リセットは嫌い

リセットを掛けるということは簡単では無い。Z世代の皆様にとっては当たり前の思考であって、装置が動かなくなったらリセットボタンを探して、見つからなければそれを知っている人が対処してくれて、そうなったらまた使おうという、まぁ、研究室主宰とするとたまったものではないのだが、そんな思考が主流となりつつある、いや、もうなっているのかもしれない。その上の世代は「お前、何故、居るのだ!」なんて言おうものなら、本当に出て行ってしまう世代ということをT嬢にお聴きしたのだが、その世代の頃からモノづくり現場は青息吐息である。

先日、ワクチン熱にうなされながら、まともな書類仕事が出来ないもんだから、以前から気になっていたオーディオ装置のメインアンプの大掃除をした。埃が入りにくいキャビネットに収めているとはいえ、空気中に漂う埃は、今は、花粉まで考えねばならず、大気中の水分を獲得して、微弱な漏電を引き起こし、ノイズ発生の元凶となる。ひどくなると装置を壊してしまう。大切なアンプをふっとばすわけにはいかないので、そろそろメンテの時期かなと思いながら、裏の配線をきれいさっぱりにして、蓋を明けてダスターで埃を飛ばして、ジャンプ線の接点をクリーニングなどして再び通電。おぉ、こんなにリアルだったっけ、小生の装置?というくらいで、幸せを感じた。

これはリセットというよりもリノベーションなのかもしれない。コンデンサなどはある程度の寿命があって、「抜け」と呼ばれる現象が生じたら、交換するしかない。逆に交換すれば回路的に全く問題無い。トランジスタなどにも寿命があるので、これが飛んでしまうと、保守部品は入手不可能な位に古いから、そこでジエンドなのだろうけど、その他のところは定期メンテで何とかなる。このなんとかなるところをしっかり捉えていれば、不可逆状態の手前で引き返せる。

リセット世代は不可逆まで突っ走る。そしてその状態が発生したことを伝達しない。平和な街にミサイルを飛ばしまくる国と同じかもしれないが、装置が襲ってきたから壊しましたとは言わないから、まだましなのかもしれない。最近のエレクトロニクスは余りにもブラックボックスになり、壊れたら交換。そうではなくて、壊れたら、あるいは、壊れそうになったら使い手はそれが解って、リノベーション出来て、長く大切に使える。そんなモノづくりが良かろう。薄利多売の社会から脱却するべき。それこそ、SDGsではないのか?リセットという単語は使いたくない。そう思う。

3回目

日中のぽかぽか陽気に油断をすると、早朝の放射冷却に痛い目にあわされる。季節はちゃんと巡ってきて、東京ではソメイヨシノが開花したという。この十年、卒業式に桜が咲いているという状況になり、まぁ、なんとも御めでたい気分になる。桜というものは偉いもんだと毎年思う。日本人の心に見事に溶け込んで、今年も大いに楽しませてくれることだろう。時間を作って眺めたいものだ。桜並木をぶらぶらと歩く楽しさよ。今年も間も無くそんな季節だ。

お花見の宴会をやらかすわけでは無いが、第3回目のワクチン接種に行ってきましたよ。事前情報に依ると、注射の部位は痛くなって、そんでもって発熱を伴うとのこと。第2回目に比べて半分の量のワクチンとのことだが、会場に行ってみると、前回とは異なって、異様に空いている。全国民の30%を越える方が接種されたそうだが、集団免疫には程遠い数で、それがなかなかPCR検査陽性が減少しない理由であろう。その一つの理由が副作用なのだと思う。

小生に限って言えば、前回と同様に24時間経過後に最大の発熱値を呈し、37.7°であった。前回の39°に比べれば随分と楽になった気がする。更に、前回悲惨な状況であった「気持ちの悪さ」はかなり軽減されていて、その点で言えば、これから卒業式だの入学式だのに備える意味で、接種しておいて良かったなという気にはなっている。ただ、それではもう一回、やるかと言われると、これは考えますな。良い加減に国産飲み薬の治験を広めても良いのではと思う。

コロナ禍においては、自らが悲惨な状況に陥りにくくするというのは勿論だが、他者への感染リスクを下げていくという点において、むしろ、その方が優先されるべきだ。だからと言って発熱や倦怠感に悩まされるのが解っていて、もう一回やるか?ということにおいては、その場になってみないとわからない。多分、接種するんでしょうけれど、それはもう棺桶に両足突っ込んでいる年齢だからであって、これからの若者に対してどうかなぁ。無理強いでき無い気がする。とまぁ、皆さんも休暇や在宅勤務を上手に考えて、ワクチン接種、考えてみてくださいね。

