道州制を考える

某お役所の方とお話をさせて頂いたのだが、地方の概念を変えていかないといけませんねという話題になった。地方色と言った時に、道州制のレベル感と、村レベルのどちらかですねと。一県単位は中途半端、そこに特色を求めるのであれば、村レベルの狭い範囲で尖がるべきだし、州ということであれば県のレベルで尖ったものを複合化させて提案がなされるべきであると。そうなると各大学の色も『必要』なものになる。

愛知県と言ったって、名古屋港の工業製品輸出量が日本一ですねとなるわけですけど、自動車だけに限ってみても、愛知県下だけ部品等々、全てのものが賄えているわけでは無い。むしろ、そうではなくて、尖った技術の集合体であったほうが、競争力は高くなるだろう。世界的に見て尖った技術力の集合体しか売り物にならないわけだから、過去の因習というものに囚われたものは不要である。

直ぐに冷たいだの何だのと言われるのだけれども、価値から考えて、それを実現出来ないものを作っているのであれば、それは原料の無駄遣いに過ぎないし、共倒れは最も回避するべきである。ちょっと古いけど安くしておくよという営業トークは成立しない。

一人で考えていても、その思考の範囲は極めて狭い。だからこそのコンソーシアムであり、社会における喜びを創造する枠組みである。その枠組みは地域で尖がった方々の集合体であれば素晴らしい。疲れたなどと言ってはいられない。厳しい現実である。

時代は変わっていますよ

民間企業が研究開発費を出し渋るということを常に言っているわけですが、まぁ、当然の気もするのです。日本全体の購買力というか購買機運が下がり切って安定しているところに、何かを新しく開発しようという会社のトップが居るのであれば、それは稀なことに決まっているわけですよ。配当だけが欲しい株主対応に追われているわけで、どうやって今をしのぐかに必死な企業群に、研究開発費を積んでくださいというのは乾いたぞうきんを絞ってくださいと言うのに等しい。

木の時代、石の時代、金属の時代、情報の時代と進んできた先に何があるのか?その問い掛けの答えは極めて空想めいて、口に出すのもはばかられる。情報と言う、それ単体ではほぼ意味の無いものに価値を与えるアルゴリズムが最も高価なポジションを得ているわけで、それよりも付加価値の高いものを探し出せというのはなかなか困難である。

特に、行動経済成長期という謎の時期を生き抜いてこられた方々は、努力によって物的充実感と精神的充実感を得てこられたわけだが、大概のものが最低限は揃っている社会において、物的充実感をどのように得るのか。提供することによって得る対価は何か?キャッシュレス云々で繰り広げられる手数料徴取軍団にどうやって勝つのか?

3畳一間で満足を得ている人々が急増している現状において、工学が持つ意味合いをどのように高めていくのか。何を学び、それを活かすのか。大企業と呼ばれる護送船団が何を護っているのか?世界の30歳代以下の方々に掛かっている。そう実感している。

観光地に想う

先日、宮崎県に出張した。Y氏の頑張りはなかなかのもので、上々である。頼もしい限りである。お仕事のお話はこれくらいにして旅のお話。既に大勢の方々に喋り捲っているので新鮮味は無いのだが、何となく記録しておこうかなと言うところ。コロナウイルス絡みになってしまうのは仕方のないところか。

宮崎にお出掛けするのは8年ぶり。8年の年月は主要都市の景観をかなり変えていくのが通常ですが、宮崎市内は駅前再開発が進んでいる最中で、記憶の通りの街角でほっと致しました。それはそれで良いのですが、金山からのお話。季節的なこともあるのかもしれませんが、ミュースカイががらがら。驚く程に空いていて実に奇妙。そして、社内はマスクを装着した人だらけ。かく言う小生もご同輩ですが。

