共通テスト考

日本の謎の慣習である共通テストなる、天下り人材保護活動が開始される。決まり切ったパターンを唱え、見張り役を務めるわけだ。何もしないで時間を過ごせという強迫に耐え二日間を過ごす。代休など獲得できるはずもなく、見せかけの働き方改革に呆れながら、これまたやはり時間泥棒との戦いになるのだ。

遠い彼方の記憶なのではっきりとはしないのだが、大学それぞれで入試をするのではなく、共通指標で大学をランク付けしようみたいなところがあって、そうはさせるかという大学側の反撃で作られたシステムであると聞いたことがある。だったら各大学で入学ポリシーを決めているのだから、それを見て一発勝負の入試で合格者を決めたら良かろう。

すると、一発勝負はかわいそうだの、選択の機会を奪うだの偽善的とも思える外野の意見が直ちに飛んでくるわけで、受け身の学習しか望まない学生を作りだす社会のおぞましさを追求することなどマスコミはしない。ベルトコンベアの上を移動して、ロボットにピックされて装置に組付けられることを待つ部品の如くの学生達は何処から生まれてくるのか。全てでは無いがかなりの数だ。

最低限理解しているべきことを問う入試であれば、全員が満点を獲得できるべきだし、更に言えばやる必要は無い。クリア基準以上を求めるのであれば、もうそれは一発勝負の入試で良いのだ。教育システム全体で考えるべきことだから、一校でどうのこうの出来ることでは無いが、そんな流れにしていかないと世界の孤児の養成校になってしまいそうな恐怖を感じる。大学のあり様を考える。監督などせず、そんな時間の使い方をしてみたいと願う私であります。

アナログ時代人の悲哀

折角の職場のお休みがあっても、それを誰かが奪いに来る。奪い合って何かが生まれるのは事実で、それを実感できるのも事実なのだが、それでもやっぱりお休みに個人的にやりたかったことをやれる生活の方が有難いと感じてしまう今日この頃である。贅沢な思考かもしれないが、やらなければならないことに押しつぶされる毎日を送っていると、時間の獲得の妨害者は排除したいと感じるのだ。

モモに出てくる時間泥棒が何処にいるのかということに尽きるのだが、それは自分の中に居るのだろうなと理解してはいるものの、それを他者のせいにしたいという狡さも自分の中にある。結局のところ自分がどう考えるかであって、自分への忖度を消し去れば、妨害者が自分の中にあることが見いだせる。

妨害を最大限に排除するために、どうしても道具に頼らざるを得ない。それがAIでありロボットであるならば、正しい選択のような気もする。AIとロボットが人の隙間を埋めてくれるものにしていくことは人間の行うことなのだろうが、一方でアナログの有難さもあるなと最近は感じている。

IoTの時間的拘束力の凄まじさである。メール一本で締め切りは一か月後ですよと、3万文字の原稿を要求してくる。デジタル化文書だから、余程気を付けていないと忘れ去る。いきなりARゴーグルの向こうから督促者が襲い掛かってくる時代に入っている今、そこから逃げるのはアナログしかない。アナログ時代人の限界を感じつつ、時間泥棒との戦いを続ける日々である。

残るもの

古来の芸能というものの根本は変化してはならないのだと思う。変化しない骨格の上に時代をリードする新しい技が載ることで、見る者を勇気づける。芸能のもたらす効果の源泉とはそんなものではなかろうか。技術をあたかも芸能の如くに捉え、ベンチャー企業さえ出来れば経済が活況となるというトップの安直な思考は、文化を無視した人間離れした思考としか思えない。

地球人が想像する宇宙人の容姿が人間に似てしまうのは、人間の思考の限界があるからと言う者もいるのだが、それはそうかもしれないが、学術的に、地球環境と類似した状況では人間型になっていくという学説もある。学者の言うことだから何処か怪しいのかもしれないが、小生はそんなものでは無いかしらと思ったりもしている。

数十億年を掛けて到達した中において、革命と呼ばれる事件とも言える発明、開発が成されたわけだが、確かにそれは一か所から発生し、地球全体のあり様を変化させる可能性が無いとは言えない。特にネットワークが高度に発達した現代において、アイデアだけを発信するYouTuberの存在を見ていると、一人一人が発信し、全ての人がベンチャー企業化していると判断した方が良いのではなかろうか。その中から自らに都合の良い組み合わせを選んで、形にしてみると、既に自分にとっては革命的生活変化をもたらせると感じる。

イノベーションを求めるよりも、生きるという本質を見つめ直すことが第一ではなかろうか。バブルを求める強欲こそが人間の本質であるということでは生きる希望が無くなってくる。大型書店が閉店し、特色ある書店が生まれる今、画一化されたバブルの時代がとっくに終わっていることを意識するべきだ。他者と共に活動する中における本質を軸に、新しい思考をする。全てそぎ落とした時に何が残るのか。それを大切にしていきたい。