間違いと不正

東日本大震災の余震では無いという。断層の割れ方が異なるから違うという見解なのだろうけれど、異なる割れ方が先の震災で分析しきれていなかった歪によって引き起こされたという可能性は完全否定出来るのだろうか。偉い学者先生の仰る事なのだらか正しいということなのでしょう。まぁ、これなどは「そうなのかな?違うのかな?、地球のダイナミクスは解らないことが沢山あるからな」で済んでしまう。いや、済まさないといけない。そうでないと自然科学は進歩しない。

論文不正となると話は別だ。学術的倫理の問題で、これはあってはならないのだ。あってはならないのに、何故かずっと繰り返される。データに誤りがあったから報告を取り消すというのは良い。測定ミス、誤差、なんらかのエラーの重畳など、研究現場に居れば当然あり得ることだ。勿論、あり得るからと言ってそれを認めるわけでは無い。最新の注意と繰り返しが必要なのだが、それでも出てきてしまうのだ。エラーの信号は予測された形で発生することがある。焦っていると目がくらんでそちらに走ってしまう。

ボスに「死ね」と言われたこともあるが、幸いにして今、こうして戯言を書いているくらいだから、命は繋がっている。挽回して、先の報告を取り消し、そして正しいデータに置き換えていく。勇気が要るがやらねばならぬ。そうやって致命傷を負う経験が必要なのだが、それを見過ごしたり、故意に見逃したりすると、全ての人が不幸になっていく。全て身から出た錆である。最新の事をやっているのだから、挑戦と敗北はつきものである。丁寧にこつこつと、馬鹿正直に進んでいくのが良い。撤退も必要だ。

組織が大きくなって、にっちもさっちもいかなくなると、北のでっかい国の暴挙みたいなことが、研究室レベルでも発生する可能性がある。これくらいは良いだろう?が積み重なっていくと、いつの間にかとんでもないことになっているのだろう。経験が無いから解らないけれど、共同研究などはそれを阻止する有益な活動である。自らの成果の第三者評価を常に受ける体制は、研究者を育てることにもつながる。常にみられていることを恐怖することを忘れてしまったら、もう研究者は辞めるべきだ。そう思う。

大は小を兼ねない

ちょっと昔のお話になるのだけれど、T社の若手社員が100年企業様を前にして、テーブルに足を乗せて上から目線で「これ作れ、昨日より安くしろ」と命令していた。今もそうなのかもしれないけれど、組織の巨大化は傲慢さを生む。巨大な国も同じなんでしょうね。ここまできたら核のボタンを押すのかななんて恐ろしくもある。終結に他の方法はあるだろうか?自分で解を作って決断することが出来ない我が国は一体どうするつもりなんでしょうね。

大は小を兼ねない好事例の気がするのですよ。大きくなってしまったら、小さいものの気持ちには絶対になれない。小さいままでは大きいものの気持ちも分からないけどね。経験ということですけどね。大きいことに慣れて、大きいものの価値観で、小を受け入れる隙間の無い状況は、小の価値観を認めないから、これはもう相容れない。国連が機能していないのだから、地球的ルールが何処かに行ってしまっている。

大が突っ走ると人の命も軽くなるんだなぁと、とても暗い気持ちになる。一番大切なものでは無かったのかなと。小さいまま、こつこつと丁寧にやっているのが宜しい。大きくなるとろくなことがない。リーダーが独裁者となり、とんでもないことをしでかす。小を下に見て勝手気ままになる。この国でもちょっと前にありましたけどね。書類を書き換え、自殺者まで出して、それで平気な顔が出来る。凄いもんだ。

核爆発だけは見たくない。あれは科学者の興味だけで終わるのが宜しい。核の冬が来て温暖化が収まったなんてしゃれにならない。そんな狂気だけはあってはならないのだ。あってはならない戦争が起こっているくらいだから、そんな状況にならないとは誰も言えない。ただ祈るしか出来ないことが情けない。明るい明日であって欲しい。そう願う。

電力を欲しがる限り

終わる気配のない戦争で、オイルショック以上のエネルギー危機がやってきた。化石燃料云々を1960年度消費量まで下げないと、環境保全が出来ないということだったから、一気にそれを目指したら如何かと思ってしまう。それを定常状態として、どのような経済活動が出来るのか、世界中で挑戦するのが宜しい。不自由を獲得するための人の移動においても多大なエネルギーを活用するわけで、GoToキャンペーンなどはとんでもない。情報ネットワークでのデータセンターもとんでもなくエネルギーを使っているわけだが、はやりエネルギーレスなどは実現不可能だなと不本意ながら思うのだ。

