お盆休み終了

先週の木曜日から昨日までお休みを頂いた。お休み中と言っても、まぁ、例によって例の如くなんだけどね。それでも飛び込みの案件が分刻みであることもなく、まぁ、読書なども出来、心に若干の隙間が出来たかな。隙間はとっても大切で、これは少し長い「連続した自由な思考の時間」が無いと出来ないものだ。生きている中で最も貴重な時間帯と言えよう。垂直に近い角度の坂道を這って登っているか、墜ちている、いや、堕ちているかのどちらかの毎日から、少し、坂道の角度を緩めたかなという感じだ。平坦な道は似合わないから、這わなくても良い程度の坂道が良い。

読書というのは面白い行為で、他人の書いた文字に共感を求める行為なのかなと感じた。共感だけではなく、抵抗感もあったりするところが面白い。極めて勝手な受動的行為であって、何時でも能動的に止めることが出来るのだが、巻末が近づくに連れて、読了を目指す行動を止めることが出来ない。戯言には有り得ない行為だ。こんなものは無いほうが良いわけだが、まぁ、文章を書き続けるという行為を止めてしまうと、それこそ人間では無くなってしまいそうで、命を軽視しているようで気に入らない。自分が気に入らないから書き続けているのかと呆れられるだろうが、そんなもんだ。

お盆ということで、ご先祖様と対話をさせて頂くわけだが、お香を焚いて鈴を鳴らし手を合わせる訳なんだけど、これはやはり大切な行為だなと想うのですよ。今、何故にこの命がここにあるかという問に対して、いろんな言い方、言い訳が出来るんでしょうけれど、突然、宇宙から降ってきたのでは無い限り、まぁ、このあたりは怪しいところなのだが、ご先祖様がいらっしゃったわけで、その命のバトンを受け継いでいるというのが判りやすい。命って凄いものだなと実感するように成ってきましたな。何時、消えてしまうかも知れない命の炎であるが故に、しっかりと燃え尽きさせようと、そんなことを考えるように成ってきた。

TVでは電車の中で無差別に暴力を振るう輩の報道が成されていましたが、暴力そのものは肯定されては成らない。暴力を持って主義主張を通すとかね、そんな主義主張はあってはならんのですよ、人の世はね。将来、昆虫博士にしたいから、虫を獲って標本にするとかね、それも立派な暴力行為だ。人は他の命を頂いて生きているのだが、暴力で命を奪って良い訳がない。殺人ウイルスが蔓延する最中に、世界中から人を集めるとかね。そんな為政者を担いでもいけないと心底想う。少し身体を休め過ぎて、頭がぐるんぐるんと回ってしまう。そんな思考を停止させるには戯言が一番だ。苦笑いである。

お盆の過ごし方考

ロジカルシンキングとラテラルシンキング、両者混在の下、漏れなくダブりなく、ラテラルに広がりながらロジカルに関係性を説明できるクリティカルシンキング。まぁ、大人になると誰でも出来ると思っちゃうんだけど、決してそうでは無かったりする。「馬鹿な理系者」(理系の馬鹿では無い)が陥りがちな狭視野のロジカルシンキング、「馬鹿な文系者」が呈する思考の発散による意味不明な問いかけ。どちらも辟易で、頼むからもうちょっと学んで頂戴よと思うわけだ。

これもしょっちゅう言う事なんだけど、子供の頃の親の絵本の読み聞かせが肝では無いのかな?共感と思考の繰り返し。話を聴けて共感でき、そして自ら発想する。三つ子の魂百までで、三歳までの読み聞かせが出来ていないと、結局のところ、素地としては不十分。その経験があるとすると、トレーニング次第だね。知識だけは持っているのだろうから、ロジカル・ラテラル思考のトレーニングを積んで、話芸を少し身に付ければ、もうそれでOK、聴ける話が出来るようになる・・と思いたい。

プレゼンテーションにしろ、単に説明って言う人、居るもんね。その後の、その方から発せられる単語は一切、鼓膜に届かないから何も覚えていないけど、どうせ時間の無駄だから聴かないのが良い。「相手に自分の主張に対してYesと言わせる」ことがプレゼンテーション。データ並べてこう思いますって、あぁ、なんと情けない時間でしょう。鶏舎に行って鶏と対話するのがお似合いだ。

