自分の機能を担保に出来るか?

話は例によって発散し続けるわけだが、ちょこっと戻してアドレスホッパーなのだが、彼らは実際のところ、住民票を各地て移動させているわけでは無いだろうから、住民税と公共サービスの点はどうなんでしょうかね?杓子定規に考えてしまうところもあるのだが、仮面ライダーが住民税を払っているということを聞いたことはないし、新風を巻き起こして去っていくということが、旧態依然な状況をぶち破って、社会の通念をでんぐり返してくれればそれで良いということにしたい。

固定費を極限まで絞り込む生活というのがアドレスホッパーの趣旨なのだろうが、定住していないと就職を認めないという、幽霊は就職できません的な発想なのだが、これを打ち破っていくのは、それだけでイノベーションとも言える活動だ。最大の固定費が通信費ということになるのでしょうね。インフラが整備され、コワーキングスペースなんて当たり前の時代だからこそ生まれた環境でしょう。しかし、その環境を最大限に活かそうというのは、これは相当のチャレンジだと思う。

カタツムリの如く、家財一切を背負って移動し続けるわけで、縄文人ですら定住していたわけだから、その以前の人類の活動体系に戻っているということだ。山の中の隠遁的修業とは異なるのだ。社会と繋がりを持ち続け、尊敬しあう中での活動を続けるのには、極めて強い意志を感じる。ちゃらんぽらんなことでは無い。大学に通っていながらバイトにいそしみ、企業の人事をだまくらかして就職していく似非学生とは人間の質が異なる。

自分の可能性を担保にして、更に、その担保を大きくしていくには、常に心に「挑戦」の二文字を掲げることが必要だ。瞬間瞬間に出会った人の為に力を尽くすことが出来ないと、とてもではないが、その道には進めないと感じる。憧れることはできるが、それを実践できるか?なかなか難しい。悩ましい問題である。

アントレプレナーシップ教育とは?

ここ数年、鶴舞大学においてもアントレプレナーシップを醸成する科目が共通科目の中に現れ、若者のビジネスアイデアと市場とを結ぶ教育を進めてはいるが、教育を受けたからと言って、直ぐに雨後の筍の如くに起業家が現れるわけではない。政府も各大学におけるベンチャー企業の起業数を「あんた頑張ってるね」的な指標に加えているのだが、二世、三世に言われたくない。

シュンペーターさんのアントレプレナーは、経済改革に繋がるイノベーションの担い手として示された言葉であるが、起業すればなんでもアントレプレナーであり、イノベーターであり、更には社会に迎合しないアウトローみたいな見方をされるのが我が国の現状では無かろうか。過去の常識を後押しする学会を背後にして、大声で新規なアイデアを潰したり、「俺の方が先だ」と言わんばかりに物まねをして恥じない学者の何と多い事か。

まぁ、それとて大企業の方々が「そっちが安心」と言わんばかりに二束三文で学者の面を叩くわけだが、叩かれた輩が心地良がるから始末が悪い。新進気鋭などどこ吹く風、広辞苑だって新版になれば単語が加わり、そして解釈も見直されるというのに、社会現象に関しては旧態依然、古いものに拝んですがる、そんな工学に辟易する。

今週もお江戸にやってきている。お江戸というか、通り越して下総なんですけどね。こすって削って形を変える道具は、ドイツが正に世界の雄なのですが、そのイベントが我が国にやってきて、枯れ木になって賑わえということらしい。先週はイオンで今週は加工だ。新しい試みのお話なので、観客はゼロではあろうが、まぁ、しゃべってみよう。理解されるようではイノベーションではない。単なる技術改革であって、改良改善もどきだ。それでは寂しいし、アントレプレナーシップ教育などやって良いものではない。恥じ入るばかりである。

勇者

多くの地域で始まっている移住奨励策。小生も大鹿村とか良いかなと思った時もあったけれど、リニアのトンネル騒動で、この地上で生きている限り、安穏平穏ということは無いのだなと悟った次第。定住者というか、住民票がそこにあるということが地方居住地区としては重要なわけで、何が何でも人を引っ張ってきたいという事なのだろう。総人口がぐわっと落ち始めたからには「人が国家に生きる」ということを、それこそ幼児教育から徹底するべきだと思うのだが、まぁ、そうはならないでしょうな。