自然エネルギー発生に関しては、日本は極めて遅れていて、それは原子力発電を維持するためということなのだが、国際安全性という観点で、原発は極めて危ない代物であることが明らかとなったわけで、これまた廃止、撤去するのが良かろうと思う方々も多かろうが、これを完全に止めてしまうと、エネルギーバランスが極端に悪くなって、CO2を目いっぱい排出する国となるのは、東日本震災の際を思い出せば明白だ。

しかしだ、その燃やすものが入ってこない状態になると、原子力に頼るしか無くなってくる。原子力も駄目となれば、これはもうエネルギーを使わずにどうやって物を作るのだということとなる。やたらとダムを作りまくって水力発電でいこうと思ってしまうが、それをやると川は汚れ海の生物も居なくなる。ダムは便利なツールではあるが、ヘドロ溜まりにもなるし、自然を破壊する事この上ない。結局、電気という便利なエネルギーを創り出すには、何らかの不便を人間は獲得しないといけないのだ。

エネルギー危機と言っているのは電力発生危機であって、電力を使わない状況になれば、何の危機も発生しないのでは無いか。しかし、便利というものを人類が手放さないのであれば、地球環境を破壊する方向に進むのだ。どれだけダメージを減らそうとしたとしても、人類の便利を獲得する意識が変わらない限り、電力発生危機は続き、温暖化も留まることはない。パイプラインを伝ってやって来る筈であった天然ガスが停まってしまうと、8%のガスエネルギーが停止となる。それから生み出される電力が失われるわけで、その影響がどんなところに現れるのか。じっくりと俯瞰してみたい。

新駅誕生にて

小生は鉄ちゃんという程のことではないのですが、新幹線が開通されるたびに、並行する路線をJRが運用しなくなって地域の足が消失していく。GoToで首都圏の大きな人数を地方観光都市に大量輸送すれば、企業としての利益は上がるので、企業としては問題無いのでしょうけれど、地元に根付いた鉄道が無くなるというのは住民の皆様にとってはとんでもないことですよね。小生の場合は、駅が無かったところに駅が出来たので、その便益向上の凄まじさを実感するし、突然、無くなった時の悲惨さも解る。

富山駅周辺も同様のことで、新幹線の開業に伴って経営が分離されて並行在来線となって、今は、あいの風とやま鉄道として株式会社化している。新線ということではなく、経営を担当している会社ということなんだけど、採算が合っている筈も無く、応援するしか出来ないもどかしさだけがある。この鉄道事業なんだけど、恐ろしいまでの車検制度が営業を圧迫しているって知られていることかしら?と思って書いてみた。

最初に気にしたというか知ったのは大学生の時に、新幹線のパンタグラフの、架線との接触部の部品の摩耗が凄まじく、それは「それこそ毎週取り換えるくらいの勢いだ」と聞いた時からだ。実際にはもう少し寿命は長いらしいが、確かに時速300km/hで金属同士をこすり合わせるのだから、その摩擦エネルギーは想像を絶する。パンタグラフが導通線に接したり離れたりする瞬間にミクロな隙間で大気がプラズマ化して、パンタグラフとその接触部の部品との間に特有の、電気的スパークで削られて失われる現象がおこるとも聞いた。同時に技術の面白さも実感した。

車両全体となると何十万km走行ごとに部品点検となり、一車両の車検代金は車両台数にも依存するけど、億近い金額になってしまったりする。一体、どれだけの乗客が乗ったら採算が合うのかって、新駅を作ったあいの風とやま鉄道に思ったのです。新駅は一日当たり乗降客を2500人と見積もっていらっしゃるとか。鉄道収益だけでは絶対に無理で、並行して行われるイベント収入などが重要になりそう。でも鉄道と人との関係は無くなって欲しく無くて、とっても応援したいのですよ。新しい駅が出来る。そこで人の想い出が出来る。そんな社会構造が続いて欲しいなと願う、新駅のお話で御座います。

古木

時々出会いたくなる、それが古木。樹齢千年の迫力は半端ない。地域神社の伝承に過ぎないから本当にそうなのかどうかは分からないけれど、土地の伝承と言うのはそれなりの正しさを持っていて、地域の誇りとなって守られた古木は、その土地そのものを見守って、そして見守られて千年の命を繋いできた。それを目の前にすると、ただただ首が垂れる。そして触れて、千年の間にそこに集った方々の祈りを感じることが出来る。精一杯生きること。時代時代にそれを思った人々の願いが、土地の古木に宿っていて、それを感じることが出来る。 

