何故?

ゆっくりと瞼を閉じて、そして深く深呼吸してみましょう。背伸びをするなど、とても良いですね。で、呼吸が整ったら、人間とは何かを自問自答してみましょう。南アルブスを貫く穴ボコをほりたいわけだ。それに対して、地下水が枯れると叫びたい人も居る。百年、千年のお話である。工学が立ち入ってはいけない、地球の運動にちょっかいを出すお話なのだが、そもそも論として、そんなに急いで何処に行くのかという問題がおざなりである。

あれだけ叫んだオリンピックでさえ、市場の声は30%は、もはや中止の声を上げる。選手の皆様にとっては、人生を掛けたその一瞬であり、無くなるなど言語道断ということなのだが、小生が生きている間にも、主張の違いで出席できなかった大会が2回ある。その悔しさ、国民も分かち合った。今回は、そんな主義では無い、自然の猛威に全ての金メダルを攫われたというだけだ。そんな時もある。

この、「そんな時もあるのだ」と、多くの民が思考として到達できないのは何故か。自らを尊敬しすぎているということなんでしょうね。自分だけが偉い。共感できる全ての事柄は正しくて、それに反するものは、何が合っても抹殺するという風潮が、小生は嫌だ。私はこう想うという概念を、一見、理路整然と叩くわけだが、演繹的に話を見える化すると、帰納的にもむちゃくちゃな、要するに、自分に意見する者は大嫌いというだけなのだ。

まぁ、それでも良いでしょう。その方にとっては幸せなのだから。でも幸せって何でしょうね?主張が通ること?まるで違う。仕掛けが笑顔になること?そうでもない。今の小生に全く理解できない、真新しい事柄が採用されること。それが宜しい。でかい面をして、過去にしがみついて、現世を否定する思想は捨てれば宜しい。そうなのだが、小生は異端児である。なるほどね。

リベラルアーツ

大学って何ですか?リベラルアーツを智慧に転換できるところである。他に無い。こう書くと馬鹿は居なくなれと怒鳴られるだろう。では貴方に尋ねる。工学で銭儲けをするだけの世界を作って、環境破壊は生じなかったのですか?ホモサピエンスが入り込む必要の無い土地に出掛けることが可能になって、コロナウイルスで地球人類を絶望のどん底に落としたのは工学では無いのですか?リベラルアーツ無く、情緒無く、天と地を結ぶのが工学などとうそぶいて、人類を破滅に導いたのは、無知な工学ではないのですか?

こんな事を言うと、それでは天変地異で絶滅しかかって、クルミの木を育て、地球環境のお伺いを立てていた縄文時代が良いのですかと、貴方は揚げ足を取るのでしょうね!それだから智慧が皆無だと言うのです。知恵と智慧は全く異なるし、知識と知恵も遥か遠くの関係にある。揚げ足を取る方々に説明する必要は無駄な行為なので、勝手な解釈をして頂ければ良いが、まぁ、有機水銀で人殺しをしたり、イタイイタイ病で人殺しをしたりするのも無知な工学だと言えば解るのかも知れない。

洪水や土石流を防ぐことで、人が住める土地を増やした。田畑を守ることが出来るようになった。で、どうなった?川から流れる筈の土地の栄養も植物の恵みも堰き止めて、地球の循環を破壊した、その通り。ではそれをしなかったら人は死滅したか?そうでは無い。しかし、耕作適地でお金を儲けたかったのでしょ?儲けるのであればリスクもあるでしょう。リスクを全て泡沫企業に押し付けて、生き血をすするのが工学なら、工学は人の世に何の笑顔をももたらしていない。

人だけが正しくて、循環世界の頂点に居ると思っているが、考えてみるが良い。地上が真平になって、何処にも耕作適地が無くなって、好き勝手に食料を作ろうと、他人の足を引っ張り合う世の中を。大学の知恵を産業界が生むGDPに変換せよとお上は怒鳴るわけだが、そもそも論として、智慧を生もうとしない方々に、知識も知恵も無駄なのだ。リベラルアーツを学ばない人民にとって、工学は殺人兵器でしか無いのだ。そこに大学とは何か?の答えがある。それだけのことだ。

