シングルナンバー国道にて

大雪で道路閉鎖、そして物流停止が二日間。日本のシングルナンバー国道でこんなことが発生するとは思わなんだ。ひたすら土木工事に巨費を投じ、政治イコール土木工事だったのではないのか?高速道路の天井が落ちたりなんてことは、まぁ、ひょっとすると何かの手抜きがあったのかもしれないが、まさか平時に雪で立ち往生した車が原因でほぼ丸二日、シングルナンバー国道が閉鎖になるとは。日本の屋台骨が折れた、そんな感じを受ける。

加えて、日本を代表する産業の牽引車である自動車が雪で動けなくなったのだ。北陸で活動する自動車が雪で止まって良いのか?良い筈はない。車検と言う自動車関連業者が生き延びるための政治的活動は、まったく役に立っていないということだ。ユーザーのためとかなんとか言いながら、実は単に業界を助けているだけである。もっとも最近のリコールの嵐を考えると、車検制度が無かったらもっととんでもないことが起こるのかもしれない。車軸が折れるなんてことが日常茶飯事だったりして。

小生が物心ついたころには首都高速道路は存在し、新幹線も大阪まで繋がっていた。上野駅ではまだSLがごうごうと煙を吐いていたが、それもやがて消え、そして日本列島改造論である。今もあの考えは貫いて欲しいと思っているし、日本の土木工事は世界の中でも優れた技術レベルにあると信じてはいる。ただ、下水管やガス管の交換が頻繁に必要な地震頻発国故にアスファルトは薄いとか年中掘り起こしているとか、土木技術とは異なる理由でネガティブなイメージがある。雪に弱いということだって、ダブルナンバー以上の国道なら気にならない。そうだろうなと思うだけだ。

ところがそれがシングルナンバー国道となれば話は別だ。県任せのエリアだったかもしれないがそんなことは言い訳にならない。国は一体なにやってんだと、極めて腹立たしい。40時間も車で過ごしている日本人の忍耐には感動するのだが、そんな状態に国民を置き去りにしている国っていったい何なのだ。自衛隊の出動も極めて遅い。物流が止まる、その国の不利益たるや甚だしい。それを大雪だからと済ませられるのか?日本の生末は極めて危うい。救われたのは名古屋高裁が1.98倍の一票の格差は憲法違反と判断したこと。少しは真っ当な裁判が成されるのだなとほっとした。ましてやおひざ元の名古屋でである。なんと素晴らしい事か。立腹したり納得したり。なんとも気持ちが飛びまくる、今日も一人民族大移動の私であります。

美濃市駅

美濃市駅にいくにはいくつか経路があって、最も簡単なのは名駅からのバス旅程である。一方、鉄道を使おうとすると、これがなかなかにして険しい道のりだ。高山本線で美濃太田まで行き、そこから長良川鉄道に乗り換える。止まっているのかと錯覚するほどの鉄路であるが、旅情は間違いなく満点であろう。駅前にはその昔の路面電車が行き場を失って並んでいる。そんな美濃市てお仕事をしてきた。

前面株安となり、資産が一気に目減りする。半導体や自動車の最終組み立て関連企業は堅調で好調であり、純利益を社員還元が可能だ。一方、株価や金融相場で資産の目減りのみに気を遣う企業は、仕事はあっても利益が全く無くなるという状況が続く。ベースアップなどとんでもない。とんでもないから街にお金が回らない。回らないから閉塞感たっぷりだ。それがうだつの上がる町並みの本質だ。うだつなんて上がらないのだ。

起業を考える学生が増えているのはこんなところに起源があるのではと思ってしまう。隙間だろうがなんだろうが、やる気が他人の喜びに変わっていってそれを体験できるのであれば、それは素晴らしいことだ。六本木ヒルズに住もうなんて考えなければ、それこそうだつの上がる町並みに居を構えることだって夢ではない。ネットと運送会社があればどこだって暮らせる時代である。都会でなければならないなんて化石の頭だ。

長良川鉄道はおっそろしく北まで続いていて、北濃という車でしか行ったことの無い、九頭竜湖よりも北に位置するところまで行っている。一度、のんびり出掛けてみたいと思っているのだが、ちっとも実現しそうにない。ただ、行きたいと思っていればいつかはいけるだろうという呑気な気持ちでいるのだが、ひょっとすると突然廃線になってしまうかもしれない。沿線には温泉もある。そんなゆっくり時間を過ごしてみたいが、今日も一日ぎっちりのスケジュールだ。製品開発は一区切りだが、新たな一歩を踏み出し続けなければならない。それが私である。

