安きに流れるのか?

ちょっと趣を変えて日本のものづくり力に対して思うことなど。大袈裟なことでは無く、やはりこの国難と関係することについて。出歩いている人を罪人の様に咎めているが、中小製造業に対して何の補償もしてくれない国家だから、出勤して機械を動かして「製造」するわけだ。商品構築担当のTier0企業は、それらを集積し商品にしていく。

ここ数年来の地政学的リスクの大きさに、Tier0企業は目を光らせて、大きな河川沿いの製造業には仕事を回さないというような流れも出てきた。国の大企業のための保護主義政策で世界の流れに追いつけないなんてことも出てきた。隣の人が罹患者かどうか携帯経由で解る世界がある一方で、日本は全く分からない。為政者は経路が不明だと面白がっているように見えてしまう。決断できるはずなのに。

製造業の現場は強いのだと、そう思い込んでいるところに「出勤しなくちゃ」のお話が出てくる。テスラのメガ工場をごらんなさいな。どれだけデジタルトランスフォーメーションが進んでいるか。路上での不具合が直ちに設計に回り、機械設定を変化させ、マイクロモデルチェンジに持ち込んでいくスピード感。「3Dプリンタで作った金型なんかゴミ」などと、保護主義に走るのは最早日本だけ。

製品設計と工程設計にAIが絡み、高度なエンジニアリングチェーン、言い方を変えればプロセスインフォマティクスが当たり前の世界に、紙のやり取りでどう立ち向かうのか。折角の電子通信利用の社会変革を進めなければならない。不便になった事って、本当は要らなかったのではないか?それを前提に考えてみては如何か?それが出来ずに逃げ口上を語る人はご退場ということであろう。チャンスと捉えるべきである。

遥かなる八割減

昨朝、始発電車は混雑していた。いや、混雑と言う程では無い。立っている人が居ない程度なのだが、駅に着くたびに増えていく。皆さん、時差通勤ということなのか、他人と接触する確率を少しでも下げていこうという試みだとは思うのだが、常連客の小生にすると、接触確率がぐんと増えた感触がある。

出掛けなければいけないのだ。中途半端なリーダーの掛け声であるから、特に、モノづくりの中小企業におかれては、親企業が納品せよという命令のほうがリーダーの声よりも大きいのだ。出掛けたら銃殺とか逮捕とか、そんな命令では無く、単に協力要請であるから、それは出掛けるだろう。ゴミ置き場には溢れんばかりのペットボトルや弁当の樹脂箱である。土日の景色を見るようである。

あっという間の187か国への伝染である。他国の罹患者の増加に比べれは不思議なほどに日本の伸びは低い。そんな報道もあってか、緊張感が見受けられないように感じる。地下鉄から地上に出ると、いつも通りの車の数だ。全く変わらないなと、まぁ、自らを省みてもそうだから、人の事は言えないよということなのだけれど、帰宅時刻の飲食店にはお客様達はいらっしゃるわけだ。

帰宅時刻の地下鉄はと言えば、漸く、袖触れ合う状況から若干減ったかなというところでありまして、8割減が実現しているわけでは決してない。ちらほらと見ていると、小生よりも長い距離を乗車していらっしゃる方が大勢である。辛い同士のご同輩である。これは世界中で同様であって、兎に角、乗り切るしか無いのだ。電子会議が当たり前になってきた。移動時間が少なくてとても助かる。これで良いでは無いか。やっぱり慣れるしか無い。そう思う。

テレワーク初日

不要不急の外出は避けなさいとのお達しであるから、この土日は食料品の買い出し以外はおとなしく書類と格闘していた。と言う事で基本的にはちっとも生活スタイルは変わらないのだ。何店舗か巡るのが通常なのだが、そこは一か所に集中してみてはいるのだが、その一か所がクラスター中心となっていては致し方が無い。

感染経路が不明と言うことが叫ばれるのだが、何せ伝染病である。インフルエンザだって、感染経路なんてさっぱりわからない。豚コレラだって、結局のところ猪が云々なんて言われているけれど、大発生前に猪が豚舎の周辺で目撃されたなんて事実は無いのだ。結局、伝染病の病原菌が何処からきて何処に行くのかなんて誰にも分らないのだ。

分からないから恐ろしいのだが、分からないものに怯えるよりも、最大限の防御を試みたら、ぐっと足を踏ん張るしか無いのだ。東京の感染者増加のニュースを見るたびに、人口に対するなんらかの関数になっているとするならば、発生確率は高いでしょうし、その周辺の県への影響だって大きいのは当然の事であろう。

