熱い瞬間

多くの方が人生で初めて体験した、首相からの非常事態宣言が終わったらしい。一つの出来事が終わったということなのだろう。だって、一刻の首相が始まって終わったと言ったのだから、それなりのことが発生して、収束したのでしょ?重く受け止めなければならなぬ。自分は投票しなかったとか、そんな奴は知らないと無責任なマスコミは芸能人等、著名人と呼ばれる人を引っ張って、賛成反対、両方の人を登壇させ、結局は忖度で決まったゴールに国民を落とし込む。導くと言う動詞を使いたいが、忖度以外に思いつかないからほったらかそう。

戯言のくせにしばらくコロナ話になっていて、コロナに乗っ取られた感があり、不愉快極まりない。弟子のH君などは、ナノ構造をドールハウスサイズに拡大して威張っている。クッションがあるとかないとか・・まぁ、良かろう。面白いから。大切なことは今、即ち、過去から今に限りなく漸近してきた刹那の前と今との間の差において、微分値が「出来た」と評価出来ることであろう。自らではなく、第三者の評価が美しい。H君にはそれがあったので、まぁ、実務で何を成したかは差し置いて許すとしようか。

今週、Web会議に慣れてきた事業所の方々とご議論を頂いたのだが、800Km以上離れている現場であるのに、地球汚染の根源移動体を作って威張る会社のコピーのように、ビックバン以前の力説に辟易した。もう沢山である。何故、我が国には、他国にある、これ程に「先進」が無いのか?積極的に失ってきたのかもしれない。失われた平成?積極的に放棄しただけであろう。過去に責任を押し付けるのはもう止めませんか。

自ら得た何らかの表札を掲げ、錦の御旗のごとく怒鳴る。耳を閉ざして、怒鳴り声が過ぎ去るのを待っている人に対して、自らの軍門に下ったのだ、自らこそネクストジェネレーションであると国旗掲げる人に告げたい、誰も見ていませんよと。貴方は知っているか?イタイイタイ病を起こしたのが大企業であることを。学者様、助けてくれと握られた手の冷たさに、暖かさよりも熱さを感じたことはあるまい。自らが正しいと自惚れた人が巻き起こすのだ。驚天動地の悪行を。宣言終焉の時の赤ちょうちんの隆盛を、学者先生と叫ばれた日と重ね合わせると、何ともバカバカしいのだ。人の呼吸が全く無い。それを選んだのだ、国民は。それだけだ。

真実は何処に?

看板に書かれていることが、実は真っ赤な嘘だったということがある。大切なことは、鶴舞大学でそんなことは決して無いと言い切り続けられることなのだが、それはもう、関係各位、全員が一眼となるしか無いのは当たり前。当たり前のことは深入りしないほうが宜しい。政府やNHKの報道では、我が国のコロナ禍による倒産が200件未満と報道されている。一方で、某駅前だけで40件以上の店舗が売りに出されているという(某駅商店街組合長より)。ひょっとすると、その某駅は特殊で、あとは全国に分散しているのかもしれないので、小生の思い込みなら良いのだが。

まぁ、報道を真に受けるほど、純真では無くなってきているので、それこそどうでも良いのだが、事実と報道の乖離こそ、我が国の在り様なのだなと、国内における多様性と捉えることとした。報道に一喜一憂する程、バカバカしいことはない。眼の前に生じたことを真実とすることとして、それが生じた原因については、発生源の言い分を真に受けて良いのかと、何でも信じる単純バカであったはずなのに、ひと呼吸置いて考える自分に嫌気が差す。

突如として非常事態宣言が解除されるという。明日、解除される見込みが大きいわけだが、木曜に解除で金曜日の夜を迎えるのは如何なものか?隣国の惨事を踏襲するのかと、まぁ、札束命の国民性に付ける薬は無いということなんでしょうね。愉快極まりないわけだ。浮かれず騒がず、粛々と、身の安全の守りに入る、そんなところである。

産業技術経営という学問に身を置いてきたわけで、経済なんてちゃんちゃらおかしいやとは言えないのだが、ものづくり分野に限って言えば、工学と商品とが『全く関係の無い』状況に『我が国』はあるという状況に愕然とするのである。超一流のお仕事をされる方々と信じてお話をさせて頂くと、溜め息しか出ない現状がある。「大学人は単なるリサーチャー」だと小馬鹿にされたことを思い出す。巧言令色鮮矣仁と孔子は仰ったわけだが、上手いことも言わず、中身もない人がマスコミでは受けが良い。面白い国である。

