リアル

久しぶりにPCを持ち歩いている。意外と思われるかもしれないが、お仕事用のPCは怖くて持ち歩けない時期があった。その時期からテキスト端末のポメラだけを持ち歩き、iPhoneと接続して情報のやり取りをしていた期間が結構長い。今も、そうしたいのだが、様々なファイルのやり取りが日課となってしまっている現状で、少なくとも日中の会議が終わった後は「呑まず」に真面目にPCに向かわないと、メンバーからひっぱたかれそうな気がするので(気がするだけだ・・と思いたい)頑張ってホテルのデスクに向かう。持ち歩き様のPCはクラウドに繋ぐだけだ。データは持ち歩かない。便利だがお仕事を担いでいるようで楽しくない。

本の数年前までは、関東圏のホテルにおいてWiFiが使えないホテルが多かったように思う。オリンピックを迎えるにあたって、その辺りは猛烈な勢いで改善されていると実感する。今回、活用させて頂いたホテルにおいては、ネット情報ではケーブル活用だったのだが、到着してみればWiFiパスワードを渡してくれる環境にあった。まぁ、こういう時代なのでしょうね。電子的ネットワークから逃げようとしてもそれは許されない。世界中、どこに行っても「仕事しろよな」ということだ。

学びと実践。様々な意見があろうが、PC上で繰り広げられる世界は、リアルな情報から作られるものではあるが、願ったことが実現する世界だ。一方、実践においては委員長だろうがなんだろうが、異文化の方々と強烈にぶつかり合いゴールを作りそれを成果とする実践の場だ。どんなに場数を踏んでも、常に進化する社会において現れる場においては過去の繰り返しは認められず、新しい判断を瞬間瞬間に求められる。鍛えられる。

頭が活性化し過ぎてほぼ眠れない夜を過ごした。横になってもリアルが映像が浮かんできて、これでは頭の中にPCが埋め込まれたような状態だなと苦笑いする真っ暗な部屋。こんな時は本来は山歩きをするに限る。ぼぉっと純粋に歩くことだけ、滑落死しないことだけを思って、頭の中をまっさらにして歩く。見上げれば梢から青空。そんな世界とお別れして久しい。今日も缶詰だ。帰りの新幹線での自分ご褒美を目指して頑張るとするか。そんな今日である。

新幹線の効能

新幹線が猛烈に発達した結果、都内近郊で朝9時半スタートの会議は前泊が出来なくなった。名古屋からだと十二分に間に合う。始発などに乗る必要はない。名古屋は大阪、東京に時間的に極めて近く、前泊してちょっと一杯などと優雅な出張は何時の事だろうか。これがリニアになれば8時開始でも余裕だ。まぁ、小生には関係ないが後輩の諸君、頑張ってくださいな。

2月、3月と実験装置を自ら動かす時間がほとんどなく、昨日、珍しく装置を動かしたら、なんだかおかしな具合である。結局のところおかしかったのは市販の部材であったわけだが、すぐさまそれを修正できたのは長年、体に染みついた実験の感というやつだろう。本社のお偉いさんのアテンドをさせて頂いたのだが、大変に驚いて頂き、恐悦至極である。頑張っていると何か良いことあるなというところだ。

若い方々の研究風景も拝見し、美しき目の輝きに感激する。時代時代で新しいテーマが産まれ、それが次の時代を作っていく。間違いなく価値の伝承がなされ、そこからさらに新しい人が現れ、それが繰り返されていく。有難いことである。どれだけのフレッシュな現象を体験できるか、そんな夢を見せて頂けることに感謝である。

今日はお上のお仕事で、久しぶりに宿泊である。予算の関係で3日続けて東京にいるのだが、2泊するわけではない。恐ろしい事である。こんなところに四角四面のルール適応の弊害を感じる。一泊三日。国内なのにそんなお仕事環境がある状況に、働き方改革も何もあったものではないなと、それでも頑張り続ける自分に苦笑いする私であります。

碩学

講義が始まった。この講義は職業としての学問の象徴であると、教育学の中で学んだ。受ける側が職業の対象であり、生産物は生き物という、今、考えれば恐れ多いのだが、学生の頃はひたすらに学んだだけである。その学びの貯金を今になって漸く引き出し始めている、そんなところだ。無垢の心に一滴の雫を浸透させる、それが講義である。そして授業である。

