学習しない民族

学び舎は夏休みである。50年前、まだ、夏と言う季節において30℃を超えることが「極暑」であった頃、プールなどというものはブルジョア階級の、未来永劫手の届かない、特権階級が集う場所であった。明治の時代に江の島周辺で、棒に掴まって海水に体を浸すことが健康増進の一助であった時代。なんと、穏やかなことか。一千万石、一千万人、その勘定からすると、一人が一念で食する米が一石だから、一千万石ということは一千万人が日本国民総数であったということだ。それが150年で10倍になっている。

人が命を保つ為に、どんな策略を巡らさないといけないか、例えば、地方への寄付金に返礼品の競争が発生するという、醜い、実に醜くばかげたルールを許可する、愚かな国家を仰ぎみる国民が、どのような将来を描けるというのか。そんな連中のみが投票している国家であるとするならば、もう、何もしないほうがよろしい。全て無駄である。

ここに学びとは何かが浮かび上がってくる。想像し得ない未来に向かって、恐怖とずるごかしさによって、何もしない、そう、君だ、そんなあなたは、この限界国家においては要らないのだ。そう、要らない。貴君の吐き出す炭酸ガスすら汚いのだ。やる気のなさを自慢するな。

夏休みとは、春からの勢いを反省する時間である。それを無為に稼ぐだけに費やして、自らの未来に投資をしない、誠にもって愚かな民が闊歩する世の中である。立ち止まって未来を恐怖するべき。それで良い。良いのです。天下国家、何も出来ないから投票しない、愚行である。不安で解を得ることが出来ない人生だからこそ、不安の中において選択するのだ。自らの決断を振り返ることができるようにするのだ。それすらしない52%の国民に告ぐ、自らの無駄な人生を刮目して反省せよ。それだけである。

絶対値を目指す

まぁ、我が国の選挙の在り方について何を言っても無駄だと言ってはそれこそ国民の資格は無かろう。税金という国家との契約金を払っている以上、国民であり続けないと損である。同じ損をするなら思い切り関わって、大損をするのが良かろう・・なぁんてやけっぱちになってはならない。冷静に静かに歩むことだ。

自らかっかして猛烈に強烈に歩んだ方が岡本太郎先生だが、その空気感は凄かった。そしてその方が存在したその部屋に入ると、そのオーラを今も感じることが出来、その猛烈な魂の波動を感じることが出来る人はきっと幸せだ。自らはまだまだ何もしていないことを理解できる。

まだまだ何もしていないからこれからも何もしないだろうと思うのか、これから何かやってみようと思うのか、どちらも本人に選択肢があるから楽ちんである。待っているだけで挑戦しない人には意味もない思考だが、くじけて転んで何をやっても上手くいかないなぁんて苦しんでいる方は、上手くいってそれを守りに入る愚か者になっていない幸せを感謝して受け止めると良い。自己満足など何の役にも立たない。

自己満足がつまらないのであれば、他人の満足を面白がってみては如何か。所詮は比較級の世の中である。絶対値を自分の中に作り込めていないのであれば、比較して己を蔑むしか能は無い。一度だけの人生である。他人の寝言にびくびくして、無知を嘆くより、自ら学んで足元を明るくして一歩一歩進むのがよろしい。いつか強烈に歩めるだろう。それを信じて学び続けることが必要だ。そんなところだ。

料理

料理と調理と言う言葉があって、辞書によれば料理は食する行為に対して働きかける広い意味があるという。『調』という漢字そのものが、なんとなく、調査だとか調整だとか、ゴールが決まっていて活動する行為という気がする。気がするだけで、真実は分からない。辞書に載っていることを信じるのみだ。

料理本を片手に、自分の食べたいつまみを作るなぁんてのは、まぁ、調理なんでしょうね。闇雲に素材を組み合わせて作り上げていく。設計図通りに進めていくと、それっぽいものが出来るから面白い。大型装置を有難がって、ボタンを押して論文を書いている研究者に似ている。加えて言えば、図面の奴隷になって、製品の価値を考えることなくモノづくりをしている企業に似ている。

料理となるとそれは違うと思う。自分を除く人間の笑顔を目指して、ひたすら考え段取りを組み、食材を求め、物語を描く。それが料理であるから、食する者は幸せになる。食卓に笑顔があるならば、それは料理の結果であろう。予定調和では無い、真実の笑顔がそこにはある。

地獄の業火を潜り抜け、何かを達成した時よりも、美味しいと感じるものを作ってくれた人が居ると、そこには真の笑顔が生まれる。高価な料理である必要などどこにもない。一所懸命に尽くしてくれた、その感謝こそが料理の結論、価値だ。価値とはそういうものだ。図面の結果では無い。間違ってはいけない。