この約一か月の間に、三遠南信道路、中部横断自動車道、新名神高速道路等々、動脈的道路の開通が相次いだ。陛下の御退位、御即位に合わせたものかどうかは分からねど、自動車を使って動き回れと言う事なのかしら。若者の自動車離れなどどこ吹く風で、豊橋や富山の、所謂路面電車の活躍などどこ吹く風。巨大事業に繋がる、整備し続ける人が永遠に幸せになる仕掛けを大量に生産し、小さな努力は置き去りにするという、まぁ、変わらぬ政治の現れですな。

とは言うものの、作られたのであれば使ってみようかなという、やっぱり弱い心の持ち主でありまして、今まで、うねうねとした回り道でないと行けないところに、空飛ぶ絨毯で行けるのは有難い。税金で出来ているのであるから、税金を払っている身にとっては使っても良いわけであって、活用しないと損ではある。このあたりが悩ましいところ。

どんどん人が移動しやすい環境に呼応してからか、いや、それは関係は無いとは思うけれど、新人類の皆さんが、定住をしない活動がネット上をに賑わせている。シェアハウスでソフトウエアベンチャーが活動しているという時代が長く続いたが、その進化系なのかどうなのかわからないけれど、我が国においてもバックパッカー的に仕事も所在地も変えていくアドレスホッパーの登場を応援してみたい。そんな若者は今のところ目の前には表れないが、時代がもしもを許すのであれば、40歳若返ってやってみたいものだと本気で思う。今週はそんなお話を展開してみたい。

エネルギーは笑顔を創造するか?

生活環境に蔓延する、汚らしい銅線を消したいなぁというのがお題なのだが、戯言らしく発散しているのは好ましい。世界中の地面をほじくり返して、地球にまんべんなくばらまいて、生命の肺を壊している現状はなんとしたことか。PM2.5や花粉に対処するべくビジネスが展開しているわけだが、お金の為だけであって、人々の幸せを考えているわけではない。エネルギーは人類破壊の為だけに使われているわけだ。

久しぶりにかっかしているわけなのだが、学問が機械の奴隷になり、人が金の奴隷になっている。家具は家を縛り、家は人を縛る、そして金こそが人を死に追いやるわけで、これから逃れた種族だけが次の世界に生きているんでしょうな。MBAなどは金の奴隷製造工場であり、社会の笑顔を創り出せないことを知りながら、鞭を持つ者の側に立ちたい一心で、数千万の学費を払いMBAを持っているよと威張りまくる輩の汚い事。そして醜い事。

電気の大量消費の汚らしい現場を見た時から始まった戯言なのだが、不満が収まる気配はない。かっかするばかりである。今、学会が流行らない。お金にならないから、企業が「学会がつまらない」と宣伝しまくって、無意味な集団として、大学とともに無くそうと頑張っている。しかしだ、地球を美しく保ち、笑顔を作る活動が学会であって、それを否定するならば、人類はやはり恐竜2世であって絶滅を確約された者だ。それは明日かもしれない。

生命が持つ感情で失ってはいけないと思っているものが愛情である。それは電気で生まれるものでは無い。いやらしい輩は脳の神経の電気信号のやり取りだと上げ足を取るのだろうが、そんな狂人を相手にする暇はない。アスファルトの下にある電線は取り敢えず見えないが、空を遮蔽する電線や光ファイバーは見ることが出来る。それを見上げて、毎日の活動が笑顔の源泉になっているのか?それを刮目するべきだ。笑顔は想像されるものでは無い、創造されるべきものだ。笑顔になるだろうでは死の谷に落ちるのだ。笑顔を創造することを思考すること。そして実現すること。人類が存続する唯一の道だ。電線を張り巡らしている場合ではない。そう思う。

GDPを想うべき

脱線しすぎて話の出だしを忘れてしまったが、車窓に見える電線の醜さの話だ。小生的には、鉄道は人を移動させるにおいて、最も正しい電気の使い方だと思っているのだ。突然、土地が飛ぶのだが、四国に電車で渡って、香川方面に移動し始めた瞬間に、真っ黒い煙を吐きながらディーゼル車両が走り出すと、食料生産地には相応しく無い実態である。人の笑顔の為に電気を造り、運び、そして使っているのか?