セメント

足元を見ておやっと思った。電線を地中に埋めて、安全と世間の美しさにこだわって、アスファルト道路という仕組みを構築したのは、灯りを創ったエジソンであるが、セメントってどこの誰が商用というか工業的に使うようにしたのかと。調べてみても9000年程度前に使われた痕跡があるということしか分からない。カルシウム成分は大地に豊富にあるから、なんか使ってみようかみたいな感じで使われたのかもしれない。研究よりも先に開発が行われた事例のようだ。

縄文期以前からトイレがあったり、竪穴式住居があったりと、ホモサピエンスは頑張るなぁと最近妙に感心する。科学と技術という点において、例えば木を切るという当たり前の行為ですら、人為的に木材の繊維を断ち切るという極めて困難なことを当たり前のようにやってのけている。メソポタミア文明とてBC3000年程度だ。1万年以上も前に石を削り木を断ち切る。そんなことを我らが祖先は行っていた。

自分だけの安住のためでは無く、皆で皆の快適さを作り合っていた。なんと素晴らしい事か。セメントで固められた道路を見ていて、人間っていろいろとやるものだなぁとしみじみと思ったのである。こんなことを実現したら面白かろうという見方と、こんな社会に暮らしたいからこんなものがあったら良かろうという見方からのものの創造は、随分と価値が変わる。後者の残念なのは大概、儲けに繋がらないことではあるのだが、皆が幸せになるのだから、まぁ、我慢するべきか。

今朝も随分と寒い。駅から大学までの間に建築現場があって、セメントでべた基礎を打っているところに真っ白な霜が降りている。ほうとなかなかの景色だなと思って少し行くと別の現場があって、こちらには全く霜などは無い。霜が降りるか降りないか、なんかその上に建つ家の風景が浮かんでくる。寒さで凍えるか平穏に暮らせるか。良いものは良いのだろう。これでどれだけの対価が支払われるのか。相当に違っても良い。そうでなければならない。それに対価を支払わない人種は、正に1万年以前の野蛮人だろう。セメントの一角をみて妙に熱くなった私であります。

良い黒子

立春を過ぎ昼間の日差しは確かに春の気配を感じるのだが、今朝などは上弦の月の周りに重い雲の層。良くみると、駐車場の車のボンネットにはちらほらと雪の粒が乗っている。温暖化による寒気はやむことなく、一体、いつまでシベリアの空気を日本に送ってくるのやら。日本海側各地は大雪が続き、一晩で1m以上の積雪を観測するところが出ているよう。そう思うと、名古屋というところは台風も無く大雪も無く、地震も無く、なんだか妙に天から無視されているような一抹の寂しさもあったりして。

先週は東京、岐阜と所を変えて司会業に勤しんだ。最近は研究からとんとご無沙汰なものだから、司会だけに引っ張り出される始末。今週も東京で司会業。だんだん職業が変わってきたのではないかと、Youは何者と聞かれた時に返答に困る。そもそも論で、教師なんてものは壇上で司会をしているみたいなものだなと、改めて思ったりもする。相手が大学の総長だったり、お役人だったり、企業の社長殿であったりと変わるだけで、聞き手のパフォーマンスを引き出して全員がそれぞれの底力を上げていくお手伝い。あくまでも黒子なんですな。

それが市長とか知事とか学長とかになると違ってきて、これは自らの意思で向かう方向を示さねばならぬ。大学は質が悪くて、その昔の調整役で言うことなんか聞かなくても良いと考える構成員が殆どだから、中央政府とかみ合わないこと甚だしい。研究費も自分の金みたいに思っちゃったりして。勘違いをし続けるとそれが正義になってしまうのが人間の弱さだな。そもそも神様と違って人の意思には絶対値が無いからね。昨日は基地に反対して、今日は銭をよこせとなる。年中、道路に穴を掘っている日本だ。公共投資という名の税金の無駄遣い。

科学の探求と技術の活用。それがお勤めであった時代を懐かしむなんて気持ちはさらさら無い。むしろ、雑音が消えて純粋に思考に徹することが出来ているかもしれない。そりゃぁ、紙と鉛筆を持って図書館にこもっているほうが幸せだ。古いインクの匂いに酔いしれて、果てることなく古い学理を貪る。多くの科学を技術に換えて自動車などは出来ているわけだが、それにしてはリコールの何と多い事。技術を金と天秤にかけて利益を追求した結果だろう。真理の探求こそ学生は突き進むべきで、教育者はその黒子に徹するべき。良い黒子の歌舞伎は美しい。出しゃばりの黒子が世の中を崩壊させる。そう思う。

