断絶

輸送用機械の赤字学が8700億円超えで、運輸業に至っては1兆円超えの赤字である。失業率が6.2%ということであるから、これはとてつもない数字であると言わざるを得まい。ただ、これはコロナ禍だけのせいでは無かろうと思うのだ。当たり前の事を後ろ倒しにしてきたことが、急激に表出しただけのことだと思う。身の回りで変だなと感じることは、間違いなく変なのだ。こんなはずは無かろうと思うことはきっとそうなのだ。

大学というところは奈良時代からあり方は随分と変容して、官僚を育てるだけの場所では無くなっている。まぁ、それは人口も増え、将来進むべき場所に置いても、得ていなければいけない知識が膨大に増えたからということなのだが、我が国において、その膨大に増えた知識を十分に体得出来て実社会での実践に直ちに役立つのかと言えば心もとない部分が多くあると思っている。社会ニーズの指数関数的な増加をどのように先取りしていくのか。特に、情報を扱う分野においてそうだろう。

全世界で同じエアコン、TV、冷蔵庫、自動車を求めていた時代は、世界中の工学部が同じことをやっていれば良かったのかも知れない。それでも春、秋の学会では発表内容はべらぼうに進化していたし、関わっていたシリコン半導体で言えば1997年にご法度だったシリコンと銅との融合、所謂象嵌(ダマシン)技術がIBMから発表された後から、それこそ指数関数的に集積度は上がり、プロセスの困難さも高くなり、それでも様々なプロセス技術の精緻化が進み、情報分野の進化に追いつこうとあがいている。これを地道に教育できている機関がどれだけあるのか?年寄りの教授以外、やっていない現状が恐ろしい。

産業の中核が情報を産み、扱うところになってどれだけの年月が経つか。それなのに我が国では遠隔授業となった途端に小学校では何も出来ませんというだけではなく、大学でも四苦八苦だ。最早、旧態依然に戻ってはならず、税金の投入先も自ずと決まってくる。思いきらないと世界社会と断絶されるのでは無かろうか。そんな恐怖を感じる。そんな前記講義がほぼ終了した大学で感じたことである。

隠さない

伝言ゲームって番組が大昔にあった気がする。伝わるうちに違う事が生まれてくるのを面白がった訳だが、結局、今現在、全ての出来事に当てはまるのかなと感じている。政治なんてまさにそうで、マスコミの忖度具合で全てが決まる現状においても、違和感を唱えるマスコミはない。

消費税を上げますよと、絶対勝つ状況になって言う。もうこれは確信犯なのだが、国民は皆賛成するのだろう。反対するなら歳を取るなと言われても、こればかりは仕方が無い。足りなくなったら取れるところから取る。誰でも出来るなって、そんな政治である。

大臣が思いついたように何かをいうと、怒涛の勢いで、全てが動いていく。組織的には正しいのかもしれないけれど、てっぺんが辞めると言った組織においても継続される。国民が選んでいない内閣なる存在が、全てを決まる。責任者が居ないのにそれを認める。マスコミは何も言わない。

綺麗な言葉、リズムは怪しい。なんだか解らないけど何か命令されて動く。悩みながらベクトルを決める。決めても変だなと思う。それは正しいのだと感じる。変な事は変なのだ。変と言えない現状は変なのだが、周りが正しいと言うから自分を隠す。私は嫌だ。変は変。変な小生が言えるわけでは無いけれど、悪あがきもしないのに税金をあげると公約する人を総理大臣にする。凄い国だと思う。

遥かなるワクチン

突然暗くなり雷鳴轟き土砂降りになる。映画のワンシーンだなと窓の外を見る。地響きのような雨音に驚かされる。毎日同じ様に繰り返される。

人間は良い加減なものだから、なんだか今年はこんな天気ばっかりだなどだ思ってしまうのだから始末に悪い。しかし、暑かった日々はなんだか短く、ようやくの秋の気配なのだが、ずっと天気が悪かった様に感じるのだ。

気象図を見れば、列島上に秋雨前線が横たわり、梅雨前線がずっと残っていたのかと錯覚してしまう。台風の威力は凄まじく、いきなり前線を連れてくる。極地の寒気を引き摺り下ろしてくるのだから凄まじい。

