陸上進出

大いなる敵が現れ、水辺に樹木が生い茂る中、枝葉が水辺に落ち泳ぐことすらままならない時、アカンソステガは地を掃う様に歩き出した。争いを避け、巨大な敵から逃げ、浅瀬や水際に進出した時、陸上生活に適応し始めた。海水域から淡水域へ、そして地上へと、平和を愛した先祖殿は数百万年間水辺で進化を重ね、ついに陸上へと推移した。3億6千万年前の出来事である。 

それ故に、人類は温泉を愛するのではないかと勝手に思っている。海水という母なる領域の成分を遺伝子が求め、それと出会うことでリラックスする。特に数百万年も植物性有機物の「水たまり」に居たもんだから、植物性有機物のフミン酸などが含まれている温泉は、短時間で温まり、実にゆったりできる。 

これを「モール泉」と呼ぶのだそうで、元来はドイツ語の亜炭のことらしい。植物由来の温泉の一般的呼称となっているんだそうだ。大陸性の大地である日本海側に多く見られるが、小生的には石川県内のモール泉が肌に合う・・ことが最近分かった。通常の温泉などは毎日行ったら飽きるのだが、これはなかなかにして心地良い。妙な珈琲色に最初は戸惑ったが、入ってみるとこれが実に宜しい。 

温泉の色は様々あって、真っ白なものなどは、これは見た目にも美しいのだが、抹茶色とはどうなってんのと調べてみると、フミン酸は可視光の波長を吸収するのだそうで、黒く見えるのだそうだ。めんつゆに飛び込んだみたいで愉快である。処変われば温泉も変わる。それもまた醍醐味であろう。遺伝子がそう語っている。

 

 

造山運動

火山があったり活断層があったり、様々な理由で温泉が湧きだす。静岡から九州に至るまで、フィリピン海プレートが海水を十分にため込んで、軽い大陸プレートの下に潜り込む際に生じる摩擦のエネルギーがマグマを生み、その熱エネルギーが熱水を作り出し温泉になる。硬い岩盤も水と圧力があると水飴の如くにドロドロになる。噴火のかたちで人間にとっての災害を生むわけだが、地球誕生から継続している出来事に対して、人間如きが文句を言えるものではない。

高圧下では100度以上で沸騰するわけだが、それが大地に出てくるときの凄まじさ。日本では様々な場所で見ることが出来るわけで、それを捜し歩くのも面白い。直接の噴気孔などは頑張らないと近寄れないが、北海道の硫黄山などは足元から突然黄色い噴煙が上がったりして、恐ろしい。記録によれば8000年も前から噴気を上げているという。

そこまで激しい温泉というわけでは無いが、安曇乗鞍温泉などは山体全体が熱く、標高が高い中での温泉故に、やや、空気が薄くそれがまた楽しさを増す。壺のように繰り抜いた湯壺に身を沈めるわけだが、まさに山の中であって、愉快な気分になってくる。平湯まで行ってテント泊をし、翌日は新穂高ロープウェイを蒲田川沿いに下った川べりのスーパーオープンな露天風呂にどかんと浸かるのが良い。

川沿いだろうが山の中だろうが恐ろしい程に温泉が湧きあがり、相当に大地が冷えているんではないかと、遠い昔は思ったものだが、大地のエネルギーが次から次へと温泉を生んでいることを思うと、そんな心配は「今のところ」単なる心配であると分かる。若僧が温泉に入っていると人生のベテランの方々がいろいろと教えて下さる。それがまた面白い。そんなお付き合いは一人旅でこそ得られる。これからもしたいものだが、はてさて、いつになることやら。

のほほん

戯言だから暢気なネタが本当は良いのだ。日向で猫が寝ころんでいたくらいが丁度良い。秋らしく朝夕は少しは快適というところだが、この連休中は日中は「暑く」車に乗ればクーラーを使うという状況であった。暢気なネタということで「こんな温泉」が記憶に残っているというような、個人的趣味を語ってみたいと思う。 

それこそ川っぺりにどんごどんご沸いている川浦温泉。どこだそりゃという方が多いと思うが、縁者のお陰で最も記憶に残っている温泉になっている「気がする」。気がするというくらいだから、この40年間、行ったことが無いという、それでもネタにするのかというお叱りを受けそうだが、少なくとも10回は行ったぞという、小生的には珍しい温泉なのである。信玄公が通った温泉ということで、山梨の一部の地域の方には「良い感じ」の温泉である。 

