ガバナンスイノベーションは来るのか?

昔話は年寄りの特権なのでさせて頂くことにする。洪水という被害は日常茶飯事でしたよ。台風も、そりゃぁ、大きなものも来ましたけれど、ちょっとした台風で、小学校では「目」の話とかね、先生が熱心にお話をして頂けました。雨風が止んでも遊びに出てはいけないとかね。出ていきたくても洪水でどうしようもない状況になっているというのが昭和40年代前半までの出来事であったわけです。堤防が高くなり、橋の位置が高くなり、気が付いたら洪水がなくなっていましたな。

昨今の台風は、そうやって築いてきた土木構造物をも破壊する程の力を持っているということだ。それなりに防ぐことが出来ていたものが防げなくなっているのである。破れないように頑丈に作った風船が破裂するみたいなものだ。その結果は先日の台風で見た通りだ。この状況を危機とみるのか、場当たり的に絆創膏を張れば良いやと思うのかである。構成員の意見を聞いて集約してリーダーが道を決めるという旧来型ガバナンスで追いつかない部分が出てきている。小生はそう考える。

暴力的大声の人、扇動的な人、要するに強そうな人、あるいは本当に集約的に強い人が、有無を言わさずその人の意思を押し付ける。徒党を組んで従来秩序を破壊しようとするグループが様々な対立を起こす。社会を見てみれば、AIや5Gという新しいインフラが技術価値を提供しようとしているのに、旧来技術を護るためにその参画を認めないとかね。日本においては人口減少問題はずっと分かっていたのにほったらかされたとかね。

コンパクトな大学だからこそ、当意即妙に世界と共有できる普遍的な知的財産、公共財産の生産に向けた教育体制を組んでいけるはず。産業界との対話で教育の新しいベクトルも作れた。危機感のベクトルのすり合わせが出来ていないことは大問題なのだから、そこに取り組んでいけば良い。大企業に育成された中小企業ではなく、技術を持って尖がっていく企業がどのように大企業の資本力を活かしていくか。これからの10年、そこに注力しては如何か。明日の戯言はあるのか?無かったらごめんなさい。理由は簡単だ。神妙な私であります。

思考と疲労

何も考えず一息つく。ほんの数秒でも良い、そんな時間を持つようになった。24時間、夢も含めて考え続ける毎日であるが、最近は、土曜日の朝など、数秒ではあるが思考を停止させる技を身に着けてきた。昨日が遠い過去に思えるような、逆に言えば、やってくる未来に向かっていけるというか、そんな状態に自らを追い込める技を身に着けたのかもしれない。一日の内で結果が類似しない大きなお話がごちゃまんとあるわけだが、その瞬間瞬間を切り替えていかないと、異なるお客様に絶縁壁を置けず、失礼なことをやらかしかねない。その為に、空白を瞬間的に作り上げること。これがお仕事のコツかもしれない。

大層なことでは無い。単に、思考する概念そのものを瞬間的に消し去るだけだ。ぐずぐずと会議を展開される方がいらっしゃるが、言い分は「即断せずに多くの意見をくみ取って・・」云々かんぬんである。言わせて頂ければ、決断する方向性を練ってこなかったことでしょ?大きなジャッジの変更があるならば、一旦会議を閉じて、持ち帰りというのが本当のところだと思う。事前想定をはるかに超えた「良質なゴールをイメージさせる意見」が出たのであれば、それを採用した時のプラスマイナスを広く考えねばならぬ。それには数分では無理である。そのジャッジは議長に任せられている。

話の間とはまるで違う。間を使うのは極めて難しい。下手をすると思考速度が遅いだけと勘違いをされる。尤も、その場合がかなりあるわけだが。バナナのたたき売りを浅草寺で見たのは今から50年も前だが、目くばせ、指の動き、声の大小等々、真似はできないが脳裏に焼き付いている。その後で、はしご乗りの妙技を拝見したが、あれも見事な間であったと、今、思い出すときっとそうだ。

何も考えない、思考を消した瞬間を作ること。単なる思考停止ではない。それは連続の思考の間であって、思考概念の消失とはことなる。ここ数日、面白がっている。人間は凄いものだと愉快に感じる。披露する恐怖からの離脱。単にシナプスが切れているだけじゃないのということが正解かもしれないが、考えないことが次の一歩なのかもしれない。なんだか最近、そう思った。

