三四郎は名古屋に降り立った

猫、こころ、坊ちゃんとくると次は何だろうと悩んでしまうが、やはり名古屋駅に降り立つ描写がなんとも地元的なのが三四郎である。三四郎は東大に行くわけだが、それが故に、東大に「観光」で何度か出掛けた。後に三四郎池と、逆ネーミングされる大名庭園の池の風景が好ましく、高校、大学の青年がその男女の描写に胸をときめかせていなかったかと言えばきっと嘘である。まぁ、こんなところなのだが、今週の戯言が余りにも浮世離れしているのでばかばかしいと仰る方が「大勢」いらっしゃるのだが、そんなものは全く無視なのが戯言である。文句があるなら読むなと言いたい。

初見の赤門の旅は、30年以上も前の光景であって、校舎郡もまだまだ古めかしく、本郷三丁目付近も、今のようなこじゃれた雰囲気ではなく、だからこそ、三四郎の世界をイメージ出来たことは幸いであった。今、初めて三四郎を読む人は、その雰囲気を味わうことは不可能で、それは寂しい事ではあるかもしれないが、全てをイメージしつくせるという点においては、30年以上も前の景色を体験できたのは有難かったのかもしれない。

日本は滅びるねという広田先生の一言は、今も、新幹線の中からの光景に感じるのである。未来への予言ともとるべきその一言は、当時の新聞連載小説において、検閲除去されなかったことは奇跡であろう。だからこそ文学は素晴らしいのだ。低俗な政治的検閲などを跳ね返し、文学者の成すべき活動を最大限に発揮しているという点において、三四郎はエポックメーキングな作品であった。

この後の作品の基盤ともいえる作品である。小説の体を成すと言っては恐れ多いが、それまでの小品とはまるで異なる構成であって、文章からビジュアルを描けるという点において、感情移入が凄まじく、最も繰り返し読んでいる作品である。何度読んでも新しく、若々しく、そして美しい。

坊ちゃん考

漱石の大衆文学の金字塔と言えば、それは坊ちゃんであろう。痛快活劇ではあるが、読み終えた後、結局、強いものが勝つという結末は、現実的であって、今一つ、小生的には盛り上がらない。そんな思いで松山に旅をして、道後温泉の漱石が好んで使った部屋の隣を借りて大の字で天井を眺めた時、何となくだが、少し面白い心地になった。笑える話だが、何故、その部屋が空き部屋だったかというと、なんと、外と隔てる障子を張り替えていて、誰にも使わせない状況だったのだが、仲居さんが間違えて?部屋を小生に与えてしまったわけだ。浴衣に着替えるのがやや大変であったのはご愛敬である。怒って出ていくようでは旅は出来ない。

漱石が居た場所だと思うだけで愉快になるのだが、松山の土地の形状がそんな思いを抱かせたのかもしれない。坊ちゃん列車に乗ってみて、マッチ箱の様な汽車も体験し、お城の山を見ながら街を眺めると、漱石の時代とはまるで異なる景色なのだろうが、低山を見ながら決して小奇麗では無い空気感が坊ちゃんの街並みだなと感じるのだ。

小説の舞台に立ってしまうと、これがいけない。むしろ、全くの空想の中に描いていた方が、読み方の幅が広がるのだ。いや、これは小生が勝手に思っていることなのだが、情景が明瞭に空想できる坊ちゃんにおいては、特に、その効果が効き過ぎてしまう。松山に出掛けて坊ちゃんを読み直してみたが、全ての情景が現実に置き換わってしまった。

幸か不幸か、復元されていた愚陀仏庵が土砂崩れで崩壊した直後に訪れたので、漱石がどんな雰囲気で暮らしていたのかは空想のままであって、ほっとしているところはあるが、道後温泉本館などは何しろそのまんま残っていますからね。坊ちゃんは直筆原稿が冊子にまとめられていて、その筆の勢いを味わうことも出来る。漱石の奥さんが「勢いが凄かった」と仰るように、勢いのある、正に、原稿用紙に文字が浮かび上がったというような作品であったのであろう。これなども真に書きたかった胸中はなんであったのか。謎めいた作品で高尚である。