今はネットで見る限り、随分と立派な施設になってしまっているようだが、広瀬ダムもできておらず、笛吹川の上流のそれはそれは野趣たっぷりの温泉であった。基本的に川っぺりに源泉がごぼごぼと沸いているのであって、川の水を取り込んでいかないと熱くて茹だるみたいなところであったと記憶している。 

東京の小菅村から川浦辺りは、兎に角アルカリ泉であり、肌がすべすべというか溶けてなくなりそうな恐ろしさすら感じる。Ph9.98程度のものであるが、そんなところに入っていていいんかいという、化学を学んだ者にとっては凄まじく、大丈夫かという感じすらする。小菅も川浦も行くのは「ごっちょうでごいす」というところだが、残りの人生でひょっとすると一度くらいは再訪するかもしれないなと思っている場所であります。

 

自業自得

投資をどう回収するのか。組織運営において最も重要な項目である。KPI設定は極めて楽ではあるが、その到達はなかなかにして困難である。遊園地と勘違いされると大弱りだ。安直路線に身を置くと、真摯な座席に着座する事が困難になる。

成すべき事から逃げるのであれば、そこには居場所はない。当然の末路であって、自業自得だ。自業自得という文字面を見ると、恐ろしい言葉だなと感じるわけだが、他人のせいにしたがる人類には自らの鏡的に見つめないといけない言葉だ。

出掛けて行って話を聞いて頂いて納得を得る。極めて困難な作業ではあるが、それが任務なら逃げてはいけない。逃げるとそれは癖になって、戻る事は出来ない。そうなると組織の一穴となり、崩壊に向かってまっしぐらだ。

そうなっては元も子もない。そうなる前に強権発動に至るのか?それも間違った方向であって、それはさけなけねばならないが、万が一ということもある。気持ちを緩やかに持って、選択肢を幅広に持たねばならない。これも自業自得だと自らに言い聞かせて今日を過ごす。そんなもんだ。

暗箱

技術の進歩が加速させるブラックボックス化。ボタン一つで結論が出る。AIの進化は更にそれを進める。スマホなどが今程の低価格を実現しているのは、まさにブラックボックスのおかげである。なんだか全てがゲーム化されている感じがする。予定調和の中で考えたふりをする。ボタンか無いと何もしなくて良いと威張りまくる。魂消る。

産業界でもいよいよもって影響が出てきているようだ。壁前面に広がる電光パネル。その中に何があるのか考えることも無い。それはそうだろう。学生の時代からボタンの中で生きているのだから。判り切った過去を教科書として学び、それを具現化させる装置と呼ばれる魔法の箱と戯れる。与えられる箱から出てきたものを疑いも無く受け入れるが、人から受けたものは信じない。そんな時代は何を産むのだろう。

ボタンの無い時代であれば当たり前の経験が、ボタンによって未知の過去になる。ゲームと言う決定されたストーリーだけに安住の地があると信じ、ひたすらボタンを押し続ける。そしてAIの台頭によって押すボタンすら取り上げられた者たちは、一体、どこに行くのだろう。それが技術の革新ならば人はその世界で何を実行するのか。脳に電極を突っ込まれて、マトリックスの世界になっていくのだろうか。

現実が仮想であるとするならば、血と汗は何に何の価値があるのか。価値の無い努力で切羽詰まる毎日を送ることが与えられた経路ならば、それは悲惨過ぎるのではないか。ブラックボックスが何を生み出していくのか。数ナノメートルの中に記憶がある世界。ブラックボックスだが、停電になった途端に何とかしろと叫ぶ大人たちがTVの向こうに居る。ブラックボックスの世界では無い世に生きた方々が、自らブラックボックスになっている。そんな日本にどんな未来があるのか。恐ろしい事だ。

手観音立像

蓮華王院三十三間堂の通し矢。小生の後輩がアーチェリーなら当たり前の距離なのにと言っていたことが懐かしい。それこそ三十三年前の出来事で、えっらく昔のことなのに今のことの様に思い出す。三十三間堂の仏の世界は恐ろしいほどだ。通し矢の軒先に刺さる江戸後期の矢の凄まじきこと。執念を感じる。 

偶然にNHKで昭和の通し矢を見た。戦後、途絶えていた通し矢に挑む弓道者の物語なのだが、その壮絶なることたるや。武士道はとうに途絶えているが、人間を超えた何かを見た気がした。挑戦とはこれだと。風神、雷神が見守る中、黙々と弓を引く凄さ。人間を はこんな事が出来るのだなと、自分も頑張ろうと震えたことを覚えている。 

