真怪奇談

江戸から大正に掛けての話を様々、書物から学んできたわけだが、幸いなことに、残り2日の精神修養期間が残っているわけで、存分に魂をじゃぶじゃぶと洗濯しようと、こういうわけである。量子力学やスペイン風邪、ヘーゲル哲学なども良いのだが、まぁ、古今東西、夏には怪談であろう。

残念な事に、蘇我氏館を鎌足一族が焼いてしまったものだから、国記は焼けてしまい、嘘八百以上に彩られた古事記や記紀という、臍も茶を沸かせないほどの大嘘しか歴史に残っていないという情けない国なわけだが、それでも菅原道真公のご存命の頃から徐々に「正しそう」な記録が見えてきて、道長公の時代になると、複数の貴族が個々の日記に同じ事柄を書き記すように為ってくると、公文書は今と同様に真実は残りにくいが、私文書は正確な記載が残っている。記録としては面白いのだ。

怪談ということになと、江戸頃のお話を読み下すと、あれ?、これ最近、似たような話がTVなどで出ていたぞという事に出くわす。江戸期の書物などは、土佐日記などを上手にパクっていて、それが更に平安朝の物語の「故意」の二番煎じだったりするわけで、本当のオリジナルは何処にあるのだろうと苦笑いしてしまうのだが、怪談は時代に焼き直されてもゾッとするものはぞっとするのだ。悪魔祓いみたいなものではなく、直接的な怖さがある。

漱石のお話などを熟読していると、根津辺りの街角の有り様までが目に浮かぶわけだが、それらが舞台となって、右に曲がって真っ直ぐ行った先で車を降りて屋敷に入り、その入った人は幽霊でしたという、様々な形に化けた「お化け話」を明治期の文章に見つけると、古来、日本人は変わっていないなと恐怖の筋に安心するのだ。怪奇談よりも現実のほうが余程怖い。それは間違いないのだが、じっくりと活字に触れながら、実社会の怪奇にどう取り組むかをじっくり考えるとする、そんな過ごし方がこの時期は良い。そう思う。

自分

あれっと驚く、いや、そう思う。驚くのではない、意外だなと思うことでもない、さっきと違うことが起こると、あれ?何故なのだろうと思っても悪くは無かろう。そう、何故、予測、嫌、思っていたこととは異なる事が目の前で発生するのであろうか。他人が介在すれば疑問に抱く必要はない。自らしか居ない、この瞬間に、まるで異なる未来が現れる。驚くが、愉快と思うべきなのだろう。

安全は前提、安心は約束するもの、確実は確率的に限りなく高く持つべきもの。工業製品の持つべき機能はこんなところだろう。それを威張る。まぁ、威張る。小生も威張っているかもしれない。でもそれば何の価値もない。100年前に生まれた量子力学が語っている。確率であると。電気的信号のやり取りが途切れないから偉いと言う。ばっかぢゃなかろうか?少なくとも二十歳以下の諸君にとって絶対なんぞ求めているものではないし、価値などゼロだ。

思いもよらないものが正しい。機械が精緻に動いて予測の通りのものが出来る。所詮、過去の頭脳が生み出した産物だ。感動はない。あり得ない素晴らしさこそ「求めもしない感動」であって、予測し、求めたものに価値があると思っているそこの人、退場して下さい。もう、要らないから。

師は語っていた。配列があって確率がある。小生はその時に語って怒鳴られた。配列も連続も無いからこそ、電荷の無限遠の意味があるのではないかと。宇宙が広がりを持つのではないかと。その怒鳴りと対抗にこそ価値があると思っている。誰も正しくも間違ってもいないのだ。発想があって永遠の確認がある。それを認めるだけではないのか。所詮、目に見えないウイルスに怯えているだけの人類である。次が来るだろう。

過去帳

お盆のあたりである。妙な言い方であるが、お盆だから許されよう、いや、単に戯言ということだ。研究室に所属してから初めてと言って良い夏休みを頂いた。頂いたと言っても、職場が定める3日を除いては、余分に3日間頂いただけだ。この三十年で3日間の休暇を、何故、文句を言われるのか?まぁ、言う人は仕事をしていない、企画を立てたことのない方でしょう。どうぞご自由に。

