心の底を覗いたら

多くの方が、寝込みを襲われたか、そろそろ寝ようかなという時に、けたたましくやられたことだろう。TVは勝手にしゃべりだすしね。巨大カルデラ噴火の際に、気圧が変動して、様々な現象が生じると、地球物理関係の書物で読んだが、1800年代後半から発生していなかったので、それを体験?出来たことは、地学ファンとしては貴重な経験であったが、被害にあった方々には申し訳なく、お見舞い申し上げる。赤道の向こうで起こった現象が、地球をぐるっと回って影響を与えるのだから、自然の力の凄まじさであり、人類がどうあがいても勝てる代物ではない。

阿蘇山や鬼海カルデラ噴火などは今回のトンガ諸島の噴火よりも規模は大きかったとされるのだが、航空機等が上空を飛び回る現代においては、経済的被害は大きかろう。人間の生活空間が大きくなれば、それだけ被害は大きくなるという事だ。港に停泊していた漁船が転覆したり、養殖いかだが破壊されたりと、縄文時代には無かった経済活動によって、その影響は大きなものがある。大気中のちりが、コロナ禍にどんな影響を及ぼすのかも恐ろしい。コロナウイルスよりも大きな塵が大気中を舞うわけだから、デルタクロン株が噴煙によって拡散したら恐ろしい。

海底火山であるし、衛星画像しかわからないから、どんなことになっているのか殆ど情報が無い。衛星画像でもはっきりとその伝播の具合が解るわけだから、近くであったら破局的な状況になることは間違いあるまい。日本ではよりによって共通テスト期間中であり、公共交通機関に遅延があったりしたわけで、受験生諸君の中には再試験に回らざるを得ない場合もあったことだろう。天変地異は誰にとっても平等で、それもやむなしと、奮励努力する方向に気持ちを切り替えて欲しい。なかなか難しい事なのは分かるが、天災は平等である。天を恨んではならない。

富士山が噴火するとか、様々な災害が予想されている日本であるが、明日で神戸震災から27年である。小生が名古屋に訪れてから2年目の出来事であって、今も鮮明に覚えている。東海・東南海連動地震がいつ発生してもおかしくないと言われ続けているわけだが、それは必ずやってくるということを東日本大震災は教えてくれた。それも地球の鳴動であって、全人類に平等である。自然と人間の関係性であって、受け入れるしかない。その時までにやれることをやっておこうと、災害の度に自分を見つめ直す。それしか出来ない。

新しい事始めようよ

ふと思った。新しいことをしていない人の作業量って、世界でどれだけあるのだろうと。1次産業に従事される方は、生き物相手で瞬間、瞬間が新しいから、自動化が困難だということになるのだろう。ミニトマトのハウス栽培などは、かなり自動化が進んでいるとはいえ、極めて限られた巨大農園にのみ許される仕掛けだ。まぁ、国営ミニトマト農場みたいなのがあって、そこから栄養豊かなものが日本人の健康を守るべく出荷される仕組みなんてのができるのかもしれない。食品工場は食料自給率を上げるのには必須であろう。

話が思いっきりずれたが、作業は極力自動化していって、そこに必要であった人は思考を伴うお仕事に回って頂くことになろう。物流だって自動トラックが認可されて勝手にあちこち配達してくれたら、人はもう要らないわけだ。さっさとそうなれば良いのにと思う。何らかの規制があって、新しい挑戦が出来ないわけだが、時代がこれだけ変わっても規制緩和なんてどこのお話だろうと思ってしまう。そうかと思うと面接だけで大学に入学させてやれみたいな、気を付けて頑張っている大勢を逆なでするようなことは直ちに実行される。政治の私物化もここまでくればあっぱれかもしれない。呆れるだけだが。

中小企業さんでも頑張っているところは、将来に投資をして新規事業を始めているわけだが、図面を自ら起こせるところはそんな挑戦に取り組むのでしょうけれど、作業だけに徹してきた多くの企業群は、これから一体、どうなっていくのやら。コストコストでキュウキュウとして、しかしながらそのタコつぼから脱しようとはしなかったわけで、ポストコロナなんかどこ吹く風で、きっと元に戻るのだと思っているのでしょうね。そんなことはありはしない。