飽きっぽい

既に街の活気は戻り、平時の状況になってきましたな。と、言うのは18時過ぎの街中ですが、大丈夫かなと心配になってくる。世界を見渡してみると(ネットニュースでだが)第二波の発生が流行っていますな。世界に向かってお手本にしろ!って声高らかに隣国を見下していた国でも、おっかなびっくりの一夜だけでクラスター発生である。今、連休前半の我慢が日本の新規感染者の数値を押し下げているとすると、来週末辺りが恐ろしい。

コロナ禍で自転車通勤に戻ったわけだが、一ヶ月が経ち、結構、調子良くなってきた。八事の坂も普通に登れるようになってきたしね。体を動かして血の巡りを良くすると、間違いなくアイデアの湧きっぷりが良いですな。おしりの痛いのも無くなってきたし、新規の通勤経路を探す余裕も出てきた。その昔は当たり前のように自転車で通っていたのだが、久しぶりにペダルを漕ぐと新鮮ですな。マスクをしているのが厳しいですが、来年くらいにはそれも取れてくるでしょう。

自転車だから解るのですが、連休明けからの街の賑わい、そして、週明けの状況。自動車通勤の方は確実に増えていて、その分、地下鉄は空いているのだろうなとは思うのですが、お一人さま席の自転車にはかなうまいと、4つの山を乗り越えて悟りの境地ですよ。ペダルを漕いでいるといつの間にか頂上に着く。これが良いのです。てっぺんを意識してしまうと絶望感満載ですが、いっぽいっぽの先しか見ていなければ、いつかはそこに到達する。人生勉強ですな。

ネットワーク授業もいよいよ開始が迫ってまいりました。準備側も受講側も恐る恐るの講義ですが、準備だけよりは受講して頂けるほうがやっぱり嬉しいなと思うのですよ。作りがいと言うか、作ったものを見返すことが出来るということを活用して、講義を展開できるのはなかなか有り難いですよ。黒板に書いたものを、もう一度繰り返しなんてのは大変ですからね。飽きっぽい日本人がお互いに何処まで頑張りきれるのか。試されるようなweb授業が、案外楽しみな私であります。

国力

東京都でのコロナウイルス感染者数が、報道によればこのところ減少しているとなっている。何処まで信じて良いのかさっぱり謎なのだが、今年の4月終盤からの連休での「家に居ろ」というのが効いているのかと思うと、人間もなかなかやるなぁと思うのだ。しかし、世界を見渡すと、都市間移動を厳しく取り締まって、家から用事もなく出歩くと数百万円の罰金を取るようなことをしている国では、どんどこ増えている事実との対比が、どうも納得できないのだ。

検査数が少ないから罹患者登録者数が少ないのだという理屈は、そうかもしれないなと思うところもある。マスコミを通した情報しか無いから真実が処にあるのか分からないけれど、医療機関が爆発しますよということで検査を抑えるという、なんとも国として悲しくなってくる言い訳だなと感じるわけです。検査にしても自動化が殆ど出来ていないとかね。

思い出してしまうのが、スタップ細胞事件。もう、あれは事件と言っても良いのだと思うけれど、見やすく画像のコントラストを変えてみたら、新規現象が見えましたというところなのだが、人為的な結論に頼った診断で、検査件数も少なく、重労働による疲労・過労、精神的苦痛を考えれば、検査の在り方そのものに対して、惨劇が続いている間ではあるが、PDCAを回しては如何かと思うのだ。PDCAはCから回せば良いので、既にその情報は揃っているだろう。

疑ってはキリが無いわけだが、1日の検査数が200件台とかね、日本の実力ってマスク2枚と1日200件なのだなってしみじみしてしまうのです。過剰設備を入れないのが日本の工業会の在り方であって、今、過剰に設備を入れてしまうと、コロナ禍が去った後に、その固定資産をどうするのだということで悩んでいるのかもしれないが、国民が死んだら国は無くなってしまうのだ。その意識が無いのが怖い。そんな気がする。

エコノミークラス症候群に気をつけて

職場に居ると長時間座っていることはない。会議で2時間以上座りっぱなしということはあるが、これなどはブラック企業だから仕方がないとして、あっちの会議、こっちの会議とうろうろしまくるので、エコノミークラス症候群に陥ることはない。因みに、国の会議においては、大略90分に一度は休憩が入る。余りにも集中力を要求されるので、全員に限界がやってくるということもあるのだが、10分の休憩でもほっとする一時である。トイレに行ったりお茶をいれたりと、これまた血栓発生予防にはなるのだろう。