テレワークとオンワークのパラレル状態となって、どのような状況になるのかということなのだが、例えばメール審議にしても「審議出来る書き方」が出来れば良く、それは対面会議における資料作りにも役立つ能力養成である。やれるだけやってみよう。習うより慣れろである。前向きにいきましょう。

緊急事態宣言

知事の思い切りで緊急事態宣言が出されるかもしれないという状況になった。産業やら経済やらという単語が人の命より尊いように語られる昨今、知事の思い切りに感謝する。心のありようなのだと思う。犬猿の仲の市長からの依頼であったにせよ、大局を見て政権に物を言う勇気はなかなかにして立派だと思う。

賛否はそれはあると思う。思うが、決断するかしないかは大きな違いだ。都知事程に力があって、おひざ元、そしてオリンピックが流れてしまったら、野となれ山となれの地域ではない。産業で成り立つ地域の知事の判断は大きく、そして重い。

瞬間瞬間の判断である。当意即妙という禅問答の神髄があるが、判断とはそんなものなのだと常々思う。誰がやってくれるわけではない。自分で決める。それはなかなかにして重いのだ。陰では何とでも言える。実際に決断することが迫られるのだ。

とは言うものの、緊急事態宣言というものをくらったことはない。そうであるから心に余裕など全くないのだが、最善という行動があるのであれば、それを目指して決断するまでだ。それだけのことを淡々と成す。そうするまでだ。

400人超え

何故か投稿されなかった昨日のもの・・・

別のネタを引っ張り出そうと思うのだが、ついに一日当たりの感染者数が400人を超えたかとなると、結局のところこのネタに戻ってきてしまう。必殺の名古屋飛ばしにあっているわけだが、政府の中にも経済優先で非常事態宣言は止めよという声が大きかったということだが、医療機関の破綻と天秤に掛けて、その状況になったわけだ。

この仕事は停止せよという命令では無く、依頼という状況に変わりなく、命令していないから店じまいしても補償はしませんよと言う逃げ口上はちゃんと作ってある。見事な仕掛けである。まぁ、見え見えなのだが。評論家殿の中にはインフルエンザに比べればへっちゃらで、来年になったら普通の風邪になっているという論調を飛ばしていらっしゃる方もいますが、果たして本当にそうか。そう願いたいのは誰しも同じ。

基本、科学者なわけで、論文を書けば他人に査読をされて、まぁ、そう疑うわなとか思いながら、データを差し込んだり入れ替えたりしながら納得して頂き、了解を得た結果、出版となるわけだ。時代が進んで分析確度が上がってくると、あれはAでは無くてBだったみたいなこともあるのだが、特効薬的なものがあるインフルエンザと、それが無いものでは、そもそも論として不安の度合いが異なる。

致死率は高いとは言えないのかもしれない。しかし、重篤になる場合もある。やはり命の問題である。感染者数の増大傾向だけで非常事態地域かそうでないかという線引きが成されるのは如何なものか?どこかに忖度的力が働いているとか勘繰りたくもなる。出来ることは手洗い・うがいくらいなもので、減っているとは言うものの、乗客が多数の地下鉄で通わないといけない。そんな日本の毎日である。

オンライン講義

大学院の講義をネットで共有しようという動きが、小生が30代の頃にあったのだ。放送大学が鳴り物入り?で登場してきて、その講義の上級版を作ろうという全国規模のネットワークだった。当時のH副学長に「明日東大に行ってNoって言ってきてくれ」という謎のデビュー戦で、20名ほどの副学長先生達から失笑を買ったのを覚えている。

当時はPowerPointは無かったし、HTMLツールも気が利いておらず、ネット環境も極めて脆弱だったから、作り込むのに相当苦労した。ただ、作ってみると講義内容に対する自分の理解が足りていないなというところが明確になって、その後の講義準備の役に極めて良い影響を頂いたのは間違いない。

従来の板書形式を変えて下さいと言うのは耳障りの悪い事だと思うのだが、次年度以降も活用できるわけで、良い講義媒体に仕上げていくことで、プラスになることが必ずある。EUに入る前のスペインが、全土に張られた唯一のネットワークである郵便局のネットを活用して、官民一体で通信教育資料を作り、国の教育レベルを一気に上げた姿は今も忘れない。

100兆円を超えるバラマキをするのであれば、電子ツールを各学校に配布して頂けないだろうかと思ったりもするが、それはかなわぬ夢だろう。誰を恨むことも出来ない。天然自然の猛威が相手だ。人間として成すべき事を成す。粛々といきましょう。

緊急事態

ゴミ収集車という特殊車両がある。全ての家庭が何をしているのかを知っている車と言っても過言では無かろう。それを知りたいとかそんな破廉恥な事を思っているのではない。真逆である。それ以外の事は大したことは無い。要するに、家の外で行っていることはオープンで良いのだ。

突然、102兆円をばらまきますよと、2枚のマスクで青息吐息だった人の口から飛び出してくると、何が起こったのかと勘繰りたくなる。ロックダウンはしないレベルであれば、それ程のばらまきを後世に借金を回す必要があるのか?ちぐはぐなのである。緊急事態となっても仕事を普通にしていなさいとはなんだろうか?

