値上がりしても仕方が無い

某国のトップの様に「それはフェイクだ」と他国の情報を無視できれば簡単だが、通常、それは「後で」とんでもないことを引き起こす。世界中で物価が上がって大変だというお話はフェイクではあるまい。世界の穀倉地帯とエネルギー供給源が地球上から分断されたのだから、その影響は物価に跳ね返って当然である。キットカットの大袋から1個減らされるくらいのものなら我慢は出来る?が、学食の昼食代金が40%アップですと言われたらどうだろう。いや、本来なら100%アップでも仕方が無いのでは無いかと思うのだが、そうはなっていないのだ。

ガソリンだってとんでもなく値上がりする筈なのに、参院選挙を控えているからかどうかは邪推になってしまうのだが、税金から補填するみたいになっている。輸送コストに影響を受けない国民は居ないのだから、まぁ、それはありなのかなと思ったり、いやいや、市場介入し過ぎだろうと思ったり。何を言いたいかといえば「値上がりした商品に対する購買力の無い給与体系をいつまで続けるのだ」ということだ。市場価格を据え置きに近い形にしているということは、企業にとって原価に対する収入の割合が激減しているということだ。

起業利益が激減するわけだから、当然の事ながら給与はとことん落ち込むべきで、そうなると更に一般民間人の購買力は落ちていくと言うことだ。コストコで大量買いして、周辺住宅と分けっこするみたいな文化の無い日本だし、給与も劇的に低いわけだから、原料に近い部分の輸入物の値上げは、その分を購買者に分担して頂かない限り、国の近い将来を危うくするということだ。企業も無理をせず、購買者に押し付ければ良いのだ。そりゃぁ、可能な限り頑張って頂きたいのは事実だが。

地球規模の微妙な安定が崩れるととんでもないことになる。それは何も地球規模である必要は無くて、一組織で見てもその通りだ。暴君的な上長が居て、パワハラをして精神を病む方が続出しても、更に上長が見て見ぬふりをするのが日本的だが、それもいい加減に壊していかないといけない。上長は悲鳴を上げる勇気を讃え、護るだけではなく、組織のありようそのものも変えていくことに尽力するべきなのだ。それで倒れてもやむなし。そう思う。

フェイクでは無いものづくりを

ゼロカーボンとかね、地球温暖化が加速することを食い止めようと、いろんな低減や省エネルギーものづくりが成されているわけだ。データセンターの省エネルギー化なんてどんどんと進めるべきなんだけど、地球を巡るフェイクニュースにどれだけのエネルギーが費やされているか。TVで某国の方々が信じていらっしゃることと、こちらが信じていることのあまりの食い違いに驚くばかり。物凄いエネルギーが使われていて、この無駄話が無くなるだけで、原発2,3基止められるのではと思ってしまう。

1990年頃から「経営コンサルタント」なる職業を耳にするようになった。まだガマの油地方に居たころだが、バブルの弾けた後で、コストカットで儲けるのだと、人員削減等々で就職なんかどこにも出来ないみたいな、そんな頃の修了だったもんだから良く覚えている。就職するなら経営コンサルタント会社さ!なんて、OBの方が語っていたことを覚えている。話を聴くとうさんくさいことこの上ない。だからコンサルタントという職業そのものが嫌いだということはさておき、その頃からでは無いだろうか、フェイクなモノづくり。

要は良いモノよりも安いものを作れと言うことがメインのターゲットとなったという事だ。CAD-CAM自動製造がかなりはびこりはじめ、人を削減することが企業の第一目標となっていた。切られた方々が西方に移動し技術を承継されたこと、その技術に磨きを掛けた国に、ものづくりで勝てるわけがない。当然の事なのだが、メイドインジャパンを見なくなった。そりゃぁ、勿論、今でも素晴らしいモノづくり機械を作っている。それはそうなのだが、Y社さんとか世界のナンバーワン物づくり企業に採用される工作機械メーカーがどれだけあるか。

面白いとか言ってしまうと怒られちゃうけど、奈良のT社様とか、女性のストッキングを作らせたら世界一みたいな機械つくりを高め続けるお会社もあるわけだが、そんなお企業様のリアルな技術がフェイク情報となって伝わらないことを祈るばかり。何をどうやって信じれば良いのか。クリック一つで世界中のニュースが画面に溢れるのだが、一体、どれが真実か。高価なものでも本当に良いものが欲しい。そう思うのだが、長持ちさせると商売にならない。だったら高価にすれば良い。そんな当たり前がまかり通らないと、きっと戦争になっちゃうんだろうなと思ったりする今日この頃であります。