Intelligence of Things

Intelligence of Thingsが最近のIoTが示すものである。単に繋がっているわけでは無い。繋がっているデバイスが知性を持つ時代であるという事。すると、何らかのデバイスにアクセスしている人間も、それなりの知性を持っていないと不良接続と考えられてしまい、遮断される憂き目にあうやもしれない。

2年ほど前に輸送用ドローンのモーター開発ということで、軽量モーターコアのお話を頂いたのだが、離島と本土とを繋ぐ輸送機として本格的に自立型ドローン輸送機が動き出したとのこと。余りにも遅い日本の動きだが、少なくともやりだしたことは良かったと思う。AIバスに次いでAIドローンの登場は素晴らしい。

3次元に揺れる機体を安定化させながらミカン箱程度の大きさではあるが荷物を運んで目的地に到達するというのは凄い事だと思う。ラジコンでは無く、GPSを頼りに自立して飛んでいく。これも正にIntelligence of Thingsの具現化の一つであろう。繰り返し実験をし続ける資金はあるのかと心配してしまうが、国外企業に利権を全て持っていかれる愚を繰り返さないで欲しいと願うばかりだ。

いよいよもってAI、IoTに掛かるエンジニアの排出が当たり前のように求められるのだが、文科省に言われて漸くカリキュラムをいじるというのはどうだったのか。個々の大学で独自の体制で考えていって良いものか?もっとも、エンジニア育成の前に、目の前の電子化すら億劫で関係無いとする組織を何とかせねば。書類の山を見るたびにため息が出る。

前に進むということ

今に始まったことでは無いのだが、日々開催される会議の何と多い事か。今週は例によって土曜日まで拘束されるわけだが、今年は極力ものごとをお断りしていこうかと思っている。思っているだけで実行できるかどうかは分からないのだが、「やりません」元年としたいと思っている。勿論、それは研究者としての依頼に限ったことで、公務に関してはそんなことは有り得ない。

断りにくいことを「良いですよ」と引き受けていると、一つ一つの案件に対する集中力が下がってくる。品質の低下は最も避けるべき事態である。それを実践していきたいと思っている。去年からの流れで、今週、既に2件の講演案件があったわけだが、これを最後にフェードアウトというのがストーリーだ。何度も言うが、イオンだの平坦だのと学者の前では話しませんよということだ。

勿論、学問活動を停止するということでは全くない。寧ろ、丁寧に活発化していく予定である。より深く潜航し、真理を追究することに時間を割こうという、まぁ、当たり前の方向に進もうと思っているだけだ。真理という大げさなものではなく、自分は何が分かったのかと、自ら納得したくなっただけだ。遠慮と忖度はもうしませんということだ。

パンドラの箱のお話がある。飛び出すものが不幸だけだとしても、幸福が残っているかもしれない。何も無いかもしれない。そこに閉ざされた扉があるのだとしたら、絶望などせず、開けてみることだ。それしかない。

毎日運ぶものは?

長くは無いけれど、連休明けで数日間通勤していると、やっぱり嫌になるのがカバンの重さ。その昔、祖母が倒れた時、やってきたお医者様が下げてきたカバンから繰り出される様々なツールを見て、カバンとはこのようなものなのだなと思ったことを覚えている。瞼に焼き付くというのは本当で、これは忘れようにも忘れられない。

電脳を携帯するようになってカバンの中身がじわじわと変わってきた。変化の歴史は電子機器の進化の歴史に繋がるのかもしれない。重くなったり軽くなったり、大きくなったり小さくなったりである。背広でリュックを背負うことがポピュラーで無かったころ、学会にリュック姿で出かけたら思い切り冷やかされた。両手を空けて安全を確保するという当たり前の行為だが、常識のシールドをまとった大人達には小馬鹿にされた。されても意志を貫いてリュック生活は続いた。

当初はブリタニカ国際大百科事典一冊分の大きさのブックシェルフ型PCも、今や、熱さ1cm、重さは1kg以下が当然の状況になってきた。そうなってくるとリュックからショルダーバッグへと変貌出来る。このショルダーバッグへの変貌の途中には、とある事故でリュックを背負えなくなったことがきっかけだったのだが、トートバッグ生活の便利さに驚いて、ショルダーバックとは便利なものだなと、今現在はその状況に落ち着いている。

最小限の大きさの中に、必要不可欠で、毎日使うもののみを入れて持ち運ぶ。それが理想なのだが、万が一のためと、何かが付加されてしまうのが情けない。保険と言う奴なのだが、生命保険と同様で、万が一起こる筈もないものに、患い悩む愚かな毎日を過ごすことになる。自分の将来にまで忖度している。情けない毎日だ。