半導体ウエハの市場への供給が間に合わないとのこと。一時、過剰生産になってしまって、ウエハ製造機械メーカーが稼働を絞り込んだ。その期間が長いと、当然の事ながらノウハウは失われていくし、新規に立ち上げようにも直ぐには動けない。本当は必要なのに活動出来ない状況に陥るわけだ。競争は悪い事では無いが、過度な競争は全滅に至ることもある。そうなると国から力が削げ落ちるわけで、常に新鮮なお仕事があるような国になっていかないといけないわけだけど、新しいことって、そこから実りが出るまで時間が掛かるからね。だからポストコロナを考えれば、今、額に汗しないといけないわけだ。座して死を待っている国に感じてしまう。恐ろしい。

抜け道天国に思う

こんな事が出来たら素晴らしいのに!ということにチャレンジをしないのは何故だろう?そこに知識を持った人間が居るのに、助けを求めないのは何故だろう?まぁ、企業さんにとってみれば利益は自分だけにして、他社には潰れて欲しいわけだから(極論)オープンイノベーションとかは以ての外、共同研究だって、何処から秘密が漏れるかもしれないと疑うような人には出来ないでしょうね。スパイ天国のくせに、そんなせせこましいことだけは拘ったりするから厄介だ。共に大失敗しましょうなんて景気の良い話は全くない。

執念深くやっていると、何かが見えてくるものだ。生物が何十億年か掛けて成り立っている「今の最適な状態」とて、技術を持って模倣できるものもいくつか現れてきた。人類とは恐ろしいなと思うわけだ。ナノテクノロジーなどと言って、形だけでは無くて、素材の原子配列まで模倣して並べてしまう。誰もが出来るわけでは無いが、出来る人が居るというのが凄まじい。この出来る人は何故出来るようになったのかという謎がある。

その謎には一つ、「とてつもない失敗経験」というものがあるような気がするのだ。どうしようもない失敗で、今、思い出しても赤面で、消し去りたいと思う過去を持っているかどうかではなかろうか。そしてもう一つ、徹底的にいじめられて辱められて、それでも何とかその世界からはい出して、今を明るく生きているということ。この二つの経験は自らの行動を精緻に観察でき、そして「こうやってはいけない」という野生の勘が働く。こうやってはいけないが、本当かどうかは解らないのだが、正解に辿り着くには分岐を減らすことも大切だから、そんなことにはこの経験は役に立つ。

この2つの経験は謙虚さも生む。自分はどうせ何もできないのだと、自分を追い込めた人は、そこから頑張れば何かか生まれると体験している人だ。ゼロから数字を生んだことがある人は、倒れてももう一度ゼロになっても、そこから起き上がって何かを創り出す人だ。そんな教育者が必要だ。そんな人間が研究者を育てるのだ。乳母日傘(死語)で育ててはいけないのだ。暖かく、そして極限まで冷徹になれなければ人は育てられない。生易しく中途半端に満ちている気がする。逃げ道ばかりが世に蔓延る。それは気に入らない。

規制立国

通信速度が5Gレベルに成ったらいろんなサービスが体験できますと聴いていたのだが、なぁんにも変わらない。そう感じているのは自分だけなのかと勘繰りたくなる。画面の右上に時々5Gと出てくるから、あぁ、それなりの速度が出ているのだなと分かってはいるが、メタ空間の住人では無いし、この辺りが旧石器時代人と現代人の違いなのだなと、石器時代人認定が成されたようで、それはそれで愉快である。

ドコモさん曰く今は4Gを経由するというか双方使いだから4Gがボトルネックになる。5Gだけを使う5Gスタンドアロン技術の普及によって5Gならではの世界を体感できるというのだが、最初からやってくんないかなと思うのだ。そうでなくとも世界で最も遅れた通信品質の我が国において、サービスそのものもちびちびと出されてくるのであれば、メタ空間の若者の遊び心がしぼんでしまい、ちっとも楽しく無い国日本という印象を世界に与えてしまう。

アニメーションとかCGとかのリアルさにおいて、ちょっと前まで日本初の技術は面白いなと感じていたのだが、現状、この化石的映像は何だ?と見返すと、日本製の映像だったりする。映像技術って可視化技術なわけで、これはものづくり機械の進化にも直接影響してくるわけだ。人間が確認するとかしょぼい事は言わない。計算機が生み出した三次元、いや、時間も含めて四次元の時間変化も含めたフレームこそ、実可動を含めた顧客に届いたモノの状態を表していて、それをAIで診断してということをやれていないのは日本くらいのものだろう。

仕事が無くなるから規制するとか、地方をないがしろにする10増10減案はけしからんとかね。ネット投票の規制を解除した途端に、メタ空間のリーダーが次の時代を創り出すのだろうけど、まぁ、そんな楽しい世界の実現・体験は旧石器時代の政治家諸氏がリーダーである限り無理なんだろうな。オミクロン株の毒性にしろ、どれだけ市中に感染者が居るのとか、いつまでたっても国産の薬が認可されず海外頼みのままとかね。なんだかつまらない。そんな日本に誰がした?