酷暑

ヨーロッパが暑いらしい。日本よりも遥かに暑いらしい。40℃を超えるなんてのはざらで、アフリカからの熱波が地中海を超えて灼熱の大地を生み出しているらしい。ただ、これだけで地球温暖化の結果であると決めつけるのは早計である。いや、化石燃料の燃焼による炭酸ガスの充満によって、宇宙に逃げるはずの放射エネルギーが大気圏に蓄積するメカニズムを否定しているのではない。

大気の大循環によっては、たまたま偶然にそうなることもあろう。ただ、本来、冬であるはずの南極の現在の氷の面積が、有史上最小となっていると言われてしまうと、やっぱり温暖化が進行しているのかと納得せざるを得ない。ただ、地球温暖化を経験したことが無いので、このままいくとどうなるのか、それは良く分からない。科学者の方々がいろいろとお話をしてくれるのだが、好き勝手言っているとしか感じられない。統一意見は無い。

寒いよりは暑い方がまだ好きだが、好き嫌いという問題では無く、体力が持つかどうかということを考えるべきだ。ここに真の温暖化の問題があるのだろう。体温よりも高温で生きられるようにはホモサピエンスは出来ていない。出来ていない以上このような気温が続いては死滅するのみだ。

そこでいろんな政策が語られるのであろうが、どうも日本は政権交代を私利私欲で実施することに熱中していて、世界の劇的な変化などどうでもよろしいのであろう。参議院選挙の直後に政策論争が報道されず、漫才軍団のお話がメインの日本である。国際的な温暖化のお話などどうでも良いのだろう。情けない国だ。

信念

気が付けば7月も終了し、8月を迎える状況にある。何というスピード感であろうか。毎日毎日、何かが発生し、その対処に追われ一日が終わってしまう。自ら創造することなど機会も与えられない。それが研究者のあり様とは思えない。日々是ニューアイデアこそが研究者の神髄だろう。それを実行することが研究者に求められる。

研究の遂行のために自らを追い詰め、そして解をたたき出す。それが研究者の使命であるのだが、その使命のために、何かを捻じ曲げるようなことがあってはならないのだ。どうもそのようなことが所々で発生しているようなのだが、直ちに辞めるのが良い。神様の作った自然の謎に触れさせて頂く、その謙虚さが必要だ。それが見えにくい。

何かを論じるためには、その分野の有る無しを問い掛け、自らの主張が如何に新しいかを問いかけていく。そのうちに真に新しいと言える日が来る人は幸せであった人だ。多くが自ら掲げたビジョンに到達することなく人生を終える。それが研究者である。

何が大切かと聞かれれば信念であると応えるだろう。それしか無いのだ。昨日の自分を裏切ることなど出来ないのだ。それが研究者であって、芸能人とは全く違うと、最近のニュースはモノがたっている。信念である。それを自ら疑うことなくより強固に育てること。やる価値はある。間違いない。

超社会

丁度、一週間前であるが、とある山奥の養蜂場にお出かけした。これがなかなかの山奥で、養蜂場はこっちという看板に出会うまで、本当にあってんのか?とナビを疑うような道すがらであったのだが、帰りは真っ当な道路で、選んだ往路が厳しかっただけであったと、これは笑い話。太い倒木が道を遮断していた時には、ややめげましたけどね。それはどうでもよくて、養蜂のお話。

はちみつ程素敵な食べ物は無いと思う訳ですが、これは小生の勝手な感想だから放っておいて頂戴と言うしかないが、そのはちみつ製造の現場にお邪魔をさせて頂いた。日本の養蜂業の父とも言える方のご子孫が経営していらっしゃって、丁寧な説明を頂き、これまた深い学びを得たわけです。流通させることが出来るはちみつの糖度が決まっていて、西洋では78度、日本では76度と伺い、ここでも日本のいい加減さを垣間見るわけですな。なんでそんなインチキをするのだろうと情けなくなる。食料を語る時、情けなさしか感じない日本に悲しくなる。こちらの養蜂場ではヨーロッパ品質よりも最低でも1度は高く設定され事業化していらっしゃると、実際の糖度計を使わせて頂き、感動した。

数年まえに大量絶滅、コロニー破壊の報道が世界で成され、はちみつという食材が地上から消滅するのではと危惧したわけだが、これなどはせっせと集めたはちみつと花粉という、彼らにとっての食料を横取りし続けるストレスや農薬、ダニなど様々な要因があるのだそうで、それを防ぐために7月以降は基本的にははちみつを奪う活動をしていないのだとか。遠心分離機にみるみる溜まるはちみつに驚き、また、その味に感動した。命の営みにただただ感謝である。