講義は出来ても授業は出来ない。成る程、漸く判り始めてきた。一方的にしゃべりまくるか、聞き手に理解という境地まで到達させるのか。これは極めて難しい。寄り添うというわけでは無い。その考えではやる気の無い99%に照準を合わせることになってしまう。そうではない。やる気がみなぎり誰もがトップと認める努力家にこそ照準を合わせるべきだ。それ故に全員の質的向上が図られる。それが授業である。

多くが寝ている。昼休み後の科目と言うこともあるが、大学に対する不信感の表れでもあろう。どうせそこに居たとしても全く持って無駄であったと感じているならば、何を論じても聞く耳は無かろう。いや、そうであったとしてもぐんと杭を飲んだ如くに伸びる背筋を提供しなければならない。そうなっていないのであれば、語り手に落ち度がある。

いずれマスプロ教育は無くなるのではないか?いや、集団で効率が高くなる一次産業分野においてはそれは必須なのだが、ものづくり産業などでは通信教育だけになってしまうかもしれないと思う。ほんの数人が大学に通い、学理を探求し突き抜ける。その二分化が始まっているのではないか?威風堂々と寝込む人間を前にして残念な思いである。碩学。美しき言葉である。

三寒四温と言う季節は過ぎていると思ったら、宵の口、夜明けとぐっと冷え込む日が続きますな。どうせなら桜が咲き始めた頃にこんな状況を期待したかったのですが、どうもうまいこと行きませんね。チューリップなどは既に花を落としていたりして。短い花の季節をどう楽しむか。目を凝らして大学に通う朝です。

御器所から大学に向かう途中に、藤棚を作っていらっしゃるお宅があって、毎年、楽しみにして棚の脇を巡らせて頂いています。小学校の頃、校庭の脇にある藤棚から巨大な熊蜂が、窓を開け放ったそこから教室に飛び込んできて、阿鼻叫喚、ぎゃぁぎゃぁ状態になったことを思い出しますが、熊蜂はスズメバチと違っておとなしく、滅多に人を刺したりしないということを知ったのは大学で土壌学を学んでいると時に教授から聞いたくらいで、何も大騒ぎする必要は無かったのだなと苦笑い。尤も、がきんちょですから、騒ぐことが楽しかったのだと懐古。

その藤棚は例年、連休前に見頃を迎えていた筈なのですが、既に満開。おやおやと、藤までも既に満開ですか。こうなってくると連休中にお花見などを求めるには相当に山奥に行かないといけない。三河の低山というのではだめで2000m越が必要になろう。面倒な気がする。花を愛でがっかりするということがこれから毎年続くのかもしれない。もしもこれが本格温暖化の開始なのであれば。

藤棚と言えば御作町の藤の回廊を思い出す。何気なく立ち寄って、一口付近でがっかりして、それでもと思って奥まで行くと、これは見事な藤棚で回廊の名にふさわしい。連休の初めころに以前は見頃だったのですが、今年は恐らく来週末位に前倒しになるのではと、様々な観光の名所において、呼び物ががっかりトリガになってしまうのではと妙に危惧する私であります。

人類の進化

滅多に地震はこないけど、来ると出雲大社が倒壊するくらいの(大昔の大きなやつね)揺れが来る出雲地方。昨年度までで地方創成に関わる事業が終わったので、行かなくなった途端に大揺れだ。別に要石をやっていたわけではないが、知人も多く、心配である。TVなどによれば大きな人災は無かったようでほっとはしている。大小の被害は出たであろうが、粛々と頑張って頂きたい。それしかない。自然災害は全ての人に平等なのだから。

昨日、NHKで700万年の人類進化を、実にコンパクトに纏めた放送をしていた。可もなく不可も無くというところなのだが、科学的発掘調査に基づいた報告だけに留まっていて、見ていて心地よい。民放の興味を煽るようなところはほぼ無く、既知の内容をビジュアル化して頂いて、これはこれで愉快であった。

それを見ていて思ったのだが、やはり次の新人類もアフリカの原野で発生するのかと?いや、そうでもあるまい。他の地域で滅んでしまったから、滅んでいなかったアフリカが出立地ということで、今の時代であれば、如何なる場所から発生してもおかしくは無い。いや、既に発生しているのではなかろうか。小生的にはとてもついていけない若者が跋扈しているではないか。既にホモサピエンスでは無い人類が溢れている気がする。

