時代の転換を受け入れる

鉄のついでなんですけど、製鉄が現在のトルコの辺りから世界に広がっていったわけなのですが、日本に入ってきたのが弥生時代の頃。遺跡に痕跡が残っていることから間違いないでしょう。元素分析をすると、大略の生産地が解るわけで、朝鮮半島から入ってきた鉄もあれば、大陸に日本から出ていった鉄もある。交易の道具、即ち、貨幣的な価値を持っていたこともあったとのこと。

農機具や建築道具としてはそれまでの青銅や石の道具に比べれば圧倒的に優れていたのは間違いなくて、いきなり、大型の見張り台や宮殿が出来上がってきたのは周知の事実。ご先祖様達がしっかりと鉄を使いこなしていらっしゃったことに驚いてしまいます。その鉄が売れなくなっているという現状はやはり寂しい。

鉄を家具に使うという方向性を持って、新しい市場を作っていらっしゃる方が関市におられるが、これなどは新たな方向性として「あり」だと思う。現場も拝見したが、実にユニークな取り組みであると思う。自動車生産で培われた高い技術力は間違いはなく、突然、椅子が崩壊するということは、恐らく発生しないだろう。

とは言うものの、確かに、身の回りで磁石がくっつく物品がとても少ないのは間違いない。鉄原子を使っているという範囲で考えると、それはとても広くなるが、「The鉄」という製品は、確かに身の回りで見かけない。針くらいなものかもしれない。AIやロボットと人が置き換わるように、軽量新素材と鉄が置き換わると言う事か。時代の転換。成る程というところだ。

24万年の果てに

ヒッタイトの人々が、炉で鉄を作ったのが24万年前。隕石からしか手に入れられなかった鉄を、人類が自ら鉄鉱石から高濃度に抽出し、鉄の塊に到達したことは、正に偉業だと思う。鉄を作り続けるために大地を掘り、そして山を切り開く。鉄と言う、様々な道具に形を変える便利な素材を作り続け、その使い道にあった精錬方法を見出してきた先人の努力に圧倒される。

呉にある高炉3棟の火が2023年には全て落ちるという。企業としての生産能力が過大だからという判断に、日本の火が消えるような薄ら寒さを感じるのだ。インフラ、工業製品の中核材料を、国内では使い切れない程になっているということだ。まぁ、要らないダムや橋が出来続けるよりはましかもしれないが、国の体力が無いということなのだろう。

鉄は便利な事この上ない。初期宇宙の形成時に既に出来上がっていた元素であり、宇宙全体に広がっているいわば空気のような元素である。宇宙の創造主が創ったみたいなことを言うと、薄ら笑いが聞こえてくるが、全く気にしない。日本の国において、鉄の新たな使い道が見つかりませんと言うことなのでしょう。

いや、我が国に限ったことでは無いのかもしれない。ドローンにしろ自動車にしろ、鉄と言う丈夫が売りな部分は、炭素繊維強化プラスチック等、他の素材に置き換わっている。鉄に見切りを付けた勇気なのか、将来、なんらか、使われる鉄を捨てた愚なのか。数十年後に答えが出るのだろう。その時を見届けることが出来ずに残念である。未来の方々、よろしくお願い致します。

非共生社会において

先進国という枠組みにどんな意味が今あるのかという議論は置いておいて、その枠組みにおいて、共生社会度は日本は最低だそうだ。共に生きることを放棄した競争社会ということだね。団塊の世代の皆さんが作って下さった労働の場が、どんどんシュリンクしていくその中で、ポジションというニンジン目掛けて走らされた結果、人を出し抜き、自らの欲望を満たす人種になったとて文句は言えまい。

都市部にしろ、山間部にしろ、時間は同じように流れるわけだから、ご同様に年齢を重ねていく。気が付けば相互関係性の無い高齢者世帯群が形成される。それが人の末路か?植物、動物、生きとし生けるもの達への殺戮者として君臨した結果としたら、その程度の末路なのかもしれない。ホモサピエンス生存の基本能力であった共生を捨てれば、どの様な末路を辿るかは、先人類達が証明してくれている。

人が足りないと言う。その分をAI、IoT、メカトロニクスがカバーするはずではなかったのか。ドローンが飛べば規制、カメラを設置すればプライバシーがどうのこうの。自動運転車と言えば、事故対応は誰がするだの。どうやったら出来るのか、先へ進めるのかを考えず、自分に面倒が降りかかることを排除することを最優先に考える人種満ちた日本。何と悲しい事か。

