ダム

梅雨本番である。G20会議に台風がぶつからなかったことは幸いであったが、梅雨入りと共に台風がやってきたのは記憶にない。名古屋エリアは空梅雨で、乾いた地面が目立っていたから、長い土砂降りも恵みと受け取るべきなのであろう。街中が奇麗になったようで有難い。

ちょっと前に渇水で話題になった宇連ダムの状況を調べてみると65%くらいには貯水率を戻している。7月末まで梅雨が続けば満水近くになるかもしれない。愛知県下の農業にとって良い状況でありますな。ダムは自然破壊の権化ではありますが、ダム前提で農地を作ってしまっている我が国において、ダムが抱く水だけが頼りという現実を突きつけられますな。

脱プラスチックは必須だけれど、宇連ダムの貯水率にも満たない食料自給率をいつまで続けるんでしょうね。工作機械も含めた自動車関連製品やエレクトロニクス製品の輸出があるから、見返りの食料が入ってくるという我が国であって、輸出する製品が貧弱になっていくにつれ、食料が入ってこなくなるのではとはらはらする。

愛知県に住ませて頂いていると、工業も農業も漁業も堅調で、食糧問題など忘れてしまいそうになる。一方で、千島列島の巨大噴火などを見ていると、何らかの原因で海外のものが日本に届かなくなるということも事実であって、それに備えない暢気なG20会議だなと感じるばかり。地殻は間違いなく動き続けている。地球はまだまだ元気だなと喜ぶ一方、島国の恐怖を忘れてはならないのだ。

世界環境

G20会議なんてのが行われると、それぞれの国のメディアの方々も日本にいらっしゃる(と思う)わけで、日本での出来事、感想などがそれらの国々にもたらされるのだろうなと、ちょっと面白がったりする。きっと真面目なネタなのだろうから、そんなものを原文で理解したいと願うのだが、殆ど意味をつかめないのだろうと残念に感じる。日本のメディアを通すと真実が捻じ曲げられているようで恐ろしい。

世界の垣根が下がってきているようには思うが、日本を取り巻く国々は、なんとも日本を友好国と思っていてくれているとは到底感じられない。だからこそ正直な会話が必要なのだが、どんな会話が成されているのかさっぱり伝わってこないまどろっこしさである。

地域性や独自性が失われてきている世界環境とか言われるけれど、そんなことはない、やっぱり自国主義が根幹にあるのは間違いなかろう。協力し合わないと食料を環境から得られなかった縄文時代から、蓄えを安易に奪う弥生時代以降への文化変動から、全く変わらない世界環境である。見せかけの対話と圧力。まるで変らない。

沖縄の基地を移転させると、米国国土を搾取されたと大統領が叫ぶような世界観が当たり前になっていて、それをそっくりそのまま受け取っちゃう首相が居る国である。若者が見限るのも当然であろう。自国の歴史と、反省するべき点をきちんと伝えること。残りの人生で為すべきことはそんなところか。

国産?

Canada Dryの強炭酸を飲んでいてい、ラベルをふと見ると「国産」と書いてある。国産、上手な言い方だ。どの国においても通じるマジックワードだ。どの国とは書いていない。だからMaid in Japanとは限らない。嘘は何もついていない。上手なラベリングである。で、G20会議が実施されているので、今、ネットでMaid in Japanって検索したら何が出るのかと思ってやってみたら奄美大島の品々であった。

その謎の国産以外のものでMaid in Japanの文字を探してみたら、SAILOR万年筆用ボトルインク『極黒』というものがあり、ちょっと嬉しくなった。気に入って使っていたものが自国産ということを誇りに思っても悪くは無かろう。負け惜しみではなく、良いものと認識している。民芸品のおみやげ物ではなく、実用品としての日本産、良いではないか。

そればっかりだとつまらないので、最近、風合いの違うボトルインクを使い始めているのだが、それも気になって調べてみた。PLATINUMのインクだが、これも驚いたことにMaid in Japanと書かれている。あれまぁである。そもそも日本発では無い万年筆だが、明治以降、どんどん真似をして、インクも我が国で作るようになっていたのだなと、妙に感心した。

調子に乗って皮革製品用のワックスを見たらドイツ製としらっと書いてある。どこぞのデパートでどれが一番かと言ってみたら「これだ」と手渡され、そのまま購入したものだが、舶来ものであった。いずれにせよG20会議参加国のモノであり、しっかりしたモノづくりが成されているなと感じる。これからも誇りを持てるモノづくりに携わりたいし、推進したい。そう思う。

G5から

中学生の頃だったよなぁと、展覧会で田中角栄の物真似をしていたこととサミットのことがリンクして思い出される。先進五か国蔵相会議みたいなやつであったと記憶している。イタリアとカナダが後から加わってしばらくはG7であった。オイルショックで皆が買いだめをして、そんな時がしばらく続いたと思ったら、駅前商店街にはモノが溢れて、それがまるで蔵相会議の結果なのかなみたいなニュースで溢れていた。

