遥かなるニューノーマル

ニューノーマルという、改革だらけの毎日を送っていると、何を今更と言いたいわけだが、どうも世界では使われているらしい。日本の何にも変わらないニュースバリューを見ていると、明確に変化していることが分かる海外のあり様が羨ましい。今頃在宅勤務のルールを作りたいとかね(鶴舞大学ぢゃないよ)。定常的に在宅勤務が成されている状況における、メンバーとのパートナーシップとかね。考えるところはいろいろある。

職場としての生産性ということも重要なのだけど、アウトプットが明確ならば、それがどれだけのコストで達成できるかということなのだけれど、ゼロから何かを生まないといけない場所においては、まぁ『ワイガヤ』のパートナーってのも必要だったりするわけだ。画面越しでワイガヤをやってくれる人が居ないのですが、思考においての雑音ってことなのかもしれないけれど、良い雑音は思考力と共鳴して新規発想が出てくるツールとなったりします。ニューノーマルにおける『ワイガヤ』ってどうしているのだろう。

集中して在宅で仕事をずっとし続けて、給料は出ない土日を全部潰すなんてのは当たり前なんだけど、それはそれで好きでやっているので、個人的には問題無いんですけどね。パートナーが職場的に定量評価される時代なわけで、その評価手法が過去のまんまで旧態依然だったりするんですな。ちっともニューノーマルではない。評価手法こそ劇的に進化する必要があるわけだが、ひたすら遅いわけですよ。

ストレスマネジメントに優れているとか、メンタルが強いとかね。非財務事項で採用するとか契約を延長するとか、真面目に協調性があるなぁんて、そりゃぁそれはあった方が良いかもしれないけれど、すんごく尖がって、ゾーンに入るとべらぼうに凄いとかね。ニューノーマルと言いながら旧ノーマルに囚われて過ごすことが安定で良いという価値観に覆われている状況をなんとかしてみたいなと思ってはいるものの、ルール作りという旧態依然の仕組みにやったり囚われる私であります。

18駅の廃止

北海道で春のダイヤ改正で18駅が廃止されるという。鉄路を使う旅はとても豊かなのだが、経営する側に立ってみれば、秘境駅を抱える状況は厳しいし、綺麗事で「旅情をそそる企画を考えろ」と言ってみたところで乗用車で移動する顧客を奪い返すことは極めて困難。毎日の通勤通学客が居ない時点でアウトだよね。1路線の年間乗降客が、東京の地下鉄の1日の乗降客より少ないという状況では救いようがない。

あぁ、ここに鉄道があったらなぁというところに出会うし、ここの線路を無くさなければ良かったのにと思う場所は沢山ある。しかし、やはり経営となると厳しいのだ。維持管理に莫大なお金が掛かるわけで、乗車賃だけでまかなえるはずはない。国・地方の助成が無ければ成り立たない公共交通機関のあり方はどうあるべきか。何となくなんだけど、少子化によってどんどん若者が減っているのに、数が増え続ける大学との関係に似ていなくもない。

法人化されてから、国からのお金で経営が成立している大学などありはしない。様々なところからお金を頂戴し経営が成り立っているわけだが、それとていつまで保つのか解ったものではない。国は安直に統廃合しろと言ってくるが、教育ってそんなものなのですかねと言い返したい。国家百年の計である。顧客が居なければ潰れろという企業理念で猛進して良いのか?レミングの集団自殺にならないか?

国を支え、世界で平和に暮らしていく為には教育は必須なのだ。一つの国だけで生きていける世の中ではない。単に記憶を競い合うだけの試験で、職が決まる状況もおかしいのだ。ただ、社会を説得できる、強烈な個性が必要だし、無意識の欲求を満たす意味も必要だ。単に、研究に邁進している大学というのであれば、他にもあるよねと言われてしまう。鉄路の廃止と大学の廃止。似ている。あがかねば。

フィルターバブル

基本、性善説で生きているから美国の大統領の訴えが納得できないわけだが、逆に、AIを使って情報に接する人間の趣味や嗜好に加えて、精神状態まで加味したうえで上手に特定の情報だけが伝わるようにすると「大衆はそっちに向く」ということが起こりうるわけで、それを専門用語で「フィルターバブル」で包み込まれた人の行動であると、既に研究がなされて事例までが上がっている。目の前に展開している情報は真実なのだろうかと頭を抱える。