半年

気がつけば6月も最後の日ですな。何やら怪しい伝染病があるらしいという話がネットでちらほら出てきて半年が経過、人類と経済との関係性、食料自給率の問題など、それこそ日頃これはまずいのでは無いのかと戯言で、それこそ「たわごと」を言っていたことが現実に起こってしまった感がある。まだ収束したわけではない。全く無い。これからどどっと感染者は増えてくるだろう。これも勝手な想像だが、変態を続けるウイルスのことだから、人間の手に負えない状態のものもあるのかもしれない。

日本らしく鎖国を続けたおかげで、型の異なるウイルスの流入はある程度防げていたのではないか?目に見えないからこれも勝手な想像になるのだが、いよいよ海外との扉を広げ、世界と物理的行き来が始まるわけで、こうなってくると、どうなることやらである。食料品の輸入もあろう。電子機器に張り付いて入ってくるかも知れない。このように疑い始めると、もう何も出来なくなってしまうわけだが、さりとて、いきなり「空気が欲しい」と倒れるわけにはいかない。

昨日の続きではないのだが、やっぱり誰のせいでもないのだ。目に見えないのだから、何を言っても想像になってしまう。しかも主観的想像だから始末が悪い。客観的データなど何処にも無いのだ。事実、感染経路が不明な感染者が毎日、報告の半数以上になっているではないか。米国の数万人規模からすれば圧倒的に少ないのは事実だが、比較などしている場合ではない。ゼロ人ではないのだから、恐ろしい数だと認識するべきだ。

今年の正月の時点で、今日のような社会情勢になっているとは思考が及ばなかったことが情けないわけだが、経験を積んだわけであって、これを無駄にしてはならない。泣き言ではなく、どうやって前に進むかである。46億歳の地球からすればほんの半年だが、100年しか生きない人間にとっては貴重で長い半年である。この間に得た経験とはなにか?じっくりと考えてみるべきだ。

誰の「せい」?

つい、誰かの「せい」にしたがる。プライドとか経歴とかポジションとか、面倒なものが「せい」の発生源を自分以外に作り出そうとする。しかしその「せい」を知っている人は、その根源が自分にあったことを熟知している。熟知しているのだけれど、そのレベルが心の奥底にあるが故に「蓋」を被せて見えなくしてしまう。どんどん蓋の内側が膨れ上がって、それがいつしか破裂する。パンドラの箱を開けるのは自分自身だ。その時、心の内側に希望が残っていれば救われるというものだ。

最善って何かと言えば、相手を最大限に慮って尊敬し、その結果、持ち得る時間を最大限に活用した時、もうこれ以上盛り込むと全てが破綻するという限界に目標を設置し、活動を計画出来た時、そこで生み出せる相手の最大の笑顔が最善である。自らの成した行動ではないのだ。自分が成した行動に最善を求めると、そこには「せい」が発生するし、心のパンドラの箱の蓋を押し上げる。自分を大切にするということは相手の最大の笑顔に関わらせて頂きたいと願うことなのだと、なんとなくだが想うようになってきた。

当事者意識なんて単語を久しぶりに使ったわけだが、「他人事」は年中使っている気がする。いや、間違いなく使っているのだ。自分が体験して見ないと、同じ体験をしている人の苦しみは解りようが無いし、それこそ自らが任せられている職務の最善を考えると、時間を奪われたくないという考えが先に立ち「他人事」モードに入っていく。しかしそれで本当に良いのですかね?人間というたった100年で命が尽きる生命体が、あれもこれもやる必要があるんですかね?

聖人君子ばっかりの世の中は面白く無いと思ってしまう事自体が、自分自身が一度も聖人君子に成れたことが無いから生まれ出る思いだが、それらの人達にとっては心の豊かさを尊敬仕合、全ての事柄に当事者意識を持ち合って接していらっしゃるのだろうから、それはとても愉快な状態なんだろうなと、今日は少し頑張って、明日も少し頑張って、いつかは当事者意識に満ちた人に為ったとしたら、見える世界があるのだろうと信じつつ、心の底の蓋を取り払ってみたいものだと想う私であります。

