挑戦とは

挑戦しない日本企業、挑戦しない若者とかあちらこちらで見かけるのだけれど、それを労働生産性と少子高齢化に結び付けた論調が多いのだが、違和感を感じたのでちょこっと調べてみた。人口推計は見事に少子高齢化を物語っていて、暗い気持ちになるのは御同様。一方で、労働生産性に関して、国内事業に対する貿易収支を見てみると、リーマンショック後にはそれ以前よりは貿易額の伸びは鈍化しているものの、回復傾向にあるのだ。世界経済の発展への我が国からの貢献も延び、そして国内消費に関するものも伸びているのだ。

日本のGDPが酷い事になっているのは、大学の研究力の圧倒的低下が要因であると、確かにトップ1%論文とかの世界から見た比率は下がり続けているのは事実だから、これに関してはその通りとしか言えないのは情けない。しかしだ、それだけが要因かということだ。トップ1%論文はゼロでは無い。全国の共同研究の数も金額も確実に増えている。大学は企業に寄り添って、企業の生産性向上に寄与しろと叫ぶが、果たしてそれは大学だけが責任を負う事か?

昨日、フォアキャスティングしか出来ないミドルのお話をさせて頂いたのだが、正にそこにこそ本質があると感じるのだ。バブル経済なんてものは所詮、実力から派生したものでは無い。見せかけの活動に真実は無い。企業のトップの意識に挑戦をしないというものが摺り込まれていると感じる。挑戦とは何かという質問が身内からあったのだが、それには「夢に到達するための意識の壁を壊すことだと思っています。「こうありたい」では無く「こうあるべき」と強く思っても一歩が出ない。失敗したらどうしようと夢がしょぼかったらどうしようの気持ちが壁になると思います。事業主であればその投資が無駄に終わり、従業員を路頭に迷わせたらどうしようとなり、挑戦しなくなる。従業員にもさせなくなる。その連鎖かもしれません。戦いには勝ち負けがあります。経営での負けは消滅にも繋がってしまうかもしれません。」とお応えした。

しょぼい夢しか描けない。それはものが溢れているから?そうでは無かろう。人口減少の国家におけるビジネスにおいて描く夢は地球規模でなければならない。購入意欲を?き立てる商材を作ることなく、少ない利益を積分しようとしか考えないところに、生産効率という概念は無かろう。税金をゾンビ企業の生存にどれだけ注ぎ込むのか。もうそんな時代ではない。国立大学だけは潰してゾンビを生かす言い訳は無い。言った言わない、捏造だなどの言い争いはまっぴらごめんだ。

荒唐無稽たれ

大きなお会社のミドルとお話をさせて頂いたのだが「結局のところフォアキャスティングから逃れられない」というお話。ゴールから今を見ることは極めて困難だということだ。大企業になればなる程、そう言う事になるのだろう。理想を掲げれば「絵空事」となり、目の前の改善策を取っていくことになる。そうやって国が縮退してきたということなのだろう。挑戦無き者の撤退と言うことがどんどんと続いていて、世界のトップ50社には、既にT社のみが残り、それも30位台ということだ。嘆かわしい事である。

部外者だから勝手なことを言えるのだと罵られるわけだが、部外者だもの、仕方がない。どんな組織もそうで、挑戦を続けなければ衰退する。目の前にあるものに対して新しいアイデアが生まれ、それを望むものはそっちに移行していく。商品のシェアも重要だが、顧客シェアを意識するべき時代であると思っている。環境意識の高い人々にとっては、プラスチック製品よりも、木造製品が好まれるわけだが、コストが大きくなって粗利が小さいからと言って、製造していかないと、顧客シェアどころか、商品のシェアまで失う事になる。

フォアキャスティングとて容易ではないが、それでも明日の改善だけではなく、5年後の世界から自らの商材を見直し続けることは必須である。大学の有り様とて同じである。ASTEM教育を受けて育ってきた者に対して呆れられるような教育ではダメである。時代の変化を敏感に感じ取らねばならぬ。研究も同様で、世界トップの基盤的研究に挑まねばならぬ。それが10年後、20年後の商材の一部となっていくわけだから。今、お金になる研究などどうでも良い。10年後より後に役に立って頂きたい。