頭を抱える出来事が次から次へと発生するからなおさらなのだが、従来というか、ひょっとすると大昔からそうだったのかもしれないけれど、意見が違う人があれやこれやと議論の末に何処かに落ち着くのだけれど、それも想定の範囲内だったりしてね。良い議論だったなんて思っているのは自分だけで、他所から見ると「してやったり」ということなのかもしれない。誰かを貶めるなんてことにAIが多用されているのではないかと勘繰ってしまう。

フィルターバブルにまみれた人は虚偽しか耳に入らない状況になる。モーターさえ使っていれば地球に優しいのだと、他国では通らない理屈で生産が認められた自動車があったなぁと、これも特殊なバブルが政治家諸氏の耳を覆ったのであろう。日本は永遠に石油を燃やす国として記録に残るのだろうなぁと、過去の実績にしがみ続けるのだなと、エンジニアの端くれとして悲しく思う。

GoToキャンペーンで感染が広まった証拠は無いと断言されると、まぁ、そうだろうなぁと思うのだ。ただ、ヨーロッパ諸国の様に、期限を切った思い切った措置が無いと、このまま死亡者数が重ねられていって、新しい活動が出来ない国って、厳しいレッテルを貼られるのだろうなと感じている。少なくとも妄言で他者排斥は絶対にしてはならない。その信念は揺るがない。陽はまた昇る。そんなもんだ。

自己

徐々に朝が寒くなってきていますな。鶴舞に到着する頃はまだ真っ暗で、東の空が白んでくる前の状況でお仕事開始というわけです。自転車で長旅をするわけなのですが、明治時代の地図を頭に入れて走ってみるとこれが面白い。戦国時代の城跡なんてところもあり、その近くには水源があったりしてね。お寺はきちんと残っている。お寺や神社を軸に街を見ると、お城の周りは湿地だし、お寺や神社は山の手にある。神社や寺を結んで走れば尾根伝いになって、無駄な上がったり下がったりは避けられるというものだ。

八事の周辺は、その昔は興正寺しか無かったわけで、道はろくすっぽ無かったわけですな。それが今のような様子になったのは戦後であって、戦前の野球場の跡地を見上げながら鶴舞に向かうと、そんな時代もあったのだなぁと、街の変遷は実に愉快である。いりなかの「いり」なんて巨大な溜池からの水の汲み出しパイプのことだしね。今では大きなマンション群が建っていますが、江戸時代は池だったわけで、大きな地震など来なければ良いのにと思ったりするわけです。

この季節であっても、6時前、1分遅くなると、車も人も倍になる。自転車通勤はどんどん恐ろしくなる。夜に戻る時は、まぁ、自動車も渋滞していてそんなにスピードを出していないわけですが、夜明け前などはぶんぶんと飛ぶように走っているわけで、恐ろしいったらありゃしない。真っ黒な服を着た人々の散歩も恐ろしい。道路の端を歩くなんてしてくれないですからね。スマホを見ながらあっちこっちへよろよろと。

来週の頭当たりから北極の換気が流れ込んでくるそうな。何度も言っていますが、温暖化になるほど寒気が広がって寒くなる。寒い冬は温暖化の証拠などと言われてもピンとこない。理屈はそうなのだけれどね。AIが予測する未来は、真実だけではなくて、人を思い込ませる予測もどきも出来る。そんな時代に自己を確かに持つということをし続けることが出来るか。真冬の寒さに戦いながら、ずっと自転車を漕ぎ続けてきたが、自分はしっかりしていても残りの人々がね。まぁ、自分は変わらない。それだけだ。人の足を引っ張る奴は信じない。それだけだ。

腰を引いて良い

数年前にインドネシアに出掛けたのですが、マラリアが今も日常的に感染する確率が高い地域なわけですが、地球規模で見渡せば人類が克服できていない様々な病があるわけですよ。感染症に罹患する恐怖は、働き方へのプレッシャーが高いと思うのです。病に取り憑かれることが許されない空気感、職場感があるのでは無いかしら?近代的スピード感ある職場において、限界まで人数を絞って働いているわけで、欠けることが許されない雰囲気が重症という状況を作り出しているのではないか?

