと考えてみようと思う。で、いきなりゴミになった想い出話を繰り広げても脳が無いから、統計的に日本はどうなったのだろうかと、戯言にしては極めて稀な、政府ホームページを拝見して統計データなど拝見して、自らの指標でグラフ化してみたりした。余程、暇があったらしい。と言うか、それを研究に展開できないかなという助兵衛心があったのは間違いないのだが。

統計局には様々なデータが、国民には理解できないような形で展開されているから、自分で処理し直さないと、自らの主張を表現できるグラフなど出来ないのだ。こんなところに「嘘つき統計日本」の元凶があるのだなと体感できるから愉快である。国民の大望の末の国の在り方だから黙って従うことにしよう。総人口などは案外、最近まで増え続けたのだなと、2008年の住民基本台帳数値まで上がり調子なのにはちょこっと驚いた。何を調べたかったかというと、総世帯数と販売農家数と食料自給率の関係である。この先、日本は独立して食べていける国であり続けることが出来るのかと、工業界側の人間として気になったということだ。

ちょっと「あれ?」っと思ったのは総世帯数と総人口の割合。1993年には0.33だったのが2018年で0.46だ。要するに独り暮らし、二人暮らしが相当数になっているということだ。これはほぼ直線的に増えている。そして総販売農家数と総世帯数の割合は0.069から0.02まで減少している。カロリーベース食料自給率は0;.43から0.38へと減少している。朝昼晩とご飯を食べると、国産食事は日に1度だけだ。これが現状だ。食べさせてくれない国家でモノづくりをしろという。はてさて、研究者はどこに向かわねばならぬのか。背筋が凍り付く。

時代の籠城

多摩川と利根川に挟まれた籠城の地の特別性は、家康公の時代から全く変わらない。どんな理不尽もまかり通る魔界の地である。全てが許される。伊勢のアマテラスの時代から一子相伝のみが正しくて、新規参入は認めない。それが当たり前の社会構造でずっと来た我が国であるが、漸く、インターネットという世界共通言語に晒されて、ニュータイプが籠城を破るのかなと、ちょっと楽しみなのである。

何も、逆切れして他人を刺し殺すことを良しとするのでは無い。それは言語道断というだけである。そうではなくて、闇の中で決まることは極めて狭い視野の基に行われていることであって、人類として考えると異質であるということだ。一方で、その危険性もあると考えている。同じ言葉を使う民が、いがみ合い憎しみあう、戦国時代に逆戻りの恐れもある。

地球が一つの平和のベクトルを持てば良いのだが、寒い国から灼熱の国まで様々あって、真水が豊富か塩水だらけか、もう、生きているその基盤がまるで異なる人々が、同じ価値を「この瞬間に持て!」というのはかなり厳しい。小さな社会においておやである。結局のところ籠城の基軸が各人の心にあるところからが平和な思考の出発点であるということだ。

そうなんだけど、それを言い出すと、100億のストーリーが必要であり、口調が激しい人の言い分だけがまかり通るようになって、いじめが正当化され、それを見て見ぬふりをする社会になってしまう。心の籠城こそ人類の本質であって、発展など無さそうに感じる。そんな時だから、ゼロから始めなければならないのだ。明るさを恐れず、暗い中で立ち上がることが本質なのだ。籠城を思ってそう感じた。

心の籠城

今週は3日、お江戸でありまして、名古屋が出張状態ですな。多摩川を超えて籠城の趣ですな。そんなこんなでお仕事が溜まっていくわけです。するとヤドカリの如くにお仕事を背負って旅に出るわけですな。正にホテルへの籠城となるわけです。明日もヘビーなお仕事があるとなると、ちょっと一杯の・・なぁんてわけにはいかないのですな。友連れが居れば「行こうか」なんて自分が行きたいくせに。

こんな籠城は極めて辛いわけであります。欲望から身を守るという、ドアの鍵だけでは閉ざせない戸を心に建てるわけで、これは天照大神ですら出来なかったことなのですな。天岩戸の言われは、人間が誘惑に弱いのは、神様とて弱いのだという、自己嫌悪に陥らなくても良いのだよという、稗田阿礼氏の親心と思っていたりして。これは小生の勝手な解釈ですけどね。

近年、海外の方の日本への訪れの増加に伴って、まず、宿泊予約を取るのが大変!目的地からどんどん外れて行って、これでは名古屋に戻った方が良かったんぢゃないの(大げさ)という有様。出張旅費の範囲に入れ込もうとすると、特に春節の真っ只中では無理ですな。

物理的侵入よりも心のストレス源に対する籠城戦こそ、現代病の最たるものと思う訳ですよ。四方八方から飛んできて、悩みを口から出せる人々がうらやましい。こんな時には赤ちょうちんに入るわけにはいかず、籠城できるホテルの部屋に、それこそ籠るわけですな。心の籠城。無血開城は難しいなぁと思ったりして。人の責任に転嫁出来たり、己惚れていて人を欺けている気持ちになれる人が羨ましい。生涯、籠城など無いのでしょうね、羨ましい。

天岩戸

籠城というのだから積極的に外部からの侵入を閉ざすという行為であろう。西暦247年と248年に立て続けに日食が起こり、天岩戸の籠城のイメージが生まれたのであろう。勝手な想像ではあるが、かなりの方が仰っているお話なので、籠城伝説にはうってつけのきっかけだ。黄泉の国に行くなどというのは必然なのだろうから、イザナミの黄泉の国への旅立ちは籠城には数えられないだろうから、やはり天照大神の籠城が日本的には最初としておくのが良かろう。