愛知県には沢山の古木・巨木があって、それを巡るのが、何というか、愚痴を聴いて頂けるというか、そう、たった一人、頼りになるというか。動かないんだけどね。そんな気がするのですよ。千年の歴史にはかなわないなって。そりゃぁそうだって。そこにじっと千年も居るんだよ。どんなに頑張っても十数分の集中力で途切れる人間に対して、じっとそこに、千年以上の忍耐をもって、旱魃で喉を乾かせ続け、豪雪で心も凍るような重荷にも耐え、そして今も凛としている。かないませんよ。

街全体がその巨木に見守られ、そして守っている。守り守られ。20年前に一度行ったきり、日曜の午後に突然、会いに行きたくなってステアリングを握って1時間。20℃を越える気温の中、窓を開ければ黄砂とスギ花粉が吹き込んで、曇った空気感の中、愛知県の中をうろつきまわる。海際の巨木と何か違う雰囲気なんですよ。寒さに耐えて、何というか、地味な雰囲気があって、古木、かくあるべしというか。街並みも旧街道が一本通っているだけで、開発と言う雰囲気は微塵も無い。しかし、暗い雰囲気はない。

今年は2月が特に寒く、今、梅がどこもかしこも綺麗ですね。移植されて増えている河津桜も満開に近く、梅と河津桜の共演で、山道の楽しい事。都会の作られた公園では無く、必然的に出来た里山の整然とした生活感が美しい。野草のすみれもいよいよ咲きだして、足元に気を付けながら歩むのはとても楽しい。時には命の洗濯も良かろう。これくらいは許されるのではないか。そんな休日を過ごさせて頂いた。感謝である。

54.4%

少し遅れて統計が出てくる日本の大学の進学率。出どころは言わずと知れた本社様ですな。2020年度の報告なんだけど、我が国の大学進学率が54.4%で過去最高なのだそうだ。過去最高!と素晴らしい事の様に語られているのだが、「それだけ?」と余りの少なさに驚いた。短大まで含めると64.1%なのだそうですよ。米国では88.3%、韓国では95%ですよ。大学って国の未来のための人材育成機関だったよなと思うと、なんだか恐ろしくなる。「ダイヤモンドオンライン」記事に依れば「大学進学が経済的不合理だから」とのこと。

要は生涯賃金を高卒で就職した者と大卒とを比較すると若干大卒が平均すると高いのだけれど、大学進学に要した費用を取り戻すまでの時間が極めて長いということだ。平均して50歳半ばまで取り戻せないという。予備校の費用だったり私学の中学高校だったり、それを加えて、積算していくととんでもなく費用が掛かる。俗に1000万越えと言わるんですけどね。高卒者と大卒者の平均生涯所得差は2000万円程度と言われているのだけれど、結局のところ早く手に職付けて活躍して、単位だ何だとどやしつけられることなく頑張れる方が良かろうということだ。

これは教育界と企業との関係性にも大いに問題を感じるわけだ。大学が入学者に対して地頭を強くして、かつ、専門知識を与えていないのでは無いかと思われているからで、大学院出の平均初任給は米国の5分の1である。博士に至っては修士卒で務めている同級生が、3年後に博士取得者となった者が入社すると、上司となって見下してくる始末である。これ程、専門知識に対して価値を置かない企業の価値観が改まらない限り、日本人の地頭はどんどんとレベル低下していくんだろうなと思っている。

日銀が必死になって進めてきていた「物価高日本」はコロナ禍と戦争であっという間に達成できてしまった。ただし、企業利益は下がり(多くの企業は)個人の給与所得は上がらないままなんだけどね。従業員が長い年月を掛けてスキルを高めることが出来て、学び直しが自在にできて、兼業も認められて自己実現に向けて頑張れる社会を目指したいのだけれど、それは遥か彼方。バブルの時代を覚えていますよ。企業さんが「大学生に色を付けるな、教育は企業がするから」と仰ったこと。そのツケが今、日本の負債となって出てきていることを政治家は意識するべきだし、本社も何でも支社に丸投げして疲弊させるようなことをしなさんな。そう思う。