絶対の選択肢など在りはしない。6500万年前の大量絶滅を見れば明らかで、そんなものを求めても仕方がない。今持てる全てを注ぎ込んで、ダメなら仕方が無いではないか。新規起業者の勇気を褒め称えれば良いでは無いか。誰にも気づかれず、自宅の一室で朽ち果てていく将来を受け入れるのか、誰かの為に頂いた命を燃やし尽くすことを選択するのか。共生か孤立か?会話をすること。そこから始めなければならない、そう思う。

今日の為に

何時の時代になっても変わらないだろうなぁと思う事。自らが何かをしなければと考え、自発的に行動すること。これは「仕事」という場において最も必要な自発的行為だと、小生は強く考えている。これが出来る方々とのお付き合いはとても楽しいし、尊敬できる。尊敬できる方とのお仕事は、澄んだ空気感に満たされる喜びにあふれる。そして自らもそう在りたいと意思に刻み込める。

次は現状を当たり前と思わない精神力。人が作った道を進むことは安全で、楽ちんである。進みたい目的地に必ず連れて行ってくれる。何と安全な事か。しかし、それは最適解か?世界中で日進月歩で新しいツールが生まれている今、過去の方針で進むことに疑問を抱かない思考性は、組織の退化を加速させる。ご退場願いたい。

加えて確実な事など無いという現状を受け止めることが出来る、深みと広がりを心に持っていることを求めたい。コロナウイルスで観光客が50万人、突然減少した観光業を考えてみても明らかである。うろたえることなく、むしろ用意していたノベルティをお見舞いとして送るくらいの余裕があれば、次の観光地に選んでくれる確率は上がるだろう。不可抗力に言い訳や愚痴は要らないのだ。どう対応出来るかだ。

なんてことを自分の戒めとして考えている。キャリアとか見識とか、それは過去が基準であり、生活における様々な出来事が指針となっていることを忘れがちなのだが、これから生じる様々なことに対し、第一歩はそれらを基準としても良いのかもしれないが、それだけが正しいと思い込んで、他を排斥することはあってはならない。不安に満ちた毎日だからこそ、組織力として上記を包含したいと感じている私であります。

PC奴隷は開放されるか?

日本を含む世界11か国において、オフィスで最も嫌な仕事は「アナログデータのキーボード入力」というアンケート結果が得られたとのこと。それはそうでしょう。小生が助手の頃、研究室の4年生が、カラオケのタイトルと歌手名をPC98に向かってひたすら入力するアルバイトがあったが、極めて高額のバイト代を稼いでいた。OCRも無い(一般向けのという意味だ)時代だったが、時代の転換点において稼げるものが出てくるものだなと思ったのを覚えている。

日本では経費の処理や予算管理業務が嫌な仕事の上位だそうで、入力ミスなどがあったら大変なことなので、ストレスリッチな仕事故ということもあろう。AIとロボットの進化で、人間から解放されるべき業務になりつつあると思う。米国ではかなりの企業でロボット業務となっていると聞く。空いた時間を思考に回して頂きたいと切に願う。

教員という職業においては、アナログな筆記試験の答案に対して評価し、その結果をデジタルに記録し直すのだが、その結果、点数分布や過去との比較が瞬時に成されるという点において、必須の業務であるし、無駄な行為とは感じていない。一方で、確かに、足りなくなった消耗品を発注し、伝票処理をし・・は無くなってくれると嬉しい業務だなと感じる。

会議の日程調整なども、絶対に電子化されるべきで、紙の手帖にこだわって、組織の利便性向上に徹底抗戦される方々には、少しのご協力を賜りたいと切に願うのだ。本来、電子化を進めるべき事務の方々から電子化されたスケジュールを全く活用しない状況が多々あるが、これなどは許されるべきでは無いと感じる。ほんの少しのハードルは超えるべきだ。そう思う。

道州制を考える

某お役所の方とお話をさせて頂いたのだが、地方の概念を変えていかないといけませんねという話題になった。地方色と言った時に、道州制のレベル感と、村レベルのどちらかですねと。一県単位は中途半端、そこに特色を求めるのであれば、村レベルの狭い範囲で尖がるべきだし、州ということであれば県のレベルで尖ったものを複合化させて提案がなされるべきであると。そうなると各大学の色も『必要』なものになる。