こころにて

吾輩は猫であるは、極めて難解だなと思うのです。精神的に不安定であった頃に書かれた著作で、場面のジャンプ振りが、三部作と呼ばれる流れとはけた違いであって、今でも難しい。分厚い全集においても、一作で一冊を占めているのだ。これは凄い。次に読了したのは言わずと知れた「こころ」である。自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心をとらえ得たるこの作物を奨むという広告文を漱石が書いた。

読んだ回数はもう数えきれないと思う。原稿用紙4百枚を超える大作が、中学生の教科書に採用されているということが誠に優れた選択であると思う。誰がどんな力をもってそれを実現しているのかわからないが、中学生という何の経験もない、そして時代背景も学んでいない、加えて、生きることも死ぬこともその意味を解らず、未来と将来の区別もつかない中学生の魂にどれだけ届くのか。

私と先生とKと奥さんの4人で話が進んでいく。内容は全国民が知っていることだから説明の必要は無いが、年齢不詳、出生不詳の人々のこころに湧き上がる渦巻きの絡み合いが読み手を巻き込み離さない。文章構成の見事さは、如何なる個所においても破綻しない。このような作物を何故生み出すことが出来るのか。

奇跡としか言いようのない作法であって、自己の心を捕らへんと欲する者として、永遠に読み続けることになろうこの作品である。感想などおこがましく、いや、未だに感想を述べることなど出来は無しない。未だに読む度に感じるものが変わってくるのだから。文学とはこのようなものを指すのであろう。出会えて幸せである。

漱石週間

万葉集程では無いけれど、長く読み継がれている漱石の著作。未だにその研究成果が新規に生み出される程に、正に、文豪だなと思うのです。ずっと読み続けている漱石の著作の数々でありますが、ちょこっとそのお付き合いぶりをご紹介。何も、夏休みの読書感想文を書こうなんて高尚なことでは無く、単に趣味について戯言をば。

恐らく、多くの日本人が、吾輩は猫であるというフレーズと漱石を繋いでいらっしゃるのではないでしょうか。小生の母方の祖母が骨折で療養中に、夏休みにお見舞いに盆地に出掛けていたのですが、その時、文庫本で入手して、その大作ぶりに驚いたのが、小学校6年生の夏ですな。小学生にはとてつもない大作で、読むのに四苦八苦。そもそも江戸から明治の風景が描かれているわけですから、背景が見えないわけですよ。

だから、恐らく、つまみ食い的読み方だったのではないかと思うのです。餅にかじりついて、鼻の穴を三角にしたくらいの理解だったと思います。再び読んだ記憶があるのが、中学2年生ですな。この時はしっかりと、辞書を片手に読み抜いたことを覚えておりますよ。覚えているくらいに大変な経験だったという事でしょうね。こんな読み方だと、やっぱりつまらないわけです。その後、数回は読んでいますが、全集を入手して、著作を大略読み切ってなお、新規の気付きを与えて頂けます。

吾輩は猫であるを最初に知ったのは、小学生になったかならないか位の時だったのは間違いないです。飼い猫と結びつけていたので記憶にあるのですが、勿論、読んだわけではありません。耳から入ってきた文学ということですな。今でも書斎の一等地を占める漱石の書籍と、研究成果でありますが、これがこの後、何処まで増えていくのやらと、つい、先日も新たな書籍を入手して読みふけり始めているところです。

グレートバリアリーフにて

環境問題は何処にも無いのだという学者の方が多くいらっしゃるわけだが、学者というのは自己の学びと定量データで主張する民だから、その解釈は異なって良いのである。主観的ヒステリーで他の学者の主張を批判してはならず、批判には定量的データを伴わなければならない。政策的におかしいではないかという場合においても、その政策は何かを全面提示し、だからおかしいと言わないと喧嘩になる。