当時は先進国って言われて、日本ってなかなか凄いのだなと内心、喜んでいた気がする。がきんちょなんてそんなものだろう。確かに寝ずに働いてパワハラアカハラがそう呼ばれていなかった頃、強力なチームワーク力で物事を形にしていった、そんな国だったのだと思う。今思えば、サミット会議なんて、なんと図々しい呼び方かと感じる。

それが今、主要20か国・地域首脳会議と呼ばれ、何故だか日本でやっている。参議院選挙に合わせてやってんのかなと思ったりもするが、やっていることはそれぞれの国境とその内側の利益の誘導合戦であって、世界の垣根を取っ払ってみんなで地球を大事にしようなんてことでは決してない。人間なんて所詮はそんなものかなと思う。

しかし、今のところ、G20には入れて頂いている日本なのだなとは思うのだが、そこから外されることの無いように頑張っていかねばならぬ。どう頑張るのかと言えば、若者の背中を押しまくるしかないのは明白だ。パワハラと言われようが労基署が喜ぼうが、頑張るしかないのだ。奇麗ごとなんて無いのだ。そう思う。

3Dプリンタに想う

ASEANでのバンコク宣言がどれだけ効力を発揮するのか未知数だが、海洋に流出するゴミの対策指針を作っていくというのは一歩前進ではなかろうか。日本のようなジメジメした国では、生ごみなどを地べたに埋めると腐敗菌が頑張って、感染症の発生源となるから、ゴミは燃やすものとされてきた。昭和40年代ではそれが当たり前のように成されていて、山村においてもそれはきちんとなされていた。水辺にドラム缶が置いてあって、そこにあっちこっちの人がゴミを持って来ては燃やしていた。プラスチック製品が高価で捨てるものでは無かった時代だ。

小生が名古屋にやってきて間もなく、学内の焼却炉も撤去された。青年(?)教務委員として、教室会議で「重要書類は溶解処分、その他は回収されるまでストックして、段ボール、一般紙等分別してください」とI教育類長の議長の元、報告したことをはっきりと覚えている。ダイオキシンを出さない大学になったのだなと、気分がすっきりした。生ごみを燃やしたのは感染症予防のため、プラスチックを燃やすのは、単に邪魔者を消滅させるため。この差は随分と大きい。

石油由来のプラスチックであるから、焼却すれば当然のことながらCO2をじゃんじゃか出す。地球温暖化まっしぐらである。昭和の代にはあまり聞いた覚えの無い単語である。いや、むしろ、ガマの油地方に居たので、冬が暖かくなって欲しいくらいに暢気なことを考えていたのかもしれない。赤道の揺らぎで地球の地域的温度変動が発生するのは当然の事だから、温暖化議論が始まった時も、地球の変動なんじゃないのくらいに思ったことも、情けない事に事実である。

メタンハイドレートの研究者が「海から採掘に失敗して、メタンハイドレート層に海水が接触した途端に、あっという間に平均気温は40℃を突破する」と言った時、目が覚めた思いがした。地球の過去の出来事と、人間活動の温暖化という現象が重なり合った。2000年に至っていなかった頃で、身の回りにプラスチック製品を置かない努力をしてきたのだが、今現在、プラスチック製品を生み出す3Dプリンタに頼り切っている自分が居る。う~ん、何という事だろう。やっぱり便利に勝てないのかと、旋盤、フライスを回しつつ、人間のあるべき姿って一体何なのだと、今更ながら苦悩する私であります。

人生と木製品

脱プラスチックを目指してみたいみたいな事を言ってみたものの、ネットクリックで購入した物品が届けば、そこにはプラスチックの外装が・・結局、こう言う事なんですよね。ぱっと目に付く木製製品は、スピーカーとか革製品を磨くブラシとか、電蓄とか、そんなものしかありゃしない。定規だって、いつかはきっとゴミになっちゃうんだろうなぁ。気が付けば竹の定規はどっかに行ってしまっているしね。

何しろ、子供のころからプラスチックに囲まれてきましたからね。違和感なく使ってきているわけだから、急に止められるかと言えばそうではない。昭和30年代に作られたWestern Electric 555W用のホーンがあるんだけど、それなどは木と鋳物で出来ている。音圧の掛かる部分は鋳物で作ってあって、今でも頑丈に音色を伝えてくれる。きちんと作られた物は、やたらと長持ちだ。そして価値は色褪せない。この価値が色褪せないことが重要だ。