人口減少

ふと気が付くと朝が明るくなっている。真っ暗な朝が既に明るく感じるようになっている。確実に冬を越えたのだなと感じる。寒さはまたぶり返すらしいが、今朝は数日前の刺すような寒さを感じない。今年はどんな夏になるのだろうかと、気の早いこと甚だしい。つい先日、お正月だったのに、もう2月である。カレンダーをめくらなければならない。カレンダーを眺めたら、2月12日はお休みだ。なんだか有難い。買って読めていない本が山積みだ。静かな読書としゃれこもう。

日本中、至る所に歴史を体験できるところがあって愉快である。府中でお仕事をしてきたのだが、先週の大雪での新幹線の遅れにびびって、1時間前倒しにしたらすんなりと到着だ。まぁ、有難いのだが、折角、時間が出来たので、以前から気になっていた大國魂神社なるところに参拝をさせて頂いてきた。1900年の歴史を刻む、111年創建の古いお社だ。建物そのものは4代将軍の代に出来たそうで、文化財に指定されている。武蔵野の森が残り、大木が数多い。

前九年の役で有名な八幡太郎義家がこの地でお参りし、その結果、大勝したということで(諸説あるが、それは無視)欅の並木を奉納したそうだが、ここが武蔵野国の中心地だったのだなと思うと、新宿からえっちらほっちら電車に揺られてやってくる遥か彼方なのだが、実はこっとがその昔は中心地だ。大國魂神社からは品川や新宿の方向に一間程の古道が残っていて、これが大変に愉快である。名古屋と言えば旧鎌倉街道だが、東京だと様々な旧街道が残存して驚かされる。

何しにそんなところということはどうでも良くて、大國魂神社を擁する府中なのだが、デパートなどは廃業寸前の状態らしく、大会社の凋落によって町がゴーストタウン化してきているとのこと。確かに駅で乗り降りする方が妙に少なく感じた。調布や八王子のほうが随分と賑わっている。中心地のみが活況で、その周辺が欠けてくる逆ドーナツ化現象。噂では聞いていたが体感出来るとは思っていなかった。日本全体の人口は間違いなく減っているのだと、大混雑の東京だからこそ実感できる、そんなことを思いながら、終電近くに戻ってきた私であります。

そこにある

「月がとっても青いから・・」と真逆の宇宙のイベントに参加できたのは久しぶりだ。その間に日食などもあったから、もう忘れてしまった。ひょっとすると月食などは、まぁ、そこそこ出会うことが出来るので、見ていても感激すらしなかったのかもしれぬ。それだけしらけた年寄りになったということかもしれないが、今回の赤い月はそれなりに楽しめた。下弦の月の状態で欠けていく様は、なんだか愉快であった。太陽が西から登るような、そんなイメージだ。

白色とまではいかないが、白み掛かった月が、僅かな時間の間に赤く変わった。日陰でありながら空気によるレンズ効果で、大気を透過した赤い成分が月を赤く染める。原理はそうだが、実際にそれに出会うとなんとも愉快だ。赤い月を取ってくれと言いたくなる。薄曇りの名古屋地方、なかなかにして良い鑑賞空間であったと感激する。月夜見尊もなかなかやるわいと、冬の空に赤い月とはなかなかにしておつである。

と、闇夜にカラスでは無いけれど、皆既日食だがそこにあることがわかる。巨大な星と強烈な太陽光の成せる業だが、これが日中の星であればどうだろう。近所の火星や金星の闇夜の輝きですら消されてしまう。あるのに無い。いや、あるのに見えない。見えないけれどある。これまたなかなか面白い。駄目なものは駄目という理屈は好きだ。ただ、それには精神的に受け入れられる場合に限る。現実の問題となれば、駄目と言っているのはあんたの都合でしょ、定量的な評価結果を示して頂戴と言うのが普通だ。