そんな方々はどうでも良くて、居眠りで見た夢である。亡くなった長男のことは、母は頑なに語らず、いや、長男が亡くならなければお前は居なかったとは年柄年中の繰り返しではあったのだが、割れた写真立てのガラスの話とか、まぁ、そんなもんでしたよ。それがうたた寝の途中、父が現れ、母が現れ兄を想い出せという。

何ともお盆らしいのだ。そう言えば、命日が何時だとかそんな話は聞いたことがない。聞いたことが無い事を夢枕に立たれると、これは気になるのがお盆というものである。40℃の灼熱の外気に晒されて、買い物途中にぐったりとするわけだが、夢枕には勝てないのだ。虚ろに過去帳を見る。成る程と思う。

お盆とはそんなものだろう。自らの歴史だの何だの自惚れても、先祖からのバトンである。何だか愉快である。それもまたお盆である。まだまだ読むべき本は沢山ある。過去帳もある。自らが其処に記される日が来るのだろうか?未来帳というものがあれば覗いて見たい。そんな気になった。

お盆に想い出す

膝をついて草をむしると、そのむしられる側の植物は背中の上に青碧と葉を太陽に照らして、風の音すら遮って、無限の彼方の洞窟を見せる。それが農業というものだと伯父から教わった。桑の葉を摘めばそれは絹の価値を生み出すということを知らず、ただただ辛いだけの農業ではあるのだが、膝を付き、方を落とし、黙々と、そう、誰も居ない、そんな閑居の中、一歩々々前に進むのだ。それが雑草と呼ばれてしまっている、育てようとしている植物以外に与えられた氏名のものを駆除する行為だ。

あの時の光景は、もう、何と語れば良いのか。その価値も教わる事無く、ただただ、大本営発表の如く、大日本帝国銃剣道最高師範の元、泥にまみれ、守るべき植物の根本をはい、染み出した水に口をあて、喉の乾きを黙らせる。それが農業である。いや、何を言うまい。こんなことを語ると、ビジネスとしての「休日がある農業」従事者に手を挙げる者を減らすと激怒されよう。

ヒルが居て、じゅくじゅくの大地の中に膝をめり込ませ、噛みつかれてヒルがどんどん太っていく姿を見ても、嫌だと言えない世界が、ほんの少し前にあったのだ。かたや、物理学は100年進化していない、大学教員は共同研究などゴミ野郎だと息巻く方の、目尻が釣り上がる怖さと対峙せねばならぬ。それが今の世である。秋田の果に、思えば遠くへ来たもんだと言えるか言えないか。

なぁんて難しいフリをして、単に、この、お盆の時期にマーケットに行くと、墓地まんじゅうを買って、いや、その行為が輝いていて、ご先祖がいらっしゃって素晴らしいと思う次第。そのご先祖を思ったら、銃剣を突きつけられ、ヒルにまみれた沼地で草取りをした、そんな時を思い出しただけだ。エアコンが効いて、繰り返し学べて、だからなんだ。いや、もう、申すまい。それが今の時代であろう。雨が降ってもヒルなど居ない。そんなもんだ。

だからお盆

お休みの間に戯言は無いだろうというのが流儀であるが、お盆だけにいろいろとある。何があるって、夢にご先祖が出てきて、あれやこれやと喧しい。琵琶湖を朝日を背負って眺めていると「何故、土を売り歩かないのか」と物部氏の方々が夢枕に立つ。その頃は東岸は湿地というか水の底で、鈴鹿の裾野は水の中であったわけで、藤原仲麻呂さんが居を構えていた、今で言うなら大津の辺りのちょっと土地が高い辺りは、まぁ、人が住めたでしょうよと、そんなところでございますよ。

2000年の名古屋水害を時々思い出すのです。助教授に成りたてで、当たり前だけれども一週間に宿舎で横になって眠るなんてことは、まぁ、一月に1日も無かった頃。というか、研究馬鹿で面白かったですからね。f電子がどうたらこうたら、まぁ、そんな毎日でしたよ。その頃に突如というか、コンクリートの建物の中に居たのに1m先の人との会話が出来なくなった。叩きつける何かがあった。そんな勢いであった。思い切ってというか、無理をつんざいてというか、学生君が鶴舞駅まで行って「地下鉄が水没しています」と、結局、研究室で朝まで「熱電対の近似をするにはどうしたら良いか」という、おもしろネタを語り合ったのを覚えている。