その説明の中に「超社会」というのがあったのです。蜂は女王バチの為に働いているのではなく、女王バチも男子ハチも働きバチも、皆、全体の為に個として全力を尽くすという、勝手主義者の居ない社会であるというお話。その生態を知り尽くすところから養蜂業は成り立つのだというお話は胸を打った。他を批判し、足を引っ張り、自らを正当化する政治家諸氏、またそれを敬う国民との関係とは真逆の活動を、10万匹が暮らすコロニーに垣間見た。この農場には東京都の人口より多い蜂が暮らしていますというお話に、自然との共生の在り方、人工的ではあるが自然と共に暮らす生き方について学ばせて頂いた。謙虚になるべき。それは大地と太陽の営みを損なわない生き方であろうとは思うのだが、科学者としてどうすれば良いかと、また悩みが大きくなった私であります。

ご都合主義

米や麦と違って、海洋生物は、養殖という活動以外で殺戮する生命を除くと、地球と太陽という、人類以前からあったものが創り出した生命だ。それを無尽蔵に生命の輪廻を絶ち続けると、その種の絶滅ということに直結する。クジラがどうのと西洋人は叫ぶが、それって、あんたらが油欲しさに殺戮しまくった結果だろと、歴史は正しく記録していることを学べと言い返す。その為の黒船だろと、政府は声高に叫ぶべきだ。まぁ、軍門に下った日本の情けなさということもあるが、国を閉ざしたツケで科学力が圧倒的に劣った我が国では、直接戦争になったら皆殺しか奴隷化していたことだろうけど。

数年前に余市福原漁場跡という、言ってみればニシン御殿の、移築していない本物を訪れた時に、ニシンって沖に出てって乱獲しまくって、絶滅したわけでは無いということを知り、現場で学ぶことの大切さを知り、同時に無知を恥じた。それまでは乱獲のみが原因だと思い込んでいた。あれって、勝手に浜に突撃してきちゃったのですね。浜が腐っちゃうから、しょうがないから必死に集めた。集めたニシンは丁度農業を盛んにしようとしていた国策と相まって肥料に加工して、それが御殿の本質であったと。

日本に来なくなっちゃったのは、北の国の乱獲なのはそうかもしれないけれど、てっきり御殿を建てる程の乱獲をしたからだと思い込んでいた自分が情けない。クジラとニシンの激減とは異なるアプローチで考えないといけないのだなと、凄まじい学びであったわけです。養殖すれば良いではないかみたいな作る漁業の考え方もありますが、養殖って人間のご都合でしょ?それって許されるのか?という考えも持っていないのいけないのではないかしら?

ウナギの完全養殖は実現し始めているけれども、まだまだ途に就いたばかり。ワンコインで食せるようにすることが本当に良い事なのかしらと、心のどこかで考える自分が居る内が幸せなのかもしれない。鰹節のような、取れ過ぎたから保存しようという考え方は、まだ、ましなのかもしれない。無駄死にさせる人間の在り方を悩まなければ、ホモサピエンスの絶滅も近いのかもしれない。

DNA搾取

農業産品そのものは自然との共生の根源であるわけだが、大規模なダムを作ったりというお話になると、これはどうなんだろうなと首をかしげてしまう。河口堰なんてのは最悪の愚策だと思うが、これを言い出すと土木研究をしていらっしゃる方々から強烈なお叱りを受けるのだが、大地も人も地球と太陽が生み出した産物で、そこにクサビを打ち込み生態系を破壊していることは否定できない筈である。台風が来れば大水害が発生し、人の命を脅かす災害を発生させるわけだが、それとて人が作り出した街によって生じる災害なんでしょ?と言いたい。

地球からみたらほんのくしゃみでも、生命という偶然の産物にとってみれば、それは猛威であるわけだ。そのなかで作物を育て、生きているのが人間である。大量増殖のメカニズムによって最強の動物の面をしているが、創造主の地球と太陽に掛かれば無いに等しいのだ。自然への感謝と畏怖を忘れると、地球をほじくって鉱石を合成し、人の頭に殺戮の炎の雨を降らす蛮行に出るのだ。それを正当化させるのだ。まぁ、この国にはその支持者が大半を占めるのだけどね。

話を農業産品に戻すのだが、米とか麦とか、大量生産が人の手で為され、種の改変まで行っているものに囲まれていると、なんだか農業って人工的活動だと錯覚してしまうのだけれども、植物がなんとか次にDNAを繋ごうと努力する行為を横取りして、自らの活力に換えているだけだ。頂きますとはそれを作って頂いた人々への感謝だと言われたことはガキの頃から無限にあるが、大地と太陽と、そして植物の命を育む力を横取りしてごめんなさいの気持ちを込めろと言われたことは無い。この辺りに間違った教育、倫理の根源があるのではとふと考える。

