インターンシップ

ちょぴっと気になる就職活動のお話。自分自身がアフターバブル氷河期真っ只中だったので、中小企業殿を3件回れて、1件に内定を頂けてという状況だった。インターンシップには3年生の夏休みに体験をさせて頂いたが、そのお会社は、その時は「是非」と仰って頂けたが、4年生になってみると「採用ゼロ」となってしまった。まぁ、口ではそうで、「来んでもいいわい」と言われたのか、まぁ、前者だったに違いないと思い込んではいるものの、今となっては真実などどちらでもよろしい。

新聞報道でしか解らないが、インターンシップ時の、何というか感触とでも言おうか、それを採用選考に認めないということが政府方針であったらしい。それを認めるという事が新聞の見出しに出ていて驚いた。そんな暢気な事を今更言うのかと。そもそも政府が企業の人事に口出しをするというのが奇異に感じるわけだ。GDPが上がるべく、世界にものを売れとか、大学には研究の効率を上げろとか、ファンドを用意したから国際共著論文を増やせとか、まぁ、いろいろと仰って頂ける。手段に口出しするなとは言わないけれど、離職率が高くなってきている状況打破を考えるなら、インターンシップ時の状況を採用選考に活用するというのは当然の事だろう。

人件費問題で言えば、最早、隣国よりも自国の方が安くなってきているから、生産現場においても時刻主義にならざるを得まい。高専やちゃんと基礎と実践力を獲得させる努力をしている大学の卒業生を優先してコスパを上げようとするだろう。その時、インターンシップというのは、人財育成機関としての厳しい外部評価となる。それを積極的に、インターンシップ派遣先に開示して頂きたいとすら思う。社会を忖度して方針をころころ変えることはしないが、弱点をご指摘いただけるのであれば、そんなに有難いことは無い。

お前のところの卒業生は要らないよと言われるのと同じことが、留学生の国選びではとっくに起こっている。美国に行けないから情報だだ漏れの国にいこうという流れが出来つつある。勿論、人的繋がりから優秀な方にも多く来て頂いている。そんな方が我が国に就職として残らないのは何故か、それを真剣に考えねばならない。この国に留まっても、挑戦しないモノづくり、海外からの産品頼みで、純粋な日本発の道具が無い。教育組織の大幅見直しが絶対に必要なのだ。待ったなしだが、社会全体が「どん」と変わらない限り何も起こらない。取り残されているな、そう感じる。

店頭

「店頭」という表現がある。駄菓子屋の軒下などは、正に店頭だったのだろう。いや、その前の店頭体験と言えば、おふくろに手を引かれて行った「豆腐屋」と「何でも売っている屋」だったような気がする。豆腐屋さんは角にあったので、側面の勝手口に並んで、大きな桶に、湯気の立つおからが並んでいた。おからを集める業者があるのだと聞いたことを覚えている。あれが卯の花に化けるのは後で知った。何でも売っている屋の店頭には「たまご」が積まれていた。1960年代である。レジスタなど無く、竹かごが吊るされて、そこで銭のやり取りをしていた。

店頭なんてものを思い出したのは、今、携帯が店頭になっているなと思ったのだが、その店頭しか知らない若者にとって、その昔のイメージで語り掛けても伝わる筈は無い。70歳を越える政治家諸氏が「若者よ!」なぁんて叫んでも伝わらないわなぁ。ワンルームのアパートでゴーグル掛けてゲームに没頭し、アバターで集会に出る。ウーバーイーツで食事を済まし、冷蔵庫も持たない生活を送る。小生などは憧れてしまいますけどね、いや、冷蔵庫が無いというところだけですけど。あんな電気食いで場所食いのものなど無用の長物である。あんなモノが無くても生活できる環境が必要なのだと思っている。