面白いのだ。電子の運動を見てきたように、当時は黒板しか無くて、黒板に向かってあれやこれやとやりあって、そんな時代は二度と来ないのでしょうね。キーボードを叩いたら、画面が教えてくれる以外は「嘘」と思っていらっしゃる方々と、湯川先生が廊下の彼方から名前を絶叫して「話を聞け!」とそんな物理漬けの世界の住人とは、生き様がまるで違う。彼岸のあっちとこっちよりも差が大きいのだ。

お線香を仏壇に手向けた。それは当たり前なのだが、昨夜、夢を見たのだ。父がジャズのレコードを持ってきて、まぁ、楽しめと言う。デンオン(DENONではない)が放送局向けに作った機械に乗せ、純銀の音響ラインが奏でる楽曲に惚れ惚れして目が醒めた。部屋の掃除中に偶然にその父の写真を見出し、やはり、これがお盆というものだと感じた。殴られた想い出だけの父だが、これがお盆である。納得である。

お盆

じっくりと活字に没頭できる。何という幸せ感覚か。他の知識に触れ、自らの思考に拠って知恵に変化する。それを智慧に昇華させねばならぬが、それは閉じた個で醸成されるものではないからほったらかしておく。このほったらかしばかりが社会活動になってしまっていて、「入り」が無いのが日常となってしまうのがよろしく無い。民度の低さを実感してしまうのだが、お盆という日本の伝統芸能のおかげで、久しぶりの「入り」が体験でき心地よい。

きょろきょろと辺りを見渡すと「入り」の時は宝物であったが、いつの間にか想い出になり、そしてゴミと化している物品が山のようにある。時々、気が狂ったように廃棄するのであるが、ゴミがある内は生きている理由を与えられたような気がして、一気の断捨離はしないようにしている。いや、これも負け惜しみというものだが。ふと、メインスピーカーの上に小冊子を見出した。何と2008年3月の出版である。パラパラとめくってみる。

するとそこに某有名私立大学のWeb講義のネタが出ている。流石と感じたのは「Web講義だけで学問を身につけられる者は少数であることは解っている。重要なのは質問を誘発することで、その質問に丁寧に答えることである」と書かれている。対面講義であっても、講義終了後、質問しに教壇まで攻め入ってくる学生は、定期試験によって理解が成されていることを知ることが出来る。質問しに来た学生の顔は覚えるし、例え100人を超える試験会場であってもその彼を見出して、見回りに行くから間違いない。

質問力こそ知恵であり、それがいつかその彼の智慧になる。智慧は実となり、いつか誰かの心に入り込み「入り」による芽生えを待つのだ。対面授業だとかWeb講義だとかの「入り」の形式が問題ではないのだ。その中身が「入り」に相応しいかどうかである。世界を見渡せば当たり前のことが出来ていない。先祖に感謝して線香の一本をあげる。 受け継いだものが何かあったのだろう。それが「入り」ということだと思う。何か智慧に繋がったか?それは自らが反省し心を断捨離していって最後に残って見つけることに成るのかも知れない。そんなことを思ったお盆である。

未来から帰ってきたら?

そろそろ陽が暮れる頃のことだ。35℃を超える気温で、国内が賑わっている時刻だ。グリーンランドの氷河が拡大しつうある頃であれば、20℃を超えたらびっくり、それが今や、30℃を下回ったら病的に思われる地球である。この地球規模のお話が面白いではないか。

たまたま、遠方より来る方と、とある古い映画を見て、二人で「成る程」となったわけだ。温暖化がどうのこうのというわけではない。朝起きて夜眠る。その間に、今のリズムと違うことが発生したとして、その時、我々は何を次の世代のために成すかを考えてみただけのことだ。

綺麗事では無いのだ。今、小生がお伺いするお話は、全てが「綺麗事」なのだ。結果だけではない。その人にとって綺麗事なのだ。威張って蹴散らして、自らが偉いとふんぞり返る。それが今の方々であって、歯を食いしばるなんて古いことは何もない。単に、お前達は要らない種族だと威張るだけだ。