愛知県と言ったって、名古屋港の工業製品輸出量が日本一ですねとなるわけですけど、自動車だけに限ってみても、愛知県下だけ部品等々、全てのものが賄えているわけでは無い。むしろ、そうではなくて、尖った技術の集合体であったほうが、競争力は高くなるだろう。世界的に見て尖った技術力の集合体しか売り物にならないわけだから、過去の因習というものに囚われたものは不要である。

直ぐに冷たいだの何だのと言われるのだけれども、価値から考えて、それを実現出来ないものを作っているのであれば、それは原料の無駄遣いに過ぎないし、共倒れは最も回避するべきである。ちょっと古いけど安くしておくよという営業トークは成立しない。

一人で考えていても、その思考の範囲は極めて狭い。だからこそのコンソーシアムであり、社会における喜びを創造する枠組みである。その枠組みは地域で尖がった方々の集合体であれば素晴らしい。疲れたなどと言ってはいられない。厳しい現実である。

時代は変わっていますよ

民間企業が研究開発費を出し渋るということを常に言っているわけですが、まぁ、当然の気もするのです。日本全体の購買力というか購買機運が下がり切って安定しているところに、何かを新しく開発しようという会社のトップが居るのであれば、それは稀なことに決まっているわけですよ。配当だけが欲しい株主対応に追われているわけで、どうやって今をしのぐかに必死な企業群に、研究開発費を積んでくださいというのは乾いたぞうきんを絞ってくださいと言うのに等しい。

木の時代、石の時代、金属の時代、情報の時代と進んできた先に何があるのか?その問い掛けの答えは極めて空想めいて、口に出すのもはばかられる。情報と言う、それ単体ではほぼ意味の無いものに価値を与えるアルゴリズムが最も高価なポジションを得ているわけで、それよりも付加価値の高いものを探し出せというのはなかなか困難である。

特に、行動経済成長期という謎の時期を生き抜いてこられた方々は、努力によって物的充実感と精神的充実感を得てこられたわけだが、大概のものが最低限は揃っている社会において、物的充実感をどのように得るのか。提供することによって得る対価は何か?キャッシュレス云々で繰り広げられる手数料徴取軍団にどうやって勝つのか?

3畳一間で満足を得ている人々が急増している現状において、工学が持つ意味合いをどのように高めていくのか。何を学び、それを活かすのか。大企業と呼ばれる護送船団が何を護っているのか?世界の30歳代以下の方々に掛かっている。そう実感している。

観光地に想う

先日、宮崎県に出張した。Y氏の頑張りはなかなかのもので、上々である。頼もしい限りである。お仕事のお話はこれくらいにして旅のお話。既に大勢の方々に喋り捲っているので新鮮味は無いのだが、何となく記録しておこうかなと言うところ。コロナウイルス絡みになってしまうのは仕方のないところか。

宮崎にお出掛けするのは8年ぶり。8年の年月は主要都市の景観をかなり変えていくのが通常ですが、宮崎市内は駅前再開発が進んでいる最中で、記憶の通りの街角でほっと致しました。それはそれで良いのですが、金山からのお話。季節的なこともあるのかもしれませんが、ミュースカイががらがら。驚く程に空いていて実に奇妙。そして、社内はマスクを装着した人だらけ。かく言う小生もご同輩ですが。

空港に着いてみると、これまたマスクだらけ。受付の方々もマスクを装着されていたのが印象的でした。加えて驚くことに、ゲートががらがら。なんだかんだ言っても旅行客が多いのだろうと思っていたのですが、誰も居ないゲートがある程。実にスムーズに入港出来ました。記憶に無い光景で、時間つぶしのコーヒーを飲むエリアもがらがらで、これはこれでゆっくりくつろげました。

これこそ季節的なことかもしれませんが、以前は普通のジェット機だった名古屋ー宮崎便がプロペラ機に変身。秋田に行くのかと思ってしまいましたよ。しかも往復共にお隣さんレスの快適空間。街中もがらがら、一体、人は何処に行ってしまったのでしょうかと、日本中の観光地がご同様だとすると、近年の観光地が、如何に隣国依存であったかを実感した次第。余りにもスムーズな移動に拍子抜けはしたものの、これから更に猛威を振るうであろうコロナウイルス対策をしっかりせねばと思うのですが、皆さん、お気をつけて。