記憶の彼方ではあるのだが、小生の父親の代は50~55歳で定年であった。そんなに大昔では無い。今ではそれが「死ぬまで現役」と叫ばれている。叫んでくれるのは良いのだが、同じ空間で生きている20歳よりお若い人達にとって、そんな国はどのように写るのだろう。80歳以上の方が元気に闊歩されているのは「凄い!」と感激するのだが、それは今の自分がへたばってきているからだなと思ったりもする。毎日、全力で過労困憊になるまで頭と体を使っていたら、50歳定年であるべきだと真剣に思うぞ。それがそこはターニングポイントでしかない。

店先とか店頭とか、それがポケットに入っている。運送業さん達のラストワンマイルの空振りを防ぐツールもスマホ経由だ。いつでもどこでもコネクテッドで、繋がらない機器があるとジェネレーションギャップを感じてしまう。普通のマーケットに行くとモノが目の前に並んでいてホッとはするのだが、そこには生産者等の情報まで記載されて、いつの間にか決まった生産者の産品を選んでいる自分がいる。主体と能動の境界線は何処にあるのか。円安の記事を見ていて、ふと思った。

遥かなる人財育成

人材育成って単語は恐ろしくて、そこかしこにちりばめられるのだ。まぁ、大学なんてところは人材育成の場であることは間違いなのだが、その組織に当たっては、本社の御威光というか御意向というか、強烈に入って来て、それが認められたとしても、随時、「なにやっとんじゃぁ」とお目付けが入ってくるわけだ。それは当然と言えば当然で、世界が猛烈な勢いで動いているのだから、それを先取りするようなことをやっていますかとか、政治家諸氏の朝令暮改にも追従していかないといけないわけでこれはこれでえらいこっちゃなんですな。

勿論、真面目に大学のビジョン、戦略に則って戦術を立てその通りに進むのだけれど、それはスタート時点に定めたものであるから、アジャイル的に生きた組織と言う事にしようとするならば、がちがちに固めた「こう決めたのだからこれをやるのだ」なんて石頭では社会の要請にお応えできない。例えば、技術オリエンテッドで中途採用を80%にしますと企業が仰ったとしても、それに打ち勝つような教育をしていますから就職枠を持ってくださいと言えるか。そんなところにも大きな影響が出てくる。高校生もそんなところを見て、自分に力を付けてくれる大学か考えるのが良い。

企業がリカレント・リスキリングに送り込みたい大学かどうかも重要である。社会貢献と人材育成の合体業であるわけだが、企業人が大学4年生よりも時間にルーズで知恵が浅いなんて人をリカレントに送り込んで来たとすると、そのお会社に就職しようとする者は居なくなるでしょうね。良い面ばかりが強調されるリカレントなんだけど、小生的にはもろ刃の刃だと思っている。勿論、企業に戻られて力を発揮できないようなことになれば、もうその大学には社会的価値は無いとレッテルを貼られておしまいということでしょうな。

要求するのは簡単なんだけど、それに応えていく組織側としては、評価指標も含めてその検討は極めて大変。こんな教育プログラムがありますと、回転すしのメニューみたいなものを並べても、周回遅れのネタで乾いているとかね。生きている社会に対して決め打ちをしてどうするのかとは思うのだが、決め打ちをしないと、その時の設置基準を満たさない。満たしていても、それは認められた瞬間に過去になる。人財育成、100年の計として取り組まねばならぬ。そう思う。

どこにでも天災

高知の偉人と言えば、牧野富太郎先生、寺田寅彦先生。もっといらっしゃるのは存じ上げているわけですが、小生が、ことあるごとに思い出すのがこのお二人。ここでは寺田先生の「天災は忘れた頃にやってくる」という名言について。ついてと言ってもそれを掘り下げるわけではない。生家をお尋ねすれば、入口にいきなり「天災は忘れたる頃来る」と掘られたプレートが貴殿をお迎えすることであろう。近年の荒っぽい気象に「忘れない内に来るようになりましたよ」と独り言を言う自分に気が付いたまで。

