ハゲタカに告ぐ

未だに大学人の知恵は無料だと思っている企業が多過ぎる。理由は有るのだろうが、それを前提として迫ってくるから恐ろしい。最近は極力、口を閉ざすようにしているのだが、何でもかんでも聴けば応えてくれて、それを自分の持ち物として、自在に利益に換えてしまう。ハゲタカジャーナルは有名だが、自分では何も生めないからハゲタカになる企業が多くなってきている。大いに注意をしなければならない。

大学人も気を付けねばならぬ。ついうっかりは通らない。自らの知恵は公共のものなのだが、それは無償という事では無い。例え税金で育てて頂いた頭脳であっても、そこから生み出した知恵は、対価を取って還元しなければならない。その対価はその環境維持に使われるべきであって、自らもそしてその組織に居る全員に対する責務である。組織としては大学人の知恵を護るルールを持ってはいても、自らが知恵の泉となって分け与えられてしまうとどうしようもない。

ハゲタカジャーナルは調べようと思えば何とかなるのだが、レフリーが査読内容を読解して、自らのグループに実践させて、先に投稿してしまうことが横行したお陰で、投稿日を付す真っ当な論文誌が増えてきたことは好ましい。何を信じたら良いのかと思うのだが、創造した知恵を守ることはとても難しいということだ。教科書に載っている知識の伝授とは異なるのだ。知恵と知識を混同してはいけない。仕事と作業を混同するようなものだ。

自らの知恵がどのような価値を生むかもしっかりと認識しなければならない。今までの何をどのように変えて、その変えた結果、社会はどんな変化をするのか。それを考えず、単に面白いからということでは広がりが無い。純粋な自然理解が目的であっても良い。それは究極の姿だ。それを成せる者はそれを追求して頂くのが良い。しかし大学人であればそれをもって、若者を学問にいざなって頂きたい。社会の価値は若者の活気なのだが、それを創り出す、大学人の知恵の深さこそ根源だ。それを盗難してはならない。

何の為の教育?

てっちゃんと言えば、様々な形態の鉄道オタクを指し示す用語であろう。もつ焼きを思い浮かべる氏もいらっしゃろうから「あろう」とさせて頂く。小生も僅かだがその気があるのだが、お仕事が私事を許さないので、鉄道旅を楽しもう等という行為はとんとしたことが無い。したことがないので、生きている間にやってみたいなと、最近、思うようになってきた。そして、鉄道ってこの先、どうなるのだろうとも思っている。

鉄路の保全、車両の安全点検はとてつもなくお金が掛かる。当然、公の助成が無ければやっていけないわけで、住民サービスの公共事業としての色合いを強く感じる。土地の獲得にせよ、凄まじい資金が必要だ。そこを安全を担保する整地を行い、鉄路を通す為に、どれだけの知識と資材が必要になるのか。そして新規技術開発が必要になるのか。超低床電車などは技術革新は物凄く、都市部での自動運転技術開発よりよっぽど気が利いていると思うのだ。

社会経済的には個人がじゃんじゃか給料を稼げて、高額消耗材、即ち自動車に金を掛けろと言うことなんだけど、日本の街中でそんなもん、必要かなと、ガキの頃から思ってきた。必要な時だけに借りて、普段は要らない環境にありたいと思うわけだ。まぁ、自動運転で何処かに連れて行って欲しいから、その手の技術開発はやって欲しいけどね。名古屋などは市電を地下に埋めてしまって、とっても勿体ない事をしたものだと本気で思っている。我が物顔で人を跳ね飛ばす自動車だけがもてはやされる事に嘔吐する。

人中心のものづくり社会を考えたい。どんな人を喜ばせるのか。どこで喜んでいただくのか。そんな思想を三つ子の魂から擦り込んで頂いて、小学校では人に暖かい国ってどんな国とかね、そんなことを考えて頂いて、中学校ではそれを経済的に満たす為にはどんな政治家がどんな政治を成すべきかを実戦的に学び、高校生では法律をどうすればそんな国になるのか考え、大学ではそれを実行するための技術・ルール・サービスをニュービジネスとして実践する。20年以上掛かるが、技術ってそんなもんでは無いかしら。そう思うのだ。

文系オタクたれ!