その三十三間堂に安置される平清盛寄進の千手観音像が久し振りに勢揃いしているらしい。いつもなんらかの理由で欠員が出ていらっしゃるのだが、この数ヶ月だけはお出ましになっておられる。あの仏の世界こそ、人間の執念と思うのだ。来世にかける想いがおどろおどろしい。

清水寺のご近所と言うわけでは無く、そのために行かないと、何かのついでにということが難しい蓮華王院だが、千体仏の勢ぞろいは出会ってみたい気もする。平安期から立ち続けるからには、なにか訴えるものがあるはずで、その語り掛けに耳を傾けたい気もする。芸術の秋。如何だろうか。

 

国慶節

国慶節で中国は7連休。建国記念日を強引に土日にくっつけたとしても最大3連休にしかならない我が国より遥かに豊かな国家である。何と7億の方々が旅行をされるという。必ずやってくるゴールデンウイークですな。日本ではゴールデンウイークがクローズアップされているが、季節を考えると良い時期のような気もするが、毎年毎年、飛び石だったり分割だったりと、来年の計画を考えようという気にはなれない。豊かな国家には国民を休ませる施策がきちんとあるのだなと、個人任せの休み方改革では、国民はいつも通り仕事をし続ける。

し続けないと終わらないのだ、いや、し続けても終わらないのだ。恐らく、死ぬまでそうなのだろう。国家の借金はいまや企業の箪笥貯金にまで手を付け、後世の方々は産まれる前から骨までしゃぶられる始末。100歳までは最低限休みなく働き、今日現在においては100歳を超えたら漸く旅行でも如何ですかというのが国民が選んだ政権の主張である。民主主義で選択された生き方であるから従うのだが、従っていると労災認定されるから働いた時間は申告してはならないというおふれもある。はてさて生きるのが難しい国家である。

のんべんだらりとしていていはお休みなど決してやってこないので、メリハリを自ら作り出すしかない。遣り甲斐というものを見つけ出すことが出来れば少しは気持ちが前向きになる。陰口ばっかりで不平不満だけの働き方ではストレスリッチで過労死一直線。自分の考え方と違う、昔は良かったなどと時代の変革を無視するのでは、組織としてはご退場願わねばならぬ。これは自らも常に思っていて、猫の目よりも激しく迫りくる親方にかじられぬよう、先へ先へとかじ取りをせねばならぬ。そうなるとやっぱり遣り甲斐というよりも大波を受けるストレスリッチということか。

昨今の初等教育において、自らの意見を明確に出すこと、そしてそれを認め合うことを体得させようとしている。一億同色で育てられた小生達の時代とは随分と進化したものだと感じる。これは他人を押しのけても自らの意見を通そうということではない。それを肌で感じるには塀の中に居るだけでは無理で、自分よりも遥かに思考力豊かな方々と接し、学び続けねばならぬ。やはり休まることは無いのだ。時にはぽかぁんとしたいものだが、台風25号がまた海の向こうからやってきそうだ。自然の猛威と人的猛威。本当に恐ろしいのはどちらだろうかと、結局は猛威よりも早く働けということなのだろうなと苦笑いする私であります。

台風一過の夜

同じ感想を抱いた方がいらっしゃるかもしれないが、NHKの気象ニュースとネットのウェザーニュースとの「極めて大きな」違い。16時くらいのNHKでは名古屋は最大風速7m程度とTVの情報チャンネルでは出していた。一方、ウェザーニュースでは17mくらいと出ていて、21時くらいのリアルな数字は15m程度だ。AIを使わないで気合を入れているNHKということなのだが、どんなに東大教授の理論で突っ走っても、地球環境を経験的計算値で当てはめようというのが神への冒涜と思う。AIを神への冒涜と言うメディアの方が大勢いらっしゃるが、小生は全くそうとは思わない。単に過去の事例が物語ることを伝えてくれているだけだ。

人類が自分の成したことを経験として残し始めて何年が経とうか。もう一方、理論という、人類の己惚れから得られた自然現象の数値化とどっちが正しいと言われると、精々百年未満だが、経験を信じたい。所詮そんなもんだろう。いばりくさって「これは大丈夫」と作った車の車軸は折れ、ブレーキは効かず、飛行機のエンジンは空中分解だ。それが偉い方々と、それを信じた方々のモノづくりの結果でしょ?