有意義な努力を

金継ぎという技術が日本に伝承されています。割れた茶碗を漆で繋いで、金粉で飾る。割れたからこそ生まれる侘びさびですな。博物館のガラスの向こうで出会う訳ですが、ある時、それをやってみようと思ったわけです。とあるところで入手したお茶碗を、ある事件で使えなくなっていたわけですが、どうしてもそれを復活させたいと、セラミクス接着剤みたいなもので逃げようかなと思いつつ、ふと、自分で出来ないかなと無謀にも勉強を始めたのです。漆工芸の本を買い込み、勉強を始めるわけですな。

結果として元の様に利用できなければ無駄な努力です。だから挑戦する前に、99%の確率ではゴールに到達できるという確信に到達した時点で、素材を買い求めましたな。漆等々、目の前の伝統工芸を支える素材を眺めつつ、後には引けないという追い詰められ感に胸を押しつぶされそうになりながら、漆と言う自然の恵みに祈るように作業に挑戦してみました。結果、数年間も壊れずにお茶碗を使い続けております。

何が言いたかったかと言えば、無駄な努力では無かったですよということだ。何しないより『まし』という事を事も無げに仰る方が多いように感じます。小生は無駄な努力は無駄だと思っています。大切なのは極限まで成功確率を高めることを伴う努力をするべきだということを心掛けることだと思うのです。己を知り尽くし、相手を調べ尽くし、自らの挑戦が「運」でひっくり返えされることならしょうがない、くらいに考え抜いて行動に出ること。これは無駄ではありません。何等か、獲得できると思います。

そんな無駄を省いていかないと、日本経済はますますもって泥沼化します。レシートを見て10%になっているなと嘆いても遅いわけです。財務省は社会保障・税一体改革により、消費税率引上げによる増収分を含む消費税収(国・地方、消費税率1%分の地方消費税収を除く)は、全て社会保障財源に充てることとされています。しかしながら、社会保障4経費の合計額には足りていませんと暢気に言っている。まだまだ上げますよということだ。どこかに無駄な努力があるとすれば削らねばなりません。日本の国で働いて税金を払おうと願う若者が増えない限り、国は亡びるわけです。無駄ではない努力に集中する。それは何かを常に考えなければならないと、2%の大きさに喘ぐ私であります。

スクラムの美学

ラグビーの世界選手権を見ていて感激することは、チーム構成がどんな状況であれ、日本チームとして世界が受け入れてくれていること。そして世界各国の選手が日本のチームとして競技に取り組み、全力を出し尽くして頂いていること。新しいナショナリズムだなと思うのです。留学生が云々とか、外国人労働者がどうとかとか、親方が散々叫んでいるが、目指すべき方向ってこれなんじゃないのとサモア戦をTV観戦させて頂きながら実感した次第。余りにも力が入って、ノーサイドの瞬間に腹筋が痛いことに気が付いたくらい力が入りましたな。

その昔はラグビーは何処かに集まって試合をするということは無く、基本がホームアンドアウエーだったわけで、世界のトップチームの試合を、TVとは言え観戦できるのはとても幸せな環境になったと感じます。と言うか、日本チームが外国チームに勝つこと自体、失礼ではありますが、滅多にあたことではない。小生的には釜石の松尾さんのドロップゴールみたいな、そんな時代が蘇る程度で、前回のワールドカップからの日本チームの取り組みに本当に感激ているわけです。一丸を感じます。

国際協力って口では簡単に出てくるのですが、具体的に行動しようと思っても、自国の利益だとか、企業同士であれば自社がどうのこうのとかで決して丸くは進まないのが社会状況だと感じるわけですよ。いろいろと想い、感じるところがあるのでしょうけれど、同じユニホームに袖を通して、肩を組んで一丸となって相手にぶつかっていく。信頼の絆無くして出来ないですよね。自分の領域だけが救われれば良いという気持ちではスクラムは組めないわけです。

大切なのは公益であって、塀の内側では決してない。塀の内側に入り込んで安心されては困るわけです。常に世界を見つめ続ける。その方向性が大切なわけです。守られていると思った瞬間、そこは一穴となる。守りはあってはならないこと。攻め続けて、境界線は保たれる。そんな時代です。苦しいけれど、頑張るしかない。そう思う。