明日を想う

ネットニュースをながめていると、今まで当たり前であったことがそうでは無いことが明確になる。自らはもの凄く頑張っているつもりで、契約更新だろうと思っていたら、社会が圧倒的に進み過ぎて、ごめんなさいということになる。ここまでのお話で、あぁ、お前は悪い奴だと仰る方に申し上げたい。貴方は今日の、たった今、税金を使って生きている価値があるのですか?要するにそういうことだ。

社会は言う。明日の価値が無いならば、国民は認めないと。小生は思う。そんな奴は国民ではない。要するに、天下国家は今、明日では無いのだ。それは企業が考えることで、学者はもっと先でなければならないのだ。しかし、マスコミも為政者も、今、銭に転換出来ることのみをイノベーションと呼び、それだけを尊ぶ風潮が消えない。こう書くと、何だか擁護者のようだが、それは全く見当違いだ。基礎とは未来である。重箱の隅では無い。

解りやすく言えば、基礎学問として表彰されるような方々は、即ち、素晴らしいのだ。要約を頂ければ、そりゃぁすごいとなるのだ。こんなに凄いから、なんとかしろというお話は、経験上、あぁ、そうですね、社会は受け入れないのですねとなる。瞬間最大風速的に素晴らしい研究も、グローバルな競争下で、次から次へと要求が厳しくなる世界においては、昨日の知財は今日のゴミである。大事に温めて頂いても、何も産まれない。

大学は変わっていく。去年とも、この3月ともまるで違う状況にある。自らの学理が天下を従えると仰るならば、具体的に示して頂けませんか?関わるお企業に「もう要りません」と裏で言われながら、最高だと叫ぶのは如何なものか。これは誰しもが自戒するべきなのだが、時間の流れが自分と世界とで全く異なることに気が付かないのだ。今に固執されるのですね、そうですか、さようなら、明日を語る方々と、未来に挑みます。そんなもんだ。

骨太か?

全て自社の内製ですって道具がその昔は結構あった。少し緩めると全て国産って具合に、まぁ、分業体制ということですな。それがグローバルな部品展開になり、企画者はアッセンブリーに特化して、部品はその他大勢のお仕事という具合に、難しくて面倒で、コストが掛かることは外に出す仕掛けが当たり前の世の中になった。まぁ、パソコンなんて、液晶から半導体デバイスから電池から、何から何まで自社製品というのは極めて困難であろう。不可能では無かろうが、全て世界トップレベルであるってそうそう出来ないからね。分業になる。

iPhoneが極端な事例で、OSとそれを駆動するCPUを共に設計している。これはなかなか大変なことで、コストとスピード感ということで分業体制になっていたものを、本当に成し遂げたいことをしたいから独自路線にいくという状況に踏み込んだ。製品性能を決定づけるところを自社で作り込むことができれば、スピードと価格の両方を支配できる。ものづくりにおいては理想なのだが、それをやれるところが流石にAppleだなと感心するわけです。いよいよMacにもその方式を乗せていくという。

バリューチェーンがどうのこうのと、天災の毎に話題になるわけだが、シュリンクさせて内製化するという思い切った戦術に出てくる、元気のある企業がとんと日本ではお目に掛かれない。時間的、人的、そして物品的コストを考えれば、力を持った人に頼るのが普通の考えなのだけれど、一歩間違えると「もう、明日から仕事は頼みません」と言われる可能性が極めて高いところでせめぎ合わないといけない。今日、補助金でしのいでも、明日、必要とされるかどうか解らない。

結局の所、挑戦し続けないと明日は自らの絶望という鏡の姿に恐れおののくしか無いのだ。ソフトもハードも両方必要なわけだが、その両方が共に進化していかないと望むものが出来ない。だったら両方共やってしまおうという、巨人の成せる技に立ち向かうには、「こちとらベテランだ!」と威張るだけでは駄目なのだ。理想の状態にどうやったら近づけるのか。自らの技に新しい知恵との相互作用を加えていく。今、既に日の目を見ているようでは明日は無い。だから大学がある、と、胸を張って言えなければならない。そう自らを攻め立て続けなければならない。そう感じてる。

量子力学

講義で使うわけではないのだが、量子力学の本を買ってみた。量子力学が解ると言う奴に解っている輩は居ないという名言があるが、確かにその通りだと思う。極微の世界の出来事の不確定性というものは、観測できるのだか出来ないのだか、それが明確に成らないところに愉快さがある。決まらないから頑張れるというやつだね。数式でぐりぐりやって、数学的に美しいから、それが正しいのだという圧力には嫌気がさすのだが、確かに、美しいから仕方がない。