空港に着いてみると、これまたマスクだらけ。受付の方々もマスクを装着されていたのが印象的でした。加えて驚くことに、ゲートががらがら。なんだかんだ言っても旅行客が多いのだろうと思っていたのですが、誰も居ないゲートがある程。実にスムーズに入港出来ました。記憶に無い光景で、時間つぶしのコーヒーを飲むエリアもがらがらで、これはこれでゆっくりくつろげました。

これこそ季節的なことかもしれませんが、以前は普通のジェット機だった名古屋ー宮崎便がプロペラ機に変身。秋田に行くのかと思ってしまいましたよ。しかも往復共にお隣さんレスの快適空間。街中もがらがら、一体、人は何処に行ってしまったのでしょうかと、日本中の観光地がご同様だとすると、近年の観光地が、如何に隣国依存であったかを実感した次第。余りにもスムーズな移動に拍子抜けはしたものの、これから更に猛威を振るうであろうコロナウイルス対策をしっかりせねばと思うのですが、皆さん、お気をつけて。

夢?

時々思い出す核融合による無限のエネルギー発生。重水素と三重水素の核融合反応を連続的に発生させて、人工太陽を地上に作ろうという壮大な計画である。燃料1gで石油8トンを燃やして得られるエネルギーを発生させるのだが、水素を1g集めるって結構な量ではあるのだが、原理的には可能ではある。

日本では量子科学技術研究開発機構が頑張っていらっしゃるが、熱エネルギーを生み出してタービンを回すという原理は火力発電や原子力発電と変わらない。なんだか新しみが無いなと思う。地上に太陽を作って大丈夫かと言う心配事も、これまた延々と言われていることだが、小生が生きている間には完成しないのではないかと思ったりもする。

入れたエネルギーよりも大きなエネルギーを取り出し続けなければならないわけで、永久機関の魔法を見せられているような、そんな気分にもなるのだが、核融合とは通常のエネルギー発生とは全く異なる概念だから、それは夢を見続けたいと、少しは思ってはいる。

夢が少ないというか殆ど無いというのが現代社会であるから、少しは夢があったほうが良い。いや、多くあった方が良い。その昔(今でもあるのかな?)、ガマの油売り大学には四六のガマからしゃれで付けた「ガンマ―10」という核融合実験施設があった。四と六を足してガマ10ということなのだそうだが、いつかはきっと出来ると信じていると、ひょっとすると出来るかもしれない。短期決戦だけの日本になっていると思ったが、そうでも無い人達が居る。それだけでもほっとする。爆発しないことを祈るだけだが。

技術廃棄国家

来年になると日本人女性の平均年齢が50歳に到達するとかしないとか。凄いお話である。短期的にも不景気で、将来を長い目で見ましょうなんていう風潮は全く無い。何かを作ろうかなと思っても、「数が多いもの」が海外製品だったりサービスだったりするのだから、お金儲けはもう無理だ。

ドローンを見てもわかるように、先進的な技術があったのに「あれは危険だからダメ」という法律を作って、技術を捨てる方向に行く。検索エンジンは著作権法違反であるという国民の声で、結局のところ、海外のものを採用する。日本の行政・政治は日本産のアイデアは破棄して、育てることは決してしない。

大企業が新しい事に挑戦しない根本原因がそんなところにあるような気もする。大企業がクラウドファンディングでお金を集めて製品作りをしている現状は悲惨としか思えない。高齢者が過半数を占める時、多数決社会において、新しい意見は完全に抹殺されるのだろう。益々新しいサービスが生まれにくい国になっていくのだろうなと思う。

精神衛生的に何かを変えていくというのが性分に合っているのだが、それが全く不能になっていくのであれば、もう、何処かに逃げ出すしかないのだろう。しかし、遺伝子的にそれに対しても拒否反応を示す。何が何でも長期的視野を持つ。そう考えて毎日を過ごすしかない。息苦しい。

何をするか?