学ぶという事

学ぶ機会は何処にでもある。学びたいと思えば、きっかけ的にはネットや本屋さんにあるでしょうし、もっと挑戦したいという事であれば、大学のリカレント・リスキリング講座を受講するのも良い。大切なのだ、誰かに教えてもらおうということではなくて、自らが学ぶ意欲を持って、貪欲に吸収し、それを自らの力として、学んだ者がその知恵を構成に焼成して頂ければ宜しい。

教えは何処にでもあると思う。山間部のそれこそ過疎の村に、山桃が植えられて、捨てられた畑にも実らない桃が植えられている様は、やや異様に感じた。しかし、その里の方は、心が満たされるのだと仰る。これこそ学ばせて頂いたという事だ。これが学びである。パンフレットなどでは計り知れない学びがそこにあるのだ。突風に目を塞ぐか、風車の如く、誰かの為に働くか。

学ぶことを喜びと出来る者の心は美しい。喜びが一人称で無いのであればということだが。多く、一人称になってしまうのだ。得た知恵を誰に対しても活用しないで、自己満足で終えるのであれば、お越しいただきたくない。そのまま何処かに行って頂きたい。一方で、三人称の学びを求めるのであればどうぞどうぞ。何なりと問うが良い。これも大切で、口を開けて待っている。学ぶマニュアルが欲しいと言う。そんな輩も御免被る。

人と人との繋がりは、学びがある。本当にそうである。その学びを何とかして他の方に、自らの色を乗せてお届けしたい。色は要らないよと言う人も御免被る。勝手にネットで学んだふりをしていれば宜しい。偽情報に踊らされて、自己満足するのが宜しい。学びとは自らの貴重な時間を費やすだけと思っている方がいるが、それは大間違いだ。語らされる者の時間も考える必要がある。学びを送り届ける方も共に学ぶ。だから人と人とが学び合うと言う。美しい行為だ。

今週は改革

4月もあっという間に10日が過ぎてしまった。年度が変わって心機一転の気持ちになりたいところでしたが、どうもこの地球は暴君の我儘勝手が通り、情報操作、思考操作を得意とする輩が支配する星らしい。自国を取り戻すために憲法を自主的に改正しましょうとかね。核爆弾をシェアしましょうとか、そんな大きなところから、個人の好き嫌いでルールが破られたり、あまつさえドメスティックなルールが、組織上位の目の届かぬところで価値観の異なる内容で動きだしたりする。

税金の使い方には慎重にならねばならない。研究費の審査となれば徹底的な客観性と、冷徹なまでの冷静さが必要だ。ルールそのものが誤っているとすると、これは案外厄介で、「今は間違って動いてるが、改善はこの次」となる。これが諸悪の根源とも考える。間違っているなら今止める。そんなやり方が許されないといけない。そんなウルトラCもある。やってみたが、これは結構、事前の調整が必要で、いきなり提案すると暴走と言われてしまう。まぁ、そうなんだけどね。今週はどこまで暴走するのやら。

他者を救う道が唯一、自分を救う道であると、とある人から聞いたことがある。その為に動かないと、結局、苦しむのは自分となる。レスラーの方が酔っぱらって少女に絡んでいる大人をふんじばって感謝状を頂いたとTVで拝見した。当たり前では無い。何が当たり前では無いかと言えば、そのレスラー氏は「強い男が人助けをすることに勇気は要らない。少女が助けを求めて叫び声を上げることに最も勇気が必要なのだ」と仰ったことに感銘を受けた。叫び声が届いて、動かなければ人では無いのだ。

自ら立ち上がり、弱者の人生の為に活動せねばならぬ。どこまで出来るか分からない。しかしその声が届いたのだから動く。戦争の状況を見ていると、国連という組織には世界の浄化能力は無いことが明白となった。それと同様な組織ではどうしようもない。覚悟を決めて挑戦していかなければならない。続いていると思った道が途切れていることは良くあることだ。地形図を信じて岩尾根を歩いていても、崩落していて先が無いとかね。先日もあった。土砂崩れで通行止めとかね。まぁ、人生、そんなもんかもしれない。だから挑戦する。それしか無い。