ベクトル

未だに人になった気になれない小生であるわけだけど、昨日のお話の続きっぽくなってしまうのだけど、結局、人手不足って「働き手の努力不足」であり、「指導力不足」ということに尽きるのだと思う。雇われるサイドにやる気がなくて、雇う側に指導する能力が無い状況において、どんなに頭数だけが揃っても、それは利益に繋がらないわな。全ての人がそうだと感じる訳では無いのだけど、失敗しないことが正義になってしまって、挑戦という概念が無くなってしまっている。それでは利益など出る筈は無い。

10年ほど前からバックキャスティングと言い始めて、誰もが使うようになったから、何か次の言葉は無いかなと探しているわけだが、多くがフォアキャスティングなのですよ。今までこうだったから、次の事柄も過去の踏襲。過去の情報を上司と呼ばれる人達が囲っていて、こうやったら、書類としては受け入れられたというデータを持っているものだから、それ以外の新しいお仕事は排斥すれば良く、そうなるとその組織は崩壊していくわけですな。身内がそうならないようにとは思うのだけど、難しい状況にありますな。

バックキャスティングって、多くの方が簡単に仰るのですけれど、そう仰っていらっしゃる方で、ビジョンをお持ちの方に出会った事が無い。まぁ、今の日本では夢を抱くのは相当に難しいからね。親に反対されるとか、配偶者に呆れられるとか、そんな程度で諦めてしまう程度のビジョンだからね、そんなもの、ビジョンって言わないから。特に東海地域ではその傾向が強いと某社の記事に出ていた訳だが、「その通り!」と笑ってしまいましたよ。ボタンが無いとデータを出せない研究者とかね。どっか行っちゃえよと言いたい。

ビジョンを描けなければ目指すところが無いのだから、努力なんかする筈は無い。指導する側の人間にビジョンが無ければ「一緒に頑張って、共に歩もう!」という方向性が無いわけだから指導なんかできる筈は無い。この何にも無い状況が今の日本の有り様で、人手不足と嘆く本質なんだと感じている。大切なのは一緒に歩める仲間が同じ職場に存在しているかと言うこと。アバター世代の方々は案外、メタ空間では強烈なパワーを発揮できるかも。旧人類の皆様は、ひょっとすると諦めるしか無いのかもしれない。小生は諦めないが、こんなところから令和維新みたいな事が起こるのかもなと、やたらと忙しかった三日間、考えていた私であります。

元服

苦しいから給料を頂ける。まぁ、そういうことなんですよね。好きなことだけやっていたい、打ち合わせで納得しましたと言ったのに「やっぱり嫌だからこっちをやりました」とかね。到達したいビジョンに向かって社会の為に行動しようって決めたはずではないのかしら?その昔なら「ばかやろ〜」と怒鳴って、言われた側は陰でしくしく泣いて、同僚が庇ってくれて。そんな流れだったけど、今では怒鳴るなんてもっての外、そもそも到達するべきゴールに向かって、100分割位して、到達したら褒めまくるという、それが指導と呼ばれている。

その時代毎に、まぁ、そんなやりとりの在り方が変わってきたのでしょうね。勿論、小生の時代とて、武士の時代とはまるで違っていたわけで、安穏と暮らしてきたのだと思う。思うところがあって引き出しを引っ張り出して、片っ端から捨て始めたのだけれど、勿論、捨てきれないものが出てくる。その一つが先人からの手紙。勿論、あの世から送られてきた訳ではない。既に亡くなっていらっしゃる先人が、後輩に託して書いて頂いたのだなと、心の中で手を合わせて読ませて頂いた。

古い道具も出てきて、これが本当に良くできているんですよ。丁寧な作りで「どうやって作ったのだろう」と頭をひねる。これなども先人からのメッセージに違いない。もっと丁寧に、全力で丁寧に取り組みなさいと諭されている気がする。短納期が叫ばれ続ける日本であるが、勿論、ダラダラやって良いわけは無いのだが、求められる価値に見合った時間の掛け方というものがあろう。それを心に刻んでお仕事をさせて頂きたいものだ。