木製品だから、恐らく、作り立ての状態とは色見は変わるだろう。風合いと呼ぶ方もいるが、小生はそんなものは気にしない。それが発する価値が褪せないことが重要なのだ。信頼に約束で答えてくれる。それが褪せないからこそ、ずっとそこに鎮座しているのだ。褪せて居ない証拠に、クレデンザと対峙した後でも、納得の音味を醸し出す。褪せた、褪せないは感情ではいけない。絶対値が必要だ。

とは言うものの、人間がどんどん衰えていきますからね。ここにはバイアスがかかるわけですが、人間の衰えに合わせてくれればそれで良いわけです。マリアナ海溝の底に沈んでも、姿かたちを変えないプラスチックは、言わば化け物だ。便利と崇め奉られ、それを量産する金型の腕を競い合い、世の中に無限にプラスチック製品を生み出してきた世界。軽くて強く、自在に形を変える魔法の材料。魔法から解き放たれる日が人間にくるのかどうか。生きている間に体験したいものだ。

何度でもプラスチックネタ

人はエントロピーを増大させる生き物である。これは生きているという活動そのものが、固定化された動植物に熱エネルギーを与え、それを食し、代謝という熱発生を伴う活動によって生命を維持していることから自明である。なぁんてことを延々と論じるつもりはさらさらない。身の回りが一気に片付かない理由をエントロピー増大を阻止しようとする社会活動のせいにしたいだけなのだ。誰が?自分が(笑)

ちょっと汚れたプラスチックは焼却処理をする。品質が落ちるからというのが理由だそうだが、ゴミのリサイクルという活動そのものがエントロピーを増大させる活動であって、地球温暖化抑止活動とは全くもって質が違うことだということを認識しなければならない。ゴミの資源化に反対するものでは無い。ここは間違ってツッコミを入れられても「違うよ」と受け流すだけだ。ペットボトルなどはリサイクルをすればよろしい。出来るものはやればよい、しかしそこに莫大なエネルギーの投入があることを一般民間人は認識せねばならぬ。

牛乳パックという、極めて良質なパルプ資源を、コピー用紙に転換して、段ボールになって新聞紙になって、そこからリサイクル紙資源となって延々と回るプロセスも、凄まじいエネルギーを食うわけだが、それでも新しい樹木資源を破壊し続けるよりはずっと良いと思っている。ここでも樹脂などの問題で竹が単純に紙にならない悔しさはあるが、まぁ、良い事ではある。あるのだが、モノ根本を忘れてはならない。無くて良いものを作ってはならないということだ。

ノベルティ的なものが目の前にごろごろしている。止まったら二度と使うことの無い時計とかね。プラスチック製品が目の前に屍をさらしているのだが、プラスチックと金属の合体品で、捨てるのも面倒だ。リサイクル活動だって要らないものを作って使うから必要な活動になってくるのだ。エネルギーを大食いしてね。地球温暖化の抑止は無駄遣いの停止の勇気によってのみもたらされる。景気どうのこうのと叫ぶのか、ゴミになるものを作らないでも経済が回る仕組みを考えるのか。とっくにノーリターンポイントを過ぎてはいるが、そちらの方向に進んでいきたいとは思っている。個人の活動ではあるが、続けてみたい。

なりたい職業

日本語IME救済計画中にネットサーフィン(死語)をしていたところ、何故か目に着いたのが「大人になったらなりたい職業」という言葉。職業になりたいのか!と、当然ツッコミを入れるわけだが、大人になったらなりたいものなんてのもあって、こうなってくると、「ものになる」んかいと呆れるしかないですな。もっとも「大人になったらダムになりたい」なんて作文を書いた者としては、その通りと、これまたツッコミをいれるだけなのだが。

調査会社によって結果が異なるのは何故かわからないが、どうも聞いている年齢層が若干異なるらしい。らしいという不確かさは、誰から聞いたということが明記されていないからだ。親が自衛隊だと憲法違反だから悲しいという子供がいると、一国の首相がまた聞きで宣言してしまう国だから、情報源などどうでも良いということか。まぁ、それほど真剣に考える必要は無いのかもしれない。どんな職業に就きたいかを、中学生までに聞いてみるのは悪いことでは無かろう。

スポーツ選手や大工さん、ドライバーや宇宙飛行士に混じって、学者が出てくるのは有難い事だ。銭や政治家に頭を下げなくて良い人種は学者だけなのだから、将来、頼もしい限りである。正しいものは正しいのだと、感情的にならず論争出来ることは、素晴らしい事である。おおよそ、恫喝だけが論争の手法に成りがちなのだが、とても悲しい時間の過ごし方であると思うのだ。