羅針盤は未来

栄枯盛衰、諸行無常というと平家物語を思い出すのが、日本の国語・歴史教育の習いとは思うのだが、実際には源氏が倒れた後に政治の実権を握ったのが、平氏出身の政子なのだから、勝ったのは平氏だなと認識している。栄枯盛衰という文字面から見ると、栄えて枯れて、勢いがあって衰えると読めるわけで、栄えて勢いがあっても、いずれ枯れて衰えますよということで、恐ろしい四文字熟語があったのものだなと、常に意識している。繁栄と衰退は繰り返すということだ。

とすると、繁栄が衰退したら、再びなんらかの繁栄があるのかということだ。先日の古墳時代のお話に戻るのだが、繁栄があったのは海がそこにあり、船着き場で交易が盛んに行え、遠い土地との連携が取れ、商売を進めることが出来たからとも考えることが出来る。寒冷化がに伴って南極等の氷河が発達し、海岸線が後退した今、言っては悪いが志段味古墳群エリアが、当時の賑わいを取り戻すかというとそうでは無かろうなと言うこと。何が言いたいかと言えば、日本の半導体産業がかつての賑わいを取り戻せるかと考えるとどうなんだろうと首をひねるという事。

新聞等で東芝メモリ殿の社名変更が出ている。キオクシアという、なんだかメモリの記憶と架けましたか?と尋ねたくなる社名ににたっとしてしまったのだが、東芝メモリ殿は、元々、下火になったわけでもなく、盛衰したわけでも無いのだ。身売りされたから親御さんや学生からは倒産する企業と勘違いをされて大迷惑だろうが、2兆円の値が付く事業所が他にあるか?ということだ。価値があるのだ。その技術は価値を生み出し続けていることを誇らねばならあぬ。

ジャパンディスプレイはどうだろう。現政権が公的資金を惜しげもなく投じ、ライバルの海外企業の軍門に下った現状を見ると、う~んとうなりたくなる。技術を国で守る必要があるという判断が間違っていたかと問われると問いに窮する。これを大学運営に映すと、やはりう~んとなる。なるのだが、栄枯盛衰を繰り返すということであって、国の未来の一翼を担う工科系大学はどうあるべきか、鶴舞大学だからこその基軸は何かをぶれない意識で太く深く持ち続ける意識こそ大切だなと、舵取りは難しいと思う次第。目先で動いてはならない。肝に銘じる。

歴史の里

時々、お話をさせて頂く人類の歴史という壮大な戯言なのだが、密かに気になった場所にお出かけしてきた。何処かに行くと宣言すると台風がやってくるので、黙ってひっそりとお出掛けしたという具合だ。平成25年度に名古屋市教育委員会から計画発表された資料を拝見した時には「ほんまかいな?」という状況だったのですが、その後、時々、新聞等でその進捗が報道されたのを横目で見つつ、なかなか時間が取れずにほったらかしておいた学習ルートである。何のことは無い、志段味地区の歴史の里計画である。

ヤマト朝廷時代に交流があった土地であり、直ぐそこまで海が来ていた時代のお話であり、現在の土地環境から考えると、熱田からそんな奥地に古墳があるわけないだろうと感じてしまうかもしれないが、1300年前(つい最近である)には志段味は海の際であり、それ以前には更に海は多治見付近まで広がっていたわけだ。山から流れてきた土砂が分級され、志段味や瀬戸、猿投にはそれらの微細な砂と山からの栄養が蓄積し、瀬戸物の粘土が形成されたわけだ。

それらが寒冷化に伴って大地化し、採取できるようになったのが西暦年代前後頃であって、人が住み着き古墳時代を迎えたということだ。その当時から志段味辺りで作られた焼き物が関西は勿論の事、関東でも発掘されている程だから、かなり良い焼き物が産出されていたということは間違いなくて、焼き物の総称が「瀬戸物」と呼ばれても小生は当然であると思っているのだ。その整備された歴史の里を、漸く見学させて頂いてきたということだ。

古墳時代にロマンを感じているということではない。電気の無い時代に生活していた環境を体感することで、これからの人の暮らしの創造に役立てようということだ。日本には日本の文化があり、それがどのように生まれてきたか、精神的暮らしの有り様の根源がそこに見える形であるならば、見せて頂こうということだ。古墳の分布を見てみると、当時の海岸線が良く判る。鶴舞大学の地も描かれている。歴史と文化を大切にし、工学で社会に新しさを提案し続けねばと思った次第である。