バックキャスティングは絵空事や偽善では無い。子供たちに夢を描けと言うくせに、自らは夢を描かないのは詐欺では無いのか。失敗は成功の基と言うではないか。成功を失敗の基としてどうするのだ。「こうありたい」と願って良いのだ。そしてそこにどのようにすれば到達するのかを真剣に考えれば良いのだ。過去の成功体験に引きずられて、その時の挑戦の苦闘が承継されていない状況の日本。荒唐無稽と呆れることなかれ。世界の商材は荒唐無稽であるほど顧客シェアを獲得しているではないか。今の荒唐無稽は明日の当たり前である。挑戦せよ。

DXは意識改革

日本ではDXが進まない。いや、進めないように誰かが強烈に力を発揮していらっしゃるのかもしれない。例によって信頼できる方からテキストマイニングは面白いと、遠方から教えて頂いて、それを自らに当てはめてみると、主張したいことが浮き彫りになっていて、これは面白いものだと、テキストマイニングツールだけは使っている。自らのプレゼンを録音してAIでテキスト化して、それをテキストマイニングをしてみると、これを言いたかったとか、単語同士の関連性などをわが意を得たりで明示してくれる。

自分の主張だから納得できるし、相棒の様に使い始めているわけだが、他人の発言等々に当てはめてみようとは思わない。本気で言っているのかどうかも解らないしね。話が完全にずれてしまったが、DXって変容した姿や社会なわけで、単にデータ化しようとするものではない。中小企業の生産効率性を高めなさいなんて言っているのだが、赤字で消費税が免除されているような仕組みを無くした方が、せいさんこうりつせいは一気に上がるのだろうね。法律の不具合を全国民に押し付けるのはよろしくない。

リスキリングをなんて政府は呼びかけるが、リカレント・リスキリングが必要なのはあんた達だろうと言いたくなるわけだ。リーダーからメッセージとかで、卒業生で社長になっているような人を呼ぶと「自分が学生時代は麻雀しかしていないかった!」と異口同音で仰る。時代は違うのだ。脳内をDXして頂きたいのだ。旧態依然のシナプス状態を改革して頂きたいわけだ。DXとは意識改革の後の姿であって、紙をエクセルに転記しましたということでは無いのだ。データとして活用して変容を遂げた姿だ。

鶴舞大学もDXは遥か彼方だ。紙にハンコが無限に押してあるような状態。紙の帳簿に捺印を求めるようなナンセンスな状態だ。社会の動きに圧倒的に取り残されても、事業所として成り立ってしまっていることがいかんと思っている。企業だったら倒産しているだろうね。そんなところを山積みにしながら、燃料コストで火の車状態とのたまっている。なくせる無駄と必要な無駄とは時違うのだ。なくせる無駄をこそぎ落とさねばならない。見せかけでは通用しない時代である。それだけのことだ。

AI診断は?

先日、AIが診断する医療問診を信じることが出来るか否かという討論を、信頼する方と深く行った。医療行為のビジョンはなんなのかというところからなのだが、小生的には今現在のテクノロジーでどうのこうのというよりも、画像認識から音声や生体ガス等々まで含めた上で、診断が出来るようになっているのであれば、医師よりは信じそうだと申し上げた。医療過誤で痛い目にあっていることがきっかけなわけだが、先方は医師を信じるということであった。

これは論争とか、どちらが正しいということも無いのだと思っている。毎朝晩に血圧測定などをして体調変化をみているわけだが、ストレスリッチ故にその変動幅はすさまじい。体調を診るということよりも、ストレスをチェックしているだけだなと思うわけだ。しかしながら、より多くの情報をセンサーが読み取って、問診がAIロボットから成され、常に状態をチェックしているようなサービスがあった時、日頃から医療的アシストを受けて、それが「まぁ、そうだな」と納得できる関係にあると、信じていくような気がするのだ。

今現在の技術だと、画像をAIが処理をしたとしても、学習数が足りていないかもしれないので、正解に近くはなってもドンピシャと言うことでは無かろう。でもそれは人間の医師の判断でも同じだ。数値データとて、機械によって妙なデータとたたき出してくれることがあって、「今直ぐに緊急手術だ」と言われて、「掛かりつけにセカンドオピニオン頂きます」とやってみたら、なんとも無く過ごしているということもある。医は算術なりの昨今だから、AIが無感情に診断して欲しいというのが小生の気持ちとしてある。

