テキストマイニング

同僚に教えて頂いたのだが、テキストマイニングというツール。最初は、例えば1時間の講演の中で、自分が何を最も繰り返し語っていたのかを知るツール位に考えてしまっていたのだが、そんなレベルでは無く、自らの主張が、きちんと話が出来ていたのか等々、使い込んでいくと、いろんなことが見えてくる。自分が言いたいことが、まだまだ未定量であること等、思考が足りていないことまで見えてくる。

音声をテキスト化してくれるツールの存在も有難い。自らの発声が不明瞭である部分があることも解ったり、勘違いをしてしゃべっていたり。恐ろしい限りだが、有難いツールでもある。間違いは訂正すればよろしい。政治家の脱税では無いのだから。勢い良くしゃべっていて、ちゃんとしゃべったつもりが、正しく伝わらなかったりね。拙速は宜しく無い。そんなことも見えてくる。

特に、自らが思考して、初お目見えみたいなプレゼンシートを、ちゃんと伝えられたかなというか、質疑によって、より、深堀が成され、自らにも学びを得ることが出来る。文字起こしをしてみて、ビデオを見返し、タイミングと発言は納得できたとしても、AIさんがどのように客観視してくれるかを確認することは、ツールの使い方としては正しい気がする。勿論、AIさんの進化・不進化があるわけで、鵜呑みにするわけではないのだが、思考の助けに使う事は間違いではあるまい。

従来であればとてつもなく大変な作業であったものが、ほぼほぼ正しくテキスト起こしが出来、画像データも極めて簡単に取得できる時代になったわけだ。自らを鍛えていく手法が猛烈なスピードで進化しているわけで、それらをどんどんと活用することで、セルフチェックが出来るようになってきている。こんなに便利な時代は無い。学会などでは録画・録音・撮影禁止だが、自分で自分を撮影して、質疑などでのやりとりをそのまま持ち帰ることは研究者にとってプラスである。自らの情報を自ら持ち帰るくらいは良いのではないか。そう思う。

落葉

昇竜道という、なんだか、ノーベル賞と絡めて富山・石川と愛知を結んだラインを、勝手にそう呼んでいるということを、もう、何年前だろう、聞いたことがある。何の努力もしない連中が、なんだかお金を集めたくて言っているのだろうと、冷笑したことを思い出すわけだが、リスペクトされる程の評価などは、それこそ血の汗を吹き出すほどに頑張らないと、誰も認めないのは当たり前の話である。先日、例によって訪ねたことの無い場所を塗りつぶす旅において「こんなところにこんな人の願いが!」というところに出逢った。

単純に新聞の折り込み広告的ミニコミ誌に出ていた写真の場所が、行ったことが無いというだけでステアリングを握るわけなんだけど、地域情報を調べていたら、どうも、山入端に名刹があるらしいということで、そこを尋ねることで、紅葉狩りも兼ねて出掛けてみた。なんとなく感じていたのだが、灼熱の夏の影響か、名古屋市内のプラタナスなどは、黄色くなりきらず緑色から黄土色になって落葉してしまっている。紅葉は期待しないほうが良い。

猛烈に暑くて、紅葉が想定外となっているわけだが、これは、まぁ、数億年の命を繋いできた植物だから、きっと、数年も経たないうちに、紅葉できるようになるのかもしれないけれど、ひょっとすると、緑のまま、枯れることを選択するのかもしれない。それはほったらかすとして、今年の紅葉を巡っているのだが、紅葉は茶色か緑と茶色で落葉するとか、植物にとっては、少雨と灼熱は厳しかったのかもしれない。

本当に、名刹であった。祈りの楼閣である。人々の想いが込められた、清々しい場所であるのは間違いないのだが、自然がちぐはぐで、夏バテ著しい。恐らくなのだが、これが常態化していって、紅葉狩りという文化は消失するのではないか。自らを滅ぼすくらいに繁殖を続けたセイタカアワダチソウの如くに、人類も生きられなくなってきたと言うことだろう。日本の人口減少は必然であろう。その中で何を成すか。考えるべきなのでしょうね。