縋るものは・・

やって良いか悪いかは別として、3Dプリンタによる生命体の創造ということが成し遂げられるんでしょうね。というか、何処かで既に成されているのでしょう。ナノインプリントによる分子合成が当たり前のようにやられているわけだから、そんなものとっくにやっているよと笑われるかもしれない。3DCADデータが遺伝子レベルで構築されて生命と呼ばれるものが生み出される時、人新世紀は終焉を迎えるのでしょう。

恐竜が種の淘汰で滅んだように、人間もいずれは同様の末路を遂げるのだと思う。1億年以上も続いた恐竜の時代であるが、それは多様性が地球環境によって制御されてきたからだと考える。一方、人類は圧倒的に増殖し、地球環境に変動を与える程の、人為的影響力を発揮している。そんなことは人には出来ないと言う学者諸氏もいらっしゃる。それはそれで恐らく正しい。一方で、PM2.5で太陽光を遮ることが出来たのは、人為的なのではと小生は思う。

それが地球規模で云々となると、火山が一度大噴火した時の影響に比べれば大したことは無いとなってしまうが、それでは化石燃料をじゃんじゃか燃やして、ばい煙を大気中にまき散らす行為を、世界中で同時に行ったら、火山レベルのことが出来るのではないか?恐竜ですらできなかった環境操作を人類にとっては可能ではないのか?

日本国企業における工作機械の売り上げが昨年度、一千億円を割り込んだ。工作機械が売れないと言う事は将来への設備投資が成されていないからだと、その筋の方々が叫ばれるが、小生はちょこっと疑問に思っている。近い将来に訪れるサービスを実現するツールは、最早工作機械では無いのではないか?そう考えることが自然では無いのか。新しい「紀」が生まれてくる。そんな気がしてならない。

宇宙目線

ジェフ・ベゾス氏が目指す地球の人類安定性を具現化したのがブルーオリジンで、2000年のお話だ。既に20年の年月が流れている。スペースXのように派手な広告は出てこないのだが、確実に、着実に宇宙を往復する手段を作る。宇宙空間に1兆人が暮らせる空間を作ることによって、地球そのものを自然の環境に保とうという、母なる星を人が踏み荒らさない環境にするというビジョンの具現化に向けた試みである。

スペースコロニーが地球を取り囲み、炭酸ガスを吐きまくったり、長大な化学産業は宇宙空間で閉じた環境で行うことで、生産現場と生活空間が明確に区別できる世界を目指すという。地球の富の10%を獲得している方々の考えることだから壮大であって欲しいが、いずれそうなるのではと思わせるところは流石だなと感じる。

年末年始は移動距離が伸びていくわけだが、そこで目にするものはコンクリートの塊の量の増大である。野山が切り開かれ、特定の人には便利な空間が広がっていく。高速道路は使わない人にとっては、土地を寸断する渓谷に過ぎないし、日照を失った人も自然もあるのだろうなと思いつつも、便利に手を合わせてしまう人間の浅ましさを実感する。

病気や災害に強い農業ということで、完全密閉空間的農業ユニット製造が、いよいよ本格化してきている。温室なんて生易しいものではなく、植物の完全養殖がスタートする。そのうちに動物にも波及するのであろう。それが宇宙に上がっていく。人は何処から来て何処に行くのか。ゴーギャンはどんな絵を描くのだろうかと、ディープテックに触れると思う。

いつものごとく

如何なる休暇よりも高速に過ぎ去っていくのが正月休みである。働き方改革の強制がいよいよ始まるわけで、それを逆手にとって年末年始を長くしたり、お盆休みを長くしたりと、各自が自らを磨いていく為に使うようになっていく元年と捉えていきたい。既に一週間近くが過ぎてしまったわけだが、貴方待つのも松の内と呼ばれる範囲にありますな、本年もどうぞよろしくお願い致します。

今年はこうしようとか、本年の目標はなんてものは考えない。常に進化し続ける宇宙空間において、今日から新しくなんていう考え方はあり得ない。瞬間瞬間をステップに思考を進めていくことが求められる時代。最大限に可視化して前に行く。立ち止まる。遡る。

可視化するからこそ達成度評価基準が意味を持つ。何をもって達成したのか、到達したのかを評価するには、可視化以外には無い。可視化できるものは企画以外には無い。形に現わせるものを積み重ねていく。それで良い。結果を判断指標にしても、地球の何処かで行われていることが全てお見通しなんてことはありえないので、バタフライ効果を含んだものは意識しても無駄である。

今を出発点にしている若い方々と、過去の成功にしがみ付く人々とが同じ指標というのもおかしなお話だ。引退年齢を自らが設定する時代になって久しいが、設定を誤らないようにしていきたい。意識の中にあるのはそれだけである。