それこそ、自分史的に最初に遭遇した「雹」は直径1cmを超えるもので、突然とガラガラ、バチバチと音を立てて降ってきた。辺り一面が真っ白になり、真夏の災害として覚えている。収穫前の果実が悲惨なことになったので、親戚の落胆ぶりで覚えている。世界各地の情報がSNSのおかげで得られるようになり、その凄まじさを動画で拝見するにつれて、あの時の天災を思い出すのだ。忘れない内に立て続けにやってくる。それが近年の空模様というところか。人災の戦争で食糧難であるが、それに天災が加わるのだから人類などひとたまりもない。

食糧に限ったことでは無い。何しろ天から猛烈なスピードで氷の塊が落ちてくるのだ。屋根の上の太陽電池などひとたまりもない。メガソーラーにおける雹被害ということを聞いたことが無いのだが、ごく薄い防護板の真下に、衝撃に極めて弱い結晶質のシリコン半導体が並んでいるのだ。地球温暖化ガス派出抑制の救世主みたいに言われているが、所詮、人が作ったものだ。天の鉄槌にかなうものでは無い。一撃のもとに破壊され、単なる飾りになってしまう。高価な置物の代表選手に早変わりだ。

子供の頃のあの景色を思い出すと、屋根の上に太陽電池を乗せる気にはなれないのだ。防御用の透明板を厚くすれば、それは太陽エネルギーの透過率を下げることに直結する。結局は人間の浅知恵で、電気を使う事を覚えた生命体の顛末を感じるのだ。日本は平和である。雹は降っても爆弾は降ってこない。それがいつまで続くのか。ずっと続いて欲しいが、この星の上のことだ。何処にも逃げるところはあるまい。歴史的には直径30cmの雹が降ったこともあるのだ。そんな気象を人類の活動が起こしているとするならば、もうどうしようもあるまい。そう思っている。

少なくともCo-Being

内閣官房の教育未来創造会議において、在りたい社会像が述べられているのだけれど、今更ながらの「一人一人の多様な幸せと社会全体の豊かさの実現(ウェルビーイングの実現)」とある。古すぎる。未来を支える人材像には「自分自身で課題を設定して」という旧態依然の課題が掲げられる。この辺りに驚きが見られないところに、我が国の研究と教育の退廃の具合が見て取れる。主導しているのが首相殿だ。

一人が良ければそれで良いというウェルビーイングはもう古いと、Co-Beingだと提唱され始めているわけだが、それすら、近江商人の三方良しより遥かに後れを取っている。鎖国において自らの能力を他の方に最大限に活用して頂くためには、三方良しの考え方を徹底しないといけないのだ。世界のGDPに占める割合が5%強しかない我が国が、世界に向けてプレゼンスを発揮するには少なくともウェルビーイングでは無く、Co-Beingだ。

生涯にわたって学び続ける社会へという問いかけに対して、日本では約半数の企業は、自社の社員に対して社外学習・自己啓発を行っていない。これは先進国分類の中で最低。企業による人材投資が最低という事にもマッチしますな。日本は成人学習参加率も労働生産性も少ないと言って、ほったらかし。知恵を付けると上司が威張れないとか、その程度の体たらくなのだとは思うけれど、余りにも情けない。

Co-Beingに至るには、同一の価値観を持った人達が集まる場が必要である。目的では無く価値観で考えねばならぬ。しかもそれが独裁とか金儲けとか人品卑しいカテゴリの価値観であってはならぬ。我が国においては人口減少が加速している。教育を受ける側を教育の消費者とするならば、教育を提供する側は何を売り物にするのか。消費行動が劇的に変わった今、生産者・企業側の思考も劇的に変わらねばならぬ。社員は過去の積み重ねという事業所内だけの学びで良い筈はない。大学は知恵を出さねばならぬ。それが価値となる。