話が大きくなり過ぎたが、ブラジルの森林が人工的に燃やされて、農業用地や工業地域に換えられているという問題は、日本の森林や農地が気が付いたら大規模工場に代わっていたとか、そんなことと等価と考えると文句は言えないと思っている。地球人全体で無意識に起こしてしまった海洋の水温上昇でグレートバリアリーフのサンゴが死滅するかもしれないというほうが、大気変動にとっては深刻である。

地球に酸素をもたらした生命の営みの原点が、今もグレートバリアリーフに生息するストロマトライトを形成するサンゴ虫であることは、地球人の共有知識であることは論を待たない。それが気候変動によって死滅するかもしれないというのは、余りにも大きな出来事であり、しばらくは声を大にしてみようかなと思うのだ。ここ数年で劇的に変化している気候状況であるが、地球規模の問題であるなと感じるのだ。

石油を燃やして出てきた炭酸ガスはそのまま植物が固定化し、酸素に換えてくれるから問題無いのだと高言する学者諸氏にお伺いしたい。炭酸ガスの固定化速度と、地球大気に循環する炭酸ガスが地上からの輻射エネルギーを蓄積する速度のどちらが早いかと。その定量的な説明なく地球環境問題は全く無いのだと、間氷期にありながら氷河が減少し続け海面は上昇し、海水温が上昇を続けている今、環境問題は無いと断言できる自信は小生にはない。地球はそんな状況である。如何なる活動も省エネ化に向かう必要があると、そんな開発活動を要素技術で支援していきたいと思う私であります。

法律は大切

年がら年中、新幹線で移動を続けているわけだが、目にするのは里山が竹に呑み込まれ死にゆく姿だ。それだけではなく、密集して空気も通わなくなった中で、枯死寸前の細い樹々達である。登記されてはいるが、その主が居なくなっている場合や、ほったらかしにしている林地は多く、その免責的な問題は、空き家問題どころではない。それが日本の現状であって、何とかならないものかと思っていた。

本年度から森林経営管理法が変わり、森林の所有者に代わって、自治体や民間事業者が伐採や植林など、森林の管理を委託できるようになっている。こんな法律などだぁれも関心を持たないだろうなと残念な気持ちになるわけだが、何か、新しいお仕事を生めないものかと悩み続ける小生は、案外、法改正には敏感なのである。

その活用がほぼ絶えてしまったと言っても過言ではない我が国だが、40%が人工林の我が国において、その活用は重大事である。戦後に大規模に始まった人工林による林業であるが、現在、収穫期になっている。この収穫期までの期間がとんでもなく長いというのが難しさを加速させるわけだが、更に悲劇的な事には、40年掛かって売買される杉の木一本の買取価格は平均680円である。誰が林業に就業したいと思うか・・・

しかし、住宅のみならず、人々が集まるところ、学校など木材建造物による癒し効果は大きなものがあり、日本の気候に最も適した日本産の木材を活用した家具などは、今後も丁寧な手仕事に活用していって頂きたいと願うのである。大洪水の元凶は、荒廃した林地の保水能力低下も要因と考える。誰も知らなそうな法律ではあるが、それを活かして林地の活性化に繋がればと願うのであります。

人災

これまた人災だなと感じたものに、大雨による洪水に工場の重油が混じって農作物を全滅させたという事件がある。九州地域はここ数年来、度重なる豪雨に見舞われ甚大な水害に遭っている。手塩にかけた作物が自然の猛威によって全滅することの悲しさは、その当事者に対しておこがましくて何も言えない。ただただその生産物の恵みを受けている国民の一人として残念ですと思うしかない。

単に真水が大地に覆いかぶさったというだけの事ではない。工場から重油が洪水に乗って流れ出し、大地の生命を奪ったのだ。これが人災で無くしてなんであろうか。これまた省庁得意の規制は無かったのかと、嫌いな規制に対して憤懣やるかたないのである。一年の実りを得る間近であっただけに無念さは言いようがない。

大地のバクテリアが重油を食べてしまうまでにしばらくは掛かるだろうから、次の作付けが何時できるか、その土地が食物を栽培するのにどれだけの時間を要するのかわからないが、バイオテクノロジー研究者の出番であろう。様々な知識で国難を乗り切って行くことこそ、今の日本に求められるところだ。是非、そのような挑戦に補正予算を組んで欲しいと願うのだが、新聞を飾るのは戦闘機の価格のみである。