少年に告ぐ

世界を見渡すと明るいニュースは全くない。だからまだ来ていない未来に明るさを見出したい。結局のところ、人が人の為に尽くして、それがまた他の方々に良い伝播が発生するような、そんな教育を受けた者に溢れる社会になったら嬉しいなと思っている。自分だけの価値観を大切にし過ぎることなく、他の方の幸せを大切にしつつ、それを更に大きくして、お互いが尊敬し合う事が出来るような社会が実現していたら嬉しい。

理想を言うなと言われそうですが、理想でも言っていないと暗くなるし、そもそも戯言だから何を言っても良かろう。ストレスフルにならず、例えそうなったとしても「大丈夫だよ」と言ってくれる人が近くに居る。心が折れる人が居ない、そんな社会が宜しい。メタ空間ではなく、リセットが利かないリアルな社会である。その中において、結局のところ、思いやりに溢れた社会と言う事であろう。その為にはリスキリング、リカレントが常に許される勤務体系が必要だ。兼業もどんどんと認められるべきだ。自分の価値を社会に知って頂く機会が多くあるのが良い。

小学校に導入した廉価な電子パッドが故障しまくるなどは最低のお話だ。旧態依然の作業を手放さず、電子化によって消えているべき作業が延々と残り、新しい事に挑戦できないでいる。それで賃金を上げるべきなどと言ってはいけない。新しい喜びを社会と共に創造し、それに挑むことはとても労力を必要とする。労力を今まで以上に掛けないといけない仕事に挑戦するから賃金が上がるのだ。今と同じ作業で上がる筈は無かろう。何か頓珍漢な議論がTVの向こうで展開されているのを見るにつけ、やっぱり暗くなる。旧態依然はもう宜しい。

小学校のお話を出したついでだが、Z世代と言う事で電子ツールを活用することを否定はしないし、もっと最先端のものに触れれば良いのにとは思うが。ただ、世の中の全ての事が画面の中で完結するとして育ってほしく無いのだ。そもそも電子機器を目に見えない回路も含めて、人が作った機械で作られているのだ。今のところはね。かなりの自動化が進んだが、全てがロボットで作られているわけではない。人が人の為に考え、それを活用した人が喜んでいる。そんな世界は無くなって欲しく無いし、続いていって欲しいと願っている。

月夜も曇る

再来年の今月今夜の月を曇らせる程に、ダイヤモンドは男子にとってろくなもんじゃないことは周知の事実である。永遠の輝きとか言っちゃうのは女性陣なわけで、男性陣にとっては、まぁ、ご活用できるような御仁に任せておきまして、小生の如くのモノづくり屋にとっては、単なる道具だなというところ。この道具にしてもろくなもんじゃないことが多い。それは言わずと知れた潜傷問題。これが極めていやらしい。

どれだけいやらしいかと言えば、殆どの方がご存じ無いというところが何というか困ったことで、とあるスーパーニッチな分野の方々にとってはにっくき潜傷なのだが、それよりも脛の傷を気にする輩の方が多いかもしれない。半導体の基板加工に関わっている人で知らない人は居ない?のだが、同じ、ダイヤモンドを使って作るものに「工具刃物」があるんだけど、こっちの方は、ほぼ誰も知らないというか故意に無視されている。理由は簡単、それが無くなってしまうと刃物の売り上げが落ちるから。

タングステンカーバイドという地球上でもっとも硬質の金属をコバルトをバインダとして固めた塊を、マイクロメータ―オーダーのダイヤモンドを混ぜて作った砥石でがりがりと削っていく。硬いタングステンカーバイドの粒を断続的に尖ったダイヤで研削していくのだけれど、これが時々欠けたりするのですな。するとダイヤモンドの結合エネルギーが爆発的に放出されて、将来、刃物となろうとするタングステンカーバイドに傷を作っていく。100μm程の深さにまで達するのだけれど、表面からはそれは解らない割れ目となって内部に存在するので、潜む傷と呼ばれている。

いろいろな工具刃物の表面金属層を丁寧に剥がしていくと、最も凄まじく潜傷を持っているのがK社さんの刃物。これはもう「こんな物を売っているのは犯罪だろう」というレベルなのだが、まぁ、営業妨害となるので、何処とは言わない。高価な刃具なんだけど、10個の内で2個使えたら大したものだろう。ダイヤモンドは実は化学反応性もとても高くて、だから自然に出来るんだけど、鉄やタンタルなどとこすり合わせると、ものの見事にすり減っていく。脱炭と呼ばれる現象が起っていく。化学反応の目線で加工は考えるべきだ。特にこれからのものづくりに関してはね。そう思う。