たまたま見ていたTVの中で、保険関係者が「90%の人は重症に成らないのだから、入院しようなんて考えるな」という人の心を踏みにじることを力いっぱい語り、それを報道している状況に背筋が寒くなりますな。自分が感染してみたらどうなんですか?と聴いてみたいものだ。身近に肺炎で亡くなった人がいたのだが、「酸素が欲しい」という叫びは耳から離れない。そんな人に「入院するな」って言うのでしょうね。

ふと思ったのですが、生命種が一定数に到達すると、その種は滅んでいく。大略数億年の年月で滅びゆくものなのだそうで、人類はまだ一千万年レベルだからまだ大丈夫という理屈があるそうで。でも、サピエンスの数は、恐竜の数千倍にも至っているわけだから、その分、期間が短くなってもおかしくないのではないか?なぁんて思ったのですよ。となると、そろそろ絶滅期に入ったとも考えられなくも無いのか?ネガティブなことは考える必要は無いのかもしれないけれど、「たかが風邪」とか言っている割には厳しい状況の気がするのだ。

小惑星に行って土砂を獲得してくる。月を耕してくる。でもそれは1960年代に完成している技術の応用であって、新規に何かあったかと言えば、それは無い。無いから帰ってくる。挑戦があったら確率はぐっと落ちる。ほぼ100%という数値であっても100%では無い。まだまだ「慣れ」てはいけない新型コロナである。おっかなびっくり。それで良いです。

会議の持ちよう

全く異なる素地の方に真っ向から意見を言っていただいて、そっか、そんな考え方は良いなと思える時は快感である。不快な後ろ向きや『アンチ他人』的意見ではなく、建設的反対意見。いや、反対ではない、建設的「建設意見」であって、おぉなるほどと思う。そのための原案、たたき台であって、見事に叩いていただくと、それはそれは愉快ですな。そこに参加して頂いているメンバー全員が前向きであり、不満も仰って頂ける間柄は有り難い。

アンチ他人はいかん。自らの幸せよりも他人の不幸を喜び、幸せを妬み呪うアンチ他人的生き方が何故出来るのだろう?小生的には全く理解できないから、思いっきり困ってしまうのだ。有識者は「聴いてやれ」と仰るのだが、人生ゲームのボードの上にボーリングの玉を転がしてくる人とどう会話するのか?聴き力ということだが、笑って聴いてはいられるが、その通りに活動できるものではない。

結論有りきの時は余程の時だ。本社が「こうしろ」と言っている時は、どんなにジタバタしてもそうなるのだ。それには納得はいらない。組織はそちらに向かいますという宣言しか無い。そうでは無い時には「この範囲に入れば満点だな」というところですよ。出来るだけ広いスペクトルを持った方々に正直ベースでお話を頂いて、何故?何故・・・を繰り返す。見えてくるものがあれば、それを次のたたき台にさせて頂く。

聴いたふりはする必要がない。これが良い。ある人は「もう決まっているのだ」と意見を言わせた後に平然と仰ったが、それはまさしくルール違反であって、議長の資格は全く無い。それでは会議ではないのだ。変更、付加の余地があるから議論の場を持つことが許される。前向きなどんでん返しは大いに結構だし、好ましい。のほほん、のほほん、一歩一歩である。

真実は?

スペインインフルエンザのことを少しでも学べば、今の日本の感染状態が、最も厳しい第三波では無いと直ぐに気がつくだろう。ヨーロッパ的にも第二波だし、日本だけがミクロな数字の変化だけを追って第三波と決めつけ、これさえ終わればオリンピック実施は約束されたと国民に思わせる手段は如何か?マスコミも政治家の皆さんも、もうちょっと命の尊さを噛み締めては如何か。一度、頭蓋骨でも割ってみると良い。生きていることが奇跡であることが解る。

それはちょこっと置いておくが、経済の失速を防ぐために旅行はしなさい、食事にも出掛けなさい、感染予防はしっかりしなさいと、まぁ、それらに関わる業態の皆様を救わねばならないという理屈は解るが、手法はどうだろう?小生的には愚直に自転車で通勤しているわけだが、これは何もコロナ禍だからということでもなく、ずっと前からそうだったわけで、今は、地下鉄の混雑が不気味だからということも後押しして、自転車旅の毎日である。出張がある時はしょうがないから地下鉄だけど。