ホワイト水素

地下資源としての水素の存在には魂消てしまった。水素は単体では様々なところをすり抜けて、且つ、地球の引力では引っ張り切れないから、宇宙に飛び出してしまう。それらの性質故に、石油の様に掘れば出てくるということはなく、何が何でもという強い意志が無いと、エネルギー源として獲得できないと勝手に思い込んでいた。600万トンから2億5千万トンの幅の埋蔵量と、不確定要素は大きいようなのだけれd、そんなものがあるらしいのだ。

調べてみると2018年にはその存在は知られていたそうだが、そもそも論として「無い」と決めつけていたからいけない。こんなものが出てくるとは、地球恐るべしである。そして、その水素はいったいどこからきたのかしら、どんなメカニズムで地中に発生したのでしょうかという疑問が湧いてくるわけだ。発生メカニズムが解って、それが極めて省エネルギーで発生しているなんてことになれば、少なくともCO2排出の大場は削減にむかっていくのかもしれない。

海底火山が噴火して、様々な鉱物を地上に押し上げてくるわけだが、活火山に近寄って、資源採掘なんて出来ないわけだけど、それが地面を掘ったら水素が出てくるなんて便利なお話が、良くもまぁ、この時代まで出てこなかったもんだ。そこら中をほじくり返してみたら、意外とあったりするものなのだろうか?ゴールドラッシュならぬ水素ラッシュということになったら愉快である。

地球にはまだまだ謎が残っているものだなと、実に愉快な気分にさせて頂けた。自然エネルギーを活用して水を電気分解なんて方法しか思いつかなかったことが情けないわけではあるが、やっぱり地球にお任せなのかしらと、地下資源頼りの人類だなと、エネルギーを活用しないで生きてはいけないのかと思ったりもする。天然にはメタンくらいからしか出てこないのかなと思っていたら、純粋な水素ガスという形で地球がそれをどのように抱きかかえていたか。知りたい欲求が激しく芽生えてきた私であります。

何故、何をしたい?

身の回りで起こっている現象なんだけど「より良くしたい欲求」を企業さんがお持ちになる。この「良くしたい」のは解るのだけれど「何の為に?」が伴わないといけない。しかしそれが「親企業が求めているから」では「お帰り下さい」となってしまう。それはお金で解決して下さいとなるわけだ。親企業が「今までなかったのだけれど挑戦してくれるか?」ということならオープンイノベーションは有効だ。単に小銭を稼ぎたいということで大学を使うべきではない。

商材を社会に届けるのは企業だけの役目という考え方は、世界には最初から無い。発展していく市民生活の中で生じるであろう新しい出来事に関わる学理は何かを先手を打って考えていく。更に、学理の探求を徹底的に追及していって、地球という星を傷めない学問に成長させて頂ければ、それはきっといつか、誰かが見出して、未来に活用して頂けるに違いないのだ。最先端というのはその瞬間においてであって、他の要件が揃う頃には枯れた学問だ。そんなもんだ。

円安が停まらなくて、恐らくこのままの政権が続いていけば200円くらいになっちゃうのではないかしら。価値の無いお金の流通する国は、要するに世界から見たら価値が無い国ということだ。セメントとヨウ素くらいしか資源が無い国で、価値を高めるには学問しか無いわけだ。その教育の在り方を徹底的に見直さないといけない状況に陥っているのは誰の目にも明らかなのだけれど、大英断というか、それが出来るのは総理くらいなんだけど、現場丸投げが延々と続いているわけだ。

大量生産、大量消費の社会にどっぷりと浸かって来て、それが少量多品種生産に方向転換している現状においてなお「良くしたい」欲求のみに取りつかれている。「良くしたい」は勿論、必要なのだけれど「あの人の為に何をしたい」から入らないと、良くする度合いが定量的に決まらない。するとあぁだこうだと無駄な時間を奪われる。それ故にお引き取りを願うし、そもそもお会いする必要も出てこない。他人の声に安心したいのなら、一千万円でも払って、役に立たないコンサルの声を聴くのが宜しい。大学はそんな相手では無いのですよ。そんな時代である。

学ぶこと

背伸びはする必要はないと思っている。自らの場で自らが成すことが出来る事に対して最大限の機能を、他律機能として発揮できるかということなのだけれど、自律機能で突っ走ってしまって、最大限に努力しているとなってしまうと組織は空転する。親方と丁稚の関係の文科省と大学法人なんだけど、親方は「学び直しに率先して門戸を開け!」なんて叫ぶのだけど、そもそも論、社会がそれを理解していない。トップが「税収をばらまいちゃえ!」なぁんて言う人ですからね。寝て待っていれば兎が転ぶんだろうくらいに国民は思ってしまう。