遥かなる水平分業

未だに自動車産業のヒエラルキー構造は壊れず、垂直統合を成功事例と捉えて、その呪縛から離れようとしない。脳内DXが全く成されていない為なのだが、電力を何処からもってくるのかの議論が成されていないのはとんちんかんだが、EV化は確実に進むわけで、モーター、パワエレ、電池、ミッション、コンピュータ、センサを車体に載せたらそれでおしまいという世界に垂直統合なんて有り得ない。得意な企業が得意なものを作って、アセンブラーに提供するだけだ。水平分業だが、そこにこそDXが必要なのだが、それも一番不得意にしているのが日本だから困ったもんだ。

書物からの引用だが、「人類の課題解決、即ち、地球環境の問題を解決するにはモビリティの問題を解決することが不可欠だ」とイーロン・マスク氏はテスラ社を創設されたわけで、単にEVを販売するのではなく、コネクテッド、自動運転には走るコンピュータが必要だからという事業構想こそ、彼が販売しているものだ。社会の参加者が利益を得るモデルを販売したと言って良かろう。自社だけが儲かればという垂直統合頭からは絶対に生まれない発想で、それが許される世界のなんと羨ましい事か。

勿論、安心して加速して、曲がって、停まるという自動車に仕上げるにはとてつもないノウハウが必要で、それは現行の自動車メーカーと呼ばれる企業に、間違いなくアドバンテージがある。それ故に、垂直統合から脱しないということもある。本当に人が欲する自動車では無く、作れる自動車を作ってしまうところに、脳内DXが成されない根幹がある。より早く、温かい状態で食事を運んで欲しいというニーズに答えようとしたら、それなりの自動運転車を作らなければならないが、顧客の笑顔最大化に向けて、何があったら良いのかからの開発でなければならなかということだが、未だに「自社が儲かれば良い」という発想では世界の孤児状態は続くんでしょうね。

交通インフラシステムのオペレーションと言えば鉄道事業者だが、それは街角のセンサ、自動車のセンサによって自在に成し遂げられる状況に、海外はあるが我が国には無い。なんでこんなに無いものだらけなのかと、結局は得意の参入障壁をお役所が後押ししてきた結果なんだよね。国民が置いてきぼりを喰ってきたわけで、だから賃金も諸外国にくらべてべらぼうに安い。要はビジネスモデルを売らなければならないということだ。大学組織にしても同様である。旧態依然の組織は確実に崩壊を迎える。今までは良かった。これからはそれは最悪になる。そう考えていると良い。そう思う。

優しさは強い心から

急に暖かくなった。日中は20℃を越え、少し前の4月では考えられなかった程。その昔?というほどでもないが、入学式で公会堂に移動するときにはコートを羽織っていった記憶がある。それが今では上着を脱ぎたいくらいだ。ソメイヨシノはかなり散った葉桜も散見し、これが温暖化ということなのかと実感させられる。それでも多くの方が桜の下で笑顔になっている景色は素晴らしい。日本は平和であると実感する。

ネットニュースなので真実かどうか解らないが、モスクワの街中は極めて平穏な雰囲気だという。在住の方がそう仰るのだからそうなのだろう・・これがフェイクかどうかなどは解らない。みんな真実に見えるし、嘘にも見える。真実と感じるのは、自分が手足を動かして、装置を動かして、残酷な結果が得られた時だ。あぁ、やっぱり駄目かと。こんな時、ここがこの結果を生み出した原因ではないのかと悩めることは幸せだ。何故なら真実だからだ。

ゴールへの道筋を仮定してから活動を始める。動き出したら最後まで進めてみる。途中で危ういと思っても、余程のやけどを負うのでなければ、危うい方向に進んで、ドボンするのが良い。何故、そうなったのか。ドボンしたら組織はどうなってしまうのか。それを若年代に実施しておかないと、深く先読みすることが出来ない人間に育っていく。大学生くらいが最後のチャンスかもしれない。本来は三つ子の魂なのだが、まぁ、20歳くらいまでは我慢するとしよう。そこまでに徹底的に失敗して孤独に耐えるくらいのことをしないといけない。社会は逃げ道を与えすぎる。

こんなことを言おうものなら、なんちゃらハラスメントと言われ刺されまくるが、刺した人に言いたいんだけど、共用の装置を壊して、黙ってリセットボタンを探して、リアルに破壊したものを他人に直させようとかね、知らんぷりをする学生を世に出して良いのか?甘やかすのもいい加減にしろ!と怒鳴りたくなるわけだが、まぁ、どうせ戯言だしね、誰も真面目に考えないから、ものづくりが出来ない国になっていくわけだ。挑戦が未来を描く力を強くする、失敗が心を強くする。他人の失敗を叱責するのは、自分が失敗をしていないから。優しさは辛さが生み出す。孤立は辛いもんだ。でも大丈夫。明日は平等にやってくる。挑めば良いのだ。