防御が勝つというのは小田原城からくらいかもしれないが、あれも立派な籠城であろう。まさに城に閉じこもるわけだから読んで字のごとくの出来事で、それには相当のサイズ感が必要ではある。その究極がお江戸の家康だが、これは江戸末期の混乱期で崩壊してしまったから、具体的な籠城経験がなく、小田原の実践的籠城にはかなうまい。まぁ、お江戸のお城は小田原城のコピーだからね。そんなもんだろう。

神代の国から籠城は様々に使われている。ヘッドフォンをつけて聞かぬふりなどというもの立派な籠城だし、知らぬ存ぜぬの姿勢もかなり積極的な籠城と考える。世の中に籠城者の何と多い事か。強引に岩戸を開けようものなら、逆上の末、刃傷沙汰など当たり前に発生する。これなどは籠城から急遽打って出るという、なんだか戦国時代の戦い方の様だ。何を言っても親身になってもその心は開かれない。恐ろしいほど堅固な籠城である。

天岩戸は結局、隙を突かれて説かれてしまったわけだが、暴力は使われておらず、心地よい開城である。一方で、刃傷沙汰に繋がっていく現代の籠城は、開城させようとする気すらおこらない。ここまでくると籠城の勝ちということになるのだが、他者に不愉快な思いを抱かせる籠城は如何なものか。知らんぷりをこちらも決め込めば良いのだろうか。籠城に満ちた世界。うすら寒い。

多摩川

お江戸に出てみたら、まぁ、霞が関は19℃なんて、そりゃ、人が多いからね、暑くもなるでしょうなんて、ヒートアイランドにしちゃあ派手なもんですな。象牙の塔に籠城して、厳しい議論をさせて頂く訳ですが、う~ん、どうなんだろうなぁって思うのですな。

名古屋から新幹線でお江戸に入るには多摩川を越えないといけない訳で、流石の徳川家康のお江戸だけあって、大きな川が東京とその他って結界を作っていらっしゃる訳ですよ。入京の雰囲気リッチで、都民の籠城ぶりを感じる訳ですな。

蝦蟇の油売り大学に通っていた頃は、江戸川を超えて松戸に着いた瞬間に、何だか目眩がしましたもんね、なんか結界を超えちゃったって言うか、その他大勢チームに入っちゃったと感じる訳ですな。お江戸の魔力ですよ。

ただね、チーム籠城と、護るべき自惚れが無いチーム城外乱闘軍団とは、明らかに後者が勝ると思うけど、日の丸は籠城のピエロすら尊ぶ訳ですな。城外乱闘軍団が、実態のない我が身大切と逃げ回る。籠城組が勝つ訳だね。世界を見ようよ。それだけの事だ。

籠城

ふと思い出した。安田講堂、市ヶ谷、浅間、簸川、日本にあった籠城の歴史。思い起こしてみると学生時代というのは籠城の歴史だったなぁと。その籠城は開けた籠城というのが、知られた籠城とは異なっていた。逃げて心を閉ざす籠城と、進んで心を開く籠城とはまるで違う。違うが、社会は同類と考える。何故ならば、過去に住んでいるから。

未来から戻って、今を考えると、何度も何度も非連続の瞬間があった。それを当たり前と受け取る種族とそうでない種族が選別された生命の歴史であった。フラッシュバックするわけだが、それをまた感じるところである。不連続が現れる。

不連続こそ進化の歴史である。周波数が大きくなるだけで5Gだ何だととは、決して不連続ではない。マスコミは「えらいこっちゃ」と5Gの登場を政治の転換の様に祭り立てるが、それを受け取る側の姿勢が全く変わらない以上、静かに浸透するというレベルなのだろう。実際のところ、電子機器が漸く人間の反射神経程度になってきたという歴史的瞬間ではあるのだが。

籠城は古くからある。多くが守ることだ。攻める側が籠城した歴史は無い。無いが、未来からやってきた者からすると、過去こそ全てという攻め手への籠城ばかりである。そんなことで、今週は、籠城してみようじゃないかという、そんなところだ。

2月

気が付けば2月である。ついこの間、新年おめでとうなどと言っていたと思ったら、1/12が過ぎてしまった。何とも恐ろしい速度である。年齢を重ねる毎に一秒の長さが短くなってきているのではと真剣に考えてしまう。思考速度が低下しているからかもしれない。恐ろしい話だ。

この時間感覚なのだが、小生的には新幹線で東京まで行く時間が一つの基準になっている。先日の岡山で驚いたのだが、ほぼ同じ時間なのですな。岡山に降り立ち、なんだか普通だなと感じたのはそのせいである。実に近い。また来ようかなと岡山で思った次第。伊勢などはそれより20分も短い時間で着いてしまう。電車の速度は問題ではない、箱詰めされているその長さが重要なのである。

とは言うものの音すら立てられない共通テストの監督などは、その硬直的緊張感から異様に長く感じる。思索に耽り我を忘れるということが許されない時間は、これは恐ろしいほどに長いのである、秒針が止まってるのではないのかと思うほどだ。本当に止まってしまったらえらいことだが。時の流れはかくも愉快である。

モモという、時間泥棒が出てくるエンデの作品があるが、あれなどは全ての人類に共有される作品であり名作である。刹那よりも短い人生であるが、時間の長さは全てにおいて共通である。大切にせねば。そう思う。