記憶に残さなければならないのだと思う。目に見えない戦いと言えば、ジュールベルクの宇宙戦争だろうが、あれは攻めてきた側がウイルスにやられたという結末なのだが、自らの星で発生している見えない生命体と共生しようとしている過程である。

汚染された環境にさらされたことの無い1980年以降の皆様と、それ以前の人達との差があるのかと思ったのだが、肺炎となると差別も区別も無く襲ってくる。肺炎は恐ろしいのだ。現時点において、何故か日本と言う国の中では罹患者が少ない。油断は禁物である。調子が変だと思ったら、遠慮はいらない。医局、保健所に行ってください。よろしくお願いします。

粛々と謙虚に

GMとホンダ社の連携は、コア技術開発に人とお金と時間を投入してこなかった国の末路を見るようだ。共同開発と言っても、走行とシステムに必要な部分はGM、お化粧部分はホンダという色分けで、要するに見せかけの部分はやらせてあげるよという構図だ。

スマホでは部品は日本、外装とシステムは海外という構図で、似ていると言えばそうだ。要素技術と顧客に対するシステム戦略を打てない国ということだ。胸を張ってユーザーの感動を約束すると言えない国だということだ。残るはデジタルカメラ陣営ということだが、これとても、リアルタイム映像配信カメラの進化、4K、8K動画の撮影と映像化が当たり前になってきた時代においいて、その地位は極めて危ういと感じる。

オンライン授業を展開しようとなったとき、持たざる者への配慮はどうするのかということが最初に上がり、社会インフラが整っていないということが二の矢として飛んでくる。コンテンツの優良化と学習効果の確認という本質が箸休めになってしまう。マスク2枚や30万円の自己申告配布よりも、国力としての人材育成に何故に税金を回さないのか。

一丸となって教育組織としての役割を果たす。現状における最良の方向性は何かを共有して粛々と活動するしか無いのだ。教育機関全体としての方針が親会社からは「各自に任せる」という大方針以外出ていない以上、今、最善を尽くす。未来から見た時に、あれで良かったのだと思えるように思考する。それしかない。

学ぶ機会

5Gの産業活用が漸く始まってきた。電波の受発信施設を工場所内に設置し、ワイヤの束が走り回っていた工場がすっきりし、デジタルトランスフォーメーションが勝手に達成されるというおまけがついてくる。必然の流れが情報の高密度化によって後押しされている形だ。スマホの5G化よりも本質的だと思う。紙のやり取りを無くしていく方向は美しい。

紙が大好きという方が未だに多い。お役所などはその最たるものであって、印鑑というこれまた不可思議な物体が神格化され、責任の押し付け合いをするわけだ。組織としての信頼感の表れでもあるのだが、これがいつまで続くのだろうか?

東京では日に日に感染者が増えていく。この流れもデジタルトランスフォーメーションを加速する。大学の講義も大略、その方向に向かって行っている。学生のサボタージュを奨励しているわけではない。きちんと必要な情報を伝達する技術と、理解しようとする熱意のキャッチボールによって成り立つ、これも組織としての信頼感である。

習うより慣れよなのだ。慣れれば良いのだ。ただ、慣れるためには面白くないと、慣れるところまで続かない。面白く無くても続けていくことが大切である。表に出歩くと批判される毎日である。コツコツと学びなおすのも悪くない。何歳になっても手習いが必要である。こつこつ学びたい。そう思う。

新しい事

全てが新しい。そんなことは有り得ない。それは人間が毎日を創造的に過ごしてきたから。創造とは美しい。全くもって素晴らしいのだ。

何も足さない、何も引かないというのは、ウイスキーの原点だそうだ。マッサンで有名なあの人が、それを思い続けて一つのものを作り上げた。この、作り上げるという行為こそ、工学である。

バーチャルでも良いのかもしれない。しかし、一つのイメージを追い求めて、何十年と時を重ねて作り上げた、その形を持った夢の美しさ。小生はそう思うのだ。やはり形が良い。

古いなぁと思う。しかし、古くても良いではないか。黒曜石の刃物の鋭さ。縄文人を現代人は超えていない。多くの分野で縄文人を超えられていないのではないか。文明が怠惰をもたらすならば、発展は決して無い。今こそ丁寧に。コロナ禍を乗り越える。それは今の人間がやることだ。頭と心を使いましょう。それだけだ。