段丘崖を抜けて

御嶽山駅くらいまでが恐らくは下町と言って良い領域なのだと思う。ここを過ぎて行くとぐぐっと右に曲がっていくのだが、その昔は「東調布」と呼ばれた場所であって、言ってみれば僻地ということですな。ただ、国分寺崖線の上の方だったんだろうなと思うのは鵜木大塚古墳という6世紀の古墳があるくらいだから、多摩川が氾濫してもここには水がこなかったという証であって、山の手なんだろうなと感じる。ちょっとリッチなイメージのある雪谷に着く。正式名称は雪が谷大塚駅だ。

例によって今昔マップのお世話になると、多摩川河口の河岸段丘の上であるのは間違い無さそうだ。民家は益々密集し世田谷区桜新町を水源とする呑川を越えたと思うと石川台駅に着く。この辺りは山の手を開削して走っているので、景色はアマゾン感である。薄暗い開渠を進み洗足駅に着く。言わずと知れた日蓮さんが足を洗ったということから謂れている地名である。その昔、足を洗った場所というくらいだから直径数メートルのくぼ地かなくらいに思って行ったら大海の如し(かなり大袈裟)で驚いた記憶がある。実は平安時代には千束という地名であって、伝説で洗足となったらしい。

この辺りからはマンション群が目立ち始め、景色も山手線の車窓とあまり変わらなくなってくる。環状七号線の手前で長原を過ぎると車窓は一気にコンクリートジャングル化して旗の台に着く。大井町線とクロスしていて乗降客はかなり激しい。この辺りはその昔(今も)荏原と呼ばれていた領域になり、戦後に伯父の住居があったことからかすかな記憶がある。記憶が残っていることを覚えている程度なのだが、ビルなどは一切なかったと記憶している。50年も前だから当たり前か。

荏原中延を過ぎ高校の同級生が住む戸越銀座辺りになると、もう、カオス状態の街並みである。パリとは大違いの「なんでも有り」の街並みにはあきれ返る。これが日本なのだなと実感する。平均速度はどんどん落ちて来て大崎広小路を過ぎると環状六号線を超えて、五反田にソフトランディングとなる。蒲田から26分の旅であるが「土地勘がある」と素敵な旅路である。蒲田に立ち寄ることがあれば(誰にも無いな・・)一度で良いので経験して頂きたい旅程である。

御嶽山駅まで

だらだらと進むと言うと、新型車両に怒られてしまうが、何しろぐにゃぐにゃと曲がりながら、家々を縫って地上を進む線路だから仕方がない。今昔マップによれば(こればっかり)1927年~1939年の間には既に五反田まで線路が伸びている。それだけ住宅が広がっていたということだろう。明治の御代の東京の発展がこんなところにも見受けられるわけだ。池上電気鉄道と、最初から電気と名前に着いているところが、電気を街に、そして家庭に引いていくというエネルギー大量輸送と消費時代が始まっていることがわかる。

多摩川との間には目蒲線も走っていて、池上の隣の千鳥町駅の近くには目蒲線下丸子駅もあり、この時代の街の発展が窺われる。この下丸子には蓮光院という、新田家にまつわるお寺があるのだが、そこに武家屋敷門が移築され、大名屋敷の雰囲気を醸し出している。5万石程度の武家屋敷門は案外残っておらず、貴重な遺構と眺めに行った記憶がある。乗降客は多く、驚かされる。千鳥町には徳川家康が、国分寺崖線以南の、今の大田区に田畑を作るために作らせた六郷用水跡地がある。再現された用水路があり、緩やかな流れが土地の平坦さを表しているなと、江戸の人口爆発を支えるには、やはり、地元で食料生産が必須であると考えた為政者の正しさを物語る。人が減るなら海の外からと短絡するリーダーとはえらい違いだ。

珍しい直線区間を過ぎると久が原駅に着く。久が原とは延々と森林が続く「木の原」の意味だそうで、江戸時代から久ケ原と呼ばれていたそうだ。久が原には申し訳ないのだが、何の思い出も無い。車窓を真剣に眺めてみたのだが、ただただ民家の間を縫っていくばかりである。こんな書き方をすると民家の森に鉄道を通した様に思われるかもしれないが、真逆である。民家が線路に迫ってきただけなのだ。久が原を出ると東海道新幹線を跨ぐ御嶽山駅に着く。