宿舎での土日を考えると、こちらのほうがよっぽどPCの前に座っていて、講義や会議の資料を作っていると、気がつくと3〜4時間が経過していて、椅子から立ち上がりもせず、水分も摂取せずなんてことがしょっちゅうある。在宅勤務の皆さんにはくれぐれも気を付けて頂きたい。過度な集中よりも、リラックスして頭を明朗快活にして、職場では思いつかないアイデアを出して頂きたいと思う。気がついたら額のシワが増えていたなんてことにならないようにしなければいけない。

研究室で実験をしているような時は、これはこれで立ちっぱなしで何日間なんてことは良くあるのだが、食事やトイレの時間があり、立派な気分転換にはなる。PCの前で弁当を広げて、箸の背中でキーを叩くなんてのは、既に人間を辞めている状態であって好ましくない。時間に追いまくられるとそうなっていくのだが、そんな時は『モモ』の時間泥棒を思い出して苦笑いをすることにしている。自分で自分の時間を盗みまくっているのだから始末に悪い。

文字書きに飽きが来て、ふと、ネットニュースを見たらエコノミークラス症候群のお話が出ていた。2時間に一度は体操しましょうなどと書かれているが、30分に一度でも良いくらいだと思う。水筒を置いて水分補給にも気を配るべきだ。職場ではお茶を時々飲んでいるくせに、宿舎のPCの前では何故かしていない。鶴舞大学のネット環境は極めて強固で、大学に出て行く理由が何処にあるのだろうと思ってしまうほどだ。企業との打ち合わせもネットで良い。出張時間と費用の大いなる削減になる。それで良い。心底思う。

狭すぎる堪忍袋

完全に明けたわけではないが、取り敢えずの赤日の連続は終了してしまった。明日、頑張って出勤すると、土日がやってくる。連続した時間は貴重である。成さねばならぬことが途絶えることはない。どの場所に居ても同じなのだが、夕刻に自転車での帰路、不可思議な状況に出くわした。街が賑わっているのである。カラオケスナックなど、大音響で道まで絶叫が伝わってくる。一軒ではないのだ。街が明るいのだ。非常事態宣言は何処に行ってしまったのかと、2週間後が恐ろしい。

連休前は暗かった通りが、その時刻よりも後だというのに、明らかに明るいのだ。勘違いかと思って走行していると、先月末は気が付かなかった場所に明かりが灯り、人で一杯になっているのだ。おいおい、どうなっているのだろう?確かに昨日は愛知県では新規感染者の報道は無かった。しかし、殆ど検査が実施されていない状況である。こんな調子で良いのだろうか?飽きっぽい日本人の性と言えばそうなのかもしれない。

公園に遊ぶ児童が煩いと、子供を蹴散らす大人も居れば、必死の我慢に耐える人を余所目に、ストレス発散に努める大人も居る。職場で嫌味を言う大人の方がなんぼか可愛らしく思えてしまう。御器所から平手まで、延々とそんな有様なのだ。こんなことがあっても良いのか?いや、あってはならないだろう。

様々な月例会議のウエブ会議が二巡目に入ってきた。もう、このままウエブ会議で良いのではないかと思う。メール会議ではなくウエブ会議であれば、質問はきちんと受けられるし、録音も出来るので、議事録も正確に出来る。言った言わないもはっきりする。ストレス耐性が試されている昨今である。我慢するところは我慢する。例え我慢が目的化されてしまっていたとしても、それはそれで仕方がない。天災に文句は言えない。それだけのことだ。

連休考

ほぼ、屋根の下に閉じこもっている連休であっても、あっという間に過ぎ去ることに関しては何も変わらない。Web会議もあったしね。元日でもコンビニが開いている様に、赤日だろうがなんだろうが仕事は止まらないということなんでしょうね。遅れていた講義の準備期間としては最適で、それこそパソコンに向かってひたすら思考を続けた日々でありましたな。非常事態宣言の延期もありましたね。

トランプ大統領の経済優先のアプローチには驚かされると同時に、世界の方向はやっぱりそっちに行くのですねと実感させられた。人の命よりも経済活動が優先だと。もっとも、まるで食べられなくなって、住むところも無くなってという状況になったら、人はそういう前への進み方をするのだなと、人間というものを知らされた気になる。綺麗事は偽善者の戯言という、十数年前に怒鳴られた事を思い出した。