コロナ禍すら自国の自慢話にしようと言う昨今、人類にも秋風が吹いているなと感じるのだ。元々居たのはウイルスの方だ。後から来た人類の都合ばかり考えてはいけない。遺伝子を悪戯にいじってはいけない。数年後にワクチン病で絶滅なんてことになりはしないかと、しばらくは注射などはしないでおこうと思う私であります。

いちご王国

栃木県農業大学校にいちご学科が設立されます。これには「やられたなぁ」と思った次第。ここまで地域色を出し、特定産品による自立経営者のための学びを「学科」としてプログラムを組む挑戦的取り組み。これには勇気を頂けますよ。勿論、親方にがんじがらめにされている状況に置かれている身において、同様の取り組みは法的に難しいわけですけれど、この思い切りに感動致しましたよ。地域の特色とはずばりこれだと。

各県で同様の取り組みを持ったら、日本に本当の地方の時代が来るのではと夢見てしまいます。地方の時代って、何も国が地方にばんばかお金を落とすことではないですからね。様々な県が、その県の特色でお金を取得しているわけですが、お金が降ってくるからなぁんにもしない、切り株を大切に守っていこうみたいな地方になってはいけないのですよ。自立経営者を育てる教育の仕組みをしっかりと持つ。

教育は百年の計でありますから、直ぐに効果が期待できるかどうかは分からないわけで、そこをとやかく言うようなことが無いことを祈ります。いちご王国・栃木をリードする人を育てるという目標が素晴らしい。勿論、イチゴだけに限ることは無いのでしょうけれど、それを農業経営学科とか、陳腐な命名をしなかったところが図抜けている。ここに「やられた」感があるわけです。

帝国大学が出来た時から、西洋から学理名称を和訳して学部や学科を立ち上げてきたわけです。産業戦略工学なんて結構、ぶっ飛んでいたほうだったとは思うのですが、いちご学科には惨敗ですね。愛知県だったら何になったのかはわかりませんが、国産農産品で健康増進、国民健康保険料が下がるとなれば、これはもう国家的偉業ですよ。健康を内製化する。これこそ国家の基本だと思うのです。それを教育から取り組んだ栃木県に拍手を送りたい。そんな気持ちの私であります。

10号に想う

久し振りに強烈な風と猛烈な雨を体験した。一晩中、雨戸を叩く風に慣れない時間を過ごすことになったが、罹災された地域の皆様からすれば些細な出来事と、自然の猛威の恐ろしさに改めて身を引き締めるのである。油断などするはずもなく、警戒を怠らなかったとしても、自然はそれよりも遥かに大きな力を持って人間を押さえつけてくる。それが本来の自然との対話ということなのであろう。

太陽のエネルギーと地球の自転の力、水分を含んだ大気の力、様々な合力に人間とその創造物が勝てるはずもなく、逃げるが勝ち以外の選択は無い。この10号に関して言えば、気象庁の異例とも言える早期のアナウンスに、これまた異例と感じた多くの方々の早期避難に思わず素晴らしいと頷いた。そう、それしか無いのである。そもそも台風にどうやって立ち向かうのか。あり得ない話である。

ところで、災害に強い都市とか、ダムを沢山造ろうとか、今回のような大災害の後にマスコミが騒ぎ立てるのだが、最早、温暖化前の対策というか、この程度で大丈夫であろうという概念は捨て去るしかなく、そうかと言って、巨大な堤防、ダムを造るというのもどうなのだろう。防潮堤を嵩上げしようとか様々な事が言われるのだが、そもそもそこに住んではいけないのではというところに、余りにも大勢が暮らしていらっしゃるということではなかろうか。

大昔の神社が鎮座されている。古墳が残っている。それは無数の災害を乗り越えて残ってきたということだ。その土地のあり様、気候風土との関係を、首を垂れて学び直しては如何か。アスファルト道路の下も空洞化が進んで、陥没の危険が迫っている個所が1万個所以上あると聞く。「安心」して暮らせる街に住んでいると信じたいのにそれがままならない。今の日本はそんなところだろう。

自然の猛威

時々刻々と変化するという状況をビジュアルで体験するのはなかなか無い。からっと青空、昼過ぎから雲が飛び始め、夕刻には鼠色の空になる。風も湿度を含み、細かい雨も混じってくる。東海地域に在しているから窓ガラスにテープを張る程のことは無いが、妙な空模様に緊張する。そんな昨日であったわけだ。昨日の午前中、ちょっとした理由でホームセンターに立ち寄ったのだが、駐車場は満車で、水だの何だのを求めていらっしゃる。備えるということは重要なことだ。