御嶽山と言えば研究室的には木曽福島駅という事になってしまうのだが、東京で御嶽山と言えばこの地になる。御嶽山の駅の南には御嶽山信仰拠点である御嶽神社がある。この地から御嶽山が見えたとは思えないので、調べてみると、江戸時代に御岳山信仰が流行り、その流れで寄進された社殿がどんどんと成長したものらしい。その拠点として駅名にもなっているようだ。人の想いが地名になり、そして駅名になって残っていくというのは素晴らしい。この駅は新幹線から見るとガードになっているのだが、新幹線でぐぐぐっとコーナーを曲がり、多摩川を超え目蒲線を超え、次のガードがこの場所なので、毎週のように眺めている。新幹線の線路を上から見る楽しさを味わった、これも旅情である。

池上線から

下町か山の手か、どっちだと言われれば、そこは間違いなく下町である。国分寺崖線を多摩川が作り上げたその土砂を堆積させて出来たような土地であって、一般的には下町とも呼んでくれないようなところではあるが、明治以降の下町と言うことで良いのではないか。ひょんなことからと言う訳ではないのだが、お江戸にお仕事に出た際に、とある下町横断鉄道に乗ってみたお話をしてみようと思う。

今昔マップのお世話になって、蒲田駅周辺の明治の時代と現状とを比較してみると、東海道本線は通っているものの、池上線は影も形もない。1917年~1924年の範囲を見てみると、蒲田から池上まで引かれていて、そのタイミングで池上の競馬場が失われている。この頃には蒲田の周辺は市街地化しているようだ。下町横断鉄道とは池上線のことだ。調べてみると蒲田から池上本門寺への参詣輸送の為1922年に開業されている。なんと10月6日開業ということだそうだ。知らなんだ・・

蒲田という街には、JRを筆頭に京浜急行の蒲田駅もある。東急線が目蒲線と池上線なのだが、今は呼び方が変わっている雰囲気だが、小生にとっては「あまがえる」時代の池上線で馴染んでいるので、それを踏襲する。西口に回って3両編成、ワンマンの池上線に乗ってみる。ちなみに、JR蒲田駅からちょっと行くと京浜東北線の電車区があって、鉄ちゃん的には憧れの地である。砂の器という映画があったが、この地での殺人事件が映画の出だしとなっている。島根県の亀嵩がやたらと記憶に残った想い出がある。

新型車両の池上線が軽快に蒲田駅から滑り出すのだが、スピードは決して速くはない。蒲田から品川経由で五反田に行くのに16分、池上線で26分だ。まぁ、10分早起きすれば良いだけだから問題はない。あっという間に蓮沼駅に着く。扇状地故のハスの群生する沼地だったそうで、それで蓮沼駅だそうだ。家々の谷間を進み創業駅の池上駅に着く。池上と言えば本門寺だが、小生的には力道山のお墓があるくらいのところで、日蓮さんが入寂されたところというのは、まぁ、そういうところなんだなというくらいだ。その日もかなりの方がそれなりのいで立ちで降りていかれたから、今日も信心篤い方には聖地駅なのであろう。ちっとも話が進まないが、今週はこんな感じで、目的地までをだらだらと語ってみたい。

思考レス時代

CPUやメモリーが小型化していく過程で、LSIが小さくなったから、あるいはセンサが小さくなったからこんな機械を作ってみようと言う時代があった。初期のテレビ電話など、画像と音声に遅延があることこの上ない。そんな時代から、今では電子的サービスが前提で、いや、今存在しないサービスを思考して、それに併せてエレクトロニクスを作り込む時代だ。今では階段を一歩登ったことを標高で検知できる、そんな時代だ。それをコンピュータが自動でデータ処理をして何らかのサービスを叩き出す。処理はデジタルだが、サービスはアナログだ。