理系も文系も無いのです。要は会話を通じてお互いを尊敬でき、共調・共鳴し、お互いの主張を高めたところで納得し合う。それが相互認証だし、会議の落としどころだ。思考レベルが低く、会話が成り立たないのでは困ってしまう、対話にまで行けば良い方かもしれない。もうちょっとお互い尊敬しあう事出来ませんか?人と人でしょ?二つの思考法のトレーニングくらいして頂戴。お願いだから、折角のお盆休みだから、ご先祖様と対話してみたらと思うのだが、先祖不幸しっぱなしの小生故に、孤立無援のお盆を楽しむかと、斜に構えている私であります。

愛知県を脱出せずに

まん延防止等重点措置が8日から実施された愛知県を出ずに何処に向かってステアリングを握るか。観光地どころかスポットと呼ばれるところまでお出かけしてしまっているので、正直「枝道」を走って酷道を突っ走るくらいしかやることがない。日本人の謎の習性で、平日であると、お盆の連休にできそうなところにすら会議を入れられてしまう。入れられるとこれはもう文句を言うわけにもいかず、頑張って思考するわけだ。昨日は久しぶりの台風の余波というか、強風域に愛知県が入り、夕刻から時々、風と激しい雨が叩きつけ、焼け付いた屋根瓦を冷やしてくれて、それは大いなる自然の恵みと感じた。

自然の恵みと感じられるくらいがよくて、今回も台風の経路に沿ったエリアの皆様は大変な水害や停電に見舞われ、辛いお気持ちを察するばかり。一刻も早い復旧をお祈りする。そうそう、ステアリングを何処に切ったということなんだけど、宛てなくアクセルを踏んでいると、どうしても153号に乗ってしまって、そうすると長野県に入らないで愛知県内を回ろうとすると、古橋懐古館を左手に見たら、右に257号に入るしか無い。名倉川沿いに軽快に進む。名倉のあたりで工事の看板に出会った。光ケーブル敷設工事・・

小生が郵便局ネットワークを活用した地域教育網を、その考え方、教材の作り込みに至るまで、スペインの文科省にて研修を受けてから約20年が経過している。その時、既に国の隅々までネットワークが有り、中央部と同等の教育を受けられる体制が出来ていた。それが「今頃こんな状況かい!」と驚かされる始末である。地域農産品のネットワーク販売など、当たり前の状況が世界中にあるのに、日本ではまだまだなのだろう。使えないマスクを配ったり、オリンピックに税金を使うことには積極的だが、教育にお金を掛けない状況には辟易するし、絶望する。

田口の数キロ手前のコーナーの連続は愉快である。ギアシフトだけでブレーキを冷たい状態に保ち、万が一のブレーキングを完璧に持っていくドライビングを心掛ける。真夏の日差しにスキール音は禁物で、高温のアスファルトで焼かれたタイヤのグリップを感じながら進む。田口にて飲料を補充した後、途中、鹿肉を頂きながら、岡崎に抜けようかなと思って473号に入ったら、鳴沢でがけ崩れで結局、豊田方面に強制送還。そのままだと行きの経路に乗っかるので癪だから、301号方面に向かう。豊田市はどこも道が整備され、数年前には愛する酷道だったところが2車線化している。大げさである。連休前半はそんな楽しみ方をしていたのだが、後半はそれこそ行くとこ無いぞと、コロナ禍に溜め息を付く、私であります。

生理的毛嫌い考

音を立てて食事をするとぶん殴られて育ってしまったから、そのような行動に対しては「生理的に受け付けない」という状況が発生する。食事は単なる事例であって、目くじら立てることでは無いのですが、この生理的ということは、人との関係においてとても難しい。価値観とは異なるのだが、もの根本にあるのが生理であって、それに精神が加わって価値観となるのだろうが、精神部分はマッチするけど、根本の生理がマッチしないと、これはもう受け入れられない。

何でこんなことを敢えて持ち出したかと言うと、往復の通勤経路で、自転車や地下鉄で通うわけだけど、目を伏せたくなる状況に出くわすわけだ。あちらからこちらを見ても同様なのだと思うのだけど、こう考えてしまうと、生理的に受け入れられないと一人が思うと、世の中に二人はマッチング出来ない人間が出てくるのだなと。一人だけ宙ぶらりんということではなくて、ペアで不仲というものが発生するわけだ。

それはそうだろうと、こう書いていて苦笑いするが、不仲というのだから一人ぼっちで出来上がる構図では無い。ペア以上に決まっているんだけど、この、根本的に受け入れられないってどんなレベル感であるんだろうかと。ペダルをこいで八事の坂を上っているときに思ったのですな。自転車で道路の端を走っていると、すれすれに風圧を感じさせながら通過する車と、少し離れて走って頂ける車とあって、他人をひき殺すことに罪の意識を感じない運転手殿は「生理的に受け入れられない」組だなと思うわけですな。