関東の大学でも理工系大学における女性推薦枠の設定が成されるなど、総数としての理工系学生を増やそうという働きかけが成されている。資源の乏しい我が国にとって科学技術の創成は重要だと言うわけなのだけど、それを大学にだけ求めて何とかなると想っているところが凄い。実体は解らないが、少なくとも世の中で勝手に言われることに「大学の受験が変われば高校が変わる、その下が変わる」と言われているので、流れが何か出来るのかもしれない。

「性」って昨日今日出来たわけでは無いのだ。雌雄が生まれた何十億年も前からあるわけで、その特性に応じた活かし方をすれば良いだけのことだ。その人の個性ということなのだろうけれど、その個性を生み出す価値観って、日本では大昔から三つ子の魂と呼ばれるわけで、そこを変えないと何も動きはしない。何に対してオタクに成り切れるかなんて、本当にそんなもんだろう。ガキの頃から親に殴られ続けていれば、周囲の状況に対する観察眼と対応力が発達する。そんなもんだ。

理工系を強化しようと国立・私立問わずに文科省の指示の下、投資を拡大させるわけだが、日本発の価値を世界に買って頂くという観点だけからすれば、それは理系に限ったことでは無い。むしろ、人の心の琴線に触れるアイデアを出して頂けるのは、究極の文系オタクの皆様では無いかと感じている。問題は理系の旧態依然の化石脳の方々が聴く耳をもたないこと、そして、文系の方々が声高に「こうあって欲しい!」という願いを叫ぶ場が政治に無い事。

文系の男子が政治家をやっている限り、何も変わらないでしょう。未だにマイナンバーカード云々叫んでいるくらいですからね。世界では年金番号が出生の頃から当たり前にくっついていて、国民として認定されるのに、そんなことすらあたふたする国家である。自国の文字、文化を使って表現出来ず、自国の中ですら対話が成立しない。こんな悪分の極みを書き続けて恥ずかしく無いのかと言われるわけだが、それはほっといてちょうだい。これは「たわごと」ですからね。徹底した文系の強化を実現して頂きたい。理系も文系も無いとは思うのだが、文系のJABEEみたいなもんがあっても良かろう。そう思う。

努力

企業様向けにとある講座を「有償」で提供させて頂いている。その昔は聴く側がいい加減だったような感じを受けて、それならば無償でと、お付き合いメインなんだけど、全力で行っていた。なんとなくの違和感があったのは「その後どうなったの?」というリアクションが全くなかったから。学びました、でも、そこで得た知恵を何にも使いませんでした、ファイティングスピリッツも高まりませんでしたみたいな、そんな受講生相手に疲れ果てて、暫く、受けるのを止めていた。

それは外部向けなのだけれど、内なる組織においても変わりたくない、面倒は増やすなと言う、言ってみれば内乱を起こされたから、それならと自身で示すしかないなとなり、事業部を立ち上げて、営業、販売、売り上げで事業実践と、まぁ、社会では当たり前のことをやり出したわけだ。いろんな壁を立てられるが、企業の皆様の本気度は圧倒的に高い。こちらのやる気も、自らを精神的に押しつぶす程に高まり、それが本業にフィードバックされるから全てがプラス方向に動いていると感じる。まぁ、満点では無いけどね。満点はありえないからそれでよい。

で、表現方法を教授するのだけれど、この表現における文型というものを使えない方々の多さに驚かされる。勿論、完璧に使いこなされる方もいらっしゃるのだが、体言止めで「だから何?」と、会話にならない方が大勢。何でなのかなと思うと、中学校の英語の授業が良くなかったのではないかと、自分の年代の授業を思い出し、不快感が湧てきた。国語教育の貧弱さということもあるのだろう。日本人、表現教育を疎かにし過ぎ。

現在の行動が誰をどう変化させ、その結果何が生まれるのかということだけで良いのだけど、「これはこれ」で終わってしまう。エンジンは動くみたいなね、だから何なの?考え方も伝わる表現も学ぶ機会を与えられずに、過保護だったり競争だったり。苦しくなったら止めちゃうとか、最初から嫌だと言うと許されてしまうとかね。そんな教育を受けた人が教壇に立つ国は滅びるね。必死になって挫折して、折れて諦めて、それでも立ち上がってきた者の精神は美しい。そんな君は更に進めば良い。怠惰な者に愚痴を言う暇などない。そんな者を思う瞬間を、君の力で未来を拓く時間として欲しい。努力する機会は永遠に与えられる。それは万人共通だ。有難い。