工学教育の基準を満たすかという仕組みが日本に入ってきた時、そもそも論としてなんでこんなことが言われ始めたのだろうと思った時、米国に対して諸外国からエンジニアが職を求めてやってきた時に、リーダーの言語に対する理解度の違いが教育の質にあることに気付き、その基準を作ったことがきっかけだと聞いた。成る程なと思った次第。今もそうなのだけれど、そんな画一的な教育はナンセンスだという声は上がるのだが、ならばリベラルアーツをみっちりやろうよとなりそうなのだが、どうもそうではない。

自然科学、人文科学、社会科学を「科学」として学び、その不可思議さを追求していくところに学理探求の面白さへの気付きがあり、難攻不落の学理に取り組んでいく門を探すことが出来る。その人間性に繋がる学問をしっかりと身に付けさせようというのが技術者教育の基本であったのが、ネジ曲げて考えて、金太郎飴学生を量産化する教育と多くが捉えてしまったことは残念だ。今、組織として持っているのに発現させきっていない潜在能力があるのは勿体ない。

恐らくなのだけれど、多くの地方事業所としては、親方の命令よりも、今、目の前で学んでいる人達を未来の為にどのようになって頂きたいか、そしてその方策はどのような事が考えられるかに頭をひねりまくっている筈だ。卒業しやすいことが良いわけではない。人は負荷が掛からないと機能は高まらず、怠惰になっていく生命体だ。自然界の生命体とはそこが大きく異なる。ほったらかせば戦争まで始めてしまう。学ぶことは大切だ。一方で何を学んだからその人はどんな機能を他の人に影響を及ぼすことが出来るのかの認定を考えねばならぬ。簡単な事では無いのだ。やらねばならぬのだけれどね。

何故?

メーリングリストの落とし穴というのがあって、届いているよね、見ているよねと思っていても、職場が変わればメールのチェックが厳しくなって、OB会のお誘いなどは届かなくなり、個人で関わっているメアドなどは、どんどこ変わってしまって全く音信不通で届かないなんてことは日常茶飯事。小生などは携帯キャリアを換えてしまえば番号もきれいさっぱり換えてしまう人間だから、今、繋がるべき人とだけ繋がれれば良いという考えの人間はゼロではあるまい。

DXっていろんなところで言われているんだけど、デジタル化出来るということは共通言語化出来ると勝手に思ってしまっているわけです。しかし、例えばメアドなど、個人で勝手気ままに変更出来て、それを共有していない事実があると、限られた範囲での共通言語化に留まっているなと感じる。本当の便利さは、全部がオープンになって、情報が正しく相互接続されている状態になって得られるのでしょうけれど、そこに経済というか、私腹を肥やそうという組織がある以上、絶対にそっちにはいかないわけだ。

個人情報云々のお話が直ぐに飛び出してきて、その悪用の方向に話が向かっていく。事実として悪用ということが行われているわけだから、サイバーセキュリティというところに、もっとお金も人材も投入されるべきだとは思うのだけれども、政府がお金を出すからそれなりの学部を用意しろってなるのだけれど、何となくいたちごっこというか、ホコタテの世界になっているような気がする。頑丈な鍵が出来れば、打ち破る能力も高まってくるというか。

破れないと言われると破りたくなるのが人間なのだと思うから、それは仕方の無い事だと思うわけです。ただ、悪意を持った好奇心は犯罪なわけですな。メアドを変えたのは過去が嫌だったからということかもしれない。いろいろと考えすぎても仕方がないのだけれど、仮想現実世界のお約束事を現実世界から眺めていると、神経がすり減ってくる。悪意が無い偽情報が一番恐ろしい。勝手な解釈がいろんなところで飛び交うDXなのだが、その世界のエキスパートにお願いするしかない。目に見える世界は有難い。つくづくそう思う。