自転車で移動していて、街で時刻がとっさに解る場所って案外少ないなと思った次第。経路にも依るのですが、公園に時計台があるところは少ないしコンビニの中にある時計って、道路からだとなかなか見えづらい。何処にあるのだろうとキョロキョロしていると、ぱっと確認出来る場所が、14kmの間に2箇所あることに気がついた。時刻が解ったからどうってこともないのだが、この時刻に成ると自動車は減るなとか、安全に行き来する戦術の一つには成る。情報は有り難い。

このちょっとした情報が有り難いわけだ。公表されている情報が証拠に基づいて正しいのかさっぱりわからない国にいると、昨日は何名の感染者でしたと言われても、それって、様々な細工が成された結果であって、真実では無いのではと思ってしまう。というか、信用出来るものでは無かろう。いろんな情報が獲得されている。後の祭りではなく、今の情報が欲しい。切に願う。

改革

明治19年3月2日に帝国大学令が公布された。帝国大学は国家の須要に応ずる教授研究を行う機関と規定され、7帝大まで拡大されていった。国家にとって無くてはならないものを教授研究するというとてつもなく大きな役割を担っていたわけで、その重要性は弥増しに増しているところである。教授するべき範囲が膨大なものになっているが故だが、今のままでは宜しく無かろうと感じているのは事実でもある。

いや、何も帝国大学云々というわけではなく、星の数ほど増えた大学がそれぞれ好き勝手に何かやって良いのかと言いたいだけである。私立大学は創立者の理念がべらぼうに強く働くわけで、どうぞご自由にということなのだが、税金活用大学ではその言い訳は通るまい。自由勝手が学問であるなんてお話が通る筈は無い。

それぞれの大学がどんなポジションかを選ばせて頂いて、その中でミッションを定義して、それをきちんと達成していますかという評価を受ける仕組みだが、全学全体をきっちりと見渡して、定量的に存在価値を評価している大学は、小生は1校しか知らない。何処とは言わないが、まぁ、ねぇ。鶴舞?ほっといて頂戴。

それ、良いけど誰がやるのとか、誰が管理するのとか、直ぐにそういう話になる。ちゃんとどんな構造で組織が成り立っているかまで本社に届けているのにね。見えないところも沢山あって宜しく無い事、この上ない。いっちょやるかなという気になっているのだが、はてさて、行きつく先は何処になるのやら。例によって自分で振った賽の目が出る前に走り出す。悪い癖だ。苦笑いである。

ルマン24時間レース

自動車レースに興味がおありの方は既にご存知の通りで、2024年から水素を利用した燃料電池をハイブリッドシステムの一部として導入可能になることになりました。レーシングカーカテゴリで水素燃料電池システムが導入される意味合いは大きい。過去ではターボシステムなどがそれにあたるが、極限状態でテストされるわけで、加工品質が一気に上がる。それがいずれ、一般車両に持ち込まれる。

レースで水素燃料なんて危ないのではないか?という一般民間人だらけだと思うのだが、あの某社の水素タンクが大爆発したというニュースが流れていない事実が物語っているが、そこまで徹底して安全対策を打ってくるということだ。それが300km/h超えの車に搭載されるのだからさらにシビアになるのでしょう。軽量化は当然、相反する安全というところにも踏み込むことになる。

面白いなと思っているのは充填速度。慣れた専門スタッフで3分~5分程度であるが、それは現状のタンクサイズだとそうだというだけで、3分も止まっていたらレースにならない。この解決にどれだけの技術が導入されるのかを楽しみにしている。燃料電池の耐久性、効率も見ものである。

自動車レースが排気ガスと騒音をまき散らすとして、反社会活動とまで言われてしまっているわけだが、水素を全く漏洩させることのないシステムは、それを使う段階において確かにエコである。その水素燃料を創り出す仕組みのエコにも当然取り組むのだろう。製造過程で炭酸ガスをまき散らす現行システムでは話にならない。似非エコからリアルエコに進化していくことを期待しつつ、2024年のレースを楽しみにしたい。