ゆでガエル

国立大学が置かれた現状って、地面に穴を掘らせて、その穴に飛び込ませるみたいな。全体の税金投入額は変わらないのだけれど、各大学から8%を取り上げて、それを再び取り戻させる。疲れた大学から穴に飛び込んでいく。穴の底を更に掘り下げて、次の年がやってくる。こんなことを繰り返しずっとやってきたわけで、地方の大学の疲弊感は凄まじい。鶴舞大学も御同様である。

一番の被害者は学生さん達である。疲弊した組織で学びたいとは思うまい。そうならないように、経営サイドは必死なのだが、どうも必死にやり過ぎると、環境のぬるさゆえにゆでガエルが出来上がる。大学の外は熱湯なのだが、どうもそれが伝わっていない。社会的にも研究力が低下している、もっと競争させろとか、少子化なのだから無くしてしまえとか。そんな他人の上から目線批判はゲリラ豪雨の様に降ってくる。穴の底の大学は溺死する。

大学という組織は、今、国立大学時代に入社?した教官と、法人化後に入社した教員と混在しているわけで、教官側からすると、黙って座っていても国から研究費がぼんと降って来て、象牙の塔に外野の声はいらんと、そんな時代を引きずっている。一方で、教員として入社した皆さんは任期解除を目指してひた走ってきている。研究費を年々減らされながら。そこの部分は各大学での経営努力で、ある一定額をキープできていたりいなかったり。

競争しろ、それは正しい。でもそれは国内の大学での潰し合いでは無い筈だ。ゆでガエルが池に浮かんだ様を思い浮かべるが良い。そして熱湯がどれだけ恐ろしいか知るが良い。未来を担う学ぶ者が学ぶことだけに専念できる仕組みが無ければならぬ。これからはリカレントも極めて重要である。リスキリングも同様であろう。IT、IoTが劇的に進化している時に、紙とハンコを頑なに守ろうとすることの愚かさである。劇的に変わらねばならぬ。その通りだ。

精神論

バックキャスティングは生易しい思考法では到達できない。省庁が示す2040年の未来像から考えて、今、何を成すべきかという思考に移っていくのだが、そもそも現状にこんな不具合があるからそれを解消していこうと提示された未来像に、真の未来など無いのだ。ベンチャーキャピタルの方々とお話をさせて頂く機会は多くなったが、彼らは簡単に、「ペインからバックキャストして」などと言葉遊びに酔いしれるわけだが、今の積分をしていく過程で、情報を収集して組み立てろというフォアキャスティング思考になっていることに気が付かない。

多くの研究者においては研究のアウトカムとアウトプットの差を意識していないから、ファンドの獲得に繋がらない。これも未来における自らの基礎研究の価値を表現出来ないから。基礎研究って社会の役に立たなくて良いのだって、そんな学問なんて無いよというのが小生の想い。哲学だろうがなんだろうが、自分以外の誰か一人でも感動出来たらそれが社会の役に立っているということだ。いや、自らも社会の一員だから、その一員を心底感動させたら、それこそ素晴らしい。

未来をイメージすることを日本企業は極端に恐れていると感じる。新規事業を考えろと言って、世界中から情報を集めさせる愚を繰り返す。社員から夢を引っ張り出して、その夢を評価出来ないミドルに溢れていることと、挑戦に怖気ずく村社会の有り様が日本衰退の元凶だ。政治家は当選したら国家国民よりも自らの次の当選を願い行動する。そんなことで国家が強く成る筈が無い。教育の効果を世界に発信できる人財育成が出来る筈が無い。

技術はあるのかもしれない。勿論、今、売れている商材を作っているのだから、この瞬間までの技術はあったのだろう。新規採用した社員に過去を刷り込み、ステレオタイプに仕上げて、挑戦しない飼い犬に仕込んでいく。野放図に挑戦を続ける海外の企業に勝てる筈はない。精神論を語ると、戦前の軍国主義者と表現を換えられ弾かれる。精神論で良いのだ。そして未来を空想して良いのだ。そこに笑顔が見えるならば。もう間に合わないかもしれないが、挑戦を始めている企業様もある。草葉の陰で楽しませて頂こう。