生け垣に想う

生け垣って、その字のごとく生きていますから、ほったらかすとぐんぐんと大きくなるわけですな。水が豊富にあって、太陽光が降り注ぐと、自然の生き物って自由気ままに育っていくわけですよ。普通の生け垣ですから、同じ種類の木が等間隔に並んで植わっているわけですよ。それが、凸凹してくるわけですよ。東西南北、伸びる方向も違っていて、剪定なる作業をやって、世間様から見てそれなりに手入れをしているなと思って頂くようにするには、伸びていないところに揃えて、刈り込みをしないと「格好悪い」となる。

しかしながら、それって、自分自身が作り出した世間様であって、自分自身を鏡で見ていることになってんだよね。みっともないと想っているのは自分の価値観であって、枝が飛び出して、道路の通行に不都合を及ぼすとか、そんな反社会的な部分は絶対値として駄目なんだけど、それ以外は自分の意識の中の世界で自分自身を追い込んでいるだけなんだよね。その追い込まれっぷりが早い段階で来るか、ルーズなのかは、個人個人の心の器の大きさの違いと言うことでしょう。小生的には階段状に仕上げてしまうわけだ。これも価値観である。

何故、ここだけが伸びるのだろうって、不思議に思ったりすると、近い場所に異なる樹が生えていて、NHKの番組からの知識なんだけど、根っこどうして会話していて、お互いに助け合っているとか、そんなことがここで生じているのかなと感じたりするのだ。足を引っ張り合う人の世界よりもずっとコミュニティを大切にして、お互いを最適化させていっているということなのでしょう。動けない者同士だからこそなのかもしれないけれど、人類よりも遥かに長い時間を生きていて、身に着けた知恵なのでしょう。

刈り込んだ枝をカッターで粉砕して、根元に戻していくのだけれど、一年も経過すると土壌微生物や様々な生命が土に還していってくれる。これぞ地球が作り上げたシステムで、人類と言うエイリアンが自然のルールを乱して乗り込んできて、正に傍若無人。共生と言う勝手な言い訳の剪定なんだけど、剪定をすることで更に強くなっていくということも聞く。勝手な人間側の都合としては、刈り込んで気持ちよくなるという特典付きだ。全く寒くない11月の陽気の中の一仕事に思ったことでありました。

プルトニウム

高速中性子を減速させずにプルトニウムに衝突させて、燃料を作っていく増殖炉なんだけど、もんじゅで終わったのかと思ったら、まだまだ継続中だったのですね。金属ナトリウムを熱伝導物質として用いるわけだけど、素材開発等々、ずっと続けられていたのですね。次のターゲットは2040年頃ということなのだけれど、そうまでして発電しなければならないのかなと、旺盛な電力需要に驚きを隠せない。米日の共同開発ということになるらしいのだけれど、実用炉までいけるのかどうか。

電気ってとてつもなく便利なエネルギーで、要は電子をどうやって加速させてそれを受け止めた側が光や熱や運動に変換していくということなんだけど、電子という宇宙から与えられた便利な素粒子を、人間がお友達として活用しているわけだ。水素を作ろうとか、風力や地熱、太陽光と地球が与えてくれるエネルギーでは飽き足らず、テクノロジーを振りかざして、プルトニウムという極めて重たい原子核と戯れようというわけだ。

人工衛星に搭載される原子力電池はプルトニウムなんだけど、核崩壊する時の熱を電気に変えるという方式なんだけど、よくもまぁ、そんなものを宇宙に打ち上げて、地上に落としながら燃やすよなと、知らないところで怖い事が沢山ある世の中だなぁと思うわけだ。そうまでして、電気を使う事を考える人類だから、地球をどんどんと沸騰させていくわけだ。化石燃料を燃やしてCO2を出すのが良いのか、プルトニウムを人工で造り続けることが良いのか。結局は電気を作って儲けようという人達に踊らされるわけだ。

こうやって駄文を作るためにも電気エネルギーを活用しているわけで、当該地域においては碧南火力や新名古屋、西名古屋火力がCO2と引き換えに電力を発生しているんだけど、EVが優勢になってくると浜岡を停めたままでは結局、CO2の排出を少なくすることは出来ないわけだ。地球を沸騰させているのは電気を使う人間だ。作るから使うのか、使うために作るのか。あるから使うということなんだろうけど、2040年代に高速増殖炉を運開させるということは、兎に角電気を作ろう、電気を売ろう、どうやって使うかはその時に考えようという、フォアキャスティング的商売が続いていくのだなと、結局は核なんだなぁとしみじみ思ったのでありました。