これも1対1なんだけど、野球チームとか、企業とか、国とかになっていってしまうと、グローバル社会から二国が弾き飛ばされた感じになる。何を無駄なことで争っているんだとなるわけだが、この、根本的な「生理的な毛嫌い」を払しょくする方法は無いものだろうか?二人の拡大が二国間なんて大袈裟なんだけど、そんなことがそこら中にあって、ちょっとの我慢ではなんともならないものかもしれないのだけれども、なんとかならないものかなぁと、そんなことでも考えていないと、八事の坂を上る苦行を重ねていられない私であります。

思考の基準

我が国の人口が減り始めて数年経つ。いずれは自分もその数を減らすことに貢献することになる。これは決定項目であって、誰にもどうすることもできない。電磁気学で言うところの無限遠点を基準にして考えるとというのと似ているかもしれないが、個人の人生をどう捉えるかという事に関して、自らが価値観の原点を定めることが必要だと考えている。苦しいとか空しいとか幸せだとか、そんなもん、自己の中に基準を置けば何とでもなるもんだ。

お仕事の上で言えば、組織でやらなければならないことがあるわけだけど、自分が任せられたことを精緻に分析して、ここだけは自分の力で何とかしよう、後は協力を仰ごうと自己能力を常に分析し持っていることが組織力の中に自己機能認識になり、それを見える化しておくことが、組織全体の力の向上に繋がる。自分が何を出来るのか分からないのに、そこに存在していることは悪であるという認識が必要だ。勿論、自分にはこれは無理だということも併せて見える化するのが良い。そしてそれを組織は認証しなければならない。

「だって、そんな話は聞いていなかった」、「いや、言った」みたいなことがしょっちゅう起こる。なぜ起こるのかと言えば共通言語で喋って無いから。同じ単語の意味を共有していたとしても、時・場が異なると、異なる理解に陥って、異なるゴールに到達してしまうことがある。上長はそうなる手前のマイルストン設定も併せてしないといけないわけだが、これなどは共有したゴールでは無く、ゴールが生み出す価値を共有しておくことで自分の迷子状態を防げる。

つくづく思う。人は人、自分では無いのです。独り言を言ってごらんなさいよ。自分の言葉で喋るでしょ。その基準は自分でしょ。すると独り言以上の事は出来ないし、欲望も無いんだよね。「酒呑みてぇ~」って喋ったら、それは自分が呑みたいってことであって、誰かに付き合ってあげようって事では無いよね。誰かが基準では無い。自分の過去を基準にするのでもない。まだ来ていない未来を基準にして、なりたい将来を描きませんか?そして目指しませんか。そんな自分を受け止めた人に溢れた社会にならないと、国家人口はゼロになるんでしょうね。そうならないことを祈るだけだ。

民度が知れる

新聞、TV、ネットなどを見ていると、もう、豪華絢爛な国政選挙対策が並んでいますな。マスコミがそれをデコレーションして国民の洗脳に全力を傾けている様が、もう、ここまでくると愉快だなと感じる程だ。世界中がコロナ禍対策で税金をばらまいてきた。これはやむを得ないことで、非難などしない。ばらまき方に「はてな」はいっぱいあるわけだが、血税が国民に還元されることに問題はない。

ただね、ビジョンが全く見えないのだ。緊急事態宣言が日常化して、しかも緊急事態が終わったら、社会はどうなっていると言ってくれないから、その下に置かれる国民は一体なにをすれば良いのか分からない。ワクチン接種とて若年層女性の約4割が接種を拒んでいるそうな。2回摂取した方がΓ型に感染して重症化しているなどと報道されたりすると「ワクチン接種って本当に効果があるのか?」との疑問もわいてくる。2回目の接種で強烈な副反応が生じると報道が成されるが、しかも「効果が薄い」と言われてしまうと、「それは何?」となるのは仕方が無いだろう。

マスコミ曰く「高額で購入させられている」ワクチンを手っ取り早く輸入して、国内開発は企業の自助努力(国費で補助はしているが)任せで、大規模検査に後ろ向きで、ワクチン開発国に忖度し、自国の学術技術の高度化に税金を投じない。安心して暮らせる基盤をつくるところへの投資が少なすぎるのではないか?目に見える土木技術は確かに重要だが、これとて選択と集中の考え方を導入しないといけない。