まぁ、それとても単なる贅沢とも考えられるのだが、例によって一度体験した楽ちんからは元には戻れないという人間の性ですな。中途半端なデジタル時代がどれだけ続いただろうか。電子機器の価格が急激に下がってきた2005年くらいから、身の回りが片っ端から自動計測、自動信号処理という世界になってきたと、記憶を遡れば感じる。コンピュータに繋がっていない機器は学生さん達から見向きもされなくなった時代だ。

そんな学生さんが卒業した先には、当然のことながら、電脳に支配された企業が待っているわけで、その接合の為には、同様の機器で実験ということになるのだが、ロットリングで過ごしたアナログ教員から見ると、実は相当に物足りないのも事実なのだ。熱、振動、音、その他もろもろ五感と第六感をフル活用させて新奇な現象を発掘してきた化石人間からすると、機械任せの世界に未だになじめない。勿論、機械の制御などは便利だなと、当然、ご厄介になるわけだが、何を動かして何が出来るかという機械の世界と人間の世界との境界点での現象への眼差しは、間違いなく、今でもアナログなのだ。

エレクトロニクスの小型化は様々な機器に電子計算機を搭載させ、思考という人間に唯一許された活動を、この世から切除したのではなかろうか?分析機器の高度化によって得られる情報の精緻化は、今まで見えなかった世界を見せてくれる。電子顕微鏡の精緻化から宇宙望遠鏡の精緻化まで、人類が未だ見たことの世界が宇宙全体に溢れていることを教えてくれる。しかし、遥か彼方に飛んで行って、持って帰ってこないと分からない世界もまだまだあって、それこそアナログの行動である。ローテクを思考で繋ぎ合わせて真実を語る。ミクロ世界を作り込んできたのだが、思考を取り除こうと躍起になってきたわけではない。地球温暖化だって思考の欠落と楽ちん大好きな人間の性が生み出したものだ。かと言って、今更元には戻れない。はてさてどうしたものか。見つからない答えを思考し続けなければならないと、悩み続ける私であります。

価値を読み取ること

エレクトロニクスの進化の「罪」は個人に対して省エネルギーを実現していると思わせたことなのだろう。捨てない便利。エレクトロニクスの断捨離は実に難しい。今更、ワークシートソフトウエアを使わずに、データ処理するか?それが無かった時代には、awk(死語?)などのテキストツールを使って、機械が吐き出したデータをgnuplotに橋渡しをして、グラフ化していた。勿論、その前は、ロットリングというアナログツールでのグラフ作成である。エレクトロニクスなどありはしない。

余りにも古きを訪ねすぎるわけだが、ロットリングとステンシルというアナログツールでグラフ化していくには、機械が吐き出したデータの誤差とか、真値とか、統計的な処理をアナログで行う知識が無いといけないわけだ。このアナログな知識を近年は全く受け付けることなく、工学の世界は動いていると感じている。そりゃぁ知識としては講義をきちんとしているわけだが、いざ、研究室に入ると自動処理の機械、そして企業はボタンを押せば製品を吐き出してくるご丁寧さだ。工学人の幼稚化が加速していると感じる。

諸先輩達には遠く及ばないのだが、小生の年代くらいが、アナログからデジタルに向かう、アナログ側の境界点の民ということだと思う。トランジスタを手で作っちゃえる時代であって、それが学会で通用しちゃう、アナログの権化の人間の努力の結果が世の中に認められた時代。懐かしむつもりはないが、技術に人間味がありましたな。電子の世界にも職人技が生きていたということだ。

それが、止まっちゃうけど「京」に代表される巨大計算機の時代になってくると、発電所一つを接続して明日の天気を言い当てることが価値となる。大げさということは決してない。いや、電気は人が活用して価値なのだから、気象の変化を精緻に予報できることで動くお金は、携帯電話を作って販売して設けるよりも桁違いの利益を生むのだ。地球というアナログな生命体の明日を、デジタルツールで読み取るのだ。もしも雨なら明日の遠足は中止だなどとヤキモキした時代は確実に過去だ。その安心は電気エネルギーと引き換えだ。

量の魔法

鉄を溶かして車を作る、シリコンをほじくって酸素を取り除き、とてつもなくゆっくり固めて切って磨いて・・どっちが地球を暖めたのだろうとなると、どっちもどっちでは無かろうか?PM2.5の発生に関しては自動車関連の足元にも及ばないだろうが、手元に届いてその人の為に小エネルギーを実現するまでに使う電力は爆発的だ。