エネルギーの質点がゆらいで宇宙が出来たわけだが、物質と半物質がせめぎ合って、質量はないけどエネルギーはあるみたいなところのバランスが崩れてどっかぁんと質量が湧いて出たというわけだけど(思い切りいい加減な説明ですからね)元来、宇宙を形作るものは同質のものでは無く、正負なんて甘優しいものでもなく、1+1=0なんだけど0ではないみたいな、そんな揺らぎがあるからこその人間社会なのかなと、論理を飛躍させてみたいわけだ。

昨日の新聞に人類は食事の場を持つことで仲良くなるというようなお話が掲載されていたのだが、まぁ、かくあるかなとは思うのだ。それがコロナ禍で断絶されて社会がギスギスしてきたというお話には納得するものがある。光があるところに銀塩が集まったり集まらなかったりして写真というものが出来たように、光あるところに人が集い、そして想い出が出来るというようなことはあってもよかろう。そんなことを考えていて買ってみたのが量子力学であったわけだ。

哲学の書物も良い、数学も良いのだが、なんだかわけがわからないことを難しく、誰にも解らないように先人が解説している書物に触れると、どんなに逆立ちしても先人には叶わないなと思うのだ。それが愉快なのだ。解らないのが良いのだ。極微の時間的変化を考えずに生きていられるならばどんなにか幸せか。今、社会において不確定性が満ちているわけだが、そんなことを理解しようと試みるのも量子力学を理解しようとする凡夫の愚かさかと苦笑いである。でも面白いのは事実である。だから社会活動も面白い。そう考えてみたいのだ。

緊急車両にて

「交差点に救急車が入ります」と叫んでも、道行く車は停まってくれない。決して、お願いに対して言うことを聞いて欲しいという状況ではない、停まって緊急車両を先に通過させるのがルールだったはずだと、思わず、教則本を読み直したくなる程に緊急車両を先に行かさない。昨日、吹上で見た光景なのだが、これ、愛知県のあちこちで見かけ、そして体験する出来事なのだ。自動車を大量に作っている県は、人の命より、運転手の都合が優先されるらしい。恐ろしいことである。

優しい、優しくないということではない。思いやりとか、そんなレベルのことではない。当たり前のことをしてはどうかと思うだけだ。当たり前のことが当たり前ではないと思っている、こちらの当たり前が当たり前では無いということだろう。うん、そうに違いない。自分では気がついていないが、とんでもなく非常識なことをしているのだろうと、恐ろしくなってくる。

細い路地から突然車が飛び出してきて、睨まれるなんていうのは日常茶飯事だ。自転車に対して幅寄せなんて当たり前。もっともこれは、自転車での走行者のマナーも異常だから仕方がないのかもしれない。逆走なんて当たり前だ。軽車両であるから、自動車と同じ道路の位置を保たねばならないのだが、正面衝突になりそうなことが、自転車通勤中に必ずある。もう諦めた。こちらの命はこちらで守らねばならない。

救急車に乗っていて、渋滞に巻き込まれて病院に生前にたどり着けないことが東京では日常的だと、その昔、とある時に聞いた。日曜日の朝だから間に合ったとのこと。成る程と思う。既に満員の地下鉄ではあるが、東京の朝夕のラッシュから比べればまだまだ余裕がある。でもそれが当たり前と思ってしまっているのだが、公共サービスの効率のためかもしれないが、ネットワーク上でお仕事をして、世界的に高いレベルのお仕事を作り出しこなしていく工夫が何処かからか発生しても良かろうとは思うのだ。文化レベルを上げませんか。立ち往生する救急車を見てそう感じた。

世界第160位

経済状況に大きな不安があると論じられているわけです。この19日以降の他県への行き来解除で、日本中の観光地が5割から8割の賑わいを取り戻したということで、どん底からは回復基調にあるのかなと思ったりもするわけですが、しばらくはおっかなびっくりの状況なのでしょう。土曜日に例によって買い出しに出たのですが、それこそ他県ナンバーが街中に溢れ、交差点の渋滞が戻ってきてびっくりいたしました。恐らく、多くの方が同様の光景に出会っていたことでありましょう。