その昔は元服というわけだから、その年齢に達すれば主君のために死なねばならぬ。その掟に乗っかりましたねというのが成人である。社会に活かして頂いて、次の社会を担う責任を持つ。そんなお話は全く通じない世の中になったわけだが、まぁ、人と人との関係で、約束したら守ろうよと思うのだ。それすらどうでも良い側に回っている昨今、どうすれば良いのか、困るというか呆れることがある。老人は死ぬまで働いて、成人の年齢が下がっていって、一体、この国、何処に向かおうとしているのか。あっちの世界で見ていたい、そんな気にもなる成人の日である。

さらば正月

思い込み、勘違い、まぁ、いろいろありますな。直ぐに気が付くものもあれば、放置されてしまって、心の片隅からも消えてしまって、何かのタイミングで、人からご指摘を頂くと、うわぁっとなったり、されたり。まぁ、勘違いで喧嘩をしても馬鹿馬鹿しいから、直ぐに白状し合って解決するのが宜しい。特にトップに近い人同士はそれが最良の薬だなと思う次第。

東京は大雪になるそうで、まぁ、汚い世の中が真っ白に一瞬なってよござんしょくらいに思うのが良かろう。大雪となれば出歩く人が減って、2週間後にはコロナ禍新規感染者が減るとかね、そんな状況になるかもしれない。何か平常と違う事が生じたら、今まで嫌だと思っていたことが無くなるかもしれないくらいに考えると宜しい。まぁ良いんじゃないのって、気軽さは必要な気がする。毎日しかめつらをしてもね、疲れるばっかり、思考の視野が狭まばっかり。

思考を深めると言うと、そればっかりを学ぶこと、考えることと捉えがちだが、考えていることそのものを客観視するために、関係ないと自分が思っているような本を広げてみると良い。案外、気付きがえられるものだ。小生もものづくりを考えていて、哲学云々の本を読んでいたら、流石に哲学だけあって、ヒントがごちゃまんとある。先人の知恵を頂戴しない愚か者になってはいけないなと、聴き力の大切さを改めて知る。

もう、正月7日、七草がゆの日になってしまった。あっという間に松が外れ、素晴らしかったお正月は過去の行事となってしまった。来年の正月まで指折り数えるのも馬鹿馬鹿しく、おめでたく今年の残りを過ごしていきたいものだ。頑張る若者を応援し、仕事が無くなる人を「実力が無くなるわけではないよ」と慰めて、儲からないと嘆く人には、「別の事やるしか無いでしょ」と転機を気づかせ、まぁ、そんなことを今年も重ねていくのかなと、過ぎ去る正月に引かれながらも前に進むしかないですね。連休を有難く過ごさせて頂きましょう!

アンケート考

苦情では無い希望をアンケートで聞き出すことが出来るのであれば、それは事業をするのであれば、有難い情報となるだろう。しかし、多くの場合、不平不満、俗に『痛み』情報だけが積もり積もって、何の役にも立たない情報の山となることが多い。しかしアンケートのプロと呼ばれる方々の手に掛かれば、ステークホルダから神の声を聞き出すことが出来るのでしょう。そんなお話が耳に入ったわけです。

チャットボットでの対話は愉快ですな。こちらから提供する情報に対して、過去のパターンや、企業の誘引したい方向性で聞き返されてきて、「良く出来ているなぁ」と感心することしかり。アンケートやヒアリングって、聴き手の意識が何処にあるのかを考えてみていると、それだけでも面白い。聴き力はコミュニケーションの肝なわけだけど、うっかりすると聴き手を喜ばせる無意識の忖度が働いてしまい、聴き手に真実を伝えていないことがあるから要注意だ。

「本当はこれを言いたいのだけど」相手を傷つけてしまうとかね、妙な忖度が働いてしまう。忖度をしない人はそれを真に受けてしまって「これで良いのだ」と突っ走る。案外、それはそれでコミュニケーションとしては正解なのかもしれないですけれど、それを「紙面のアンケート」という形で忖度を働かせるって凄い事だと思う。実際のところ、いろんなアンケートを拝見するのだけれど、途中でいやらしさを感じて記載を辞めてしまう場合が多い。

自分自身の考えを纏めるなどと言った時においても、自分の経験値がバイアスになる。真の公平なんてものはあり様がない。有り様が無いから皆で決めましょうと、何となくの正義を感じる手法を人類は採用しているのだろう。結局のところ時代が人を作り、その人達が新しいルールを作っていく流れが、人類が選択するべき方向なのだと思う。それに従いつつも、自分であるべきところは残していく。そんな生き方しか出来そうもない。アンケートは拝聴しますが、まぁ、そんなもんだ。