ただ、学者ってやってみると結構苦しくて、何しろ自らの仮説がデータによって裏付けられないといけないのだ。出来ると思ってその通りになるかどうかは神様にどれだけ近づけるかということで、神様が作ったものを見出すまで、ひたすら耐えなければならないのだ。ゆるぎない信念なんて言うと聞こえは良いけど、折れたほうがどれだけ楽かと思う瞬間の積み重ねなのだ。それでも君は学者になりたいか?人間辞めますか、学者を辞めますか?人間辞めました。それだけのことだ。

IMEが無効です

最近、Windows10のアップデートが頻繁に行われ、気が付くとリセットが掛かって「自動保存ファイル」みたいな屍の列にあきれ返る。100LX世代の人ならわかると思うけど、ディスクのゴミは忌むべきものであって、システムの都合でどんどこ作られたのではたまったものではない。溜まってはこまるものでたまらないなんてのは全くもってしゃれにならないのだ。

しゃれにならない代表格が、会議を終えて席に戻ってみると、日本語の入力ができくなっている。もう少しちゃんと言うと日本語IMEが起動できなくなっている状態に出会う。半角という日本独特の妖しいキーをタッチすると、『あ』とか出て来て日本語IMEの起動を認識できるのだが、それが出来なくなる。システムの問題かと思ってBIOSを覗いても関係するものなどある筈もなく、結局、設定の深みから救い出すことになる。こんなことを会議が終了するたびにさせられたのではたまったものではない。

特定のPCだけかなと思っていたら、受付、教授室、モバイルの皆さん全員の状態が同じになっている。これはもうマイクロソフトによるテロと認定するべきであろう。ログインネームが同じだから、デスクトップ環境が同一になるのは当たり前で、まぁ、驚くことでは無いんだけど、どうも周囲でその声が聞こえないのがちょっと気味が悪い。

ネットの海に乗り出してみると、どうやらご同輩がいらっしゃって、同じ解決法をとっている。何かと関係しあって発生する事象らしい。大昔はconfigファイルとか、autoexecファイルとか、いじりまくって日本語IMEの起動にしのぎを削ったものだが(大げさ)昨今、そんな話は聞いたことが無く、ただひたすらにやる気が綯えるだけなのである。鉛筆の芯は見えているのに、ノートに文字が記されないというような状況になる。嫌になる。別の事を書こうと思ったのだけれど、いきなり日本語IMEが立ち上がらなかったので、単なる不平不満になってしまった。これも戯言である。

野間崎灯台にて

自然の家から1.6km位のところに(2㎞?)野間灯台がある。灯台というものが妙に昔から好きで、銚子とか観音崎とか、日本最古の西洋式木造灯台である旧福浦灯台とか、灯台というだけで、ムキになって見学に行くという灯台ファンである。今回の旅においても灯台見物は楽しみの一つであった。
行って知るということが結構あって、野間灯台だと思っていたら野間崎灯台だったりとか、大正10年設置で愛知県最古だとか、妙な知識を得てきましたな。

何気なく行ってびっくりしたのが「恋人の聖地」なのだとか。早朝だったこともあって小生が一人で鐘を鳴らして面白がった後で、その鐘がカップルが二人で鳴らすモノだと知り、呆れてしまった。ここまで人寄せするか?景色が良いねくらいではダメなものかしら?最古の灯台から伊勢湾に沈みゆく夕陽を眺めるくらいで良いではないか。音が出る代物は小樽の駅で懲りているのだが、野間崎灯台の金は、ハンマーが樹脂(ここにもプラスチックが!)コートされていて、大きな音が出ないのがかえってしょぼい。

加えて、南京錠がだだだっと付けられている。こうなってくると、もう、笑うしかないですな。そんなことしないといかんのかい?と呆れてしまう。小野浦海岸の看板から灯台まで結構あるのですが、実のところ最近マイブームのフナムシを探しに行ったのですが、季節的なものなのか、全く居なかった。まさか、ちょっと不気味なフナムシを恋人の聖地ということで全滅させたわけではあるまいなと、人間のやることは余りにも恐ろしいので油断はできない。

野間崎灯台から自然の家に戻る途中に、先日の「岩吉・久吉・乙吉頌徳記念碑」に出会った次第。歩けばその土地を好きになる。どんな路地であっても歴史があると愉快になれる。土地を好きになるためには歩かねばならない。車など必要ない。神宮前から内海駅までは、地味な鉄道だなと思ったわけですが、いやいやどうして、知多半島は面白いですよ。ただ、残念なことに、内海駅から自然の家方面にバスが出ていないこと。自然の家の近くからは巡回ミニバス自然号というのが走っているらしいのですが、来るかどうか判らないし、野間駅にしか停まらない。丁度中間にある小野浦海岸という文化の香り豊かな土地をもっと大切にして頂きたいものだと、名古屋鉄道さん、なんとかしなさいよと、日本の公共交通機関の悲しさと虚しさを肌で感じた私であります。