緊急事態

ゴミ収集車という特殊車両がある。全ての家庭が何をしているのかを知っている車と言っても過言では無かろう。それを知りたいとかそんな破廉恥な事を思っているのではない。真逆である。それ以外の事は大したことは無い。要するに、家の外で行っていることはオープンで良いのだ。

突然、102兆円をばらまきますよと、2枚のマスクで青息吐息だった人の口から飛び出してくると、何が起こったのかと勘繰りたくなる。ロックダウンはしないレベルであれば、それ程のばらまきを後世に借金を回す必要があるのか?ちぐはぐなのである。緊急事態となっても仕事を普通にしていなさいとはなんだろうか?

記憶に残さなければならないのだと思う。目に見えない戦いと言えば、ジュールベルクの宇宙戦争だろうが、あれは攻めてきた側がウイルスにやられたという結末なのだが、自らの星で発生している見えない生命体と共生しようとしている過程である。

汚染された環境にさらされたことの無い1980年以降の皆様と、それ以前の人達との差があるのかと思ったのだが、肺炎となると差別も区別も無く襲ってくる。肺炎は恐ろしいのだ。現時点において、何故か日本と言う国の中では罹患者が少ない。油断は禁物である。調子が変だと思ったら、遠慮はいらない。医局、保健所に行ってください。よろしくお願いします。

粛々と謙虚に

GMとホンダ社の連携は、コア技術開発に人とお金と時間を投入してこなかった国の末路を見るようだ。共同開発と言っても、走行とシステムに必要な部分はGM、お化粧部分はホンダという色分けで、要するに見せかけの部分はやらせてあげるよという構図だ。

スマホでは部品は日本、外装とシステムは海外という構図で、似ていると言えばそうだ。要素技術と顧客に対するシステム戦略を打てない国ということだ。胸を張ってユーザーの感動を約束すると言えない国だということだ。残るはデジタルカメラ陣営ということだが、これとても、リアルタイム映像配信カメラの進化、4K、8K動画の撮影と映像化が当たり前になってきた時代においいて、その地位は極めて危ういと感じる。

オンライン授業を展開しようとなったとき、持たざる者への配慮はどうするのかということが最初に上がり、社会インフラが整っていないということが二の矢として飛んでくる。コンテンツの優良化と学習効果の確認という本質が箸休めになってしまう。マスク2枚や30万円の自己申告配布よりも、国力としての人材育成に何故に税金を回さないのか。

一丸となって教育組織としての役割を果たす。現状における最良の方向性は何かを共有して粛々と活動するしか無いのだ。教育機関全体としての方針が親会社からは「各自に任せる」という大方針以外出ていない以上、今、最善を尽くす。未来から見た時に、あれで良かったのだと思えるように思考する。それしかない。

学ぶ機会

5Gの産業活用が漸く始まってきた。電波の受発信施設を工場所内に設置し、ワイヤの束が走り回っていた工場がすっきりし、デジタルトランスフォーメーションが勝手に達成されるというおまけがついてくる。必然の流れが情報の高密度化によって後押しされている形だ。スマホの5G化よりも本質的だと思う。紙のやり取りを無くしていく方向は美しい。

紙が大好きという方が未だに多い。お役所などはその最たるものであって、印鑑というこれまた不可思議な物体が神格化され、責任の押し付け合いをするわけだ。組織としての信頼感の表れでもあるのだが、これがいつまで続くのだろうか?

東京では日に日に感染者が増えていく。この流れもデジタルトランスフォーメーションを加速する。大学の講義も大略、その方向に向かって行っている。学生のサボタージュを奨励しているわけではない。きちんと必要な情報を伝達する技術と、理解しようとする熱意のキャッチボールによって成り立つ、これも組織としての信頼感である。

習うより慣れよなのだ。慣れれば良いのだ。ただ、慣れるためには面白くないと、慣れるところまで続かない。面白く無くても続けていくことが大切である。表に出歩くと批判される毎日である。コツコツと学びなおすのも悪くない。何歳になっても手習いが必要である。こつこつ学びたい。そう思う。

新しい事

全てが新しい。そんなことは有り得ない。それは人間が毎日を創造的に過ごしてきたから。創造とは美しい。全くもって素晴らしいのだ。

何も足さない、何も引かないというのは、ウイスキーの原点だそうだ。マッサンで有名なあの人が、それを思い続けて一つのものを作り上げた。この、作り上げるという行為こそ、工学である。