一つのトランジスタであれば、それは間違いなく省エネルギーである。鉱石検波ラジオなど、空間を飛んでいる電波が金属線(アンテナですな)に発生させる交流電力だけでイヤホンを振動させて音声を獲得することが出来る。まぁ、放送局から飛んでくる電波が巨大だということなんだけどね。ここにも社会の便利を実現させるための無駄遣いが見られる。

それこそ一人一人が電気喰いの携帯を持ち、空間に無駄に飛び交う電波を獲得し、それを情報と熱に変換して生活している。その数は一体どれだけのものだろう。世界で見てみれば、間違いなく地球温暖化を加速させている。電気的エネルギーという極めてエントロピーの低い、上等のエネルギーを、ポケットの内側で暖房器具として活用しているみたいなものだ。贅沢極まりないのだが、一度、その便利さをしってしまうとそれを手放すことはあり得ない。

この携帯電話を実現するためのテクノロジーが、一体、どれ程に凄まじいか。携帯電話のテクノロジーは小型化ということなのだが、単にそれだけでは無くて、機器の省エネルギー化を促進した結果には違いないのだ。巨大な電池を有するガラパゴス携帯よりも、それこそ一万倍以上の能力を有しながら、消費する電力がそれ並に抑えられているという点においては、技術の進化は劇的だ。しかし、それを活用する者が、桁違いに増やしてきたということだ。省エネ機器も数が増えれば巨大電力消費の元凶である。

省エネ?

功罪というくらいだから個人的に良い・悪いと感じているところということになるが、それはあくまでも書き手がそう感じたということであって、一般論などとでかい事を言うつもりはさらさらない。電力大喰らいの真空管だが、電子計算機を実現させギアの組み合わせと手動回転によって実現していた計算であったが、式の入力とパラメータの数値入力を別々に出来るプログラミングを可能としたのは真空管である。

その実現と同時に人類が獲得したのが、計算に伴う電力の大量消費である。電力大喰いの真空管をなんとか省エネルギーに出来ないかということで、偉大なるバーディーン達が現在のメモリ等、半導体平面上にトランジスタを作り上げたのが1956年の出来事である。それから僅か六十数年しか経過していないのだ。

一方で、錬金術の時代に精緻化された化学力によって使いこなしてきた金属とは違う、半導体という謎めいた素材の精錬が必要になってきた。鉄鉱石から鉄を取り出す最終工程において、鉄に付いた酸素を一酸化炭素と反応させて、純粋な鉄を取り出すために1200℃の温度が必要であった。精錬技術の発展がそれを実現し、人間は純粋な鉄を道具に様々なものを創り出した。半導体のシリコンにおいてはそれよりも高い1400℃を超える温度を必要とした。

要するに、省エネルギーを実現しようとしたら、それまでよりも大きなエネルギーを必要とするようになったということだ。エントロピーを下げたければ、そこには巨大なエネルギーの投入が必要となることは熱力学から明らかである。便利を電気で創り出す。木炭、石炭、石油、天然ガス、原子力。燃やすものは様々だが、便利の獲得のために地球を暖め続けてきたということだ。

人工無能

音声合成入力ソフトが市販されたのはいつ頃であったろうか。もう忘却の彼方であるが、今は当たり前の技術であっても、その当時はこのまま日常的に機械と言葉でやり取りするのが当たり前になっていくのだなと思ってしまった。ファミリーユース以上には広まっていかないところをみると、まだまだなかなかにして難しいことがあるのだろう。

電電公社の武蔵野通研だったような、かすかな記憶で関係者の方々から「違うぞ」とお叱りを受けそうだが、まぁ、お許しを。「俺ら東京さ行ぐだ」と吉幾三さんが叫びはじめて、2級上のT先輩がCDを借りて来て、研究室で聞いていたから1984年末の出来事であったと思う。育てる人工知能という、何しろフロッピーディスクベースのシステムだから、覚える言語は、まぁ、それなりだし、何しろ、PC搭載のメモリーが少なく、いちいちフロッピーディスク(死語)に書き込みに行くわけだから育つ前に止めてしまった。