新規感染者が減少し続けて、普通の生活に戻るわけではない。連休が終わって職場に出勤するということだ。2日行けば再び休日がやってくる。これはこれで安気である。休日を安気と感じることができることは幸せなことだ。世界中のニュースがそれを重く伝えている。休日中に久しぶりに論語を読んだのですが、毎日の生き方が恥ずかしくなる。頑張り続けるしか無いのだなと実感する。

五月連休という、ひょっとすると盆と正月よりも休日らしく過ごせる期間を、パソコンと戯れて過ごしたのは初めてかも知れない。屋根の下に居て、屋根と壁に守られているのだなと、家屋という製品に改めて感謝した次第。短い人生の中でのヒトコマだと、二度と体感することなく想い出にしたいと願うところです。

気分転換考

『夜、口笛を吹くと蛇が出る』と脅されて育ったこともあり、日没以降においては極力静音を心掛けるようにしている。自動車で近所を走る時においては、制限速度内を意識して、あくまでも極力であるが、騒音公害の発生源にならないように気を付けている「つもり」である。ドアの開閉にせよ、思いやりの気持ちがあるのか無いのかというところにおいても、同じことなのだと思う。案外、見ている人は見ているのだ。笑ってごまかしながらしゃべる何ていうのも、まぁ、時と場合によるが、許される範囲は狭いと思っている。これは『蛇が出る』話からはギリギリの距離の事例かも知れないのでこの辺りで止めておく。

この連休において、山奥のキャンプ場へということが許されない状況であり、日常と異なる環境を作ろうと、ベランダキャンプと洒落込んだ。テント生活をしたことがある人なら解ると思うが、テント内に逃げ込むと、外界から遮断されて、そこが山奥なのか草原なのか意識しなくとも良くなるという逃げ込み空間が出来上がる。マットを敷いてシュラフを載せて、ごろりと横になって天幕を見上げれば、笑いがこみ上げてくるというものだ。トイレは近いは水場は心配ないはで愉快この上ない。

ところが、山奥と明確に違うことに、やってみると気がつく。騒音である。住宅街の道路を猛烈な勢いで突っ走る輩の何と多いこと。暗闇を爆音立てて、とっくに絶滅したと思っていたバイクの人々。とてもではないが眠っていられない。山ごもりが出来ていたのは、この騒音が無かったからなのだと、改めて知った次第。天幕を張る場所が、何故に山の中なのか、漸く気がついたのだ。結局、昼間、コーヒーを飲みながら読書をする空間としてくらいしか役に立たないことが解った都会の天幕である。

外膜を掛けなければ「蚊帳」の様になっているので、風が通って気持ちが良い。山テントだから、チャックを閉めれば虫などは入れず、快適そのものである。その点は負け惜しみではなく、実に快適である。日中は騒音などそれ程気にならないのも面白い。人間とは我儘な生き物であるとしみじみと感じた。やはり『夜、口笛を吹くと蛇が出る』と言う教育は有難かったなと、この年齢でも親に感謝する次第である。そんな連休の一幕であった。

人生は語れず

よしだたくろうさんの人生を語らずって曲があるんですよ。気がついたらビートルズが解散していて、井上陽水さんが氷の世界というアルバムを出して、そんな頃に、人生を語らないって歌を聞いたわけです。作詞をした人にしか本当の意味はわかりようが無いんですけど、生意気で、なんとなく解った気になって雑音だらけのラジオに耳を傾けた時代。

デジタルで、クリアで、簡単に再生出来て。便利なんだけど「その曲が掛かるまで、ずっとラジオにのめり込み続ける」なんて生活を送っている奴は、もう誰も居ない。居るわけが無い。欲しい時が今になっている以上、待つなんてことは必要が無い。必要無くなったその瞬間を、待てる人種とそうで無い人種が共存している。いや、させれらている。一万二千年前に、果樹を植えて実るのを待った人達から、大量に同じものを作ろうと、何がなんでも同一労働同一賃金に走った弥生時代に変化した。

昨日までじっくり待って、結果を見ようと言っていた人達が、明日、実らなければ、実った街を攻め滅ぼそうみたいな話をする時代に変革していった。今と何が違うんだろう。ちょっと前まで、飢えるから姥捨てと言う、見たくない時代があったのだが、今は、責任持てないから子供を間引く時代になった。どっちも耐えられないが、死ぬ間際にどちらの人生を語れるか。

まだ、語れない。そんなに長く生きていない。ビックバンから3度めの宇宙はまだ終わっていない。終わっていないことを感じているのは、過去に終わった宇宙があったからだ。経験が自らの言い訳を作り出している内は、まだまだ青いね。コロナだなんだ言っていても、ほんの瞬間の地球のくしゃみだ。そう思うしか無い。