火山が噴火し、地震が頻発、アフリカではバッタの群れが食料不足を引き起こす。なんだか、モーゼの予言みたいなことが世界で頻発している。新型コロナウイルスもその範疇か?世界中で暗い話ばかりで、ニュースを見る気にもなれない。だからこそ、何か明るい話題が欲しいわけだが、そんなものはそう簡単には落ちてはいない。

いきなり目の前が明るくなるようなデバイスの登場を期待しても、そんなものは当分は出てきそうにない。5Gのお話にしても、噂先行で出てくる前に既に飽きてしまった気分になっている。びっくり箱の楽しさが無くなっている。勿論、びっくり箱を受け入れられるような世界では無くなっていることは理解できる。突然の出来事が受け入れられないそんな世の中だ。

予言して、予告して、熟知させて登場させる。逆に、それが出来ないのであれば開発しないというのが、特に日本の大企業の姿勢に見える。挑戦などしない。売れると分かっているものにしか投資しない。その姿勢が明らかなのだから、1000個のデバイスで商売が成立するようなところに投資するしか無さそうに思えるのだが、それもしない。結局、何も作らず、何も売らずに消えていくのが日本という国なのかもしれない。

エコバッグになるハンカチとかね、そんなものが話題になるような空気感である。滲みにくいゲルインクとか、なんだか隙間にアイデアがどんどんと入っていく。かく言う小生も、1mmに金属刃物で1000本以上の線を引こうとか、隙間埋めにまっしぐらだ。それでも何かをしなければとは思う。そんな気分だけが先行している。そんな毎日だ。

パンデミック?

丁度、大学に入学した頃の友人との会話。「癌が治療できるようになったら、エイズと言う新しい不治の病が出てきたね」とはI君の話だ。SARSが出て、忘れ去られたら、新しいコロナウイルスが登場だ。既に中国全土に広がり、ヨーロッパでも発症している。日本への侵入も既にあり、これから発症者が増えだすことだろう。街の封印と言う、いわば鎖国だが、鎖国の江戸時代にあっても海外に出ていき、そして入ってきた事実がある以上、閉じ込めることは不可能だ。人は動く。

14億人の中国の皆様が、春節を活かして70万人程の個人観光の方が日本にやってくる。ビザの緩和もあり、観光ウエルカムの日本としては旅行を阻むわけはなく、リアルなパンデミックとなるのだろうかと、かなり恐怖を感じている。感染源は全く分かっていないが、人から人に感染するということが認められていることから、どうやったら防げるのか?

インフルエンザよりは感染力は弱いと「テレビでは言われている」のだが、変異を続けるウイルスであることから、ワクチンなどの情報も全くなく、感染者情報も本当に正しいのかどうかもわからない。情報が無いのだから、過剰に警戒しても仕方が無いのかもしれないが、怖いものは怖いのだから仕方がない。

潜伏期間は9日から14日間だそうだが、胃腸風邪やインフルエンザで弱った状況にあると、複合的に危険な状況になるとかならないとか。淡々と粛々と毎日を過ごすのみなのだが、手洗い、うがいくらいしか対処手法が無い。マスクも役に立つのか立たないのかも分からない。冷静に情報を判断して活動を考える。しばらくは警戒が必要とのこと。皆さま、ご自愛のほどを。

人事AI

久し振りに隣の街に出掛けてみると、道路が整備されていたり、橋がかけ直されたりして渋滞が緩和されて驚いてしまう。何処に行ったということはどうでも良いのだが、逆に、なんでこんな余計なものを作るのだろうと、日本の建築・土木にだけお金が落ちる状況に首をかしげる。確かに大きなお金は落ちるだろうが、ずっと維持費という固定費が発生する事業頼みの国で良いのか?