加工機が所狭しと並び、切削油が蒸発し、人類は防護眼鏡とマスクで身を守る中で活動するのだ。電気が人間の寿命を切削するのだ。人間の活動エネルギーを遥かに超えるエネルギーを、たった一つの事業所で創り出すのだ。それが365日続いているのだ。ディーゼル車両に乗ってみると、実は案外、安心したりする。ディーゼルで発生する電気エネルギーは、発電機を背負い、人を背負い、重い車両を動かすためのギリギリの仕事をしているのだ。「電車」が軽快なのは、それだけ、エネルギーを食っているという事なのだ。

毎日毎日、超満員の電車を動かし、人々を運び、その人々がGDPを叩き出す。電気が行っている仕事は、正にGDP製造なのだ。電子レンジによる調理の簡便さで、朝の時短を実現するのも、ロボットと人が協調して仕事をするのも、GDP向上という社会的意義があればこそ許される事実なのだ。単に便利だから電気を使うなどと、地球を破壊するためだけの活動は許されるものでは無い。

東京と大阪を新幹線が繋いだのだが、その時に使った費用は、GDPの10%だ。それが許されたのは新幹線がそれ以上のGDP獲得を実現したからだ。朝の混雑時には地下鉄よりも短い時間間隔で到着、出発を繰り返す。この活動こそが国の原動力であり、電気が存在する理由である。理由であるのだが、昨今の国家の赤字の垂れ流しの為に電気が大量輸送されている現状は、これは納得できないのだ。出来ないのだが、行われている。それを海外に押し付けてでかい面をする日本である。嗚呼、屈辱である。

生活とは?

生きていくために何が必要だなんて大袈裟なことを考えたことがあるのだが、便利ツールで「これがあった方が良い」というものには電気を活用するものはなかった。トイレだとかナイフだとか、そんなものが出てくる程度であって、携帯電話などは要らないし、パソコンなんで『戯言(たわごとと読みます、ざれごとぢゃないよ』を書いているくらいなもんで(ちょっと嘘)、野生の人間としてはそんなものは要らないのだ。

家具は家を縛り、家は人を縛ると言いますが、電気こそ人を根こそぎしばりまくっているわけだ。歩いて生活する範囲で「生きていく」ことが出来れば、自動車も電気も要らないのだ。極論であることは重々承知である。しかし、今の時代に欲しいのは小生としては「極論」なのである。極論が無いからビジョンが描けないのである。この無責任時代において、何故、極論における討論・議論が為されないのか?さみしい限りである。

生活必須モノにおいて電気に頼り切っている生き方こそ、贅沢怠惰な動物の在り方であって、恐らくは絶滅の始まりでは無かろうか?恐竜は何故絶滅したのかという議論において、必ず出てくるのが隕石落下による気候変動、その時代に発生したシベリアの地溝変動である。確かに大陸の縁からプレートがマントルに落下して、その反動でマグマがシベリアを突き破って、地上の炭酸ガスが増えたとかなんだとか。まぁ色々言われていますけど、近年の研究結果が恐ろしい。

数万年、恐竜という覇者において、強者が他者を駆逐し、その駆逐こそ種の単色化であり、それが故にその種が死滅するという、多様性の無い社会の絶滅化というエントロピーの最小化を神が好まないという自然の摂理で絶滅したわけである。人類だって様々な類人猿から残ったものであって、恐竜の世界からすると既に絶滅している状況にあるはずなのだ。しかし生きているということは智慧によって絶滅を回避しているということだ。その回避手法が便利グッズの電力利用だとするならば、生きるための大地そのものを破壊しながら生きているということであって、智慧の片鱗すら感じられない、情けない状況である。

怠惰

エレクトロニクスに関連した研究もやっているので、その世界の発展を願う訳なのだが、正直なところ、本来、電気なんて便利なものが無い世の中が、知恵に満ちた世界になるのではと思っている。車だろうがなんだろうが、電気を使わずに駆動している機械なんてものは、自動巻きや手巻きの時計くらいなものでは無いのか?そりゃぁ、手動の水門みたいなものもあるのだろうが、屁理屈に付き合うつもりはさらさらない。上空には縦横無尽に電線が張り巡らされ、人間は自ら空を失っているとがっかりする。