銀輪

昨日のお話で恐縮だが、冬季の路面が凍り始めたころから止めていた自転車通勤を再開した。極めて快適である。マスクの群れに取り囲まれることなく、桜の下を風を切って進んでいく心地良さ。久し振りの運動で血流も良くなり、冬眠から目覚めたごとくの感がある。宿舎から職場まで3つの山を越えてくるのだが、それぞれも面白く、景色の変わりようも楽しく、気分転換にはもってこいの自転車通勤である。この季節は汗だくということもなく、それにかんしても快適である。

街の桜を見物しながらの移動だが、卒業式で心配になった「入学式に桜はあるか?」だが、どうやらちゃんともってくれたようだ。今日、6日は入学式で、嵐の卒業式と打って変わって良いお日和である。自分の時はどうだったっけなと思い出してみると、当日も晴れていたなと不思議と思い出すことができる。遠い遠い昔の事だが、初めて聞いた学生歌に感激したことも覚えている。「式」というものは重要なイベントであると実感する。

鶴舞大学は残念ながら、1学年の学生さんを収容できる大ホールを持ち合わせていないから、例によって公会堂をお借りするわけだが、こちらは耐震改修がなされて随分と小ぎれいになった。応接室などはとてもゴージャスで、壊して立て直しなどが許される代物では無いなと感じる。それは小生の価値観ではあるが、本当にそう思う。もしも一般公開が成される日があれば見学をなさると良い。誇りに思える建造物と感じる。

入学式に列席をさせて頂くたびに、会場に集う若者たちの目の輝きに感動させて頂ける。どんどんと違った輝きに深めていって欲しいと願うのだ。18歳の輝きと22歳の輝きは違わねばならないのだ。その輝きの変化こそ、大学の色ということになろう。色濃く無ければ意味はないわけで、もっともっと色濃くする努力をしなければと考える。そんな努力の方向を作り込んでいくのにも、自転車旅は良い。年末に道路が凍り始めるまで続ける。そんな日々である。

聴いてみたら?

自分がやりたいことは何なのか?と問われて「これだ」と答えられる人は幸せ者だ。それに気が付かず、人生を終える人が殆どであろう。そんな気がするのだ。研究者であってさえ「こちらが出来そうだからこれをやってみる」と自分が出来ることとやりたいことを取り違えてしまう。政府の片棒を担ぐわけでは無いが、研究者の任期を10年縛りにして、干上がらせるという現状は、「自分が出来ること」に注力してしまう研究者が蒔いた種から芽が出たということなのかもしれない。

「こんなことが出来たら良いな」と思ってやってきたが、その内の殆どが達成できぬまま、どうやらあちらの世界に呼ばれそうだが、達成できたものもある。だから幸せと想わねばなるまい。なんでもかんでも出来たのなら、それは望みが低かったということだろう。出来ないことがあることは幸せだ。低過ぎなかった望みであったということだろう。いや、さぼっただけかな?まぁ、それはおいおい考えることにしよう。最近、理化学研究所の600名が、雇用縛りで居場所がなくなるというニュースを拝見して思った次第だ。

博士を取得する経験を積んだ人間は「視野が狭いから採用できない」というのがお企業様からお聴きする「アンチ博士人間」の弁なのだが、博士って「博(ひろい)識」なんだけどね、本来は。それを狭くしてしまうのは、挑戦させて失敗を認めない風土にあるのではないかと感じている。失敗して委縮しないといけないような雰囲気がある。ベンチャーにしても、潰したら罪悪感を感じる日本だが、海外では当たり前のお話だ。研究テーマを構築して、それを進めていくプロセス全てが新たな挑戦であるから、思った通りになると考えることがおかしいのだ。思った通りにならないのは、視野が狭いだけ。

狭いから更に視野を広く持つ。経験者に頭を下げて教えを乞う。このあたりの当たり前さが無くなっているような気がする。解らないなら聞いてみる。聞くことは全く恥ずかしくない。聞かずに解らないままほったらかすことの愚かさを恥じ入るべきだ。研究者ならね。その道の先人は痛みを知っている。先人だからね。後人に何時かは道を譲るから、それまでは露払いで突き進むというのが先人の喜びでもある。後人はどんどん先人を活用すればよろしい。知恵のバトンが尽きようとしている。それが今の日本の学の世界の有り様に感じてうすら寒い。