人間の脳では思いつかない状況を生み出すAIをはじめ、体力的にはロボットには勝てないし、走る速さは車や飛行機には敵わない。進化するのか退化するのか分からないが、仮想空間と小生が言っていた世界は、実は現代人にとってはそれが現実空間であり、手に触れる世界は仮想空間で実現される世の中だ。貨幣とて同様だ。こうなるとどうなるのか。取り敢えずエネルギーと食糧の各自完全自給を達成しておかないと「お前なんか不要(既に?)」と駆除される側に回るのではないか。そんな気がしつつも、まぁ、気合で今日も切り抜けようと様々思慮する私であります。

入学式

遠い遠い、遥かに遠い昔の物語だ。筑波大学と言うと「筑紫?九州の私立大学?」と親戚一同に蔑まれた時代だ。あの時は晴れていた。間違いなく晴れていた。国を捨て親から離れ、結果、出たまんまの人生であるのだが、悔やまれることは度々生じたが、やり直そうなんてことは一度も思ったことは無い。何故なら人生、やり直しなんて効かないしね。前に行くだけだ。

今日は入学式。入学式がやってくるたびに思い出す。宿舎から延々と続く道を歩き、全員を収容できるホールにて行われた入学式。まぁ、贅沢な施設ですな。孤立無援だったのだけれど、6人のシェア生活は、生き方の原点になっている。

いろんな国の学生が居て、北欧の彼は桜は白くて面白くない、隣のピンクの花は国の花の色で嬉しいと言っていたが、それは八重桜って、やっぱり桜なんだけどねと全く違う形なのに同じ桜と言ってしまう日本人はおかしいと、今思えばそんなことで熱くなれた青春だったのだなと苦笑いだ。

人間50年と思っていたら、気が付いたらそれを突破している。今が春と思えば良い。春夏秋冬があるとしても、春と思えば残りがあるし、冬かもしれないけどきっと春が来る。一所懸命に頑張れば何かおこる。足を引っ張る奴は何処にでもいる。でも、自分の内側に創り込んだものは誰も盗めない。それが青春だとすれば、入学式はその始まりだ。頑張ってください。

つつじ

群馬と言う県は栃木と埼玉の間にぬぅっと割って入って、茨城に接するかと思うとやっぱり嫌がって、ぎりぎり茨城には接していない。そんなぬぅっとしたあたりにつつじが丘公園がある。館林市なんだけど、つつじが咲くと必ず思い出すのがこの公園。

室町時代にはつつじの自生が確認されていて、特に江戸に入ってから、館林城主が植栽に努めたとのことなのですが、延々と400年も育てちゃったもんだから、それこそ山につつじが植わっているのか、つつじで山になっているのか分からないくらいに、正直物凄いという表現以外見当たらない。

これに匹敵するのは御室桜くらいなもんで、各地にある牡丹園も艶やかだが、凄いという表現の花見は満開の館林のつつじだなと今も思う。トヨタ元町工場周辺も凄いけれども、後、400年経てば同様になるのかもしれない。単色の美と言うのだろうか。一見の価値はある。

一見の価値はあるのだが、名古屋からだとそれだけを目当てにとてもではないけれど行けない。日光の手前だから、日光東照宮の見物がてらというのが宜しいが、花の時期が微妙だから、やっぱり行けない。行けないところを紹介するなと言われるかもしれないが、所詮は戯言だから仕方が無い。花と思い出。それぞれお持ちだろうが、そんな心のオアシスがあっても良いのではと思う私であります。

路地

桜が散ったと思ったら花桃も満開、そして今朝はつつじも咲き出した。春がスタートダッシュと言うか、夏がじんわりとやってきたというか。路地裏の植木鉢で咲いている花々もかわいらしい。江戸から続く路地の風情は、何も京都などに出掛けなくてもその情緒を味わえるところが沢山あるのが名古屋の良さだと思う。戦火に焼かれた街であっても人の心は奪われはしない。