自民党総裁選挙なんてのを並行してやっているはずなのだが、その人達の、国民へのメッセージなどはTVやネットで全く乗ってこない。言っていないということもなかろうが、恐らくは次の首相になるひとなのだろうから、非常事態での自らの方針がどんなものか聞いてみたかったのだが、残念ながらアンテナにかからない。ふぅぅんと思う。なるほどね。そんなもんだ。票は持っていないからね。それだけのことか。

数億年前のお話で恐縮だが、地球が凍りついた後、火山噴火の炭酸ガス濃度の高濃度化によって一気に温暖化が進み、強力な台風が海底までかき混ぜたと言われているが、その時の台風は600hPa級であったそうな。今回の台風と並べて考えることも出来ない。それ故に生命が爆発的に種を増やしたという。巨大台風のお話を聞く度にそれを思い出すのだ。今回の台風は、生命の分化を生じさせる程のパワーなのか。

なかなか出会えないパワーである。自然災害の猛威と書いてしまうと、極めて安直に思われてしまうのだが、そんなことはない。自然の力の源は、何と言っても太陽なのだ。あの輝きが発生源と考えれば、人間などは何をやってもかないっこない。かないっこないなら普段からの考えようがありそうなものだが、小手先の平穏を守ろうとする。違うのだろうなと解っている。解っているが、自然に戦いを挑む。もう少し賢く成れないだろうか。コロナだって自然だ。台風や地震と同じだ。そんなもんだろう。

台風10号に思う

9月に入ってもまだ10号であるが、一つ一つがパワフルだったりする。地球が受ける太陽の力、自転力等々、様々な力が相まって生み出されるその怪物であるが、今は、人工衛星の恩恵を受けて、発生した所も解るし、シミュレーターによってその進路はかなり正確に導き出される。こんな予測は認めたくないと怒っても、それこそ何にもならない。自然力には勝てないのだ。

九州の西側を通過していく予報に為っているわけだが、微妙に東側にずれてきたりすると、東海地方にも大雨をもたらすかも知れない。来週の月曜日あたりが怪しく、危険を感じたらリフレッシュ休暇を取得するのも、年休を取得するのもありである。御身大切が一番である。無理は禁物。道理を大切にして無理は避けねばなりません。無理を通せば通りが引っ込む。無茶と無理は違います。

奄美大島の辺りでは915hPaが予想されているのだが、これは相当に低気圧である。ポテトチップスの袋なんかはパンパンに膨らむでしょうし、その時にきっちりしめた瓶などは開かなくなったりしてね。減圧調理とか良いのかも知れない。台風の時にしか作れない料理なんてのも、世界中探すとあるのかもしれないが、暴風雨の中、呑気にフライパンを振るっている人がどれだけ居るのか謎である。

ここのところ数日、新しいモノづくりにちょっかい出しているのだが、かなり良い感じのところまでは来ているのだが、後一歩、その一歩が難しい。じっくり腰を据えてというわけにもいかず、じれったいったらありゃしない。思考の時間は必要だが、それが許される立場に無いのは解っているのだが、頭の体操よろしく、精神衛生上に必要ということで僅かな時間でも装置とにらめっこに成る。昨日よりも今日、何かを良くしたい。そう想って思考する毎日である。

遥かなる明朗会計

ふと思うと、既に9月に入っているわけです。従前、8月と9月が夏休み月間で、今がチャンスとばかりに学会活動、執筆活動に打ち込んでいるわけですが、今年度は講義の開始が遅れていることから今週末で講義修了の日程となっています。社会が熱波に包まれていて秋の気配は虫の声だけでありまして、夏ムード満載なのですが、週末辺りに台風がやってきて秋風が吹くのかなと思うところです。

日本の遥か南方に成長を始めた台風が、30℃以上の海面上を成長しながら進んでくるそうで日本列島を直撃するかかすめるか、数値計算のばらつきはあるわけですが、列島上空の空気のミキシングはしてくれそうだなと思っています。海面からの水蒸気をしこたま吸い込んでやってくるわけで、進路予測に入っている九州地方の皆様にはくれぐれも命大事に行動をして頂くことを願うばかりです。そしてきちんと国が命を守る対応をして欲しいと思っているわけです。