だったら、どうぞ、お代わりなさいな。ホモサピエンスが勝ち残ったの如くの栄華を見せたらよろしい。それは美しい。そう思う。そしてそれを目指したいが、時間軸は進んでいるのだ。時間という物理定数は容赦ない。貴方の年齢が主人公では無いのだ。どうぞご自由にとは、小生は言わない。100年後に会おうではないか。それだけだ。

お盆

先祖との会話の時である

静かに自らの毎日を見つめ直すことが出来る

生きる、死ぬという単純な線引きではない

ぐっと、握りこぶしをご先祖と共有できる、それがお盆だ

100歳時代考

明日が今日の延長としてやってくると思っていると、突然、足元をすくわれる。海外ではよくある「もう、今日まででおしまいだから」という一言で、次の職場を探さないといけなくなる。今日、年功序列だの、終身雇用だのという制度は無きに等しく、内定なんてものは無きに等しく、まぁ、そうだったかもねと、はしごが突然無くなったりする。外されるどころか、気がついたら戻る場所がなくなっているなんてことがよくある。

ミッションを達成していれば、まぁ、青天の霹靂確率は30%程度に低いものだろうが、それでもその程度は常に覚悟をしていないといけない。小生とて常にそれは感じているし、明日、どうやって食いつなごうと常に身構えているというところが本当のところだ。あやうい身分であるのは間違いないのだ。それは誰しもがそうなのだ。

とあるところで「人口が減って、人生100歳時代なんて言われるのだから、勤務延長が伸びに伸びて、ずっと同じ職場に居られるのですよね」と魂消た意見を仰る方に出会い、度肝を抜かれた。人口減少が続き、前年度から50万人も減少する国である。人口減少が前提となって心豊かな人生を歩める方向に舵が切られて行くだろう。それは高齢の方が延々と若い感性が必要な職場に居続けられるということではないのだ。

昨日からお硬い戯言になってしまっているわけだが、要するに地球的俯瞰力から自らを客観視しましょうよということなのだ。自分の価値観で、他人の目のふりをしたとしても、それは自らを見つめ直していることにはならないし、自らの定規で目標を設定してそれを達成しましたと言われても、あぁそうですか、それは組織の方向性とは違いますねとなるだけなのだ。自己満足は要らない。想像できる他者満足も要らない。黒子の意味を考えてみるのが良い。それだけの話である。

やんちゃ?

もっと頑張れるはずだ。そう思うならば別のステージで頑張るのが良い。いやいや、まだまだだと思えば、その場でもっともっと踏ん張れば良い。ただ、まだまだだと思う基準が、自分だけの汗の多さだったりするのであれば、それは基準の見直しが必要だ。課題を見つけてそれを解決する企画を作りました、それを達成しました・・だから何?ということだ。あなた無しでは提案出来ない企画はなぁに?それが企画である。課題発見能力や解決能力は日々の生活で既に会得しているでしょ?それを評価しろと言ってもねぇ。

芝生の広がる広い公園で、さぁ遊んで良いよと言われた途端に走り出す子と、座り込んでつまらなそうに何かを食べたいと泣き出す子と。後者が圧倒的に多い気がするのだ。行き先が決まっていれば歩けるけれど、さぁ、何処に行っても良いよと言われた途端に、人の目を気にして何もできなくなる子。まぁ、後者の子供が多いから、親としてみれば、親同士でひたすら話し込んでも、子供は公園の柵を飛び出すこと無く、安心していられるのかも知れない。素晴らしい調教ぶりである。

三つ子の魂百までだから、大人になれば変わるでしょと思っていても変わらないのだ。やんちゃな大人は、子供の頃もやんちゃだったのだ。傍から見れば小さいが、当人にとっては大冒険の繰り返し。髪の毛が何処かに挟まれば、ガリバーが縛られたシーンを思い出して、もう、意識はファンタジーだ。ファンタジーと言えば電脳の仮想空間の中だけと教え込まれて育ってしまえば、見せかけの企画づくりに終止するのでしょうね。

ゴールが見えた途端に走り出す大人。ゴールを夢見て突き進む大人。子供の時から決まっていると、そう決めつけてしまうと見も蓋も無いわけだが、実際のところそんな気がするのだ。「こんな世界だったら素晴らしいのに!」と心の底から湧き上がる想いこそ課題であって、イノベーションである。その想いを描けるか、課題を発見するだけか。そんなところに日本の行く末が見えるようである。