街が新しくなっているように見えるのだが、人が殆ど歩いていない。観光地っぽいところに出掛けてみても、空いているから嬉しいとは感じるが、収入が無ければ施設の維持は出来ないわけで、「こんなに働く人が居て、人件費はどうするのだろう」と心配になってしまう。道路が空いていると感じることは、移動している人が少なくなっていることの裏返しなのかもしれない。

そんなことは心配することは無いのだと言わんばかりに、高輪GW駅では無人のAI店舗が出来るそうで、いよいよ働く場所の削減も本格的に始まるのだなと実感させられる。人口減少などどこ吹く風。無人化とAIが働く場所を減らしてくれる。

人事査定をAIが行う流れも既に出来上がっている。どんな大学を卒業したかなどどうでも良くて、どんな能力を身に着けているかをAIが判定・判断し、採用が行われているとも聞く。全ての企業がそうなっているわけではないが、海外では当たり前の状況になってきている。常に学び続ける、働き方改革は学びが前提である。瞬間瞬間が過去となっていく。凄まじい世の中だ。

逃げ口上

身の回りにある情報源によれば、〇〇を食べると体の何処の状態が「良く」なるらしい。例えば血圧が下がるとか、動脈硬化が治るとか。「良く」なるというのは正しくマジックワードでありまして、「良く」なってもその数値は定量的には「悪い」のかもしれない。原因が解らないのに、良いも悪いも無いのだ。そんな関連性があるという事であって、諸悪の根源を断ち切るわけではないのだ。

「当たらない」役者を大根役者と言う訳だが、江戸の御代において、大根を食して腹痛を起こす人は居ない、だから「食当たり」しない、そこから当たらない役者を大根役者と言うと言われると、成る程、大根で調子を崩したことは無いかもしれない。えらいものである。身の回りにおいても大根で食中毒になりましたという人に出会っていないのだから、大根は食するに際して「食中毒に成る事例は現在見出されていない」という現象には行きつくことが出来るのかもしれない。反例が見いだせないのであれば、そこから原因に突き進むことも出来るかもしれない。

この思考の「原点」を見出すことが学者の務めの一つと思っている。ガマの油売り時代に「実験素材が足りません」と生意気を言った途端に「ここに無限に積んだら君は原因を言えるのか!」と怒鳴られたことを覚えている。これは脊髄に刻み込んでいる。思考停止をすり替えているだけだったと今は反省出来るのだが、その時は、ただただ恐縮しただけだった。

とある疑問に対して、調べてみるとごちゃまんと論文があったりする。それが様々な主張に彩られ、もう考える事など無いと決めつける。それが現象でしか無いにも関わらず、原因が究明されたと己惚れる。そして何とかしてくれと簡単に泣きつく。主観である感性に逃げることは簡単だ。しかし、客観の糸口は遠い。それで良いのだ。思考の原点に漸近していくことが大切だ。これまた一歩一歩である。己惚れてはならない。

自己責任の無い国

米国で$500、日本では\80000円。この差額が日本の特定保守管理医療機器認証に掛かるものだ。ハードウエアは同一で、どこで作っているのか知らないが、輸入だけでそれだけの価格差になる筈は無いのだから、許認可に対して排他的価格設定を取らざるを得ないということは明白である。

ご存知の通り、米国では医療費が極めて高額である。保険制度の関係であって、国の決めることだからとやかく言わない。一方、日本では自己責任で健康を保とう、自らの情報を得ようとしても、機器認証を得るための莫大な上納金が上乗せされた機器しか手に出来ない。海外の優秀な機器を得て、健康を維持しようとしてもそれは国家が認めない。

低い性能の機械を使って、見せかけの健康で喜んでいろと見下されているのだ。高額な医療費で国家が疲弊するベクトルは守り切ろうとするわけだ。「票」というものがあるからね。何処で何が作用しているのか突っ込まないことにはするのだが、余りにも気分が悪いでは無いか。あのApple Watchですら、日本では封印されている医療分野のツールが埋め込まれているのに使えない。

自らの健康の原因を突き止めようとしても、国家がそれを認めない。労働者平均年齢を上げていこうというのだから、それなりのケアは各自で必要であって、それを阻害して何が嬉しいのか?自己責任が問える国家と責任の所在が何処にあるのか分からない国家とどちらが成熟しているのか。余りにも未熟な国家に悲しくなる。そんなところだ。