4月4日でぞろ目である。日本人なのでなんとなく縁起悪いなぁなどと、祀られたお社を巡りながら大学に向かう。冬の間、姿が見えなかった天白川の巨大な鯉がいつの間にか戻ってきていて、ゆったりと泳ぐ様を橋の上から眺めた。冬の間は真っ暗でさっぱり見えない朝の景色も、今は既に陽は昇っている。向かう西の空は妙にかすんでいる。

韓国では今の季節、黄砂とPM2.5で凄いことになっている。防毒マスクまで飛ぶように売れるのだそうだ。日本ではそこまでのお話は聞かないのだが、名古屋においてもベランダの手すりが白く汚れている。重い黄砂は九州に落ちるが、軽くて煤煙などがくっついた危険な黄砂が名古屋辺りに落ちるとすると、気管支系に悪影響を及ぼすのは、実はこの辺りではないかと気分が悪くなる。

それでもやはり花の季節は良い。年中咲いていないのが良い。毎年学ばせて頂ける。葉を茂らせ風雪に耐え漸く花開く。生きるものはみな同じ。なんてことを思いながら路地を楽しんでいる私であります。

落とし物

舞い散る桜の潔さ。散った後のこれまた美しい事。四季のスタートは雪景色か桜かと言われたら、小生は桜と答える。真っ白な雪景色もこれはこれで素敵だが、艶やかさと言ったら桜だろう。散り際の見事さ。人もかくあるべしだ。

天空から降ってくるものは隕石だけではない。地球は46億年掛けて大きく育ったが、そのお陰で毎日とてつもない数の隕石が降ってくる。多くは大気との摩擦で気化してしまって、気中の金属元素として存在し、雨や雪の核となって地上に潤いを与える。

最近は人工衛星が巨大化して、地上までかけらが到達してくる。中国の巨大宇宙ステーションが落下してきたが、地上において総重量の1割が到達したそうだ。10m越えの化けものの1割が朝の通勤時間帯に丸の内に落っこちたらどうだったであろうか。タヒチから100kmしか離れていないところに落ちたそうだが、漁船などが操業していなかったことを祈るのみだ。

何が降ってくるか。天からは声も降ってくる。いや、こちらの方が当たる確率が100%だから恐ろしい。見えないものほど強力だ。見え始めたら滅んでしまう。暗いうちは滅亡しないと言ったのは実朝だが、暗くても天の声は地上に届く。今日はどんな声に衝突するのか。恐れずに進むとするか。見えないものに怯えるほど愚かな行為は無い。単純が良い。そう思う。

新年度

新年度である。既に2日目であって、新年度2日目というのが正解だが、その辺りはご勘弁いただくとしよう。年度とか節目とか、そんな単語は好きではない。いろいろと変化もあるが、年度が変わった程度で人間が変わるものではないので、本質的には継続ということだ。常に変革を続けていく。それだけのことだ。

昨日、買っておいて封も解いていないCDを聞いた。久しぶりにそれなりの音量でオーディオ装置を動かした。何故久しぶりかは勝手に想像して頂くとして、やはりそれは素晴らしい。ハイレゾ以外は音楽ではないという風潮があるが、それは電子的録音に向けられた表現であろうと思う。バイオリンでもウクレレでもカスタネットでも、リアルな人間がリアルな環境で目の前で演奏する、あるいは自らが演奏するという体験をしたものにとって所詮はデジタル音響である。好みの場を作るという点において反対はしない。反対はしないから他を小馬鹿にして排斥することはやめて頂きたい。

その楽曲が創造されたのは大略1720年と言われる。幅があるのは自著の楽譜が残されていないからで、もしもその奥様が写譜をしていなかったら永遠に消え去っていたことだろう。その写譜が出版され、偶然、バルセロナの古本屋にて1890年に発見された。正に発見されたのであって偶然の出来事であった。その偶然が無ければ、我々はその芸術に永遠に触れることはなかっただろう。

開封して聞いてみると、妙なエコーとデジタル録音ならではの機械的味付けでうんざりだ。ただ、BGMにはうってつけで、引き込まれたりしないから他の雑音を消すくらいの働きはしてくれる。多くの方はそれを良い音として楽しむのだろうが、良いホールで良い楽器を真面目な演奏家が操った出来事に遭遇していないならそれも納得だ。本物を追求しよう。新年度も頑張っていきたい。そう思う。