バーチャルでも良いのかもしれない。しかし、一つのイメージを追い求めて、何十年と時を重ねて作り上げた、その形を持った夢の美しさ。小生はそう思うのだ。やはり形が良い。

古いなぁと思う。しかし、古くても良いではないか。黒曜石の刃物の鋭さ。縄文人を現代人は超えていない。多くの分野で縄文人を超えられていないのではないか。文明が怠惰をもたらすならば、発展は決して無い。今こそ丁寧に。コロナ禍を乗り越える。それは今の人間がやることだ。頭と心を使いましょう。それだけだ。

やはり一歩一歩

4月1日である。本降りの雨になるという天気予報である。まぁ、花見をするわけではないし、大気が奇麗になるなという気持ちでいこうではないか。行く人、来る人ということで、人事的移動が大々的に行われる。コロナ禍で様々な行事がでんぐり返っているのだが、だからこそ、何かを生み出さなければならない。

Web会議が頻繁に行われるが、この時代においても、音が途切れ途切れで、イラつく事、甚だしい。こんなところにもビジネスチャンスがあるだろう。特別なツールではなく、単純な奴がいい。Windows OSにくっついているような奴が良い。それが普通に使えたらそれで良いのだ。

もっともっと単純が良い。所信表明なんかも、文字一杯のプレゼンではなく、画面にガラガラのシートが映るくらいがちょうど良いのだ。そもそも人の話は単純が良い。単純なものには嘘が少ない。無いとは言わないが、嘘をつきようがないくらいが良いのだ。そんなことを心掛けたい。

パンデミックという世界情勢の中、新年度が始まった。こんな状況を体験するのは初めての事。まだまだ収まってはいない。きっちり栄養を取って、体の内側から活力を湧き出さねばならぬ。そんな年度当初。一歩一歩である。

年度末

3月末日となった。ここまで新型云々のお話が大きくなると思った人は誰も居なかったのではないか?先のインフルエンザの世界的流行時ですら、日本はある意味蚊帳の外。それもあるが、日本人は世界的大騒動にうといのではないか?

名古屋駅に出てみれば、どどどっと人の列。おいおい、それって所謂濃厚接触ではないのか?まぁ、肺炎にならなければ良いのか?とも思ってしまうのだが、13人しか感染者が見出されていないからという、お粗末観測結果の末の数値でないことを祈るというか、願うばかりだ。

八時だよ・・という同じ思いを抱いた方々は多かろう。ある意味、スターだ。それはそうだ。大きなたらいが頭の上に降ってくる。それを受け止めてみなさいよ。何十年もそんな技をやってこられた方が亡くなった。

あっという間なのである。身内にもそんな病人がいた。だからということではない。肺炎は恐ろしいのだ。素直に恐怖しなければならない。年度が変わるからどうのこうのではないのだ。皆、更に気を付ける。そう願いたい。お願いだから丁寧なうがいと手洗い。それだけで良いのだ。頼みます。

デスクライト

Windowsで時々日本語IMEが立ち上がらなくなり、ローマ字の羅列でがくっとくる。時々発生するので「またか」ということで、右クリックでアイコンをタッチして、復活させて忘れ去る。流石に社会がこれだけ騒いできて、名古屋もかなりの危険性をはらんでいるとなると、帰宅後の石鹸での手洗い、うがいを欠かさないようになる。と、言うか、元々そうだったのを意識するようになったということかもしれない。

徐々にではあるが、身の回りの物品を断捨離し始めた。ただ、世間で言う程の断捨離には程遠いのだが、それでもコツコツと捨て始めた。ゴミの分別出しのルールが無ければ片っ端から捨てているかもしれない。きっかけは電気スタンドである。このスタンドには若干の想い出がある。31年間、手元を照らし続けてくれた。

大学院の4年生の時(小生は5年制大学院であった)、就職活動を始めていたわけだが、とある電子部品メーカーの門を叩いたら『あんたはうちなんかに来ないで、もっと学問を追求しなさい』と、当時珍しかった、高周波でちらつきを抑えるという最新型の同社製品をプレゼントして下さった。31年、一晩中働いてくれたのだが、いざ、退職届を出したら途端に高周波チップが壊れた。分解チェックはお仕事柄で、これはご臨終だなと。

言霊である。学問を追求し続けた間は手元を照らしてくれたが、そのお役を去るとなった途端のお別れである。終わりが始まりとはよく言ったものだ。感謝の一言である。電気製品が30年以上も動き続けた。勿論、省エネという観点では外れる製品だから、利用が正しかったかどうかは分からないが、それでも想い出は美しいのだ。そんなものづくりにいろいろな形で関わりたい。信念として持ち続ける。そんな想いだ。