三毒

とあるお坊様のお話。幸せの定義が「自分が得たモノ/自分が欲しいモノ」になってしまっている。手に入れるモノを増やすのか、欲するモノを減らすのか、バランスが重要であると。近年、欲するモノは使っていたものが壊れたり、衣服であれば「もう限界」という状態だったりと、置き換え需要ばかりだなと気付く。書籍の購入は知恵の欲求には逆らえないのでどうしようもないのだが、目の前に置いておきたいモノというのは激減してきていると思う。

物欲を去らせることは可能だが、心の三毒は中々にして退治できない。「むさぼる」は物欲の一つだろうが、満足しないという事も含まれる。もうこれで良いではないかということを放棄してしまう。むさぼり食うというのは極めて汚らしい状況だ。飽きることなくひたすらに食べ続ける、ほおばり続けるという事だが、競技的早食いなどはそれに見えてしまうのだが、まぁ、それが目的だから止むを得まい。満足の閾値を下げ、普通で良いという心情が必要だ。

瞋という漢字はなかなか読めないのだが「じん」と読む。怒り、憎しみ、妬みの心だ。妬みなどは正に醜い状態で、嫉妬などはおぞましい。これも「あぁ、そうなのだな」と他の人の行いを達観できればそれで良いのだが、なかなかその境地に至らない。これも自らの有り様の閾値を下げていくと持たずに済む感情なのかなと思ったりもする。

痴も同様だ。おろかである様というだけではなく、無駄な愚痴が口からでてしまったり、更にまずいのは無知である。学びを止めた者が獲得す知恵が無知である。貪・瞋・痴の心の三毒は、百八の煩悩の代表格だそうで、とあるお寺の隅っこにあった説明書きを見て、なるほどと思った次第。他人と自分を比較したり、背伸びをしようとしたり。無駄なことはしない方が良い。それも物欲を無くすということであろう。生きやすい世の中は、そんな人々の世界であろう。そんな民になりたいものだ。

何だこれ?

研究様態の象限表現というのがありまして、エジソン象限とかパスツール象限とかの「あれ」ですよ。純粋な応用研究、実用思考の基礎研究とか、純粋な基礎研究とか、そして雲をつかむような研究とか。それらを4象限に纏めると、軸が意味付けされてきて、実に愉快なのですな。研究テーマ設定ってどの象限でも良くて、企業との共同研究にしても、純粋な開発の為の応用研究も、実は取り組んでいると「なんだこれ?」を見出したりするし、基礎研究だと思っていたら、企業が欲しかった具体事例なんてこともありますからね。

文科省も経産省も共同研究を通じて大学が生んだ知恵を社会に活用する努力をしろと言うのだけれど、逆に「社会は本当に何かを求めているのか?」と問うてみたい。勿論、省エネ対応とかそんなことであれば取り組む方向性が明確だから何とかなるのでしょうけれど、「新奇な事業で世界に売れる商材を作れ!」なんて大学に求められても困ってしまうわけですよ。学生ベンチャーにしても、いきなりユニコーンなんて生まれ無いしね。

いろんな象限をちりばめた研究スタイルが工業大学としては良いと思っているわけです。勿論、学理の探求で純粋な基礎研究に取り組んで頂かないといけないのですが、それが何を求めているのかのゴールを、経営側としてはしっかりと認識しておかないといけないわけです。そうで無いと、未来志向のお問い合わせを逃してしまう事になる。「何だこれ?」研究も実は企業にとっては立派な投資対象になるわけですよ。長いお付き合いになって、研究者もじっくり取り組めて有難い。

「何だこれ?」研究は実に面白くて、小生もネタは有るのだけれど、今はそれに手を付けることが出来ないわけで、余計に他の研究者の皆様には「何だこれ?」に挑んで頂きたいのです。勿論、何時までも何だこれでは困ってしまうのですが、いずれ芽が出る花も咲くかもしれないわけですからね。決められた未来をターゲットにするのではなく、「これってどうなのだろう?」を図書館(死語?)に籠って散々調べ尽くして、当該分野のファーストペーパーに行きついて「やる価値ありそうだ」と思った青春時代。懐かしい。