人あってこそ

人への投資が世界から見て極めて少ないという我が国。人件費はコストだから削減するべきであるという、人が知恵を生み出して、それで経済が動いていくという意識が無いと、人は要らないということになる。経済が回るということを度外視したとしても、自らは何等か、他の人に影響を与えることで生きている意味があるのだと、少々哲学的な意味合いくらいは感じていないと、AI隆盛の昨今、本当に要らない人になってしまう。

現代の高等教育という雑誌があるのだが、その中に、『近い将来、大学職員は分化していくだろう。経営企画など重要な仕事を担う職員と、各業務に精通した専門職員と、ルーティンワークに安住しAIに取って代わられていく職員とに』とあり、思わず、我が意を得たりと膝を叩いた。その通りである。そしてこれは何も、大学職員に限った事では無く、我が国の有り様にも関わってくることだ。

戦後、3K職場があって、そこからホワイトカラーという職が生まれ、大規模商社が世界を駆け回り、現場では半導体産業で24時間働く人達が居て。そこでおごり高ぶって、結局、今がある。自虐とは言わないが、言われるまでも無く突き進むことが当たり前だった。大学の研究室でも72に時間ぶっとおしで装置と戯れて、ちょっと仮眠して、また72時間研究してなんてのが当たり前だった。週2日制とか言っちゃってね。教員も学生もそれが当たり前だった。3時にやけ酒を吞んでいると、助教授先生が「俺も混ぜてくれよ~」と、差し入れをして頂いたのが懐かしい。

人件費は経営的にはコストである。ただ、コストと言うと、経営を圧迫する負のリスクに感じがちだが、経営に正の作用を生む生産者と判断するのが正しい。きちんと人事的手続きを経て入社して頂いた方を適切に育て、そして活躍して頂く。人的雇用費用は確かに大きい。しかしながら、それを上回る組織力を発揮できるように、ミドルは体制強化に努めなければならないのだ。この国の教育や研究の考え方は負のコストだけである。いつになったら滅亡から立ち上がるのか。意識改革からだが、遠そうだ。

仮説

研究っていろんなスタイルがあるけれど、小生の場合は、夢、仮説、検証、挫折を繰り返す。検証の仕方も仮説に満ちているから、何が正しいのかなんてことは、神様しか知らないというのが安気で良い。誰にも迷惑が掛からないだろうなということに挑戦していて、しかもたかが人間がいきついた夢なのだから、実現できるに決まっているのだ。決まっているのになかなかそこに辿り着かないのは、間違った仮説の元で動いているか、夢がしょぼすぎて、近づいては無意識に夢のレベルを上げていて、馬の人参の如く、永遠に近づけない距離にそれを置いているかのどちらかだ。

物価を上げたい総裁さんなんだけど、国民がそれを許容しているという仮説は頂けない。買い物は奥さんがやっているから市井のことは知らないと、胸を張っている人が日本の金融のトップに居るわけだから恐ろしい。まぁ、霞が関一帯がそののりだから、まぁ、今さらと言う感じだけどね。1$が130円以上と言うのが固定されてきたけれど、まぁ、それでもよくぞ保っているなと感じる。日本のものを買って下さる海外の皆様がいらっしゃるということなのだなと、ものづくりの現場の方々に感謝するばかりである。

原料が海外からしか入ってこなくて、それを加工して買って頂くわけだが、その構造は今後も変わらないだろう。だとすると、同じモノづくりでは無く、無限に進化し続けないといけない。Apple社が独自設計のプロセッサで画像処理が高速化しましたという、バーチャル空間の扉がいよいよパソコンサイズの端末に降りてきたのだなという状況に置いて、我が国はどれだけ仮想空間の経済を学んでいるのだろうか。円がどうの、ドルがどうのという、国の支配下にある貨幣の価値を云々している場合ではなくなるだろう。いや、もう一部ではそうなっている。

国民は値上げに耐性があると、コロナ禍と物価上昇を同等に扱って良いという仮説が凄まじい。内閣不信任だとか議長不信任だどか言う前に、ちゃんと国の仕組みを世界の中の日本と言う概念で、国家が進むべき道、教育の道の仮説をしっかりと立てて、それを選挙の判断にして頂きたい。エビデンス無き仮説を、感傷論(最早感情論では無い)で押し付けられて、それを何処まで我慢し続けられるのか。幼児虐待とかね、普通では無いことが日常のニュースになる国である。ニュースになっている内はましか。そんな恐ろしい国である。

趣味をお持ちですか?