同様のツールがその手の雑誌についてきて、こちらは人工無能という開き直り的ツールであったか、こちらは更に使用時間は短かった。ネットで調べてみたら1966年から研究が始まっていたそうで、人工知能へのなんというか、必然性というか、その分野の方々にとっては当たり前のターゲットだったのでしょう。その頃の小生ときたらSiのイオン注入欠陥をどうやって無くすかという、原子の繋がりを電子で治すみたいな、極微の世界で喜んでいた時代。

記憶・記録に掛かる部材が機械的構造から解き放たれない限り人工知能は実現するまいと漠然と思っていたのだが、時は35年も進んで、今、それが実現するようになって、それこそ当たり前のように進化し続けている。ちょこっと昔を懐かしみながら、今週はエレクトロニクスの小型化と社会の変化と功罪について無駄話をしてみようと思う。

得失

ルールがある。社会の中で意識して守らねばならない。間違ったルールかもしれないのだが、人々の社会活動の中で生まれ出るものであるから、時代の変化の中で見直しつつも、従わねばならない。個人同士で済むものもあれば、ルールにのっとって社会的な活動として発展させなければならないというお互いの認識が、争いを最小限にすると思う。

東京で見かけた木の風呂桶屋さんで、木の文化はきっと正しかったのだろうと思い起こした。小生が子供の頃は、まだ釜か木の桶だったのだ。今、そんなものを使うのは旅館等のみだろうが、役目を終えれば朽ちて自然に戻る。微生物も大活躍してくれて、それは人間と共存の関係だ。知能の塊の粘菌から学んでいる現状を知る人がどれだけ居るのか?

何も無理やり木に回帰するべきだなどとは思わない。人口が爆発した今、それは及ばぬ事である。木の文化だった江戸時代から爆発した人口で、木材を使い始めたら禿山の国になったのは戦後が証明しているわけで、無理を無茶として挑戦してはならないことであろう。豚コレラだって地球が生み出したものであって、人類に都合が悪いから敵視しているだけであって、損得勘定に巻き込まれているだけである。

自然に損得は無い、得失は人の心の中にしか無いものだ。皆、「得」を手に入れたいと躍起になるが、足元が壊れ始めていることを忘れてはならない。爆発し続ける人口増大だが、小生が生きている間はそれは続くのだろう。戦争で焼けていない街角は様々な知恵が人にあったことを教えてくれる。もっともっと街に出たい。それを実行し続けたいと地図を眺めて喜んでいる私であります。

処分?

「もったいない」という言葉が2005年にケニアのワンガリ・マータイ氏によって見いだされ、ノーベル平和賞に輝かれたのは記憶に新しい。来日時に感銘を受けてそれを広めて頂いたのだ。日本人が成したことではないところが苦しい。

小生も感銘した環境3R(ゴミ削減 Reduce、再利用 Reuse、再資源化 Recycle)と尊敬の念 Respectを含めた4RがMOTTAINAIであり、国際共通語として用いられている。しかし、それが社会の中の本流となっているのか甚だ疑問である。デパ地下に並ぶ高価な食材が本当にその日の内に消えてなくなり、人々の胃袋に収まるのか?

そんな魔法みたいなことはきっと無くて、偉大なるゴミとなって世の中を徘徊していくのであろう。その後を付け回したことが無いので謎であるが、最近、名古屋市内ではRecycleステーションが随所に見られるようになって、これは嬉しいのだ。マナーが問題で、箱分類されているにも関わらず、ラベルとは異なるものが投げ込まれている現状を見かけるが、場所によってはしっかりとしていて好ましい。そんな場所を利用させて頂くことになる。

豚コレラは人に移らないという。しかし、食肉としようとすると、その過程において菌の伝播が発生する。よってその場での殺「処分」となってしまう。繰り返しになるが命が「処分」という単語の下に入ってしまうのだ。それが公然と言葉として使われる文化に苛立ちを覚えるのだ。命の尊厳はどこに行ってしまったのか。乾いた心の成せる業か。