ビジョンが見えないの意味は「物語として頭の中に浮かんでこない」ということだ。この国が何処に進んでいくのか、どんな風に変わっていくのか。そして国民の生活はどのように良質になっていくのか。貧富の差はどのように埋まっていくのか等々、何も見えないのに、国政選挙対策が各党で進んで、遊説は行われるが国会審議は何処かに飛んで行った。企業も国家も、そして個人も、日本人はビジョンを抱かねばならない。民度が知れる。

誰かが居なくなる

なるほどねと皆思う。そして前に進んだと思っても、確実に後ろに下がっている。これが王道のベクトルということだろう。正しいと思っても、決してそれは正しくない。正しいことと思うことはまるでちがう。為政者がこっちだと言ってもまるでちがう。で、問題はここだ。社会が作るベクトルが正しいのか?正しいこともあればまるで異なることも有る。

お盆という行事がやってくる。全く関係は無いのだが、お盆という単語を聞くと、太宰府の門前町で梅が枝餅を食べたあの時を想い出す。天下の為に生きたのに、皆、あの者は嘘つきだと、天地神明、美しき心を持っていたとしても、まさに地獄に追いやる。それはあなたです。ほら、そこに居るでしょ、君です、貴方です。みんな、自分が恋しいのですね、そうです、そんなもんです。

いやぁ、実に面白い。そろそろ職業人として終末なのですが、「私はこれで挑戦したい」と、誰も言ってこない。だから何だということもない。研究室が無くなるという事実は、正直、そこを旅立った者達の挑戦にほかならない。みな、当たり前に生きる。生きるのだが、それが何か意味があるのか?生きる意味、小生も思いつめる。

そう、自分自身、何故、生きるのか?生きるとはなにか?猛烈な勢いで車に跳ね飛ばされて、生死をさまよったとしても、生きてみると何も無い。単に、生きているだけだ。そう、生きている者は、人の辛さなど何も解らない。お盆がやってくる。そこにはご先祖がいらっしゃる。自分の立場を少しでも考えてみる。それがお盆という、日本人の有り難さだと思う。

ワクチン接種につき

今更なのですが、まぁ、年齢的なところもあって、漸くワクチン接種に行ってきましたよ。既に摂取された方々から副作用の恐怖を刷り込まれるには十分な事前覚悟の準備期間を置いて、出掛けてまいりました。金曜日の19時からの予約で、少し前に到着して、間隔を空けた静粛な列に並び、胸に「名古屋市」のシールを貼っていただいて、粛々と進む。地域が異なると列も異なるのですな。個人情報が行政区によって違うのだから仕方がないかなと想像しながら、でも、マイナンバーに紐付いていればこんなつまらないことで事前のシールみたいなものを税金で作らなくても良いのにと、ここでも税金の無駄遣いを感じるわけですな。

事前記載の問診票のチェックをご丁寧に2度受けて、生年月日チェック等のゲートをくぐり抜けると漸く「接種ブース」に到達する。ブースの中は滅菌エリアというわけではなく、体育館的ホールの、ホコリ舞い散る環境であって、こんなことなら、接種希望者が養鶏場よろしく肩を出して、注射を執行される看護師殿がレールに乗った椅子に座って、だぁっと横に移動しながら片っ端から射ちまくればそれで終わるのになと思った次第。いや、AI搭載の画像診断ロボットなら、筋肉注射だけに座れば自動で執行してくれるだろうにと、何処までこの国、テクノロジーを見限っているのかと、思わず笑いがこみ上げた。

まぁ、どんなに早く注射という行為を実現できたとしても、肝心のワクチンを自国で生産出来ていないし、いや、生産を止めているしね。こんな民度の低い国家に産まれたくは無かったなと、心底想いましたよ。自国に絶望を感じたのは初めてではないが、接種が終わって15分待ちのエリアで、なんだか虚しくなりましたな。何処まで世界に置いてきぼりを食うんだろうって。憲法が古いから?鎖国が続いているから?お互いにリスペクトが無い個人主義国家。パブリックの意味を教えない低俗な教育。とても耐えられる代物ではない。

まぁ、これはどうでも良いかもしれませんが、TVでもモデルナアームだの高熱が出るだの、筋肉痛になるだの、射った箇所が触れないほどに痛くなるだのと事前学習をさせて頂いたのだが、それらは全く無かったのですよ。様々な情報が飛び交っていて何が正しいのかは分かりませんが、自分の事は自分にしかわからず、事実として「痛くは無いけど二晩眠りが極めて浅かった」という、もしもヒアリングがあったらそう答えるでしょうね。そんな感じの対新型コロナ対応ワクチン接種の体験団でありました。