つい先日、中古LPレコードが高嶺の花になりましたよという記事を読んだ。これまた書評欄にてSPレコード云々という新刊本の登場を知った。購入する気は無いのだが、30cmの円盤が見直され、古い記録の再生を趣味とする方が増加傾向にあることに驚かされる。書斎の頭の上にずらっと並ぶLPレコードやSPレコードが地震の時に降ってきたら恐ろしいなと、対策は取ってあるものの、何トンもの荷重がそこにはかかっているわけで、まぁ、これに潰されてあの世に行くなら、あっちに行っても音楽には事欠かないなと悟り切っている。

音の記録方式は様々に成され、デジタル技術が生まれる前は当然の事ながら、空気の振動を機械的振動に変換して、記録媒体に刻み込んで行ったわけだ。エジソンが硬質蝋を開発し、ダイヤモンドの針で記録・再生をする手法を作り上げたことはよく知られている。小生の師匠宅で記録・再生を体験させて頂いたことが懐かしい。今でも機械として現役なのだ。樹脂など使わない、経年劣化が極めて少ない素材を用い、丁寧に加工された機械だからこそなのだ。そしてそこに刻まれた音楽は今でも再生できるのだ。

戦争という悲劇がそれらの多くを灰塵にしてしまい、特に蝋管などは温度が上がれば溶けてしまうわけだから、失われた文化的記録が今に伝わればどれだけの価値を生み出したのかわからないが、今でも、小生のオーディオのメインマシンは1924年製の蓄音機だし、SPレコード群もその輝きは色褪せない。色褪せるどころか、その音の魔力は深山の木々の囁きに勝るとも劣らない。オーディオ装置も何やらべらぼうに効果になってきて、それこそオルソフォニックビクトローラ登場期に戻るのではというくらいの王様の趣味みたいな様相だが、それはあまり好ましくない。貴族のホールの音楽を大衆にという趣旨は捻じ曲げてはいけない。

今はデジタル化された音楽を、それこそ検索して気軽に再生できる様になって、本当に素晴らしいことだと思っている。どうせBGMなら何でも良いと、余程のことが無い限り「板」を購入することはしないのだが、中古レコード屋さんで朽ちていくよりは多くの人に、本来のアナログの空気振動を感じて頂きたいと思っている。それが楽しむ趣味であって、入手した板を高額で取引しようなどという嫌らしい方向性に向かわないで頂きたいとも思う。少なくとも命がある限りは楽しんでいきたい。そんな趣味に出会えて幸せだと思っている。

全てはトータルで考える

平均寿命が30歳台だった縄文初期からすると、1万年掛かって80歳台までやってきたわけだ。こうするとじわじわと伸びたように騙されてしまうが、栄養的に満たされた1970年くらいから一気に伸びているわけだから、栄養と健康管理の相乗効果で今後も伸びるのかもしれない。とは思うのだが、反面、目指すところがあるから伸びたのかなとも感じるのだ。現世現役時代の我々にとっては年金なんて90歳以降しか支払いませんよとなるのだろうが、1970年台で50歳くらいで、もう直ぐ定年、悠々自的な世界が待っているってなったら、気合いも入ったのでしょうね。