お盆の最中、台風10号が中国地域を縦断したわけだが、台風がじゃんじゃんやってくるのはこれからである。台風シーズンとかそんなことお構いなく、豪雨災害が頻発している。なんでもインド洋からの熱気が日本までやってきているらしい。その昔に習った気候風土を、もう一度、学び直さねばならぬと、科学技術のみならず、地球環境においても最新知識が欲しいなと感じる、豪雨災害であります。

AM放送終焉にて

ラジオは携帯で聞くものだと感じている。NHKの朝の番組を聞きながら職場に向かうのが日課になっている。真実が語られているかどうかは自己判断なのは、いかなるメディアに対しても同じであって、「日本」誌を信じて戦争に突っ走った愚は繰り返してはならぬ。自らの判断で、大局を判断し、前に進まなければならない。単なる批判に乗ってはならない。これはどんなメディアに対しても同様である。

話が大きくなってしまったが、AMラジオ局の経営環境が劇的に悪化していて、AMシステムを遮断したいという悲痛な叫びを、漸く、総務省が受け取ったらしい。NHKだけは国内基幹放送を行うと決めたとのことだが、そりゃぁ、財源がありますからね。勝手な言い分だなと思いながら、非常用、手回し発電&太陽電池発電式の、非常用ラジオを捨てずに済んでほっとしているのは事実である。

5G放送が米国では本格的に始まり、完全に水をあけられた日本の状況で、国民として最先端技術に置いてきぼりを食っている感満載なわけだが、AMラジオ局が消えていきますよというこれまた寂しいお話だなと感じるわけです。とても広い電波領域がぽっかり空いてくる。折角だからこの周波数帯を使った新しいサービスを誰かやらないかなと思ったりもする。

AM波は建造物内に侵入しにくく、地下街で楽しもうみたいな事には向いていない。様々な理由があって消えていく技術である。いい加減なモノづくりの結果消えていくわけでは無い。割れる台車とは意味合いが違うのだ。それにしてもふと思うのだ。どれだけの人がFMチューナーを専用に持って、オーディオ機器などに接続し、聞いているのかと。小生は化石人だから当然持っている。ラジオは永遠の友達であって欲しいと、オーディオファンとして願っている。

堕落の象徴

8月の終わりの頃のニュースで、南海特急ラピートの台車に30cmの亀裂が見出されたという記事を見た。本来であれば大騒ぎになっても当然と思うのだが、ニュースバリューが今の日本では無いという事か、大した騒ぎになっていない。大量輸送機器の足回りの「割れ」である。これが重大ニュースでなくてなんであろうか。ほぼ、騒ぎが収まったら、御堂筋線で、同じ会社が製造した車台で割れが見つかった。

その申請を受けた国の運輸安全委員会は重大インシデントに認定しなかったとのこと・・・日本の工業製品に対する認識が確実におかしくなっている。地下鉄に乗っていて、いきなり車軸が折れて、数秒で停止するとしたら、どれだけの運動エネルギーが解放されるのか。乗客は宙を舞い、壁や支柱にたたきつけられ粉砕するだろう。そのきっかけとなる状況を「重大」とは認めないのが日本らしい。

割れていいんだと思ったら、どんどん割れる製品を作るだろう。何故、米国ビックスリーが地の底に堕ちたか。あの会社がこのレベルの製品で売れているから、うちもそこまで落とそうよ。その落とそうよ合戦の結果、気が付いたら誰も買わない車になった。売れていたのが日本車だから日本を叩こうとなったわけだが、工業の基本は安全である。当たり前の話である。

モーターを支える部分で亀裂があったそうだが、極めて重量の大きいモーターが、もしも走行中に脱落して、民家の屋根でも突き破っていたら・・恐ろしくて想像も出来ないが、モノづくりとそれを管理している団体の堕落さには得も言われぬおぞましさがある。これが日本なのだなと寂しくなってくる。堕落してはならぬ。そう思う。