1nmって

昨年のことを言っても鬼は笑わないと思うのだが、別に笑われても良いのだが、TSMC社が熊本に立ち上げる工場って、安全志向の車載用で、まぁ3世代前の代物なのですけど、それは良いとして、最先端ロジックLSIの新聞報道等に『1nmオーダーゲート』みたいな文字が踊るのですよ。この1nmっていろんな意味で凄いんだけど、半導体研究に携わってきた身にとってみると、もう魔法か?ってレベルである。写真製版的にどこまで作り込めるのかということも、機械的精度という点においても凄まじい。自動車なんて1μmオーダーでもびっくりだからね。

ややこしい話は大幅に割愛するとして、シリコン原子が自由に出来る電子の数とは異なる原子を導入して、その原子の持つ性質を活用してスイッチのオンオフとかが決められる。これでもややこしいかもしれないけど、普通に作ると、その異なる原子が自由に出来る電子の半径って、普通に作っちゃうと40nmくらいになっちゃうんですよ。すると1nmのゲートだとそれを遥かに越えてしまうので、それを狭い範囲に閉じ込める魔法が必要になるわけですな。

本当にやるのかなと思ったが十数年前なんですけど、なんでそんなことを思い出したかと言うと、頂いた年賀状に「あんたが話してくれた未来のプロセスがやってきましたね」と書いて頂いたからなんですよ。喋った本人は完全に忘れていましたけどね、聴いて頂いた方が、これまたニッチな世界の方なものだから、覚えていて頂いたという具合だ。1nmってシリコン単一の結晶だとすると、原子がきちんとパイ生地みたいになっているとすると(パイ生地よりもきちんと重なって並んでますけどね)7層くらいしか無い。その中にスイッチ用の電子を閉じ込める。もう魔法だね。

これが大きく成れば成る程、製造コストは下がってくるわけだけど、技術的に甘いものを国内で作られても技術力の向上には繋がらないし、そこで求められる消費財だって、最先端よりは低レベルの御安いものしか使われない。要するに、折角、最先端技術をお持ちの企業がやってくるのに、持ち込む技術が3世代前だと、国内の技術レベルは上がらないということだ。こんなところにも自動車一本足打法の日本の弱さが見えますな。株価値上がりで喜ぶ経済界なんだけど、世界から求められる技術が沢山あって値上がりなら良いのですけどね。そんなものに挑む企業と大学の関係になり続けていかないと。年賀状のコメントに意を新たにさせて頂き、感謝致します。

今年をどう過ごす?

お正月気分で居られるのはいつまでかという永遠の問いかけがあるわけだが、三ヶ日だったり七草粥までだったり、どんど焼きまでだったりと、まぁ、一年中、正月気分というのが一番良いわけで、御めでたい年であって欲しいなと思ったりするわけだ。地球温暖化によって大きな気候変動が生じているのだが、ここで「人類の活動が・・」って括ってしまうのだけど、それって資本家の仕業じゃ無いのって弱者が言っても聞いてはくれない。

結局、その活動に手を貸しているのだから、お前も罪から逃れられないと、いや、逃げようとは思わないけどね、基本、紙と鉛筆で商売している人種であっても、巡り巡って大量生産、大量消費に手を貸すわけだ。デパートで買い物したりね、そんな所に出かけて行くという行為そのものが資産家の地球温暖化を後押ししているわけだなと、山のように入ってくる正月のマーケットのチラシを見て実感したわけだ。小生自身はデパートなどには行かなくなりましたけどね、この二年くらい。

混雑を避けて活動するようになってきたわけで、これはこれで快適なんだけど、例えば国定公園なんてところを車で走ってみても、野山が切り開かれ、インターチェンジから大きな道路が作られて、巨大な工場ができていたりする。住う人の為に宅地も造成されて、自然環境などは木っ端微塵だ。どこに持続可能性という行為が見られるのか?結局のところ、資本家の持続可能性だけが優先されるわけで、自然環境なんというものは、資本家の都合で作り替えられていくわけだね。手付かずの自然林とか言われるところもあるけど、その周囲は人為的環境なのだから、手付かずじゃ無いよね。

何も無いところを探し求めて、資本家の皆さんは宇宙に飛び出して行ったわけで、お金を「何も存在していない空間」に投じて、「存在する」空間に変えて、そこにも資本を得ようとする姿に、まぁ、辟易致しますな。資本が価値を生むと思い続けている。ほんの一部の人が地球環境を破壊して、地球人全てのせいにして資本価値を独り占めにしている。そんな今だからこそ、智慧者とその教育システムが必要なのだ。そんなことを思いつつ、じっと手を見ても何も変わらない。だから頭を働かせて手を動かす。そんな一年にしていこう。