トヨタがレースステージから一般公道用に水素燃焼エンジンを下ろしてくるという。いつやるのかなと思っていたら、想像するに相当に前倒しなのだろうなとは感じるが、面白い試みである。技術的に相当の壁があるとは思うのだが、人が移動する喜びを獲得し続け、地球温暖化抑止という観点と合わせた答えとして面白い。水素を発生させるところのエネルギーまで含めて、ゼロカーボンなら良いのだが、途中でアルコールだのなんだのを大気中に出しているようではインチキだから、きちんとマスコミは監視せねばならぬ。見せかけの環境対応には飽きている。

バイオマス発電なども聴こえが良いのだが、山に苗木を運び三十年以上掛けて育て、間伐し、それを乾燥させチップ化し漸く燃焼、発電。発生する熱も含めて仕事への変換効率が85%を越えるとは言え、それは完璧なチップが投入されて、発電するところまでだから納得してはならない。炉から排出される廃棄物処理、メンテナンス等を含めていくと、60%は切るのでしょうね。これは適当に言っているからわからないけれど、トラックを動かす燃料を産油国から運んで、ガソリンに精製してなんてプロセスを考えると失われたエネルギーはどれだけに上がるのか。

地球温暖化どころか公害病だって知ったことかと、自らの人生を謳歌するだけの世代の方々の、負の部分だけが受け継がれ積分されて利息まで産んでいると感じる。運転しながら高校の先生がゲームをやって、人を轢き殺す時代である。仮想世界の向こうにしかビジョンが無いのかもしれない。そう思うと、僅かながらの続けられる趣味を持っているというのは幸せな事なのかもしれない。道路工事がやたらと増えて、選挙が近づいている事を実感する。生きていることだけでも素晴らしいと実感できる、それには教育が必須である。その教育はどうあるべきか。台所が火の車の大学の経営者が集まって、どんな意見を出すのやら。そんな日である。

ビジョンをお持ちですか?

モチベーションという単語は好きでは無くて、全て全力で取り組むというのがスタイルである。手抜きをするなら何もしないのがよろしい。そう思っている。それでも案外というか、そこそこ一日の計画を立てて、ToDoリストの再困難なものからやっつけることと、長期目標を持っていないと、毎日、何をやっているのか分からないというか、お仕事に追いかけられて、本来やるべき組織的なことがお留守になる。多く「若者が離職して困っている」というお企業様には「長期ビジョンの共有が全社で成されていない」状況にあると感じている。

実際に、お企業様に「御社のビジョンは」と図々しく尋ねるとホームページに掲載されていることを聞かせて頂くこととなる。いや、あのですね、あれはどこのお企業様でも同じこと・・だから改めてお聞かせ願いたいという事なのですけどねとなる。そんなお企業様は特に離職率が高い。もう一つ、ビジョンを共有しようとしないミドルがいらっしゃるところも同様である。この場合はピンポイントで鬱になって離職されるパターンが多いようですな。これもとても残念なことだと思っている。

その昔、キャリアパスについて講義をしないといけないことがあって、いろいろとお若い方々と同席をさせて頂くことがあったのだが、理想の自分って何?とばくっと聞くと、何も返ってこないことが多かったですね。ずっと一人で居たいとかね、それはそれで立派な回答なのですよ。自分からオリジナルな回答を出せるという状態は、もう立派なキャリアパスを語っていますよ。企業殿も同じで、依頼された仕事を確実にこなすことが仕事と仰るところが大半。消えゆくのだろう。

自らの理想状態になっているとは感じていない。だからこそ、必死に頑張る。必死って簡単に書くのだけれど、多くの人がそうは言うものの、どこかでこんなところで良いか?とか、無理だから止めようとか、小生からすると意志薄弱に見える。がけっぷちに立って、それでも一歩踏み出して初めて見えるのが必死の結果である。モチベーションなんて意志薄弱者の言い訳にしか小生には見えないのだ。やらない言い訳は簡単だ。全力でやってみる。こけてみる。それで良いでは無いか。そんなもんだ。