今年の5月連休に能登半島を40年近くぶりに回った時に、美しく手入れされた棚田を拝見した。耕作不能地を生産現場に転換し、それを人力で必死に守る活動に感動するとともに、増え続けた人類が選択するべき行動の一つなのだなとため息が出た。命を繋ぐために他の命を守る活動を絶つ。それが人類の活動なのだから、もう少し、他人を思いやっては如何か?胸に手を当て続けるわけだが、なかなか答えが出てこない。苦しいところだ。

人工構造物

海洋に意識的であろうが無意識にであろうが広がっていったプラスチックの問題で話題になった太平洋プラスチックゴミベルトだが、海流が太平洋を大循環していることで、供給が絶たれたとしても永遠に続く人工構造物だ。万里の長城が最大の人工物と言われていたが、それを超えるものを実は作っていたというのだから驚きというか呆れるというか。石油起源のプラスチックだから、元をただせば自然由来と言えばそうなのだけれども、海に降り注ぐ太陽エネルギーを遮蔽して、海洋の活力を削減させるという点において、地球の気候変動に直接的影響をもたらすことも忘れてはならない。

魚介類への影響ばかりを叫んでいるが、それらの命が存在することを認めているのは地球とそのパートナーの太陽だ。無尽蔵に与えてくれる太陽からの贈り物をお断りするようになっては、最早、命の存続はあり得ないわけで、そんな意味で、海洋プラスチックの海流ベルトは恐ろしい現象だなと感じている。世界中の軍艦なんかが網でかき集めろよと言いたい。

もう一つ、海藻ベルト問題というのが大西洋で強く観察されるようになっていることが話題になっている。その昔、某県にある巨大な水たまりがリンを含んだ洗剤排水によって真緑になったことを思い出すわけだが、メキシコ湾からアフリカに達する、大西洋横断を海藻が果たしているというのだから凄まじい。これは天然自然が作り出した巨大構造物と言えるわけだが、どうもその原因は人類が海洋に流している栄養成分であることが分かってきたらしい。

光合成質の海藻ということだけ読んだ時には、酸素源になって良いんじゃないの?くらいに暢気に思ったのだが、海面に漂う藻が増えると、海洋生物は呼吸困難になるということと、それらの藻が海底に沈むと腐敗してサンゴを死滅させるらしい。こうなってくると海洋プラスチックどころか、それよりも破壊力は大きそうだ。自然との共生という点において、海洋を破壊し続ける人類に未来は無いわなぁと思う訳ですが、何か微力に出来ることはないかしらと、それこそ一人一人が考えないと、今すぐ行動に出ないとダメですよと言いたいわけだ。

共生

選挙週間も終わり、まぁ、あれ程主観的なものは無いわけで、とやかく言う根拠は何処にもないので言わないことにする。未来の対価は何だと、グローバル社会において答えを持っている人は居ないからね。そこに民主主義なるものの限界があると思う。日本人がこんなにも他国を攻めていくことを望んでいるとは思わなかったけど、そんな人々がメジャーな国だったのね。ネアンデルタール人達が狩猟生活にピリオドを打った原因の仮説に人肉接種によるプリオンによって脳の破壊が起こったというのがある。共に生きるべき種族を殺戮して接種すると、現代でも解明されていない病によって自らを滅ぼすということだ。日本の明日を思うようですな。

助け合わないどころか、大量殺人を平気でやるという行為が街中で行われるようになった。街中でという文言を付けたのは、戦争という何故か正当化されてしまう行為だって大量殺人に他ならないからね。率先して海外に出掛けて大量殺人をしたい人達が我が国にはごちゃまんといらっしゃることが良く判ったわけで、ネアンデルタール人の遺伝子がかなり色濃く残った民族なのかなと、なんだかがっかりする。遺伝子レベルで他の力になるという行為を破壊したい種族だということか。

働くという行為は他の人の為に尽くす行為に他ならないが、そのサービスの質を向上させることに努めることは、見方を変えると競争ということになり、他を追い落とすということに直結している。これを否定してしまうと思考停止社会になり、共に生きる気力もなくなりそうだから、小生は正しい活動と信じることにしている。勝敗を決めることを役人が面白がっているならば、それには反旗を翻すが、そんな暇はお役人には無いはずだ。

一所懸命に頑張っていたら、突如、足元でガソリンが爆発炎上して自らの、そして共創に励む仲間の命が破壊されることが平然と行われる社会なのだと認知されたわけだが、どうやったらそんな行為が無くなるのか?努力の結果を他を追い落とす事のみに使って安住するのか、共に高みを目指して他律主義で生きるのか。ホモサピエンスそのものに曲がり角が迫っているのではと感じる中、ちょこっと自然との共生を考えてみたい。