とある学者っぽい方が2月末にこんなことをおっしゃっていた。情報が欠落していた頃だったから、小生もそうなのかなと思ってしまった。「コロナウイルスは所詮、普通の風邪レベルであって、インフルエンザと比較するとゴミのようなものだ」と。

小生もそう思った。重篤化しなければ大したことは無いのだと。ところがそんなことはない。書物でしか知らないスペイン風邪的な恐ろしさがある。いや、現代医学がある中での恐怖である。これはとんでもない事だ。それを「所詮、風邪のウイルスであるから恐れることは無い」と学者風をふかして世の中を惑わしたTV学者の何とおぞましいことか。

学者の有り様の怖さである。自らが取得したデータを基に会話するのであれば良いが、世の中に点在するデータを整理して、あたかも自らの信念に基づいて取得したかの如くに「マスコミデータ」を信じて世の中を扇動するおぞましさ。改めて「自らを信じる」学者の有り様を学んだ。

巧言令色鮮し仁。祖母が年がら年中語っていた。それを思い出し、先人たるものの有り様を改めて学ぶ。耳に心地良い言葉はいらない。真実こそ学者が伝えることであり、自らが生成し、そして解釈し、発信しなければならない。当たり前なのだが、人間なのだが奉られるとろくなことは無い。学びは深い。そんなところだ。

週末から?

とある偉い方は仰る。不要不急の外出はするなという。しかしそれは週末からだ。働く奴は時間差通勤をしろという。ずっと始発に乗って仕事場に向かっているから、とっくの昔から時間差通勤なのだが、そんなに都合良く、通勤時間を変えられる人がいらっしゃるとは思えない。

成果から考えると、それをどのように得るかが問題であって、通勤なんてなんでするの?となってくる。山奥でウエブミーティングに参加して、それで事務所通いの方よりも企業にとっての収益をあげている人がいらっしゃるのであれば、それは給与が上がって当然である。通ってこないから、給与削減だよというのは真逆の考えだ。要は収益と働き方をしっかりと分析、定量評価し改善せよと言う事だ。

今の行動が収益に直結している場合に、上記の思考は当てはまるわけだが、提案企画が全て当たる世界など無いと思っているのだが、そんなことがある世界が、ひょっとすると世の中にあるのかもしれない。企画の元のアイデアなんて、何処で出てくるか?職場である可能性の方が少ないのではないのか?それが働き方改革の本質だろう。

昨日、とあることからお昼前に職場に入ったのだが、その途中で咲き始めた桜を見た。薄暮の桜とは違い、燦然と輝くその姿に圧倒される。期待されてもそれを圧倒する迫力。期待されたことなど無い自らにとって、尊敬の的でしかない。パンデミックが終焉を迎えることを前提とするよりも、今だからこそ出来ること、考えることがあろう。反省もその一つだ。活動する。それしかない。

目的と手段

そもそも論として、今更のデジタルトランスフォーメーションの論議である。IoTで数値をかき集め、AIで幸せになれるに違いないという幻想に踊らされ、リアルなものづくりから離れていく様は、大風の中、落ち葉を箒ではく姿を見るようだ。どうありたい、どうなりたいというビジョンを持たず、単にデジタル化しましょうと言っても明るいゴールは無かろう。

根性論で、「社長の決断が必要です」なぁんて文字が躍るハウツー冊子がお偉いさんの団体から出されているのを見て、溜息と失笑しか出てこない。そりゃぁデジタル化しないよりはした方がなんぼか良いでしょうよ。ただ、本当になりたい姿を描かないでデジタル化するのか?

昨日、とあるお役所に、開所時間前から飛び込んで顰蹙を買ったわけだが、だぁっと並ぶ方々を見て、「ビジョンがありますか?」と尋ねて歩いてみたくなった。なったが止めた。恐らくそれは無い。無いからそこに居らっしゃるのだろう。明日は我が身である。日本の縮図の中に閉じ込められてはならない。

会議の調整すら紙ベースだったり、メールでの確認だったり。2か月分の空き時間の予定を教えてくれなんてところも未だにざらである。いちいち〇×を付けている時間のなんと無駄な事か。トランスフォーメーションの先に何が見えているのか。今をしのぐことが目的ではない。手段と目的を置き換えてしまうことの何と多い事か。結論と因果を混同する輩の何と多い事か。ツールに踊らされてはならない。そう思う。