ポスト自動車

どうやら今週末の連休にも台風がやってくるらしい。また「お前のせいだ」と言われる前に話しておかないと、お前がどっかに行くからその地がやられるのだとまた言われてしまう。南太平洋を西に横切って、高温の海面からのエネルギーを十分に受け取って、日本列島にドストライクでやってくるらしい。あくまでもらしいという事なので、どうなるか分からないが、地球シミュレータをはじめ、世界各国の巨大計算機がはじき出した進路はかなり似通って、まぁ、そう来るのだなと感じる次第。ここで「だったら・・」と下手なことを言うと、お叱りを受けるので予定の予言はしないでおく。

さて、10月も2週に入り、秋も本番ではあるものの、しばらくは30℃を超える気温が続くらしい。本来は黄色く色づき始めるであろう果樹が、緑のままどんどん巨大化し、枝が垂れ下がり続けている。中身が詰まっていそうな光景は嬉しいのだが、日本の秋の雰囲気も随分と変わったなと正直に思うのだ。一方で、郊外を走ってみると街路樹は確実に色づいており、深夜・明け方には秋の気配があるのだなと、少しホッとする。

小生的には講演・展示会が過密になってきたことで秋を感じる。お仕事柄、大学の外でお仕事をさせて頂くことが多いわけだが、先週も某所でご依頼の講演の場を頂戴してきた。すったもんだあって、ご来場者にはご不満を頂いたことと思うが、出来る限りギリギリの線の外側でご対応させて頂いたことでご容赦賜りたい。ちょっと言い足りないことがあったのでここで述べておく。無駄なことは百も承知である。ポスト自動車は大気汚染ゼロの自動車であるというあの中身だ。

問題は冒頭にも述べた様に台風が巨大化し、ばい煙に満ちた大気を正常化できる環境をどう作り上げるかという事だ。情報産業花盛りであるが、そこにべらぼうな電力を使い、火力発電をフル稼働している状況は、実は内燃機関自動車活躍時代と並行して考えるべきだということ。電気と言う便利なエネルギーをどうやって削減しながら活動するべきかということだ。車内の電子的サービスを落とし、走行距離を延ばす欧州方式と、電池があるんだから車内環境をディスプレーでゴージャスにしようという日本方式とどっちが正しいのか?気が付いた時には世界で全く売れない自動車がポスト自動車だったなんてならないように、気を付けようという事だ。

遥かなるMaaS

駅まで行ったけど、その先に移動手段が無い。空港まで辿り着いたけど、ホテルまで行けない。ちょこっと調べてみると、日本における路線バスの輸送人員は1968年がピークだったそうだ。確かに、駅前のバス停に、長いバスの列があった。床は板で、ワックスでべたべた、押し合いへし合いの移動手段ではあったが、最終目的地まで歩いて5分くらいのところまでは連れて行ってくれた。現在はその4割程度の輸送量だそうだ。

街中の輸送手段と言うよりも、夜行バスに代表されるように、時間は掛かるけど、その分、安いという足になっている。尤も、鶴舞大学から東山大学までの移動には、便利なので頻繁に利用している。当たり前なのだが、時刻が合えばという条件付きなので、会議の前には使うけど、終わった時刻にバスが来てくれるという事は無いので、地下鉄を乗り換えながら戻ることが殆どだ。

Mobility as a Serviceの略で、フィンランドのMaaS Global 社のCEOであるSampo Hietanen が提唱した概念のMaaSであるが、基本的には国民の移動手段をどのように獲得するかと言う政府の意識で、2012年から助成をスタートアップ企業に出したところから進んだ取り組みなんだそうですな。日本はなんだか自動運転車がハンバーグを売りに来るみたいな不可思議な方向に流れているけれど、人が移動することによって生まれる価値を最大化させようというフィンランド政府の高尚さには足元にも及ばない。

あおり運転の恐怖が毎日ニュースになるわけだが、街中の移動が自家用車ではなく、サービスとしてネットワーク化されたシステムが担ってくれれば、そもそも存在し得なくなってくるのでは無いかしら。自動車販売店が町中に溢れるのは、情けないことだと気が付くべきでは無いか。そりゃぁ、自家用車は便利である。それを捨てるのには勇気が必要だ。必要なのだけれど、それが要らないよと納得できるサービス網が創られる国家にならないものだろうか。ポスト自動車の行きつく先は、国と国民の智慧の獲得に掛かっているなと、自分もそんな人間にならなきゃなぁと、苦笑いする私であります。

空気は綺麗か?

