東海道新幹線の一日乗降客数が46万人。島根県の人口は71万人だから2日間で島根県民全員を県外に連れ出せる勘定だ。それだけ多くの乗客の中に一人の暴漢が現れる時の阿鼻叫喚たるや凄まじい恐怖であったことだろう。恐らく、利用者の誰もが思うことだろう。自分だったのかもしれないと。移動体としての安全と、それに伴う安心は偉大な新幹線であるが、その中身となるとそうもいかない。
安全は工業製品であれば当たり前に実現しなければならないのは言うまでもない。安全・安心などと軽々しく書かれた記事を見るが、安全と安心はまるで違うカテゴリだから併記することが異様である。先ずは安全。それは何故ならばこうだからと定量的に説明成されなければならない。それでも人知の及ぶところではない未知がある。それはその後に解明改善すればよい。それもまた人の世のあり方だ。
安心して居られるということは一切の恐怖・疑いを持つ必要が無いということだ。その意味では登山などには安全も安心もあり得ないのだ。自己責任のみが与えられる。慎重になる。それで良いのだ。人間は勝手だから、様々な前提を勝手において安心してしまう。冗談ではない。安心など当たり前にあるはずがないのだ。
最近、思っているのが満足、あるいは何かを満足化させようという指標の導入だ。名人芸は自己満足も他律満足も大変に大きい。持ったことは無いがグッチのバッグなどはその最前線であろう。海に投げ出されてもグッチのバッグは海水が入らず沈まない、壊れない。正に持つ満足がある。今あるものを満足化していき、その結果、安心な世の中が出来合っていくのではないか。マスプロダクトはもう良い。当たり前には満足は無い。そう感じる。