ドクターコース

博士後期課程、所謂ドクターコースへの進学者が、この20年間で2割減ったとのこと。研究が面白いからチャレンジしてみようと思った38年前であるが、その時と今とは随分と時流が違う。当時はまだ、企業に研究所があって、博士取得者がそれなりの待遇で雇用して頂けた時代である。それがバブルが弾けてITバブルも弾けて失われたなんとか年とかになり、今や、博士を取得してもインセンティブはほぼゼロの時代。生涯賃金は大卒の方が上の日本において、博士課程の研究に物好きで取り組もうという若者の減少は停めようがない。

お上は研究のコスパを上げろとかね、何だか全くわけのわからないことを言い出すわけだが、ぴちぴちしたドクターコース学生の密度が上がらないと、ひょうきんな研究が開始されないので、世界から取り残されていくのは間違いなかろう。発想の豊かさというか、24時間、実験をし続けると、何か見えてくるものだ。絶望が見えるだけかもしれないが、それでも何かは見えてくる。そんなもんだ。

ちょっと前に、巨大な学会の支部長などを仰せつかっていたので、学会参加者の減少も極めて大きな問題と感じた。まぁ、国内よりも国際学会に出席していれば良かろうということではあるのだが、国内のコミッティに参加して、研究者仲間を作っていくということも貴重な経験で、それは若い頃が望ましいと思っている。未だに、お付き合いのある皆様は、その頃からずっと知り合いで、相談仲間でもあった。

漁業がトリチウムで風評被害に遭っているとか、そんなお話になると、東電ではなく国が借金で直ぐに補填するわけだ。ところが産業となると、票田にならないからか、ちっともアシストは無い。ましてや、大学なんぞにはびた一文だすもんか、競争して生き残れと言ってくる。多様性は必要だ。10兆円ファンドでどかどかと研究者やドクターコース学生を集めまくっても、同じ色の人種しか育たなければ、いずれ絶滅する。研究は愉快である。解らないことだらけだ。支援策は考えねばならぬが、取得した後、更に元気になるような仕掛けが必要だ。この国、大丈夫か。そう思う。

日々是決算

棺桶に両足を突っ込んで毎日を過ごしている身にとって、医療現場におけるAI活用がどんどん進んでくれないかなと、カプセル内視鏡での画像診断における早期病巣抽出の研究事例などを間近に見ていたので、そう願っているところだ。ところが結局のところ、現場のお医者様達の「とって変わられる恐怖」から厚労省が首を縦に振らず、例によって日本の技術は海外には流れていくが、日本では使われないという状況だ。

先日、ドック入りしてきたのだが、医療機器そのものは一年でびっくりするほどに進化していて、とある画像診断結果を見せられたらぐうの音が出なかった。お医者殿も「進化したんですよ~!」と驚かれているくらい。しかし、それは後の祭り的な診察であって、本来であれば検診途中でAIが判定して「もっとここを拡大しろ」とか、検査技師殿にアシストするとかね。容易に出来る筈なのに、日本ではそれがままならない。

病院への保険診療報酬という、ガソリンから直接・間接の二重課税をしているみたいな感じで(全然違うな)、お金で医療を縛り倒す。厚労省とすると、新奇なことを取り入れて、医療過誤が生じて「誰の責任だ!」と騒がれるのが嫌なのだろうが、医療行為で一番価値を享受できるはずの患者がそれを受けられない仕組みを国が作っているのだから腹立たしい。当然の事ながら、エレクトロニクス産業の方々にとって、認証されず、売れるまで無限に待たされる機器を作ろうなんて思えない。だから産業として失速していく。

先進医療機器と呼ばれる分野で、純国産のツールがどれだけあるのだろう。今春、某、医学部で紹介された機器を前に「これらは全て外国製です」と言われて眩暈がした。日本で作れないはずはないのだ。はずはないが、利益率が高くないと手を出さない日本企業と、任かなんてするもんかというお役所根性によって、日本人の体格にあった機器が作られていない。AIなんて現場に永遠に入ってこないのではないか。医は算術なり。親身の集金、日々是決算。予備校と同じだ。