ほんの少し前に、某親方日の丸のお若い天狗君が「加工とは高速性だ!」と己惚れた。ほほう、面白い。天下を掌握するべきかの方々の代表が、高速であれば安く、そして人は死んでも良いという。それが日本だ。それを払しょくせねばならぬ。苦労して血を流して、その結果、安くできて、高価に売る連中だけが正しいという日本の在り方。そりゃぁ、過労死もするって。

お恥ずかしい話、小生も三十数年前はそう思っていた。それが当たり前と考えていた。まだまだ工業製品が出来上がるのが当たり前ではなかった時代、多くの方がそうではかなったか?全く恥ずかしい。今は違う。全く違う。一つ一つ、理路整然として完全無欠のモノを丁寧に作り、それを受け入れて頂けるかただけにご提供申し上げる。休みがあって脳も疲れを癒す時代にならねばならぬ。まぁ、多くの日本人は反対するでしょうけれど、どうぞご自由に。台風の最中、そんなことを思った私であります。

旅は永遠に

善光寺平の眺めは清々しく、しかし、草木が茂って三大車窓と呼ばれる景色がなんだか残念なことになっている。これでは電車で旅を楽しもうというご同輩は増えないだろうなぁというのが素直な気持ち。鉄道の旅は何といってもそのお気楽さが良くて、お気楽だからこそ旅だなと感じるのです。特別な料理や温泉、つまらないサービスなどはいらないのです。ほっとする景色、空気があればそれで旅。気持ち的に常に切羽詰まっていて窒息感満載。そんな時の厳しい出張でも、車窓でほっとする瞬間があればこっちのもんだというところですかね。

車窓の景色は重要なのですが、新幹線という極めて一般的な車窓で例えるならば、はやり富士山ということになるでしょう。E席の皆さんはカシャカシャと携帯で写真を撮られる。小生もまぁ、似たような者だったのですが、ある時A席に乗っていてあらまぁという富士山に出会ったのですよ。ご存知の方はなぁんだとなるのでしょうが、これが実に「美」なのですな。基本的にA席に座るのですが、その車窓が楽しみにはなったのですが、最近はただただ寝ている車窓だったりして。

久し振りの駅に着くと「変わってないな」か「びっくり!」のどちらかになりますな。長野は前者でありまして、オリンピックの後に路面電車の地下化の後は、ほぼほぼ安定状態。と、思っていたら、馴染みのお店がたたまれていたりして、仕方がないので新しいお店を見つけたりもした。この辺りはいずこも同じ、秋の夕暮れではないけれど、お客さんが来ないのでしょうね。観光立国など遥か彼方のことでありましょう。

旅は道連れ世は情けという通り、道ずれがあるとこれは面白い。生き方の違いがまたよろしい。世代を超えると更によろしい。リニアが普通になる時代がくるんでしょうけれど、サイクリング野郎の小生とすれば、そのくらいのスピードが良いのですよ。ちょっとした景色に感動する心があればこその旅。そんな旅を求めつつ、今日も移動の私であります。

しなの

名古屋で中央線といえば「しなの」ですが関東では「あずさ」ですな。新幹線よりも先に振り子を取り入れて、多くの観光客の嘔吐を誘う仕掛けが面白く、旅情を感じますな。「しなの」号は千種にも停車してくれて、名古屋市民に優しい特急であります。新幹線とは違って、旅感覚満載です。特にカーブと登りの連続は、目の前の紙コップのお酒がこぼれないかとハラハラドキドキ!旅ですな! 

指定券を取るという、新幹線のようなネット販売では無いところからして旅なのですよ。その昔、ブルトレで旅をする時、並んで駅員さんと話をしながら寝台がどうだとか言いながら指定を取ったことを思い出しますな。なんとも穏やかで幸せな日々でしたよ。スピード感がまるで違う。今なら夜行高速バスなのかもしれないけど、身体を水平に出来るあの世界は格別でした。 

今ではやたらと高級な寝台特急ですが、その当時は当たり前感覚満載で、ある意味安かったかも。宿泊付き旅でしたからね。朝風呂も駅にあったりして、良い時代でしたよ。その良い時代を名古屋から長野に向かう「しなの」には感じるのですよ。逆向きはなんだか落ちてくるみたいな勢いで旅感覚はゼロですね。これはつまらない。 

晴れていればアルプスの山並みが美しく、寝覚めの床も楽しく愉快。善光寺平を望む日本三大車窓からの雄大さたるや、自動車では味わえない、流れるこ景色の面白さ。なのですが、今日はどうやら雨らしく、せっかくの車窓も眠りを誘うのみかもしれない。まぁ、雨には雨の楽しさもあり、「しなの」の旅の今日なのであります。