闇夜だから見える。明るいから見えない。大声に消される正義の声に似ている。気に入らないから気に入らない。僕はあいつが大嫌いだからその組織も嫌い。そんな会話を思い出した。夜空であっても見えない星も、実はそこにあるのだ。あるのであれば、それは何かを為すために必然的に存在しているのだから、見えないからと意識から消してはならぬ。一人には思いつかない。しかし、真っ当な多くの声があるからこそ救える心理があるやもしれぬ。それを大切にせねばならぬ。強い声だけに従っていては政は成り立たぬ。無い星は見えないだけ。心が曇っているだけと、自らに言い聞かせる私であります。

インフルエンザ

インフルエンザが猛威を振るっていますな。受験シーズンで、修論・卒論の締め切りがわんさか。国の予算の審査なども目白押しのこの時期、インフルエンザウィルスは極めて恐ろしい。便利な道具の進化の過程で生まれた仮想通貨もウイルスにやられて霧散。これなどは進化の過程の代償とでも言えるのかもしれないけれど、リアルな生命を宿主とするウィルスにおいても、ワクチンに耐性を作って戦う姿勢を示すところなど、ウィルスってものはそういうもんかと、なんだか感心したりして。

インフルエンザと私ということではないのだが、その昔、予防接種を受けるとそれだけで感染症発症状態となり、それが複数年続いた記憶がある。以来、予防接種なるものを信用せず、手洗い、うがいを励行し、菌を過剰に体内に取り込まないようには心掛けてはいる。しかしながら彼らは目に見えない厄介な代物故に、置かれている環境は一般人類と変化は無い。変化は無いが取り敢えず定常状態からの偏差は、水平状態認定を受けられるほどには振れない。

年末からの地球外生命体説を真に受けると、幼年期において微少な菌で異様な反応を示したところなど、HGウェルズの宇宙戦争で火星人が勝手に絶滅した様とよく似ている。絶滅しない固体もあったろうにと思うのだが、現実と映画との違いがそのあたりにあるのかもしれない。42億年前に生まれた初期生命は炭素の集合体であり、殻を纏い自己分裂する、その自己分裂こそが生命の証。他の生命の中でそれを実行したら、宿主に変容が生じてもそれは必然だろう。

しかしながら、そのような生命同士の合体によって、目が生まれやがて人類にまで到達している。哺乳類として目に見えるサイズで言葉を持って協力しあう声明を人類と呼び、なんだか偉そうにしているが、実はインフルエンザと人が呼ぶ生命体も実は何かを考え、伝えあって、地球を汚しまくってのさばっている生命を絶滅させようとしているのではないか?勝手に温暖化まで引き起こし、折角の地球を無茶苦茶にしている様を許さないのではないか?そんなことをふと思う、何故か動き続ける私であります。

直線

神は直線を作らない。人間の目で見て、点と点を最短で結ぶと直線になる。獣道は決してまっすぐでは無い。獣は木の根を踏まないから、必然、曲がりくねった道になる。海から隆起してほぼ平坦な大地に雨が降る。隆起に従って溜まった水は海に流れ、川になる。断層に沿った川の場合、直線になるが、それは余程の事で滅多に現れない。直線こそ人類が到達した奢り高ぶった結果に得た社会的秩序であろう。

山を歩くには最も安定な尾根を歩く。雨の削り残しの尾根であるから、これは滅多に直線という状況にはならない。曲がりくねった尾根であっても、ひたすら前に進んでいけば、もしも断崖絶壁にあたらなければ、遠くに見えていた頂上に辿り着く。それを工学技術によって直線的に結び付け、これまた工学的に作り出した自動車という道具を使いやすいように創り込み、いよいよもって直線道路、そしてそこに並行して並び立つ家屋の世界を作り出した。それが文明というならそれはそうかもしれない。多くの文明社会において四角い町割りが好まれて使われている。

縄文時代ですら直線的な大路が創られていたことが発掘によって明らかになっている。神に出来ないことを人類が成し遂げたと思ってはいけないのだと思うのだが、今、我が国の政治は正に短絡的な進み方をしていると感じる。ネットワークを通じて人にとって便利な道具の出現を知る。それに追いつく教育を目指すとともに、まずはお金を通じて導入していく。世界と同列を目指すにはそれが手っ取り早い。そうすると外貨と交換できる自国通貨を作り、それを中核として人の世が出来る。