ボンバルディアのプロペラ機に乗ってみると、高度を低く飛んでくれるので、山々を繋いでいく高圧電線を確認することが出来る。窓際の席でずっと下界を眺めるわけだが、これが案外と面白いのだ。山中に作られた水力発電所や海辺の巨大な火力発電所から霞の彼方まで伸びていく金属線と鉄塔は、人間の自然との決別の決意の表明の様である。

普段の生活ではエアコン、テレビ、ドライヤ、冷蔵庫、調理器具と言ったところが電気大食いの代表選手なのだが、いざ、職場に出てみればエレベーターという大食い王者がのさばりかえる。自動ドアも案外大食いである。コピー機は昔ほど大食いではなくなったが、それでもかなり食う。電気ポットなどは破壊的だ。でも、まぁ、そんなもんだ。こんなものの為なら、水力発電所だけでもなんとかなってしまうかもしれない。

便利な道具の代表選手であるパソコンや携帯電話を「造る」機械軍こそ巨大電力要求群であり、中国や韓国の巨大工場群などは、原発を構内に持った方がいいんじゃないの?と思いたくなる。実際のところ、それをやれば送電ロスは限りなく少なくなるし、排熱の利用でスーパー銭湯は勿論の事、温室で食料栽培を365日可能にするなんて余裕でできる。LED照明で人工太陽を創り出すなんてこともお手の物だ。なんでやらんのだろうと思うのだが、心の何処かで危険なのだろうと認知している人達がやらせないんでしょうね。便利だけ大事にして、危険は他人にお任せ状態。それが日本だ。悲しくなる。

久しぶりに電力を想う

満員のぎゅうぎゅうに圧縮された電車内で辟易しながら都内を移動するわけだが、ふと、線路と生活空間との境界線を眺めると、そこには無限とも思える量の電線が走る。がきんちょの頃に山手線は水力で動いているという話を聞き、そんなことがあるのかいなと調べてみたところ、新潟信濃川で発電をして、えっちらこと東京まで電気を運んで山手線を動かしたとのこと。川と聞いたので、ゆっくり流れる河川でどうやって巨大な発電機を回すのだろうと、その頃は真剣に思ってしまったのがだ、実際のところは貯水池を作ってそこから落とすという、所謂、立派な水力発電所ということだ。

不正取水事件などもありはあったが、発電量は大きく、JR東日本管轄内の新幹線などにもその一部を送電している。日本海側から首都圏まで電気を送るという、考えてみれば抵抗のある金属線で電力を運ぶのだから、その時点で相当の無駄がある。電気炬燵や電気ストーブなどのコードが熱を持っていると感じた人も居るとは思うが、空中配線とて同様である。電気は運ぶだけでエネルギーの損失を生むのだ。運べば運ぶほど無駄が出来る。

水力発電はクリーンなエネルギーで、水源がしっかりしているのであればどんどんやれば良いとは思うが、山を切り開き人が住んでいた渓谷を水没させてまで過去の計画のダムを意地で造る政治はどうなのだろうと感じるところがある。一方で、電気を使うところがある限りは、やはりクリーンで再生可能なエネルギー源ということであれば、正に電池である水力発電はもっと見直されるべきだ。

水にちょっかいを出すと直ぐにおっかない方々がやってきて「俺の水をどうしてくれるんだ」となってしまうわけだが、河川の水量を変化させないのであれば、天が与えてくれた無償のエネルギー源の使い方としてはとても優れていると思う訳だ。以前から言ってはいるが、愛知用水などは知多半島にひたすら水を送っているだけであって、あれだけの資源を使わずにほったらかすという発想はどこから来るのだろうか。脱石油の意味合いは単に温暖化だけではない。プラスチックだって元は石油だし、それらが地球をどれだけ汚しているか。便利の為の電気だが、ちょこっとその在り方を考えてみたい。

乃木大将

何と、お仕事の場は、ここまでの旅で終わりではないのだ。JR原宿駅を出て、ちょっと素敵な原宿駅をしげしげと眺める。竹の子族なる軍団がTVを賑わせたころ、小生は既にガマの油を売っていたわけだが(虚言)、まぁ、そんな賑わいがあったのだろうなと感じながら地下鉄千代田線に乗り換える。その前に表参道の想い出を一つ。今のiOSの前進にNewton OSというのがあって、それが搭載された端末を扱うお店が新宿にあった。それが無くなりしばらくすると、妖しいグッズを販売する店に生まれ変わり表参道にA社として復活した。そこを眺めに行った記憶が20年くらい前にある。その程度の記憶のみであるが、取り敢えずある。