動き始めましょう

4月は何かと騒がしい。新しいミッションが動き出す。身の回りしか見えないから自分だけが騒々しい目に遭っているのだと思ってしまうが、日本全体がそれぞれの次元でギアを変えるのだがら、全体としての変革は相当のものだ。節目という概念は好きでは無いが、このように社会の方が勝手に節目を作り出すからやむを得ない。これを無くしたり無視したりする必要は無い。まぁ、こんなもんだと受け入れる程度が良い。ケセラセラである。

地味が良い。地味に進むわけだが、昨日までで良い事は一つもない。保守の皆様は変革は全く生じていないと、旧態依然で進まれるわけだが、何故、理想を求めないのかと考え込んでしまう。小生もしばしば「日本には元気がなくなっている」などとほざいたりするわけだが、逆に「元気いっぱいで、世界に新しい笑顔を届けまくっている」という状況をイメージして欲しい。経験が無いから出来ないかもしれないが、チャレンジしまくって失敗ばっかりで、それでも更に挑戦できる毎日を送りたい。皆のスキルがどんどん高まって、より高い目標を目指している毎日。そんな日々を送りたいものだ。

とある映画を見ていたら、睡眠不足がやる気をそぐと言う。人類という生命体にとってどれだけの睡眠時間が必要か分からないし、個体差はあるだろうが、連日連夜、始発で出立、終電で戻るとか戻れないとか、そんな生活を続けたら、それは肉体も精神もおかしくなるだろう。ミッションを取り違えて、妙なサービスに走ってしまうとそうなる。だからミッションの精緻化は極めて重要だ。一方で、組織から見て為さねばならないミッションが抜けていたら、それは加えなければならない。一つ増やすなら陳腐は自動化するか消し去るかしなければならない。新規一件あれば、旧は二件を捨てる。改革とはそんなもんだ。

引きずってしまうのだ。楽だから。過去に必要であったサービスも、電子化が進み、そして受益者である顧客の能力が変わっているのだから、旧態依然のサービス体系で良いはずはないのだ。良いはずが無いからこそ、4月は泡立たしくなければならない。毎年度感じることだが、なんらかの節目というものがあるとすれば、この国ではお正月では無く、4月開始時点であろう。それが桜の威力なのかもしれない。遺伝子に刻まれた風景。それが文化であるとするならば、暦などには惑わされず、桜の頃にリセットが掛かるのだと思っていれば良かろう。一つ一つが重いお仕事であるから、一歩一歩大切に進めていこう。実行あるのみである。

ダイナミックループ

ものづくりの楽しさは「見える」こと。思うように行かなくても、それが形となって現れる(昇華して消えるという場合もあるが)ことが愉快である。思うようにならないことばかりなのだが、それが何故そうなるのかを思考することが大切だ。独りよがりでは無く、第三者の目を意識することが大切で、一人称の「見える」は、単に思い込みでそう見えるだけ。夜目遠目笠の内かもしれないしね。でも、見えることはとっても有難い。

見えたらそれが本当に欲しかったものか検証する必要がある。とっさの判断では使い物になるのか、論文のデータになるのか解りかねる。この「正体を理解する」プロセスが極めて重要である。繰り返し「見える」ものが出来るのかとかね。偶然が入り込んでいるようでは駄目である。このプロセス程恐ろしいものは無い。冷徹に実施しなければならない。見える部分だけではなく、見えない部分にも探りを入れないといけない。自分を信じてはいけない。理解とは第三者が理解できるという姿勢が必要だ。

理解できたら、えいやっと決断しなければならない。誰と相談して、許可を得てなんてやっている場合ではない。所謂アジャイル開発状態に来たら、それを採用するのかしないのかの決断が必要である。全然実入りの無い展示会にお付き合いで参加している場合では無いみたいなもので、切る必要があれば切らねばならぬ。採用するなら方針を決めねばならぬ。ジャッジは一瞬だ。しかし、その見えるものが活きる場をイメージして、活きている状態をストーリーとして認識し、そのストーリーを採用することを決断するのだ。

ここまで来たらそのストーリーの中で動いてみること。あくまでもアジャイル型なので、動いてみると粗が見える。見えたら「見直す」。するとこれがぐるぐると回り出す。どこかでスピンアウトすると、それが市場における価値となる。そんな流れは海外では当たり前なのだけど、DXってこんなことがスムーズに行われている状態なんですよね。何でも独り占めしてきた日本の風土では無理かなぁ?お若い方々に期待です!