自民党総裁候補者がどのように選ばれるのかなと思っていたら、森首相の時ほどひどくは無いにせよ、地方の声を聴かないよという姿勢で突っ走るという、結局、その方が総理大臣になられても、国民は知らぬ存ぜぬでいくのだなというのが見え見えで情けなくなるわけですよ。国民の声って、そんなに自民党の方針とずれているのかなぁと、まぁ、そうなのだろうなぁと感じるわけですが、いやいや、いつも言いますが、圧倒的多数で選挙で勝たれるわけだから、国民が望んだ方向性を受け止めないといけないなと感じるわけです。

戯言ですから、大仰なことを更に大袈裟に語るわけですが、実際のところ、税金をきちんと使って頂きたいというのが素直な願いなのですよ。税金が高くなっていくのは、高齢者社会になっていくわけだから、福祉を考えればそれはそうだろうとは思うのですが、コロナ助成金がフェラーリに化けているような話を聞いてしまうと、うんざりするわけですな。税金の使途がクリアな国にならないものかなぁと、例によって大袈裟な話をするのですが、少なくとも機構においては明朗会計、オープンなやり方を変えるつもりはさらさらないのでご安心を!

前向きな企画を

突然、大雨になる。秋が近づいてきたなと感じるのだが、その振りっぷりは、その昔の夏の夕立、馬の背を分ける勢いだ。何やら音がするなと外を見ると、昼の暗闇に雨を弾くアスファルトである。そのまま涼しくなるわけではないが、熱帯夜の状況からは少しは外れてきたかなとほっとするのである。例年のこと、季節は進んでいる。当たり前のことと想いたい。

身の回りに当たり前が減ってきている。突如として天から新しいルールが降ってくる。その都度、腹をくくって対処案を出すわけだが、あくまでも対処なので、こちらの対処をやっつけるのがお上の対処であって、対処のやり合いになって真に疲弊するのだ。そんなことは知らないと言っていられないわけで、なんとかしなければと思考するわけだが、独り善がりでは何にもならない。

既に9月に入っているわけで、次年度に向けての仕掛けが猛烈な勢いで動き出している。仕掛けは毎年大掛かりになるというわけではなく、姑息になっていくから始末が悪い。その姑息な仕掛けに掛かってしまうとさぁ大変だ。泥鰌など出てきてくれない。一緒に脳天逆落しに成る。良くもこんな事を思いつくものだ。苦笑いである。

それは素晴らしいですね!という明るいニュースを最近聞かない。地雷原に放り出され、地雷を踏みまくってのたうち回っている気持ちに成るのだが、そこで滅入ってばかりはいられない。新しいことに常に挑戦しなければならない。新しいことは生み出さねばならず、生みと育てる苦しみを味わって、次の海の苦しみを想像するのだ。新しくないといけない。どんなに小さくても良い。新しい企画があれば元気になる。卑屈未練な企画が東からだけで沢山だ。そう実感している。

修学を想う

金が足りないから増刷して事を成すのであれば、それこそ誰にでも出来る。省庁横断型のチームを作ってやりたいことをやってみるとけしかければ、それは動くだろう。お金を投じたら何でも出来るという事でもない。解りきったことだが、お金に頼ってしまうのですな。お金は頼られるものであって、頼るものではない。

修学という言葉がある。学習とはまるでちがう。そこにあるものを理解して、そして次を教えて頂くのが学習であって、積み上げ型の講義がまさにこれですね。何かの技を身につけるなどもこれに当たる。修学は、事柄を理解して、それを体系化することである。おさめそれをして真理を求める。それが修学である。修学は遥かに遠く、とても生きている内に到達出来ないが、まぁ、学習ならなんとかなるかもしれない。一向に歴史を学ばない方がお金を持つのだから始末に悪い。

昨夜、自転車で帰宅途中、北の空が激しくフラッシュしていた。最初は光だけであったが、かすかな雷鳴が聞こえるようになってきた。岐阜方面は電車が止まるほどの雷雨であったのだが、隣り合わせの県なのだが、乾ききった暑さがつきまとってくる有様である。ぐずぐずしているとひどい目に会うのが最近の空模様であるから、そそくさと逃げる。雷に打たれるのも好みではない。

人の都合で自然界に無いものを作り出し、便利だからだと更に作り続ける。地球をほじくって古い命を燃やして今の命を繋ぐ。罪深き生命体である。次の国のリーダーはどんな方なのだろうか。その行動は国民を向きながら行われるのだろうか?そろそろ真剣に政治を行って頂けないだろうか。私利私欲はもうまっぴらだ。そう思っている。