古刹

愛知県下をくまなく歩いているつもりでも、未だに初めて訪れる古刹がある。その昔、ローカルネットワークでやっていた地域の歴史紹介番組で見て以来、ずっと気になってはいたものの、やたらと僻地にあるもんだから、後回しになっていたわけだ。例によって思いついたようにステアリングを握ってみると、国道の反対車線で大事故があり見物渋滞に巻き込まれ、まぁ、少しの時間ロス。そこを抜けて進んでみると、今度は出来たばかりのバイパスが改修による閉鎖。どういうことだ。

当然、これまた渋滞なんだけれど、なんとか抜け出て更に山奥。くねくね道を抜け、いよいよ得体のしれない領域に入ると、大きなため池があったりで、知らない場所の面白さよ。こんなところにもゴルフ場がというところを抜け進んでいく。勝手に門前町をイメージしていたのだが、応仁の乱で焼き払われたらしく、そのような風情は微塵もなく、突然、国指定重要文化財が現れる。余りの唐突さにあっけにとられる。

平安時代から伝わる仁王像において、日本で3番目に大きいものだそう。同じく国の重要文化財の山門に納まっていらっしゃるのだが、通常の場所ではなく、門の後ろ側に安置されていることで、紫外線や雨風から護られたのだろう。見事なまでにしっかりと自分の足で立っていらっしゃる。境内は箒の目が立ち、清楚な空気感に満ち、今まで何故、訪れなかったのだろうと不思議な気にさえなる。京都や奈良などに行かずとも良いではないか。

長い長い石段を登り、創建当時の伽藍を想いながら、汗を滴らせ本堂にたどり着く。時代を感じる石段の高さは、鉄筋コンクリートの建物の階段に慣れた足には登山感覚を呼び覚ます。深い緑が日差しを遮り心地よい空気に満ち溢れた空間を愉しむ。いよいよもって愛知県の古刹探訪がピンポイントとなってきた。他にもまだあるのだろうか?地道に探し続けてみたい。一つの楽しみである。

憂国

自動車産業に限らず、多くの産業機器、事務機器は一品ものではなく、金型に頼っているところが多い。今、こうやって駄文をキーボード経由で入力しているわけだが、デスク上の樹脂製品が、金型を経ずに我々の手元に現れることは殆ど無いような気がする。勿論、ディスプレーの保護シートなどは型経由では無いけどね。細かい事を言い出すときりがないのだけれど、スマホのカメラのレンズなどは、樹脂成形品で、その精度はすさまじいものがある。

付加する技術として、積層造形、身近に言えば3Dプリンタなのだけれど、この深化が著しく、世界では金型を刃物で掘りだすよりも、より高強度の素材をサブサブミクロンの仕上げ精度で作ってしまえという基礎的研究が進められている。3Dプリンタは日本人の発想だとかそんなことばかり協調するのだけれど、実際にプリンタ製造において、そのノウハウの構築、特にソフトウエア開発において、圧倒的な差を付けられている。しかしながら、我が国においても町工場の中で3Dプリンタ開発を行っているお会社もあり、応援している。

金型にケチを付けるわけでは無く、勿論、その深化(進化にあらず)は続くのだろうけれど、精密な温度や圧力制御が必要とされる新奇の電池や医療機器の製造においては、金型の出番はどんどんと無くなり、アディティブテクノロジーに置き換わっていくだろう。国もどんどんとそっち方面に投資をして、死にゆく産業のゾンビ化を防ぐべきだ。素材から機構から電子制御からソフトウエアまで様々な学術技術の融合である。学科の垣根なんてのんきなことを言っている場合ではない。

これに限らず、全ての研究が一つの大学の一つの研究室に閉じている時代は遠い昔に終焉を迎えている。老舗の商社などが世界中の深化を見て、それを大学の中の図抜けた若い知恵の連携に力を尽くし、一人当たり億単位のお金を投資して、数千億を儲けていく。そんな挑戦をするには最後のチャンスでは無かろうか。どんどんと若者が減っていく。減っていくから教育に掛けるお金を減らそうなどという政治家は見限るべきだ。国を育てるのは国民の義務だ。3Dプリンタなどはほんの一つの事例に過ぎない。暮らしが厳しいのは自分達のせいだ。それを忘れてはならない。