極めて短絡的な姿と感じる。便利を追求することが悪い事とは決して言わない。そもそも小生はオタクであるから、便利な道具は大好きである。一方で、ちまちました不便も大好きである。不便を克服して年始を迎える極地がおせち料理と考える。保存食の位置づけではあるがいちいち縁起に結び付ける。縁起ものなどは直線とは全く相いれない。心の作用であって、迷うから太くなり深くなる。ゆっくり歩くからこそ文化が見出される。世界が慌てて直線を歩むからこそ太く曲がった道を歩みたい。細ければ迷路だが、太ければ皆が並んで笑って歩ける。一人では文化はならぬ。ましてや文明をや。そう思う。

自転

昨日、プレートのお話をしたら、今度は地球の自転のお話だ。2011年から時点が線分の1秒ほど遅くなっているそうな。なんでも、核の周りの状態や海水温の分布によって周期的に変化するのだそうだけれど、今回の遅くなるバージョンでは、遠心力が減少方向に働くから、赤道地域が地球を締め付けて、プレートを極地方向に押しやるのだそうだ。2011年頃から世界中で大きな地震や噴火が増えているのは必然なのだそうだ。こうなってくると白根山の噴火など、まぁ、そうなのだろうなというところだろう。

地球規模の気候変動や地殻変動を地球の遠心力と結び付ける直接的なお話を伺ったのは初めてだったので、妙に印象に残ってしまった。ウェゲナーは大陸の移動は地球の遠心力だと、当時は地面の下の情報など分かるわけは無かったから、それを苦渋の選択で発言され、学界から消されてしまったが、直接的では無いにせよ、関数的には関わっている出来事であったに違いない。直感を大切に科学者は生きるべきだと言うことか。

大きな地震が発生するとプレートの位置が変化して、その都度、早くなったり遅くなったりを繰り返しているらしい。その積算の結果、しばらくは遅くなる方向に働いて、地球の締め付けが成されているらしい。数億年の長さから思えばなんて事の無い変動なのだろうが、その上に乗っかっている新参者の生命体には、案外、致命傷だったりするのかもしれない。地球がくしゃみをすれば人類など容易に消し飛ぶであろう。

週の頭から大き過ぎるお話だが、1月31日の皆既月食はちょこっと期待している。宇宙の中に住んでいるという感触を直に味わえるイベントで、出来れば晴れて頂きたいものだ。電子マネーがどうだとか、関東に雪が降るだとか、誠に平和だからこそ聞こえてくるニュースだろう。宇宙の出来事に目を転じ自らがいかにちっぽけか再認識している私であります。

雪景色

寒い日が続きますが、皆さん、お元気ですか?40年前の冬になったのではと、冷え込む日々が懐かしかったりします。ここ数年、特に名古屋では暖かく、謎の昆虫が夏にはびこったり、あるいは、果樹が実らなかったりと、本来の日本の植生を乱していることを実感出来ていました。ぐっと凍る。水ばっかりの人間にとっても昆虫にとっても厳しい冬。耐え抜いた方に都合良く働く。そんな冬の寒さを有り難くも思ったりする。要は寒さに耐える体を作れということだろう。

昨日に続いて雪の朝である。昨夜の帰宅時においても特に家々の日陰になっている路面における氷結が激しく、駅までの道がえらく長く感じた。小生の職場というか建物というかも同様に北側に出入り口があるものだから、凍結が厳しい。うっすらと氷結している程度の名古屋の冬を語ったら、秋田の知人たちに鼻で笑われそうだ。TVでは秋田の猛吹雪が放映されている。秋田空港など完全に閉鎖の状態だろう。流石の突撃秋田便のパイロットも厳しいのでは無いか?というか、航空機の性能限界を超えているかもしれない。

ラニーニャ状態が観測されていて、寒い冬になるということは解っていたが、やはり地球規模の気象現象というのはデータ通りになるのだなと妙に納得してしまう。ガキの頃は寒いと言うと親父にぶん殴られたものだが、今となっては懐かしい。「寒い無し」という謎のプレッシャーを念仏のように頭の上から降らしてきた親父だが、そんな雷神の如くの親父は今の時代では生きられぬ。ただ懐かしいだけだ。

寒かろう、暑かろう、所詮は人間の感じるところ。水っぽい人間だから、寒くなれば凍るし、暑くなれば乾く。自然の摂理にあがなうことは出来ない。地球のやることに文句は言えない。ただ感謝すれば良い。高齢化で独居社会になると、地球と仲良く暮らす社会学が進化するのだろう。結局は人間同士の優しさがキーワード。気象が厳しい時にそんなことを思うだけでもちょっとは平和に向かうかなと、それでもやっぱり寒いのは厳しいなと苦笑いの私であります。