水素燃料電池自動車が推奨されるのは、単に原理的に水素と酸素の結合時に電気を取り出せるというだけでは無い。実際のところは、飲めるレベルの水だけが排出されているのかどうかは分からないが、粉塵や窒素酸化物、硫黄酸化物が出てこないという点において、生活空間の空気汚染速度を減少させる効果があるのは事実である。

勿論、タイヤがアスファルト道路とこすれ合い、そこから粉塵が出るのは間違いないが、これは通常の自動車も同様であるから、水素自動車の否定主要因とはなり得ない。となると、700万円というコストをどう下げていくかが課題であるが、世界中で一斉に「水素燃料電池自動車しか走れません」と政治的に決断をするかしないかだけの問題だ。

地球温暖化は極めて複雑な要因で発生している。内燃機関を禁止すれば直ちに無くなるかと言えばそうでは無い。エネルギー収支、エントロピー変化を真面目に考え計算していかないといけない。地球平均気温が上がっていると評価されているが、具体的にもっと暑かった時代だってあったのだ。その反対に、赤道直下まで氷に覆われた時代だってあったのだ。人類が経験したことの無い暑さだなどと言ってはいるが、それは正確な温度記録が無いというだけである。

家庭用エネファームというものがあるが、NEDOが後押しをして、都市ガスから水素を単離させ、熱と電力を取り出す道具だが、当初は手の出ない価格であったが、普及伴って、頑張れば購入できるレベルにまで価格は下がってきた。本気でやるかどうかなのである。それは政府の問題ではなく、一般民間人の思考の問題である。安く手に入るが地球を汚しまくる機器を使うか、背伸びしないと買えないけれど、綺麗な空気の地球であって欲しいと願えるかである。地球温暖化の問題は、小生は空気の汚染抑止の問題だと思っている。空気清浄機など本来は要らない道具だ。そう思う。

本気になること

水車云々などと言うと、ダムを造って水を溜めてなどと考えているのかと思われるかもしれないが、小生は巨大ダム建造は良い事だと思っていない。河口堰など以ての外だと、自然の輪廻を妨げるものとしか目に映らない。淡水を使いたいがために堰を築き灌漑することにおいても気分は悪い。人間の都合で数千万年掛かって形成されてきた近代の大地に手を加えるなど暴挙でしかない。

一方で、お仕事全てを人力で行うべきなどとは思っていない。道具の力を借りて身の安全を確保するのは、マンモスと共存してきた先祖の時代から脈々と続くDNAだし、ナンセンスである。無人島に漂着したら、水を探しに山に入るだろうが、棒切れ一本も持たないで山に分け入る勇気など無い。話が石器時代に突き進んでしまったが、時々出てくる水素のお話である。

現在は有機物が生み出すガスや、藻類から炭化水素を生ませてそこから水素を取り出す手法が取られているが、これはその操作の途中でCO2を出すわけだから、真の地球温暖化ガス抑止にはなっていない。水素原子は宇宙にどんどん逃げていくが、隕石がかなりの水分補給を地球にもたらしているので良しとする考えもあるようだが、正確な収支計算を見たことが無いので、なんとも言えない。どちらかというと水素活用は積極派では無いという状況だが、石油や石炭をじゃんじゃか燃やすということに比べれば、まぁ、良いかなという程度だ。

水素を運ぶのが大変という事であれば、水素とCO2からメタンガスを作って、それをパイプラインで運べばよろしい。問題は、それを如何に安く低エネルギーで水素に再分離して、燃料電池に送り込むかである。普及しないのは水素を単離させるエネルギーより、燃料電池で生み出されるエネルギーが小さいからに他ならなず、その仕組みに挑戦している研究者は日本にも多くいるのだが、今度は金が無い。この辺りに、日本の本気度の程度が知れる。まぁ、そんなもんだ。