AI活用はまだまだ進歩の過程にあることは間違いなくて、センサも人間の五感と判断能力にはまだまだ至っていないと思っている。人間のことを人間が解っていないという状況において、医療診断の全てを機械に任せることが出来るかと討論すること自体がナンセンスなのかもしれないが、日常的な変容をデータとして持っていて、何らかの時にそれを活用できるようになっていたら嬉しい。既にそんなサービスがあるのかもしれない。使ってみたいものだ。

素材展に想う

某所で新素材を集めた展示会があり、その盛況ぶりに驚かされた。従来のビジネスに用いてきた機器を活用して、素材を変えて新規ビジネスをということなのだと思うのだが、素材展の展示ではそれはなかなか難しい。既になんらかの声が掛かっていて、その素材を学びに行くということなら良いのだが、初見の素材を使いこなすことなど不可能である。ちょっと試して、そこそこ出来て、大手に持ち込んで「おととい来い」と言われてお仕舞なのだろうなと、やや暗い気持ちになった。

素材屋さんって、お客さんが加工屋さんなのは当然なのだが、加工屋さんが最適解を知っているわけでは無いのだ。何よりも、素材屋さんが「誰を幸せにしているか解っていない」のだから、それを加工する人が、その素材の持つ究極の力を理解できるはずが無いのだ。素材屋さんが「こんな願いの人々を笑顔にします」くらいのプレゼンをして頂けると、加工屋さんもビジネスをイメージ出来るであろう。加工屋さんと素材屋さんがそんな対話をして頂けると、日本の輸出赤字も減る方向に向かうのかもしれない?

樹脂も金属も異口同音、カーボンニュートラルが謳われる。地球温暖化、海水酸性化を抑止していくためには必要なことであるが、プロセスの結果、そうなることが大切なのであって、カーボンニュートラルを実現させるために、それ以上のエネルギーを投入して地球を暖めていないか。太陽光パネルを作るのに、太陽光パネルで発生できるエネルギーよりも大きなエネルギーが必要なのと同じだ。

新しい素材に出会えなかったということは、展示会に対しては、既に加工技術が確立されているものを、当該地域に持ち込んだということか、それとも本当に、構造材として新奇なものが無いということなのか。既知の素材には既知のターゲットが存在する。そのターゲットは海外においては既に陳腐だ。複雑な物理を語ってもだれも聞いてくれないということなのかもしれない。そうだとすると更に悲惨だ。輸出品がどんどん減っていく日本。買ってくれない日本製品。真面目にコツコツだ。そう思う。

考える方法を

こうなったら良いなぁと思っていると、何処かで誰かが作ってくれる。作ってくれなければ自分で創るのだけれど、どうやったら良いのか分からない時は待つしかない。研究をさせて頂いてきて感じてきたことだが、「これは新しい」と思って進めていると、地球上で同時に3人くらいがそれに取り掛かり始める。それは実に面白い体験で、論文を誰が最初に出すか競争になっていく。資金があれば良いと言う事でもない。ゼロから作り上げるには最初の発想が必要である。

脳内に思い浮かべた内容を、映像化してくれないかなぁと思っていたら、西の方の大学でそれを達成してくれた。メカニズムが紹介されていて、懸命に読み解いたが「そういうことが出来るのね」というレベルでしかない情けなさだが、夢だと思っていたことが現実になってくれてそれはそれで嬉しい。その先のサービスまで繋げていけば起業出来るなと思ったりもする。きっと既にそこに向かって進みだしている方がいらっしゃるに違いない。

日本は、モノ・ヒト・カネが逃げ出した国だと某新聞がため息をついているが、こんな得体のしれない研究をする人が残っていたのだなと嬉しく思った。ため息の記事には「地道に進むしかない」とあったが、それは小生も同感である。必死に地道、それしか無いのだ。全て百均生活では無く、より良いもので心豊かに、そして人をうらやむことなく努力が出来る国になっていくには、どれだけのメカニズムが必要になるのだろう。素晴らしい研究成果をビジネスに繋げていくには相当のお金が必要なわけで、結局、海外の資本に持っていかれるのかなと思ったりもする。

考える方法を学ぶところからやり直さなければならない。しかし、人は考えることが出来ると思っている。勿論出来るのだが、ビジネスにしていくにはそれなりのお作法が必要なのだ。それと、これも西の方の大学の研究成果なのだが、日本人は人の幸せを喜ばないという民族なのだそうで、挑戦者の足を引っ張る確率が世界中で図抜けて高い民族なのだそうだ。部下が学んで知識を会得することを良しとしない上司の群れでは、学びたくても学べないだろう。哀しい国である。