言いつけを守るというのが現代日本人の特性なんですかね。ずっと抑圧された生活が続き、遺伝子に為政者への恐怖心が埋め込まれてしまっているのかもしれない。至誠の人とは言うけれど、真の勇者を目指せという教育は戦前までであり、今の時代にそんなことを言おうものならどれだけ叩かれるか。小生的にはそっちを目指したいわけですけどね。で、たまたま目にした数値で面白いなと思ったのが、日本は真に輸出大国か?という根拠。輸出総額はご存知の通り世界第4位で、自動車産業を中核として外貨獲得に大いに貢献をしているのは事実。一方、対GDP比に直すと世界第160位で、世界に国っていくつあったっけ?と愕然とするわけです。

国民総生産に対する輸出金額ってそんなに小さかったのかと驚かされたわけです。輸出大国なんてとんでもない幻影。中小企業が多いわけですから、生産性が低いのは間違いないわけです。投入した資源に対するアウトプットが生産性であって、中小企業においては大企業の41%の生産性となっているという統計がある。手間を減らそうではなく、根性で乗り切ろうとなってしまうと、一気に生産性が落ちるわけで、知恵を現場に皆で投入しましょうということなのですが、小規模であればあるほど実現しないといけないのに、根性方向に行ってしまっているということですな。

派遣企業と5年雇止めの議論は常に中途半端なところで空転するわけですが、雇用される側のセーフティーネットを築かずに非正規雇用者を増やす規制緩和をしたわけです。雇用する側が強大な力を持つことを加速させ、我が国の労働生産性は世界の20位程度(数字根拠に疑念があるので、程度という表現をさせて頂いています)というところに収まっている。顔が見えないと労働していないと思う年配上司が多いことからもそれは明らかでありましょう。世界の笑顔を導く技術を輸出できるような、基礎的技術力を圧倒的に高めていく教育に力を注ぎ込まないといけないわけで、低賃金の国民に旅をして金を使えという謎の政策が出てくる国ってなんなのだろうと感じた、世界第160位に嘆いた私であります。

梅雨に思う

梅雨の晴れ間は異様に暑い。湿度が高く風がなく、読書意欲を奪い去る空気感が凄い。であれば、何か他の事に集中しようとするが、額から汗が滴り続け、正に、滴るというレベルではなく、細めた蛇口の如くに汗が流れ落ちるのだ。こうなると、もう、願う作業は叶わない。はちまきなどの意欲もなく、まぁ、どぉにでもなれという、勢いだけの作業になってしまう。しかし、これが面白い。集中してきっちりとしたお仕事になるのだ。

まぁ、いろいろ思うところはあるのだが、当間だがコスト計算はしなければならない。いや、研究室の教員がコスト計算をしてはならない。当たり前である。百万時間の没頭が生む素晴らしさを知っている。体験している。そのコストなど思ったことはない。それを専業にする者がいるのだから、そいつらに任せれば良いのだ。専業の度合いあ低く、ご迷惑を撒き散らしていることには反省しきりなのだが、専門人事の存在価値は間違いなくある。

と・・人材派遣企業等々、甘ったれて逃げていたわけだな。現政権も、大企業の売上に貢献させるべく、期間従業員は5年で解雇すれば良いと決め、技術の伝承、新規技術の創出が、若い、フレッシュな頭脳から生まれても「解雇」という流れを肯定してきた。勿論、そのパターンだけではないのだが。必死に頑張り、明日はもっと良い仕事にチャレンジできる環境を共に創り出せる、小生が求める職場の有り様はそれなのだが、世の中はそれを求めることはない。

情けないことに、久しぶりに、この地域の小麦粉を打って、うどんを作り食べてみた。圧倒的な美味しさである。とある、添加物を極小にした製品を販売するマーケットのうどんで満足していたが、真実の前には自堕落であった。反省である。慣れは真実から自らを遠ざける。これは誰にとっても同じなのだ。「まつりごと」の恐怖は、慣れである。慣れない。だから新しい。挑戦を続けるのだ。それが小生のあり方である。止まっているようなら、ご指摘下さい。バトンはどうぞ、やってください。