JR原宿から地下鉄へは、屋根を繋げたら?というくらいの距離である。潜っていくと千代田線に遭遇する。原宿駅から表参道の下を潜り、直ぐに表参道駅に着く。地下鉄であるから車窓もなにもあったものではない。暗闇と眩しさの繰り返しだ。表参道を過ぎ、線路が地上の道路に沿って無理やり曲がっていることを感じさせる車輪の軋みが無くなるころに目的地の乃木坂に着く。

乃木大将と「言葉で出会った」のは母が念仏の如くに唱えていた「乃木大将とは会見の処はいずこスイシエイ」という文言であり、次は漱石先生の「こころ」の一節である。母から刷り込まれた像と漱石先生から伝わる像とはかなり違ったものがあり、今も残るお屋敷を訪ねた記憶がある。その記憶をトレースして見学をさせて頂いた。母からの刷り込みとも漱石先生からの訴えとも異なる実感を得る。色即是空というものだ。自らの心の描きようである。物事は須らくそのようなものであろう。東京のど真ん中に保存された遺構が末永く伝えらるよう切に願のだが、見かける観光客は外国の方々ばかりである。国の行く末を見るようである。

お仕事の場はそこから5,6分のところである。六本木ヒルズに見下ろされるその地で、日本中の大学の改革が語られるわけだが、綺麗に飾り付けられたその向こうには一体、どんな現場があったのだろうかと、末端の人間の一人として不安になった。一週間前の旅のお話なのだが、なんと今週も同様に東京に居る。旅日記はしばらくは良かろう。しかし、旅は思考を加速させてくれる。その効能は絶大である。見分を広げるには書物と旅の両方が必要だ。これからも旅をしなければならぬ。そう思う。

ビール工場はいずこへ?

五反田で旅が終わるのではなく、実は続きがあるのだ。五反田から山手線外回りに乗り換えて原宿を目指す。実は品川から神田を除く山手線の駅は、近年殆ど使わない。そもそも人口密度最大の山手線には乗りたくないのだ。大嫌いだ。あんまり言うと怒られるのでこのへんで止めておくが、兎に角、人口密集状態は嫌いなのである。たまたま土曜日の早朝であったことから、何と、普通にがら空きで着座して車窓を眺めた。着座して車窓を眺めらるくらいに人が乗っていなかったのだ。こんな東京もあるのだなと、トワイライトゾーンにでも陥ったのかと思った。

五反田を出ると殺風景なビル群の向こうに一瞬、目蒲線が見える。小生が見る車窓は山手線の内側ではない。崖が見える外側である。そこに旅情がある。ビール工場が無くなった内側には用は無いのだ。目黒駅は正に崖の上で、その昔は富士山が見えたそうだが、今はビルの壁しか見えない。もっとも、富士山を見るためには開削された丘の上に出ないといけないので、降車しないといけない。行人坂からは今も富士が見える。まぁ、富士山などは筑波の平野からだって見えるわけだから、東京からなら猶更だろう。

埼京線という図々しい名称の車線が出来てしまった為に、目黒と恵比寿の車窓が随分と変わった。最早、地方在住者には魔窟としか見えない景色である。風情もへったくれもない。貨物の引き込み線があったビール工場はガーデンプレイスタワーなどとコンクリートの墓標に代わり、人の営みなど何処にも感じない。当時、歌にもなったアメリカ橋だって、どれがどれだか分からない。恵比寿駅周辺の変貌ぶりには呆れかえる。余りにも醜い。

恵比寿から渋谷の区間は案外好みである。昔からごちゃごちゃしていたので変わりようがないということかもしれないが、小生の目にはそんなに変わっていないと映る。あくまでも外側の話だ。内側は見ないことにする。随分と長い事工事をしている渋谷を抜けると、朽ち果てた様に見える代々木体育館の屋根を見ながら、どんな最終形態になるのか想像もつかない原宿駅に着く。皇室駅舎は勿論の事、神宮への降車場も激しく工事をしていて一体どうなるのやらと思いながら降車する。