教育のサプライチェーン

教育は百年の計で、直ぐにどうのこうのと結果が出るものでは無い。高等専門学校に起業意欲を高めるための施策を打つわけだが、来年、突然、起業が爆発的に増えるなんてことはあり得ない。それで良いのだ。学生側に意欲があっても、企業数が臨界点を越えないと、社会がそれを受け入れないからね。社会の構造が変わっていかないと、結局、起業意欲はあったとしても、所詮この国ではダメだなって海外流出のきっかけになるだけかもしれないしね。

教育のサプライチェーンということを、ふと思ったりする。いきなり高専のお話を切り出したのだけれど、旬なところで持ち出しただけ。少子化が加速しているということは親が減っているということだ。当然の事ながら保育施設も小学校も減るだろう。すると教員になる人も減ってくるということになる。教員が減って子供が減っての輪廻になっていく。少人数教育なんて、貧国日本では行われそうにない。

すると中学、高校、そして大学も必然、無くなっていくということだ。教育の重要性は世界の進化と共に増すのだが、教え育てる機関に就労する人が減ってくることになる。それが加速していくということか。極めて恐ろしさを感じる。マスコミは日本の研究力が落ちているとか日本のプレゼンスが落ちているということを大学の責任みたいに簡単に言うが、教育のサプライチェーンが壊れているのだ。落ちるべくして落ちているのだ。

世界ではリスキリング・リカレントで、自らが有する機能は何であるかを一生涯問い続ける。そして社会に発信し続ける。終身雇用の考え方が漸く薄れてきた日本ではあるが、まだまだその意識は色濃くある。大会社に入ってしまえばゴールという意識があると、もうそこでリスキリング意欲などは消え去ってしまう。いくつかの大企業が変化を始めているのだが、まだまだその規模は小さい。世界と戦う企業も教育のサプライチェーンであることは間違いない。サプライチェーンの寸断が起これば国は亡びるであろう。そうはさせたくないものだ。

SPレコードの時代

近しい方から「某所で蓄音機の音色を楽しんできました」と素敵なお便りを賜った。良質なSPレコードを追い求めた人生の半分以上であるのだが、このようなお話を頂くのは本当に嬉しい。そのお話を頭の中で反復しながら、エジソンがシリンダ蓄音機で追い求め、そしてキャビネットタイプを構築し、歌手とレコードの聴き比べを行い、半数が判断できなかったと言われてもう直ぐ100年である。音楽を楽しむのに、真実も何も無く、そこには素晴らしさがあれば良いわけだが、真実の音響というオルソフォニックが提唱されて来年で100年である。

蓄音機と言うとラッパがレコードの上で揺れながら、ブリキを賑わす音楽が再生されるというご認識は、NHKの罪だと思っている。TVのビジュアル的にはそれで良かったのかもしれないが、当時の歌手や演奏家が録音技師を納得させなければレコードに音楽を残せなかった時代。真剣勝負の一発録音。その迫真の演奏こそ、ある一定以上の機械で再生されるべきである。勿論それはアコースティックな蓄音機である必要は無く、良質な再生機構を有するエレクトロニクスでも構わない。大切なのはレコードである。

時代劇が廃れて、大河ドラマと言う大ウソが世の中にまかり通るわけだが、まぁ、そもそも時代劇に真実は無いからどうでも良いのだけれど、大衆娯楽としての銭形平次などは愉快であった。野村胡堂氏が音楽人生の顔をあらえびす氏として活動されていた時代、正にSPレコード全盛の時代であって、その時代の方々のコレクションが、ご遺族から一般に公開を始められて久しい。音楽を身近なものにしてくれたレコード文化の華やかかりし時代を伝えて頂き、感謝しかない。

某所の蓄音機も、その時代の「マニア」の方からの承継なのだとのこと。当時、蓄音機は時計屋さんが修理を担当していたと言う事を恩師から伺っている。技術の頂点が時計にあった時代、精密機器に関して、それに手を入れられる人は時計職人の皆様であったと。今のLSIの時代、そんな手に職は残されているのだろうか?AIが絵を画き音楽を作曲する現代において、重く壊れやすいSPレコードなどゴミの如くであろうが、そこには真実がある。AIが生み出すものも真実なのであろうが、SPレコードに触れられる時代に生きて良かったと、今は思っている。

感じること

盆地の底は16度もあるのだけれど、富士山のてっぺんは凍り付いて陽光を照り返す。流石の三千七百メートル越えだなと、直ぐそこに見えていながら遥か彼方に聳える貫録に感心する。そんな週末を過ごしてみた。愛知県からだと3時間程度で、その景色に対面できる。愛知県の素晴らしさだ。世界を見れば地政学と言うと、ここで戦争がとか、主義がどうのとか出てくるが、今の瞬間を精一杯生きる身には、目の前の輝く山頂を満足すればよろしい。既に三月の第二週である。

道行く観光客の、なんと人が多くなったことか。関東地方で東京に近いということもあろうが、関東に接近すればするほど、混雑は著しく、少しの坂道でも減速し、不可思議な進路変更が目の前で発生する。そんな時にはギアを落とすのがよろしい。思わず「危ない!」と叫ぶ場面が十数メートルの距離で発生する。大先輩がアクセルとブレーキを間違えて踏み込んで、後輩達の人生をストップさせて頂いている。これもまた日本である。

名古屋から東に向かって走行していく時には、登ったり下ったりで、平均的には平坦かなと感じてしまうのだが、西に向かうと、富士山の裾野から下ってくることを明確に感じる。実に不思議な感覚である。背中に富士山を感じて、転げ落ちるかのごとくに下っていることを感じるのだ。とすると、この中部圏に至るまで、富士山の裾野が広がっているのかと感じてしまう。それ程に富士山は大きいのだなと。そして孤立している。

この孤立と言うのが凄い。日本と言うちっぽけな国ではあるが、その中で最も高いのに、ひたすらに孤立して頑張っているのだ。頭のてっぺんが凍り付き、遠くで美しいと言われながら、その実、日本の屋台骨を支えている。こんなにいかした在り方があるか。西に向かい、やけに下っているなと感じながら、背中に偉大な存在を感じた。何百回も繰り返し通ったはずなのだが、不思議とそれを実感した。人生とはそんなものかもしれない。そう感じたら、感謝することだ。尊敬とはそんなものかもしれない。見せかけでは無いのだ。

三方良しとは

近江商人のお話をさせて頂くと、「三方良しですね、顧客良し、社会良し、自分良し」とお客さんを一番先に持ってくる。これは間違い。近江商人が目指すのは常に自分良し。自分が最高に幸せにならなかったら、他者を喜ばせることなど出来る筈が無い。自分が他に成せることを最大化していく努力を怠ってはならない。成長しているなと意識する己惚れ屋になってはいけないが、最大限に血を滲ませて歯を食いしばって自らを高めていく。だからこそ、三方良しとなる。勘違いをしてはならない。

技術者がその技能を高め続けるから、その技術活用者である川下企業は利益を上げるのだ。しかし、この旧態依然のピラミッド構造による産業発展においては自分だけ良しが貫かれてきた。漸く、6G活用に向けてビッグ2がコンビを組みそうだが、是非ともそうして社会をリードして頂きたい。共に良しだから社会が良しとなっていくことを実現して頂きたい。するとその場をイメージして、新規の半導体陣営も頑張ることが出来るだろう。経済成長の原点は、まず自らが最高に輝く事である。

図抜けると足を引っ張る群れがやって来て、折角の努力が水の泡なんてことを恐れる必要は無い。今の自分が他を圧倒する努力で成り立っていると考えることが出来るならば。出る杭は打たれるの例えはあるが、打つことが不可能な程に、一気に出てしまえば良いのだ。人間の努力はすさまじいので、実現可能である。それを遠慮したり、本気の努力をしないから、図抜けないだけである。図抜けない人が商売なりをしても倒産するだけである。中途半端なベンチャーなら起業しない方がよろしい。

話は飛んでしまったが、自らは「この能力を他に活かして頂けることが出来る」と発信し、「その能力で自社は他社をこう導きたい」と願う社が連携して新規の世界を築かねばならない。それこそがビジネスエコシステムの有り様だし、他社に活きて頂く自らであって、それが三方良しの世界観である。社会はどうなるのだろうと不安がるなら、まず、自らの有り様を見つめるのが宜しい。本当に必死になっているか。怪しいものだ。